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LAPIS 学習内容と宿題

高校受験のLAPIS鎌ヶ谷で行われた授業と宿題をみなさまにお知らせします。

「しくじり掃除日記」 西村徹さん「花咲か先生の学級日誌」より20241008

2024-10-08 | 気になる文書
いまや大人気作家志賀内泰弘さんの
メルマガ「志賀内泰弘の恩送り通信」第40回から素敵なお話をご紹介いたします。

メルマガのバックナンバーも読めます。
〇志賀内の「ステキな仲間」たちの「心温まるエッセイ」は、志賀内泰弘公式サイト「いい話・いい仲間のプラットフォーム」の、「いい人・いい話のフェス」のコーナーのこちらからお読みいただけます。よろしければメルマガにもご登録ください。
 https://shiganaiyasuhiro.com/

以下記事です。

「こんなスゴイ友達を紹介します!」
   ~放課後等デイサービス「スローウォーク」所長・西村徹さん~

 ☆今の私があるのは、友人・知人・両親・親戚・先輩・同僚・心の師など大勢の人たちの「おかげ」です。いただいたたくさんの「御恩」を次の人へと
「送る」ために、新作や約3.000本のアーカイブスから厳選してお届けします。
名付けて「志賀内泰弘の恩送り通信」です。
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今日は、大の親友の西村徹さんを紹介させていただきます。
兵庫県養父市生まれ。
「いのちの教育」を求め続けた教育者・東井義雄氏に薫陶を受け、生涯の大半を小学校教師として歩む中で特別支援教育を大切にしてこられました。
そして、現在は、子どもが自分らしく自信をもって生きていくことができるように指導を続けるため、児童発達支援・放課後等デイサービス「スローウォーク」を開設し、全国で講演活動をしておられます。

その西村徹さんのエッセイ「花咲か先生の学級日誌」をお読みいただけたら幸いです。今日は、その第3回です。

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「しくじり掃除日記」
・・・どうしたら子供たちが掃除をするようになるのか?

西村徹

掃除をしてくれない子どもたち
私の教員生活がスタートしたのは、今から三十八年前、山間の小さな小学校でした。
はじめて教室に入ると、十四人…二十八の瞳が私の方をじっと、にこやかに見つめていたことが今でも思い出されます。
学校の近くの山に落ちている栗の実を拾ったり、雪投げ合戦をしたり、素直な子どもたちと楽しくのんびりとした日々を過ごしました。

しかし、子どもたちの指導でわからないこともいっぱいありました。
特に、掃除の指導が上手くいきませんでした。
今でも覚えていることがあります。
教室で掃除をしていた時のこと。
男の子が遊んで掃除をしていません。
「おい、掃除をしようで」と声をかけました。
すると、その子は掃除をするどころか、プイと横を向き、遊びを続けます。
新米教師の私は、どうしたらいいのか迷い、その子のところに行き、わざと正面に立って威圧するように「ちゃんと掃除をしないと、アカンだろう」と低い声で、しかもにらみながら言ったのです。
先生から、にらまれると怖いものです。
これで掃除をするだろうと思いきや、その子は、私をぐっとにらみ返したのです。
たじろいだのは私の方。
勝負ありです。
その子は、面白くなさそうな顔をして、その場を離れ、別の遊びをし始めました。
周りにいた子どもたちが、様子をうかがっています。
抜いた刀を納めるわけにもいかず、さらに強く言いましたが、結局、掃除はしませんでした。


他のクラスの先生のマネをしてみる
「子どもって、素直だと思っていたけれど、案外やっかいだな。叱って駄目なら掃除をさせるには、どうしたらいんだろう」
掃除の終わりのチャイムを聞きながら、その子の後ろ姿を見ていました。
それから、別の学校に転勤しても、掃除中に遊ぶ子どもはいました。
「どこの学校でも同じような子はいるもんだな。どうしたものか…」
そう思いながらも放っておけません。
遊ぶ子を見つけては掃除をするように話す、注意をする、叱る、といったワンパターンの指導が続きます。
そんなある日、驚いたことがありました。 
ある教室では子どもたちが一生懸命に掃除をしています。
「どうしたら、こんなに一生懸命に掃除をがんばれるのだろう」
と不思議に思って教室中を注意深く見回しました。

理由はすぐにわかりました。
その教室の先生の影響です。
その先生は厳しいことで有名で、掃除の時間も手綱を緩めることはありませんでした。
厳しい顔で子どもたちを見ているというよりも見張っています。
「あなたの掃き方ではほこりが舞うでしょう。
箒の穂先をゆっくり動かすのよ」
「汚れは頑固なの。もっと力を入れて拭かないと駄目でしょう」
声かけも的確、厳しいです。
「そうか、そうか。こうして指導するんだな。やっぱり子どもは厳しく指導するに限るな」
そう思った私は、次の日から、厳しい顔で指導をすることにしました。
子どもの掃除の様子を見て、アドバイス…いや厳しくケチをつけました。
そんな私の変化に比例するように私の顔をのぞきながら子どもたちは掃除をするようになりました。
「この方法は効果がある。やっと私も掃除指導ができるようになった」
そうして、次の日も、また、次の日も怖い顔で厳しく掃除をしていました。

ふたたび、掃除の迷路へ
しかし、そんな付け焼き刃のような方法が続くわけもなく、しばらくすると、また、しまりのない自分の顔に戻るのでした。
子どもたちの掃除へのケチの言葉も、同じ事しか言えずにマンネリ化していきました。
しっかりとした六年生の子が掃除にきてくれると、私よりも下級生を上手に指導することもありました。
教師として恥ずかしい限りですが、教員としての経験を何年積んでも掃除指導はうまくいきませんでした。
私が子どもの頃、先生方はどうやって掃除を指導してくれたのかな…そこで、一つ、思い出したことがあります。
私が小学校の時、東井義雄校長先生が、全校集会で掃除の話をされたことを思い出したのです。
東井義雄先生は、多くの本も書き、数々の賞ももらっておられた希代の教育者でした。
その教育を見ようと、毎日のように全国から参観者が集まっていました。
その東井先生は、次のように話されていました。
「掃除の終わった後、掃除道具入れの前を通ると、掃除道具がきちんと片付けられていました。
そこを掃除した人の掃除の様子がわかるようでした」
東井先生は決して「掃除をしましょう」とはお話しにならなかったのに、その頃、私たち子どもは一生懸命に掃除をしていました。
「なんでだろう?」
東井先生のお話を思い出しながらも掃除の時間になると、子どもに口やかましく注意したり、時には怖い顔を作ったりする私でした。

そんな時、私にとって忘れられない気づきがありました。
子どもたちへの掃除の指導がうまくできず、ほとほと困っていた私。
そんな私にとって、忘れられない気づきがありました。   
担任していた男の子が何度注意しても宿題を忘れてきます。
ついに私は、その子を厳しく叱りました。
しかし、結局、翌日も宿題はしてきませんでした。
注意したり、厳しく叱ることが指導だと思っていた私にとって、それが効果がないとわかると冷静に考えざるをえませんでした。
すると、一つのことに気づいたのです。
それは「誰のために宿題忘れを厳しく叱ったのだろうか」ということです。
宿題ができないのは原因があるはずです。
その原因を取り除けるようにするのが私の仕事のはずです。
また、原因を取り除くことが難しいのなら、宿題をしなくても、きちんと学力がつく方法を考えるのが私の仕事のはずです。
それをせずに、ただ叱っている私。
「ああ、そうか。私は、その子のためを思って叱っていると思っていたが、どうやら違った。
『私の指示したことに素直に従っていないこと』に対して叱っていたのだ」と気づいたのです。

今まで私がしていたこと。
子どもに学習を強いてテストで満足する点を取らせる事や絵を描かせて入選させることなども、子どものためだと言いながら、自分の気持ちを満足させるためにしていたことではなかったのだろうか…。
どうも、本末転倒の私であることに気づき始めたのです。
「掃除も同じで、教室を美しくするとか、掃除によって心を磨こうとか言っていたけれど、きちんと掃除をしている子どもの姿を見て満足したかったのではないのだろうか…」
私自身が掃除をがんばれていないじゃないか
そう気づいたものの、どうしたらいいのかわかりません。
その答えを探すかのように、本棚の本を読み直しました。すると、東井義雄先生の本がありました。
その中に一つの詩を見つけたのです。その詩は、私が小学生の時に、東井義雄先生が教えてくださった「小さい勇気をこそ」という詩でした。


 紙くずがおちているのを見つけた時は
 気づかなかったというふりをして
 さっさといっちまえよ
 かぜひきの鼻紙かもしれないよ
 不潔じゃないかと呼びかける
 小さい悪魔を
 すぐやっつけてしまえるくらいの
 小さい勇気こそわたしはほしい



子どもに掃除をするように言っていても、掃除の時間が来ると「掃除かあ、面倒だな」と思ったり、掃除の時間が終わりそうになると「早く終わらないかな」と、チラチラ時計を見たりする私の姿がそこにありました。
私自身が掃除をがんばれていないじゃないか。
そんな私が子どもにいくら言っても伝わりはしない。
掃除は子どもの問題ではなかったんだ。私の問題だったのだ。
よし、東井先生の言われるように、掃除に対して小さい勇気をもって向き合ってみよう」

 そこで、掃除開始のチャイムが鳴ったらバケツに水を入れ、一番に掃除場所に行き拭き掃除を始めることにしました。
床に顔を近づけて拭いていると立っていては見えなかったほこりが見つかります。
給食の汁が落ちて黒い染みになっていることも分かりました。
汚れを取ろうと何回も拭くと頑固な汚れも取れます。
きれいになっていくと「もっときれいにしよう」という気持ちになり、さらに力が入ります。
一生懸命に掃除をした後は何とも言えない清々しい気持ちになりました。

実は、自分自身の問題だった
私が一生懸命に掃除をするようになると子どもに対する見方も変わっていきました。
今までは掃除を怠けている子ばかりが目につきましたが、掃除をがんばっている子が見え始めたのです。
掃除が終わった後、子どもたちに「あなたは、二年生なのにお姉ちゃんたちに負けないほど掃除をがんばっていたね」
「六年生のあなたは、下級生に掃除を上手に教えるね。先生よりも上手いよ」と声をかけてほめることも多くなっていきました。
子どもたちもほめられると嬉しいのか、掃除をがんばります。
でも、やはり、掃除中に遊ぶ子もいます。 
そういう子には「ここを先生と一緒に拭いてピカピカにしようか」と声をかけると、どの子も、がんばって拭きました。
「そうかあ、掃除の時に遊ぶ子は、掃除の仕方が分からなかったんだな」
そんなことも思いました。
掃除指導が上手くいかなかったのは、掃除を子どもの問題として捉えていたからでした。
実は、自分自身の問題だったのです。
自分がまず掃除をやってみることによって、見える子どもの姿も、掃除の気持ちよさも分かるようになり、子どもに対する関わりも変わっていきました。


令和二年三月、小学校教員を卒業させていただきました。
最後の掃除は、卒業式に使う体育館シートの拭き掃除でした。
汚れを探しながら、一つ、また一つと拭いていると、新米教師の時に、私が注意しても掃除をせずに遊んでいた子どものことを思い出しました。
「今ならあの子と一緒に掃除ができたかもしれないなあ。
腹を立てながら掃除しなさいと言っても掃除できないよなあ。悪かったなあ」
そう思うと、その子が笑顔になったような気がしました。


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〇志賀内泰弘がおよそ30年間、取材、体験を元に書き続けて来た
「ちょっといい話」のアーカイブスです。
ここに集まる「いい話」の主人公に共通するキーワード。
それは、ギブアンドギブ! 「利他の心」です。
忙しい毎日をお送りの皆さんに、日々の生活からちょっぴり途中下車して、志賀内とその仲間(賢人・奇人・変人・達人) たちの「ハートフルな感動物語」をお楽しみいただき、心の癒しにお役に立てたら幸いです。

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ペリーと林復斎(はやしふくさい)大学頭(だいがくのかみ)とのやりとり20240716

2024-07-16 | 気になる文書
ペリーと林復斎(はやしふくさい)大学頭(だいがくのかみ)とのやりとり

漂流民の救助をめぐって(「墨夷応接録 現代語訳」p33~39)

ペリー
わが国は、かねてより人命を重んじることを第一と考えて、国政 を執り行ってきた。そのため、自国民はもちろんのこと、他国民も、それがたとえ交流のない国の民であっても、漂流して難渋する様を見た場合は、力を尽して救い、手厚く保護してきた。
ところが、貴国において、人命が重んじられるということは、全く承知していない。他国の船が日本近海において遭難していても、決して救助せず、海岸に近付こうものなら砲撃してこれを防ぐ有様だ。日本に漂着した者があれば、犯罪者同様に扱って牢獄に閉じ込め、また日本人の漂流民が出た場合、保護して貴国に返還しようと港までやってきても、一向に受け取ることもない。このことは、自国の民をも見捨てる行為であり、不仁の至りと思われる。
わが国は、建国してまだ長くないが、だんだんと強大な国となりつつある。わが国のカリフォルニアは、日本国と相対し、太平洋を隔てているだけだ。間に他の国もないので、今後ますます数多く、わが国の船が日本の領海を往来することになると思う。
しかしながら、先ほど話したような国政であっては、大変に難渋する。多くの人命に関わることなので、捨て措くことの難しい問題であり、今後もこれまで通りで改善もなく、遭難した船を救助してもらえないのであれば、これは仇敵の国というしかない。
もし仇敵の国なのであれば、国力を尽して戦争に及び、雌雄を決するつもりである。戦争の用意は、十分にしてきてある。わが国は最近、隣国のメキシコ国と戦い、国都までも攻め取った。貴国も、事情によっては、同じようになるかも知れない。よくお考えになることだ。

林復斎(はやしふくさい)大学頭(だいがくのかみ)
適切なのであれば、戦争に及ぶのも宜しかろう。しかし、全体的に使節の話されたことは、事実に反する内容が多い。伝聞の誤りにより、先ほどのように思い込まれたのだろう。そもそも、わが国は外国と交流がないため、外国においてわが国の政治が理解されにくいのは、仕方がないことと思う。
しかし、わが国の政治は、先ほどの話のように不仁なものでは決してない。まず、人命を第一として重んじていることについては、日本は他の全ての国に勝っている。そのため、三百年に近い泰平が続いているのである。人命を軽んじるような不仁な政治であったならば、このようにはならないはずだ。泰平が続き、国内が和合しているという、国政の善き様をご覧になるべきであろう。
また、わが国は、大船を造って外国へ往来することを法で禁じているため、大洋の中で他国の船々を救助することはできない。しかし、日本近海で他国の船が遭難し、薪水食料を求めているときには、手厚い対応をしている。以前からこのように応対しており、海辺へは触で伝えていることなので、他国の船を一切救助していないなどという事実はない。
先にも述べた通り、これまでと変わらずに薪水食料は提供しよう。また、漂着した者について、罪人同様に牢獄に閉じ込めているなどという話は、全く伝聞の誤りと思われる。漂着民は、わが国法によって、どの地に辿り 着いたとしても手厚く救助し、長崎まで護送して、オランダ人のカピタンに引き渡し、それぞれの国に送り返してもらっている。
すでに貴国の民も、北方の松前辺りに漂着したことがあり、彼らも全員手厚く保護し、長崎に移送してから、貴国に送り返している。もっとも、漂流民の中にも善からぬ人物がおり、国法を侵し、わがままに不法を為す者もいる。そのため、止むを得ずしばらくは捕らえて、その後に長崎へ送ったこともある。この場合は、漂流民の不法な行為によって先ほどのような取り扱いに至ったわけだが、彼らが母国に帰って「日本は漂着した民を、全て罪人同様に取り扱う」などといい触らしたことで、色々と伝聞の誤りが生まれたのだろう。いずれにせよ、日本においては道 に外れた政治というものは、一切行なわれていない。
あなたも、よくよくわが国の様子を確認されれば、事実は理解できるはずであり、疑念もすぐ氷解するものと思う。貴国においても、人命を重視 するというのならば、両国の間に累年の遺恨が存するなどということもな いだろう。とても戦争に及ぶほどのこととは思えない。使節も、じっくりお考えになられるがよい。


交易は交渉の本題にあらず

ペリー
ただ今の話で、かねてより薪水食料などは供給され、かつ他国の船も救助されていると理解した。ただ、これまでにも時折、わが国の船は貴国の近海に行っているが、とにかく様々な理由をつけて交流を拒み、なかなか薪水も容易には供給されず、毎回難渋したと聞いている。
しかし、これまでもそのような政治のあり方であったとのことで、以後も、薪水食料石炭などの供給を続け、困難に直面した際は救助願えるならば、特に申し上げることはない。これまで以上に薪水食料石炭なども提供 願えるよう、それぞれの関係者に伝えておいていただきたい。また、漂着した民の件は、ただ今聞いたように手厚く保護し、送り返していただけるのであれば、それで良いと考える。
さて、交易の件であるが、これはなぜ了承願えないのか。そもそも交易は、有るものと無いものを融通し合い、大きな利益を生むものであって、現在万国において日夜盛んになっており、これによって国々は富強にもなっている。貴国にしても、交易を許可されれば、格別な国益が得られるはずであり、決して損失になるようなことはない。よって、これは是非とも承認されるべきかと思われる。

大学頭
いかにも、交易というものは、余剰の品物を欠乏している品物に 交換する行為であり、国益にもなるものだが、元来日本国は、自国の生産物で自足しており、外国の品物がなくとも少しも不足はない。そのため、交易は行なわないと法によって定めているので、簡単に交易を行なおうということにはならない。
先ほど、使節はこの度の来航は、第一に人命を重視してのものであると話された。そうであれば、遭難した船を救助してほしいという願いは叶っているのだから、主たる目的は達成されたとすべきである。交易の件は 利益についての話であって、さして人命に関わるものではないだろう。まず主目的が達成されたのだから、それで良いのではないか。

ペリーはしばらく考えてから話しはじめた。

ペリー
これはもっともなことである。いかにもこの度来航したのは、先 に述べた通り、人命を重視してのことなので、遭難した船を救助していただくことが何より肝要であった。交易は国の利益になるものだが、人命に関わるとはいえないので、交易の件は、強いてお願いすることではない。

ペリーは懐中から何か小さな冊子を出しそうになっては、また納め、二、三度もそれを繰り返したように見えた。そして、遂にその冊子を取り出して 口を開いた。

この冊子は清国とアメリカとの交易が始まったときの条約を記したものである。もし、交易にも及ぶことができたなら、このように公平な関係に基づくものなので、確認いただこうと持参した次第である。しかし、もはや交易は交渉の終わったものであり、強いて願うものでもないが、ここまで持参したものなので、心得のためにでも一度ご覧いただきたい。

このようにいって、ペリーは漢文で書かれた冊子を指し出した。

大学頭
交易の件は、先ほど述べた通り、許容するのが難しいものだが、 清国との条約であれば、何も差し支えはないので一度拝見しよう。

この冊子を受け取って、もう夕刻になっていたため、本日の会談は終了とした。飲み物や食べ物が提供されたが、大学頭は休息所へ退いた。この休息所はアメリカ人がいるところより一段高くなっており、国家の威厳のために自らを重んじてのものだった。対馬守、美作守、民部少輔、満太郎は、アメリカ人と相対して食事をした。食事が終わった後、また大学頭が出てきて挨拶をし、ペリーはじめ、皆々が応接所より退散した。以後も、飲食する際は、このような形をとった。

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【過保護注意】「まるで動物園」のような家庭で育つ子の末路

2023-07-18 | 気になる文書
ダイヤモンド・オンライン  7月8日 配信

【過保護注意】「まるで動物園」のような家庭で育つ子の末路

1万件を超える「幼児から高校生までの保護者の悩み相談」を受け、4000人以上の小中高校生に勉強を教えてきた教育者・石田勝紀が、子どもを勉強嫌いにしないための『勉強しない子に勉強しなさいと言っても、 ぜんぜん勉強しないんですけどの処方箋』を刊行。子どもに失敗してほしくない、教育熱心な人ほど苦悩を抱える大問題への、意外な解決法を提案します。

子育てを3つのステージにたとえたら、「覚悟が決まった」親が大量発生

● 子どもがやることは、すべて親が決めている。
● 子どもが何かするときは、親が先回りしてなるべく失敗させないようにしている。
● 子どもが親の思い通りにならないと、イライラして感情的になることがある。

 このいずれかに当てはまる人は、過干渉なタイプと言えるでしょう。もちろん愛する子どものために、よかれと思ってやっているに違いありません。
 しかし、子どもも自分の考えや価値観を持った1人の人間です。調教師が芸を覚えさせる動物のような存在ではありませんよね。

 親が過干渉でも、子どもが小さいうちは言うことを聞いてくれるでしょう。でも中学、高校生になると一様に反抗しはじめます。「何か言えば言うほど関係が悪化します……」という悩み相談が一気に増えるのも、この時期です。

 親と子は別人格ですから、親がいいと思うことが必ずしも子どもにいいとは限りません。むしろ親が子どものことを思えば思うほど、その愛情が形を変えて「よけいなお世話」になりがちなのです。

 親の焦りや不安、子どもへの期待や不信感から過干渉が続いていくと、最悪の場合、子どもが家庭内暴力をふるうようになります。

 その悪循環を断ち切るためには、自分が生んだ子どもでも基本的に「人は変えられない」と親が割りきる必要があります。

 そして今後、子どもから心は放さずとも、口と手は放す覚悟を決めることです。


子どもの成長に合わせて進めよう

 勉強を含め、子どもが自分から行動できるようになるには、成長に合わせて段階的に3つのステージを進むのが一般的な理想像です。

 まず前提として、動物の場合には大きく分けて次の3つの環境があるとします。

● 動物園型/何もしないでぐうたらしているだけでエサをもらえるけれども、自由のない狭い場所でしか生きられない。
● 牧場型/昼間は草原で自由に行動でき、動物舎に帰れば安全・安心が保たれた寝る場所やエサがある。
● サバンナ型/いちばん自由でどこにでも行けるけれども、危険から身を守り、自分で水や食べ物を探しながら生きていかなければいけない。

 人間の子育ても、この3つの環境に置き換えて考えるとわかりやすいと思います。あなたは今、どの環境で子育てしていますか? 子どもが大きくなったら、どの世界で生きていってほしいですか?

*本記事は『勉強しない子に勉強しなさいと言っても、ぜんぜん勉強しないんですけどの処方箋』から、抜粋・構成したものです

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懸命に生きている息子に感謝を!20230314

2023-03-12 | 気になる文書
私の大好きな河合先生(東洋大付属京北中高元校長、現京北幼稚園園長)の本
「賢く強い子になる男の子の育て方」からの引用です。

懸命に生きている息子に感謝を!

これまで、数多くの子育てに悩む保護者とお会いして、その悩みの多くが、過去の経験、あるいは未来への不安から起こっていることに気づきました。
●新しいクラスになじめず、なかなか友達をつくれなかったことがある
●自分からいい出して始めた習い事を、途中で投げ出してしまったことがある
過去のこうした記憶が、頭のなかに残っているものだから、子供がしようとしていることに対しても不安を抱えてしまうのです。要するに、子供のことを過去の行いから判断しがちで、現在の視点で素直に見ていないということです。だから、つい、
「あなた、以前も同じようなことをいって結局放り投げたじゃない。今回も、同じことを繰り返すんじゃないの。あんな思いは、もうこりごりよ」
「こんなことでは、この先どうなるか心配。きちんとできるのかしら」
などと、現在とはまったく関係のない過去のことをわざわざ持ち出したり、過去はおろか、未来のことを持ち出してしまうのです。
そんなことをいわれても、今を生きている子供には伝わりません。ましてや、子供の未来の行動に対してまで、勝手に不安を膨らませ。それをあおることに何の意味があるでしょうか。いうまでもなく、大切なのは今この瞬間です。
あなたの息子さんは、今を懸命に生きています。誰かに認めてもらいたがっています。それはとても立派なこと。目の前にいるお子さんのことを、これからもずっと、しっかり見守っていてあげてください。
「生まれてきてくれて、ありがとう!」
「母さんでよかったよ!」
「父さんでよかったよ!」
こんな親子の関係でありたいものです。

河合正著「賢く強い子になる男の子の育て方」三笠出版 知的生き方文庫 p205~206

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男の子の育て方「あなたを見守っている」というサインとは

2023-03-01 | 気になる文書
私の大好きな河合先生(東洋大付属京北中高元校長、現京北幼稚園園長)の本
「賢く強い子になる男の子の育て方」からの引用です。

子供の成長のために、もっとも簡単で効果が期待できる習慣を1つ上げろといわれれば、それは間違いなく「挨拶」です。
挨拶の効能の1つは、相手をしっかり認識していることを、シンプルかつストレートに伝えられることです。つまり、挨拶とは、
<私はあなたの行動をしっかりと見守っていますよ>
というメッセージなのです。あなたが出かけようとしていることを知っているから、「いってらっしゃい」といえるのだし、あなたが帰ってきたことに気がついているから、「お帰りなさい」といえるのです。
だから、朝、子供が目覚め、台所にやってきたのなら、
<私は、今日もあなたが、また眠いのにもかかわらず、頑張って朝早くベッドから抜け出し、学校に行く準備を始めたことを、しっかり認識しているわよ>
という意味をこめて、一言、「おはよう」鍵と明るく大きな声で挨拶をしてあげましょう。家事で慌ただしくても、子供に顔を向け、子供の目を見て言うこと。形式的なものではなく、気持ちを伝えるのです。
「ありがとう」「いただきます」「お休みなさい」もすべて同じです。
考えてみれば、挨拶の言葉というのは、その一つひとつに深い意味がこめられていますよね。
「ありがとう」。これは、ありえないくらいのことをしてくれたあなたはかけがえのない存在です、心から感謝していますよというメッセージ。
「いただきます」。これは、母親が愛情をこめて作ってくれた食事をいただくとともに、自然のめぐみをいただくことに感謝の気持ちを表す言葉です。
「お休みなさい」。これは、今日も1日ご苦労さま。今はもう休んでいいですよ、という気遣いの言葉なのでしょう。だから、安心してぐっすりと眠りに入ることができるのです。
本書では、親子のコミュニケーションを様々な視点から考えてきましたが、挨拶ほどシンプルで奥の深いコミニケーションの形態はないような気がします。

河合正著「賢く強い子になる男の子の育て方」三笠出版 知的生き方文庫 p203~204

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