
(既出:2007-03-31)
戦争、原爆にまつわる
ノンフィクションです。
あなたは知っていましたか?
昭和20年9月、敗戦後間もない日本を
未曾有の暴風雨が襲った。
その名も枕崎台風。
「もたらした被害、
また広島県の死傷行方不明3066名を
初めてとし・・・
なぜ広島で・・・・
人類最初の原爆による惨禍から
わずか1ヶ月、
廃墟の街で人々はどのような災害に
巻き込まれたのか。
気象台は何をしていたのか。
綿密な取材によって明かされる、
天気図の空白に秘められた
知られざる真実。」
柳田邦男 「空白の天気図」(新潮文庫)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
実はこのルポルタージュを読むまで、
原爆投下のあの夏、
広島に台風が上陸したなどとは
夢にも思いませんでした。
けれども、当たり前のことですよね。
自然は人間がおこした人為的な厄災のことなど
かまってはくれません
原爆で肉親を
家をなくしたひとびとのうえを
台風が通り過ぎていったのです
そのとき広島の地方気象台のなかでは
どんなことが進行していたのか
読み進むにつれて
私達は焼け爛れた広島の街を
歩くことになります
気象台のなかも
傷ついたひとたちでいっぱいでした
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
北は、まず横川を目指して歩いた。
舟入本町へ入ると、街は全くの焦土と化していた。
ただの火災の跡ではなかった。爆風で家屋が
破壊され、そこへ火がついたのだから、家並みの
痕跡などはほとんど残さないほど徹底的に
焼き尽くされていた。道路には、昨夜市内突破に
失敗した古市ら3人の報告で聞いたとおり、
市内電車が焼け爛れた姿をさらしており、
いたるところに死体がころがっていた。
路面にちらばる焼けた木材や瓦、電線などを
踏み分けながら、十日市の交差点をすぎ、
ようやく横川駅前に着いたが、横川駅周辺も
町並みは焼き落ちて消えていた。横川のガードを
くつって、7,800メートル歩くと、
ようやく消失地域から抜け出すことが出来た。
郊外へでてたどり着いた郵便局が祇園郵便局だったか、
緑井郵便局であったか、北の記憶ははっきりしないが、
ともかく気象台を出てから3時間ほど歩いてようやく
小さな郵便局を見つけたのだった。
「広島の気象台のものですが、至急東京へ電報を
打てませんでしょうか。気象電報で重要なのです。
少し長文になりますが・・・」(本文より引用)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
広島市内は全滅で電信局もやられている・・
気象台のなかにも負傷者をかかえながら、
彼らは何時間もかけて気象データを打電しに行ったのでした。
広島を空白の天気図にできないという、
彼らのプロ意識からでした・・
原爆投下後の広島には
京都帝大の理学部、医学部のひとたちも
調査と救援にはいっていました。
そして彼らの何人もが
あの夏、上陸した台風のために
尊いいのちを落としたのです・・
8月6日の平和式典では
見えてこないものがあります
私達がすこし、興味をもてば
見えてくる真実もあります
あの夏、原爆のあと、
広島で何があったのか
ぜひご一読ください
柳田邦男氏は脳死移植に反対する
ジャーナリストであり、
日航墜落事故を追跡したひとであり
がんにかかった医療関係者の証言をまとめ、、
と多岐にわたった活躍をされています。
丹念な事実調査にもとづくルポは
ときに胸をうちます。
この本に限らず、
氏の本を手にとってもらいたいなとも
思います・・・
戦争、原爆にまつわる
ノンフィクションです。
あなたは知っていましたか?
昭和20年9月、敗戦後間もない日本を
未曾有の暴風雨が襲った。
その名も枕崎台風。
「もたらした被害、
また広島県の死傷行方不明3066名を
初めてとし・・・
なぜ広島で・・・・
人類最初の原爆による惨禍から
わずか1ヶ月、
廃墟の街で人々はどのような災害に
巻き込まれたのか。
気象台は何をしていたのか。
綿密な取材によって明かされる、
天気図の空白に秘められた
知られざる真実。」
柳田邦男 「空白の天気図」(新潮文庫)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
実はこのルポルタージュを読むまで、
原爆投下のあの夏、
広島に台風が上陸したなどとは
夢にも思いませんでした。
けれども、当たり前のことですよね。
自然は人間がおこした人為的な厄災のことなど
かまってはくれません
原爆で肉親を
家をなくしたひとびとのうえを
台風が通り過ぎていったのです
そのとき広島の地方気象台のなかでは
どんなことが進行していたのか
読み進むにつれて
私達は焼け爛れた広島の街を
歩くことになります
気象台のなかも
傷ついたひとたちでいっぱいでした
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
北は、まず横川を目指して歩いた。
舟入本町へ入ると、街は全くの焦土と化していた。
ただの火災の跡ではなかった。爆風で家屋が
破壊され、そこへ火がついたのだから、家並みの
痕跡などはほとんど残さないほど徹底的に
焼き尽くされていた。道路には、昨夜市内突破に
失敗した古市ら3人の報告で聞いたとおり、
市内電車が焼け爛れた姿をさらしており、
いたるところに死体がころがっていた。
路面にちらばる焼けた木材や瓦、電線などを
踏み分けながら、十日市の交差点をすぎ、
ようやく横川駅前に着いたが、横川駅周辺も
町並みは焼き落ちて消えていた。横川のガードを
くつって、7,800メートル歩くと、
ようやく消失地域から抜け出すことが出来た。
郊外へでてたどり着いた郵便局が祇園郵便局だったか、
緑井郵便局であったか、北の記憶ははっきりしないが、
ともかく気象台を出てから3時間ほど歩いてようやく
小さな郵便局を見つけたのだった。
「広島の気象台のものですが、至急東京へ電報を
打てませんでしょうか。気象電報で重要なのです。
少し長文になりますが・・・」(本文より引用)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
広島市内は全滅で電信局もやられている・・
気象台のなかにも負傷者をかかえながら、
彼らは何時間もかけて気象データを打電しに行ったのでした。
広島を空白の天気図にできないという、
彼らのプロ意識からでした・・
原爆投下後の広島には
京都帝大の理学部、医学部のひとたちも
調査と救援にはいっていました。
そして彼らの何人もが
あの夏、上陸した台風のために
尊いいのちを落としたのです・・
8月6日の平和式典では
見えてこないものがあります
私達がすこし、興味をもてば
見えてくる真実もあります
あの夏、原爆のあと、
広島で何があったのか
ぜひご一読ください
柳田邦男氏は脳死移植に反対する
ジャーナリストであり、
日航墜落事故を追跡したひとであり
がんにかかった医療関係者の証言をまとめ、、
と多岐にわたった活躍をされています。
丹念な事実調査にもとづくルポは
ときに胸をうちます。
この本に限らず、
氏の本を手にとってもらいたいなとも
思います・・・
私はまさに、その、夢の途中で亡くなったたくさんの人々の亡がらの上に塗り固められたアスファルトの上で平然と暮らしています。
数年前、この地に終の棲家を構えると決める時に、自分の足元にある多くの魂を思い随分心が揺れました。その事を受け止めて行く覚悟が出来るのか、自信が持てませんでした。
そして結局、恐れと悲しみに絡めとられるのが怖くなって、持ち前のずるさと鈍感力に流されて日々を送っています。真っ向から向き合う勇気がないのです。
それでも、少しは自分を奮い立たせて、読んでみようと思います。教えてくださってありがとうございます。
いつもいつも樹さんの所で自分の中身を吐き出してばかりでゴメンナサイ。樹さんのあったかい懐には甘えたくなってしまいます・・・。
自分から知ろうとしないと得られない真実、世の中にはたくさんあるんだと、改めて実感しました。その真実にどれだけ出会えるかで、人生の奥行きも変わるんでしょうね。
夜中に目からウロコの思いです。樹さんのレビューも私に奥行きを与えてくれるひとつですー。感謝!
広島に行ったけど、広島に行ったからって、持って帰ってこれるものなんてないのですね。広島が自分のどこに根をはるかだと思います。私はこの本を読んで、焼け跡にたたずみ、明日をめざす、広島のかたがたや京都大学のかたがたに勇気と使命について考えさせられました。瞬間をつんで生きてゆかなくちゃ、の思いです。一期一会も大事にしたいです。うららさんとはもう、一期一会じゃなくて、アンダの間柄ですけどね!!
去年、お盆に広島へ行ってきました。動員された学徒の慰霊碑があったんだけど、全国で戦争でなくなった学生のうち、実に6割の6000人以上が原爆でなくなったんだそうです。真夏の広島は祈りにみちていました。
あそこに寄せられた千羽鶴がどうなるか知っていますか。千羽鶴は再生紙となって、ノートやペンになったりしています。買ってかえってきましたが、もったいなくて使えません・・・
素敵な記事の再掲載をありがとうございます
柳田邦男の本、好きなのに、
これは知りませんでした!
柳田邦男の本、小学生のときに読んだ
「マリコ」が衝撃的でした。私が
初めて読んだドキュメンタリー本です。
あれから、「犠牲」とか、人生の節目に
必ず彼の本があったような気がします。
>私達がすこし、興味をもてば
見えてくる真実もあります
本当にそうですね。
いつも樹さんには、考えるきっかけを
豊富にいただいています。感謝です
そして、この本も読んでみたいと思います
「マリコ」を小学生のときに読まれるなんて、
さすが、Rainyさんですね。
柳田邦男さんはもっとも信頼できるジャーナリストのひとりです。
私にとってですが。
自らの発言に躊躇なさらず、信念をもって語られることば、
朴訥ですが、こころうたれます。
柳田さんの次男の脳死問題など、あれこれ読んでいるうちに、
この本にたどり着きました。
魂がふるえる光景、それは感動的な偉業を目にしたときもそうですが、
極限状態でにんげんがなしえる尊厳にふれたときも
ありえると思います。
ぜひ、ご一読ください、
広島の気象台のかたがた、ひとびと、京都大学のかたがたなど、
涙なくしては読めませんが、
ぜひじっくり読んでいただきたい本です。
コメント、ありがとうございました。
広島に原爆後台風が来ていたこと、こんな本が出版されていたこと、しりませんでした。今日早速図書館に行ってみたら貸し出し中でした。L図書を見ている人が近くにいるのか…と妄想。 私、小学校の時、担任が原爆について強い想いのある先生だったので原爆関係の本や写真集など良く見せられていました。その頃は非現実過ぎて作り物を見ている感覚でした。 高校の時、修学旅行で広島に行きました。原爆ドームはバスから見ただけでしたが原爆記念館に行った時あまりにリアルに色んなものが迫って来て目を伏せながら外に出てしまいました。松ケンがひめゆりの塔を全部見れなかったって言ってた事がありましたがその記事を読んだ時強烈にその時の事を思い出しました。
あの時ちゃんと見れなかった事をずっと後悔していました。だから今、もう一度向き合ってみたいと思います。 頭に浮かんだまま書き出したのでめちゃくちゃな文をお許し下さい。
お返事遅れてすみません。
せっかく図書館に行っていただいたのに、
残念でしたね。
でも、あきらめずにまた行ってくださいね。
気象台のなかにも被曝した気象台の職員のかたがいらして、
どんどん悪化、家族がそのかたを家に連れて帰る・・そういった場面も
あったように記憶しています。
どんなさなかにあっても職務を全うしようとなさっておられたかた、
爆心地に入られた京都大学のかたがた、
それぞれのご苦労を思うと、
言葉にならないし、
私も含めて、どれだけのかたがこの事実をしらないだろうと思います。
つい先日、
駐日米大使が、原爆を正当化する発言を
またもやなさっていました。
9.11後にもそれまでとなんら変わらない発言があることに、
愕然としました。
自国を誇り、世界の警察官であるかのような
意識をもつのは勝手ですが、
歴史の蓄積に、とまることのない思索を重ねて欲しいものだと思いました。
日本でも風化しつつあるかもしれません。
自戒を込めて思います。