日本書紀 巻第十一 大鷦鷯天皇 十二
・隼別皇子の裏切り
・隼別皇子の謀叛
・隼別皇子と雌鳥皇女の死
四十年春二月、
雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を
納(めしい)れて妃にしようと思い、
隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を
媒(なかだち)としました。
しかし隼別皇子は、
密かに自ら娶り、
久しく復命しませんでした。
天皇は夫があるとは知らず、
自ら雌鳥皇女の殿に臨みました。
この時、
皇女のために機織(はたお)る女人等が
歌っていました。
ひさかたの 天の金属の機織
雌鳥が 織る金属の機織
隼別の御装束を織るよ
それで天皇は、
隼別皇子が密かに婚したのを知って、
恨みました。
しかし皇后の言を重んじ、
また友于(ゆうう)の義(ことわり)に
敦かったので、
忍んで罪としませんでした。
しばらくして、
隼別皇子は皇女の膝を枕にして臥せて、
そして語って、
「鷦鷯(さざき)と隼(はやぶさ)。
どちらが速いか」
といいました。
「隼が速い」
といいました。
そこで皇子は、
「我が先(さいたてる)所である」
といいました。
天皇はこの言を聞いて、
また恨みが起きました。
時に、
隼別皇子の舎人等が歌いました。
隼は 天に上って
飛びかけり
斎場のほとりの 鷦鷯をお取りなさい
天皇はこの歌を聞いて、
はなはだ大いに怒って、
「朕は私の恨みで親を失おうとは思わず、
たえ忍んできた。
何をおもってか、
私事が社稷(くに)にまで及ぶとは」
といい、
則、
隼別皇子を殺そうと欲(おも)いました。
時に皇子は雌鳥皇女を率(つれ)て、
伊勢神宮に参ろうとして、
馳けていました。
天皇は隼別皇子が逃走したと聞いて、
すぐに吉備の品遅部雄鯽(ほむちべのおふな)、
播磨の
佐伯阿俄能胡(さえきのあがのこ)
を遣わして、
「追いかけて捕らえたところですぐ殺せ」
といいました。
この時、
皇后が奏言して、
「雌鳥皇女は、まことに重罪に当たります。
しかしながらその殺す時、
皇女の身を露わにして欲しくありません」
といいました。
それで雄鯽等に勅して、
「皇女の齎(もつ)ところの、
足玉手玉を取ってはならぬ」
といいました。
雄鯽等は、
これを追って菟田(うだ)に至り、
素珥(そに)の山に迫りました。
この時、
草の中に隠れて、
かろうじて免れることができました。
急いで走って山を越えました。
ここに皇子は歌って、
梯子(はしたて)の 嶮しい山も
吾妹子(あぎもこ)と 二人で越えると
安蓆(やすむしろ)だ
といいました。
雄鯽等は免れたと知って、
急いで伊勢の蔣代野(こもしろのの)に
追求して殺しました。
時に雄鯽等は、
皇女の玉を探して、
裳の中より得ました。
そこで二王の屍を
廬杵河(いほきがわ)の
辺(ほとり)に埋めて、
復命しました。
皇后は雄鯽等に問いて、
「もしや皇女の玉を見たのでは」
といいました。
答えて、
「見ませんでした」
といいました。
・友于(ゆうう)
兄弟の仲がよいこと。転じて、兄弟。はらから
・吉備(きび)
岡山県と広島県東部
・素珥(そに)
宇陀郡室生村の曽爾
(感想)
仁徳天皇40年春2月、
雌鳥皇女を召し入れて妃にしようと思い、
隼別皇子を仲立としました。
しかし隼別皇子は、
密かに自ら皇女を娶り、
長い間、報告しませんでした。
天皇は夫がいるとは知らず、
自ら雌鳥皇女の殿に向かいました。
この時、
皇女のために機織りの女人らが
歌っていました。
ひさかたの 天の金属の機織
雌鳥が 織る金属の機織
隼別の御装束を織るよ
その歌を聞き天皇は、
隼別皇子が密かに結婚したことを知り、
恨みました。
しかし皇后の言葉を重んじ、
また兄弟の理に敦かったので、
忍んで罪としませんでした。
仁徳天皇ですから、
きちんと報告すれば、
許してくれたと思うのですが…
隼別皇子、何で報告しなかった?
しばらくして、
隼別皇子は皇女の膝を枕にして臥せて、
そして語って、
「鷦鷯と隼。どちらが速いか?」
といいました。
「隼が速い」
といいました。
そこで皇子は、
「俺の方が秀でている」
といいました。
天皇はこの言葉を聞いて、
また恨みが起きました。
この時に、
隼別皇子の舎人等が歌いました。
隼は 天に上って
飛びかけり
斎場のほとりの 鷦鷯をお取りなさい
天皇はこの歌を聞き、
大変激怒して、
「私は私情の恨みで
肉親を失おうとは思わず、
耐え忍んできた。
何をおもってか、
私情を国にまで影響させるとは!」
といい、
すぐに、
隼別皇子を殺そうと思いました。
あーあ。
仏を怒らせちゃいましたね。
意中の女性を奪うだけでなく、
皇位を狙うとは…
でも、
隼別皇子は反朝廷側に担ぎ上げられた
可哀想な人に感じるのは
私だけでしょうか?
時に
皇子は雌鳥皇女を連れて、
伊勢神宮に参ろうと思い、
馳けていました。
天皇は隼別皇子が逃走したと聞いて、
すぐに吉備の品遅辺雄鯽、
播磨の佐伯直阿俄能胡を遣わして、
「追いかけて捕らえたところですぐ殺せ」
といいました。
この時、
皇后が奏言して、
「雌鳥皇女の起こしたことは、
まことに重罪に当たります。
しかしながらその殺す時、
皇女の身を露わにして欲しくありません」
といいました。
それで雄鯽等に勅して、
「皇女の持つ、
足玉手玉を取ってはならぬ」
といいました。
雄鯽等は、
これを追って菟田に至り、
素珥山に迫りました。
この時、
二人は草の中に隠れて、
かろうじて免れることができました。
急いで走って山を越えました。
ここに皇子は歌って、
梯子(はしたて)の 嶮しい山も
吾妹子(あぎもこ)と 二人で越えると
安蓆(やすむしろ)だ
といいました。
雄鯽等は逃げられたと知って、
急いで伊勢の蔣代野に追求して殺しました。
その時、
雄鯽等は皇女の玉を探して、
裳の中から盗りました。
そこで二王の屍を蘆杵河の辺に埋めて、
復命しました。
皇后は雄鯽等に問いて、
「もしや皇女の玉を見たのでは」
といいました。
答えて、
「見ませんでした」といいました。
雄鯽等の嘘つきー。
しかし、
慈悲深い仁徳天皇が、
何故、兄弟を殺したのか?
疑問に思っていましたが…
私情では裏切られても
耐え忍び許す心広い方。
しかし、
それが国に及んでしまったから
激怒したのですね。
内乱が起これば誰が犠牲になるのか?
それはやはり、
おおみたから。
おおみたからの為に、
辛い決断をされた。
仁徳天皇は聖王だなぁ、
と改めてと思いました。
明日に続きます。
読んで頂き
ありがとうございました。
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