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リートリンの覚書

日本書紀 巻第十一 大鷦鷯天皇 十四


日本書紀 巻第十一 大鷦鷯天皇 十四

・雁が子を産む
・新羅が朝貢せず
・新羅に竹葉瀬・田道を派遣する
・蝦夷の叛乱



五十年春三月五日、
河内の人が奏言して、
「茨田の堤で雁(かり)が子を産みました」
といいました。

その日のうちに、
使いを遣わして視(み)てこさせました。
「真実でした」
といいました。

天皇は歌で
武内宿禰(たけしうちのすくね)に問いて、

たまきはる 内の朝臣(あそみ)
汝こそは この世の長寿
汝こそは この国の寿老人
秋津島(あきつしま) 倭の国に
雁産むと 汝は聞いたことがあるか

武内宿禰が答歌して、

やすみしし わが大君は
うへな うへな 我に聞きなさるのは
秋津島 倭の国に
雁産むとは 我は聞かず

五十三年、
新羅が朝貢しませんでした。

夏五月、
上毛野君(かみつけのきみ)の祖、
竹葉瀬(たかはせ)を遣わして、
その貢を欠いたことを問わせました。

この道路(みち)の間に白鹿を獲ました。
すぐ還って天皇に献じました。
さらに日を改めて行きました。

しばらくして、
重ねて竹葉瀬の弟・田道(たじ)
遣わしました。

詔して、
「もし新羅が拒(こば)んだら、
兵を挙げて撃て」
といいました。
それで精兵を授けました。

新羅は兵を起して拒みました。
新羅人は毎日戦いを挑んできました。

田道は塞を固めて出ませんでした。

時に新羅の軍卒の一人が
営外に放(で)てきたことがありました。
すぐに捕らえて俘(とりこ)としました。
消息を問いました。

答えて、
「強力者がいます。
百衝(ももつき)といいます。

軽捷で猛々しい戦をし、
いつも軍の右の先鋒(せんぽう)と
なっています。

故に、
伺って左を撃てばそくざに敗れるでしょう」
といいました。

時に新羅は、
左を空けて右に備えました。

ここで田道は、
精鋭の騎兵を連ねてその左を打ちました。
新羅軍は潰(つい)えました。

よって縦(じゅう)に乗じて、
兵を数百人殺しました。
そして四邑の人民を虜にして帰ってきました。

五十五年、
蝦夷が叛きました。
田道を遣わして撃たせました。

そのとき、
蝦夷のために敗れ、
伊峙(いし)の水門(みなと)
死んでしまいました。

時に、
従者がいて、
田道の手纏(たまき)を取って得ました。

その妻に与えました。
手纏を抱いて縊死(いし)しました。
時の人が聞いて涙を流しました。

この後、
蝦夷はまだ襲って人民を略しました。
それで田道の墓を掘りました。

大蛇がいて、
目から怒りを発して墓から出て咋いました。
蝦夷はみな蛇の毒をうけて、
多くが死亡しました。

ただ一人、二人がまぬがれただけでした。

故に時の人は、
「田道はすでに亡くなったが、
ついに仇を報いたと。
どうして死人に知なしと言えようか」
といいました。



・俘(とりこ)
捕虜
・縦(じゅう)
したいようにする。ほしいままにする
・手纏(たまき)
1・上代の装身具の一つ。玉や鈴に紐(ひも)を通して、肘(ひじ)あたりに巻いた。くしろ。2・弓を射るときに肘につける籠手(こて)
・縊死(いし)
首をくくって死ぬこと



(感想)

仁徳天皇50年春3月5日、
河内の人が奏言して、
「茨田の堤で雁が子を産みました」
といいました。

その日のうちに、
使いを派遣して視察させました。
「真実でした」
といいました。

天皇は歌で武内宿禰に問いて、

たまきはる 内の朝臣(あそみ)
汝こそは この世の長寿
汝こそは この国の寿老人
秋津島(あきつしま) 倭の国に
雁産むと 汝は聞いたことがあるか

武内宿禰が答歌して、

やすみしし わが大君は
うへな うへな 我に聞きなさるのは
秋津島 倭の国に
雁産むとは 我は聞かず

仁徳天皇53年、
新羅が朝貢しませんでした。

夏5月、
上毛野君の祖・竹葉瀬を遣わして、
その貢を欠いたことを問わせました。

この任地に向かう途中に白鹿を獲ました。
すぐ還って天皇に献上しました。
さらに日を改めて向かいました。

しばらくして、
重ねて竹葉瀬の弟・田道を遣わしました。

詔して、
「もし新羅が拒んだら、
兵を挙げて撃て」
といいました。
それで精兵を授けました。

新羅は兵を起して拒みました。
新羅人は毎日戦いを挑んできました。
田道は塞を固めて出ませんでした。

その時、
新羅の軍卒の一人が、
営外に出てきたことがありました。

すぐに捕らえて捕虜としました。
新羅軍の消息を問いました。

答えて、
「強力者がいます。百衝といいます。
軽捷で猛々しい戦をし、
いつも軍の右の先鋒となっています。

そういうわけで、
伺って左を撃てば即座に敗れるでしょう」
といいました。

この時に新羅は、
左を空けて右からの攻撃に備えました。

ここで、
田道は精鋭の騎兵を連ねて
その左を打ちました。

新羅軍は隊列が崩れました。
そこで反撃できない状況に乗じて、
兵を数百人殺しました。
そして四邑の人民を虜にして帰ってきました。

仁徳天皇55年、
蝦夷が叛きました。
田道を遣わして撃たせました。

その時、
田道は蝦夷に敗れ、
伊峙水門で死んでしまいました。

この時、
従者がいて、
田道の籠手を収得しました。

これをその妻に与えました。
妻は手纏を抱いて
首をくくって死んでしまいました。
時の人はそれ聞いて涙を流しました。

この後、
蝦夷はまだ襲って人民を略奪しました。

彼らは田道の墓を掘り起こしました。
すると、そこには大蛇がいて、
目から怒りを発して
墓から出て彼等に噛みつきました。

蝦夷はみな蛇の毒をうけて、
多くが死亡しました。
ただ一人、二人がまぬがれただけでした。

こういうわけで、
時の人は、

「田道はすでに亡くなったが、
ついに仇を報いたと。
どうして死人に知なしと言えようか」
といいました。

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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