●関守橋本家
寛永十八年に作内が赴任し、十四俵を受ける。以降、作左衛門、又右衛門、作七郎、伴右衛門と続き、次の作内は勇猛義道居士と諡される程の人物で、十六俵に加増されている。作七郎、次も作七郎で、改心流剣術免許皆伝の腕前であった。明治二年に関所廃止が通告され、その後十三ケ村戸長や細入村初代村長に就任する。子息の恒作も第三代村長であった。また同じ関守の吉村家とは、長年縁組を通じて強い絆を有していた。
●深見(深美)六郎右衛門
初代は能登国門前町近く深見村の出身で、立山温泉湯元である。十代目は藤原頼雄の名で和歌や俳句を能くした。また書を京の天満宮二十六世に学び、元許中家皆伝を受ける。弘化二年九月二十五日七十三歳で没した。妻のきみも和歌を詠む。文久三年八十一歳で没した。
●上市の文化人
小柴伊左衛門(号松斎) 祖は飛騨国出身で前田家に仕え、山室の江口に住んだ。八右衛門が上市に移り、江口屋の屋号で薬種業を開く。俳句・茶の湯・活花・書道を能くした。明治二年に没する。
岡部智中(嘉永六年~昭和七年八月) 家業を顧みず和算、特に幾何図の研究に夢中となり、稗田神社に成果を奉納した。
堀清平(嘉永六年~明治三十二年七月四日、号二喋) 幼時より数学を学び、長じて教育に従事して、明治二十三年四月湯神子小学校に勤務した。三十三年十一月に碑が建てられる。 山田長宣(東平、号新川、文政十年八月十七日~明治三十八年十一月四日) 玄東の孫であり、医者の父玄隆(俳号ありそ)長男。明治二年明倫堂教授、四年に石川県美川町で書と漢籍を講じる。十一年東京に移り『日本野史』を編集する。
黒川村医者で漢詩人でもある山田治助(玄龍)は文政二年に長崎で西洋医学を学ぶため、妻子を同道して赴いた。この子が後の黒川良安で、父子共に蘭語を吉雄権之助、医術をシーボルトに学んだ。良安は高島秋帆にも就き、父母が天保五年二月に帰郷後も学習を継続し、同十一年加賀藩青山将監に五十石で仕える。後に江戸の坪井信道に入門して塾頭、弘化三年八十石で加賀藩医になった。
浄瑠璃が天保末より大流行し、竹本文声(宍戸清右衛門)や竹本島太夫(初代は酒井勘助、二代は石黒留次郎)がいる。
吉田平吉(享和四年~明治九年)は宮川村江上で直四郎三男。祖は吉田神社の出。文化十三年浄泉寺福井充賢と上京し、写生を四条派紀広成に師事して廣均の号を貰う。後に天保十年貫名海屋と松村景文に学び、紀州家から公均の号を賜った。維新後も東京で作品を残している。生家では吉田善次が明治7年まで寺子屋を開いていたともいうが、確証がないため一覧表には記載しなかった。
●滑川の文化人
上杉景勝家臣桐沢無理助尚元は慶長四年松倉に移り治右衛門と名乗る。同六年滑川に移住し、綿屋となった。二代九郎兵衛は寛永二年加賀藩御旅屋、同十九年本陣の指定を得る。五代尚庸(号蛙子、蓮蛙)は俳人で、天和三年大淀三千風が来宿した。九代尚昭(栗本居士)は和歌を能くした。
青山勝右衛は慶長九年妻と子の長十郎を伴い氷見阿尾村から滑川に移る。後に奥州南部右京太夫に仕官が決まり、妻子と別れた。妻は桐沢家二代九郎兵衛に嫁ぎ、長十郎は養子となるが、やがて別家し、綿屋青山九郎右衛門を称す。三代昌保(号酉干丸)は桐沢家から入り、尚庸は実弟。共に俳諧に秀でた。七代昌茂は和歌に秀で、岩城家からの養子十代九郎衛門や十一代荘蔵昌房(安永六年~天保三年、号百爾)も俳諧で名を知られた。碑もある。
旅篭屋で町肝煎の河瀬屋には、元禄二年七月十三日松尾芭蕉が宿を取った。組合頭の七代彦右衛門(号知十)は連句集『早稲の道』を編集する。浦方肝煎を務めた松村屋宗右衛門(号史耕)もこれに参加している。
他に神職十四世且尾嘉寛や専長寺二十二世梅原義芳は和歌で、本広寺九世神保了慶(号幻来)や大伴家持の子孫と称する小林村十村宝田家三代宗兵衛(号香堂)及び売薬業鷹取嘉重郎(号合矣、書斎を一層楼)は俳句で名を残した。
称永寺十一世恵浄三男恵遵(徳妙)こと蜷川観月(寛政元年~嘉永元年)は京で岸岱の門に絵画を学び、岸派にとどまらず円山派の写実や四条派の軽妙な筆致も取り入れた画を描いた。
●寺子の遊び
天下落とし…机で階段を作り、拳を闘わせ、勝者は上段で天下、下段は乞食となる。
●寺子屋での試験
字明かし…文字の扁・作り・冠を挙げ、漢字を覚えているか試験する。
●魚津の俳人
宝暦頃、荒町の葉茶屋で肝煎役岸本藤右衛門(号倚彦、知済、海市舎、小貝庵)は美濃国各務支考に学び、画も描いた。
天明頃、増川屋こと小幡与八郎(号泗筌)は『魚津古今記』を著した。自邸に三浦樗良が滞在している。佐渡屋こと浦方肝煎の結城勘右衛門(号侶岸)も有名。
文化・文政頃には、荒町の木綿商大正寺屋又右衛門(号太翼)、大梅屋こと角川町の寺崎橘蔵(号孤山、弘風軒)、小竹屋伊十郎(徐風)等が活躍した。
橘蔵の長男橘次(文化十四年~明治二十五年六月、号靄村、木母屋)は俳句を梅室等に師事し、詩
・書・薮内流茶道・華道を能くした。弟の仁右衛門(号花弟、観舎人)も俳人として名をあげ、絵画にも優れた才を見せた。草庵は梅茶園。明治四十四年十月八十歳で没した。
藩政末期の魚津は俳句が教育の普及とともに大衆へ浸透し、句会が多く催されている。
藩政末期に金屋町三ヶ屋作兵衛(酒造業)は陽明学を研究した。末三ヶ野を開墾したものの、慶応三年に藩から地元民への売却を命ぜられ、明治ニ年のばんどり騒動(農民一揆)後に入牢・家産没収となった(玉川信明『越中ばんどり騒動』)。
●大島忠蔵維直(字無害、号贄川、居所は三古堂)
魚津に生まれ、金沢の叔父の家へ養子に入る。二十三歳で昌平黌へ入り、寛政四年に明倫堂の助教、文政十二年都講、大小将組へと進み、天保五年七月に致仕する。同九年閏四月に七十七歳で没。
●黒部の俳人
天明に三日市の上嶋屋徳左衛門(号六雅)は加賀千代尼とも交流があり、肝煎の嶋屋二代目又四郎(号求呂)も俳諧で知られた。
文化・文政には十村神保嘉一郎(号横雲)は句会を開く。
安政頃、十村手代北山伝三郎(号西園恕兮)は諸国を行脚し俳句を詠んだ。医者の小林元章(号玄々堂不及)も俳句を読み、仙台から俳諧で知られた文器が来訪すると、本多吉十郎(号嶺松)が師事した。後に三日市町長となる平井順吾(号敬哉、慶哉)も俳句を詠んでいる。
安政四年秋に泊の俳人金森洞雨の養子で出羽国海野家出身の金森禎作(号立器)が句会を開くと、三日市、生地、魚津の俳人達が参加した。明治四年魚津に移住し、花蕚社を結成することになる。
●朝日町の文化人
天保十五年に十村となって棚山野を開墾した伊東彦四郎(俳号松屋)や境関所足軽渡部久作(俳号蕪木)等がいる。宝暦六年春松任から俳人千代尼が、久作の母と懇意にしていた関係で渡部家に滞在している。舟川新村藤井辰右衛門昌弘は石黒信由門で測量に従事。
●入善の俳諧
米沢家(祖は源義朝臣米沢主計守利光)二代目紋三郎元昭(号応斉)、三男で三代目与平次養子与四郎元清(字君貌、号徳容、玉樹斉)、その甥で五代目半左衛門元保(字楽只、号省斉)は薮内流茶道も能くし、六代目紋三郎元義(号節堂、冬生)、長男の七代目与四郎元通(号漸斉)、次男裁二郎元即(号蘭谷、竹酔)、八代目紋三郎元寛(号国華)、弟紋三郎元随(号歌石)はいずれも俳人。
岡家(祖は山名家家臣で、出石落城後和倉に移住した彦兵衛を初代、弟は秋庭綱典の養子で後の沢庵)六代目与左衛門(号如峰)は稲香庵社中を結成した。
竹内家(岡家二代目の弟竹内兵左衛門を初代)四代目弥三右衛門(号松塢)、野島家(祖は宇奈月愛本八重堀城主で、前田家に従い雲雀野郷士)久兵衛(号柳斉)、脇坂家(祖は大坂夏の陣で豊臣方の将で、砺波郡内島に住み、明和四年舟見に移って本陣を務める)孝平(号貴和)なども俳人として名高い。
●八尾の文化人
俳句・狂歌では文化・文政頃より芳澤蟻道子、禅定屋禅勝、西池屋、面谷屋赤椿、桐谷屋知立、山屋石亭、小原屋其柳、翠田貴山、古川屋稀水、益山一宇、吉友其翠等がいる。
華道では池坊主小野専定門弟深道屋佐吉(号松隨)とその妻が知られている。
茶道では弘化・嘉永頃から川倉屋八兵衛、紺屋徳右衛門、廣瀬養順等が裏千家の門であった。
謡曲では安政頃、紺屋治郎左衛門と治右衛門、室屋與四兵衛、菓子屋喜兵衛、大久保屋角兵衛、乗嶺屋甚三郎等がいる。
浄瑠璃では嘉永頃に小谷屋安兵衛、山岸屋佐七郎、桶屋庄之助、掛畑屋善兵衛等を輩出した。
美術では天保頃に狩野派や長谷川等叔に師事した紺屋安兵衛(号春甫)が活躍し、東町曳山の塗箔等の仕事は今に残されている。
その他、忘れてはならない偉人に、摩島助太郎元泰(字子毅、号松南)がいる。摩島家十一代惇仲の弟で、京で若槻幾斉の門で学んだ後に、佐久間象山に師事する。『日本海防論』を著すが、入獄を余儀なくされ、天保十年五月四十二歳で没した。
●東岩瀬にある筆塚
岩城正則の筆塚以外に、東出町一里塚内の筆塚(川上儀平)、現尾島家前の筆塚(舘町組合頭尾島屋か)があるが、寺子屋を開いていた確証が無いため、本文一覧表には記載しなかった。
●内山家伝「門文」
天保十年路峯が書き残し、慶応三年年彦が補筆した。
その昔、京の嵯峨と内山両氏に“白鷹のとどまる所にわれを鎮座せしめよ”との神託が下り、御神体を背負って鷹の後を追うことになった。諸国を巡り、飛騨高山にやってきたら、婦負野の森に鷹が停まった。そこでその森に社を建てる。これが八幡宮の起源で、代々嵯峨家が神職となり、内山家は隣村百塚村宮尾に住むことになったという。

寛永十八年に作内が赴任し、十四俵を受ける。以降、作左衛門、又右衛門、作七郎、伴右衛門と続き、次の作内は勇猛義道居士と諡される程の人物で、十六俵に加増されている。作七郎、次も作七郎で、改心流剣術免許皆伝の腕前であった。明治二年に関所廃止が通告され、その後十三ケ村戸長や細入村初代村長に就任する。子息の恒作も第三代村長であった。また同じ関守の吉村家とは、長年縁組を通じて強い絆を有していた。
●深見(深美)六郎右衛門
初代は能登国門前町近く深見村の出身で、立山温泉湯元である。十代目は藤原頼雄の名で和歌や俳句を能くした。また書を京の天満宮二十六世に学び、元許中家皆伝を受ける。弘化二年九月二十五日七十三歳で没した。妻のきみも和歌を詠む。文久三年八十一歳で没した。
●上市の文化人
小柴伊左衛門(号松斎) 祖は飛騨国出身で前田家に仕え、山室の江口に住んだ。八右衛門が上市に移り、江口屋の屋号で薬種業を開く。俳句・茶の湯・活花・書道を能くした。明治二年に没する。
岡部智中(嘉永六年~昭和七年八月) 家業を顧みず和算、特に幾何図の研究に夢中となり、稗田神社に成果を奉納した。
堀清平(嘉永六年~明治三十二年七月四日、号二喋) 幼時より数学を学び、長じて教育に従事して、明治二十三年四月湯神子小学校に勤務した。三十三年十一月に碑が建てられる。 山田長宣(東平、号新川、文政十年八月十七日~明治三十八年十一月四日) 玄東の孫であり、医者の父玄隆(俳号ありそ)長男。明治二年明倫堂教授、四年に石川県美川町で書と漢籍を講じる。十一年東京に移り『日本野史』を編集する。
黒川村医者で漢詩人でもある山田治助(玄龍)は文政二年に長崎で西洋医学を学ぶため、妻子を同道して赴いた。この子が後の黒川良安で、父子共に蘭語を吉雄権之助、医術をシーボルトに学んだ。良安は高島秋帆にも就き、父母が天保五年二月に帰郷後も学習を継続し、同十一年加賀藩青山将監に五十石で仕える。後に江戸の坪井信道に入門して塾頭、弘化三年八十石で加賀藩医になった。
浄瑠璃が天保末より大流行し、竹本文声(宍戸清右衛門)や竹本島太夫(初代は酒井勘助、二代は石黒留次郎)がいる。
吉田平吉(享和四年~明治九年)は宮川村江上で直四郎三男。祖は吉田神社の出。文化十三年浄泉寺福井充賢と上京し、写生を四条派紀広成に師事して廣均の号を貰う。後に天保十年貫名海屋と松村景文に学び、紀州家から公均の号を賜った。維新後も東京で作品を残している。生家では吉田善次が明治7年まで寺子屋を開いていたともいうが、確証がないため一覧表には記載しなかった。
●滑川の文化人
上杉景勝家臣桐沢無理助尚元は慶長四年松倉に移り治右衛門と名乗る。同六年滑川に移住し、綿屋となった。二代九郎兵衛は寛永二年加賀藩御旅屋、同十九年本陣の指定を得る。五代尚庸(号蛙子、蓮蛙)は俳人で、天和三年大淀三千風が来宿した。九代尚昭(栗本居士)は和歌を能くした。
青山勝右衛は慶長九年妻と子の長十郎を伴い氷見阿尾村から滑川に移る。後に奥州南部右京太夫に仕官が決まり、妻子と別れた。妻は桐沢家二代九郎兵衛に嫁ぎ、長十郎は養子となるが、やがて別家し、綿屋青山九郎右衛門を称す。三代昌保(号酉干丸)は桐沢家から入り、尚庸は実弟。共に俳諧に秀でた。七代昌茂は和歌に秀で、岩城家からの養子十代九郎衛門や十一代荘蔵昌房(安永六年~天保三年、号百爾)も俳諧で名を知られた。碑もある。
旅篭屋で町肝煎の河瀬屋には、元禄二年七月十三日松尾芭蕉が宿を取った。組合頭の七代彦右衛門(号知十)は連句集『早稲の道』を編集する。浦方肝煎を務めた松村屋宗右衛門(号史耕)もこれに参加している。
他に神職十四世且尾嘉寛や専長寺二十二世梅原義芳は和歌で、本広寺九世神保了慶(号幻来)や大伴家持の子孫と称する小林村十村宝田家三代宗兵衛(号香堂)及び売薬業鷹取嘉重郎(号合矣、書斎を一層楼)は俳句で名を残した。
称永寺十一世恵浄三男恵遵(徳妙)こと蜷川観月(寛政元年~嘉永元年)は京で岸岱の門に絵画を学び、岸派にとどまらず円山派の写実や四条派の軽妙な筆致も取り入れた画を描いた。
●寺子の遊び
天下落とし…机で階段を作り、拳を闘わせ、勝者は上段で天下、下段は乞食となる。
●寺子屋での試験
字明かし…文字の扁・作り・冠を挙げ、漢字を覚えているか試験する。
●魚津の俳人
宝暦頃、荒町の葉茶屋で肝煎役岸本藤右衛門(号倚彦、知済、海市舎、小貝庵)は美濃国各務支考に学び、画も描いた。
天明頃、増川屋こと小幡与八郎(号泗筌)は『魚津古今記』を著した。自邸に三浦樗良が滞在している。佐渡屋こと浦方肝煎の結城勘右衛門(号侶岸)も有名。
文化・文政頃には、荒町の木綿商大正寺屋又右衛門(号太翼)、大梅屋こと角川町の寺崎橘蔵(号孤山、弘風軒)、小竹屋伊十郎(徐風)等が活躍した。
橘蔵の長男橘次(文化十四年~明治二十五年六月、号靄村、木母屋)は俳句を梅室等に師事し、詩
・書・薮内流茶道・華道を能くした。弟の仁右衛門(号花弟、観舎人)も俳人として名をあげ、絵画にも優れた才を見せた。草庵は梅茶園。明治四十四年十月八十歳で没した。
藩政末期の魚津は俳句が教育の普及とともに大衆へ浸透し、句会が多く催されている。
藩政末期に金屋町三ヶ屋作兵衛(酒造業)は陽明学を研究した。末三ヶ野を開墾したものの、慶応三年に藩から地元民への売却を命ぜられ、明治ニ年のばんどり騒動(農民一揆)後に入牢・家産没収となった(玉川信明『越中ばんどり騒動』)。
●大島忠蔵維直(字無害、号贄川、居所は三古堂)
魚津に生まれ、金沢の叔父の家へ養子に入る。二十三歳で昌平黌へ入り、寛政四年に明倫堂の助教、文政十二年都講、大小将組へと進み、天保五年七月に致仕する。同九年閏四月に七十七歳で没。
●黒部の俳人
天明に三日市の上嶋屋徳左衛門(号六雅)は加賀千代尼とも交流があり、肝煎の嶋屋二代目又四郎(号求呂)も俳諧で知られた。
文化・文政には十村神保嘉一郎(号横雲)は句会を開く。
安政頃、十村手代北山伝三郎(号西園恕兮)は諸国を行脚し俳句を詠んだ。医者の小林元章(号玄々堂不及)も俳句を読み、仙台から俳諧で知られた文器が来訪すると、本多吉十郎(号嶺松)が師事した。後に三日市町長となる平井順吾(号敬哉、慶哉)も俳句を詠んでいる。
安政四年秋に泊の俳人金森洞雨の養子で出羽国海野家出身の金森禎作(号立器)が句会を開くと、三日市、生地、魚津の俳人達が参加した。明治四年魚津に移住し、花蕚社を結成することになる。
●朝日町の文化人
天保十五年に十村となって棚山野を開墾した伊東彦四郎(俳号松屋)や境関所足軽渡部久作(俳号蕪木)等がいる。宝暦六年春松任から俳人千代尼が、久作の母と懇意にしていた関係で渡部家に滞在している。舟川新村藤井辰右衛門昌弘は石黒信由門で測量に従事。
●入善の俳諧
米沢家(祖は源義朝臣米沢主計守利光)二代目紋三郎元昭(号応斉)、三男で三代目与平次養子与四郎元清(字君貌、号徳容、玉樹斉)、その甥で五代目半左衛門元保(字楽只、号省斉)は薮内流茶道も能くし、六代目紋三郎元義(号節堂、冬生)、長男の七代目与四郎元通(号漸斉)、次男裁二郎元即(号蘭谷、竹酔)、八代目紋三郎元寛(号国華)、弟紋三郎元随(号歌石)はいずれも俳人。
岡家(祖は山名家家臣で、出石落城後和倉に移住した彦兵衛を初代、弟は秋庭綱典の養子で後の沢庵)六代目与左衛門(号如峰)は稲香庵社中を結成した。
竹内家(岡家二代目の弟竹内兵左衛門を初代)四代目弥三右衛門(号松塢)、野島家(祖は宇奈月愛本八重堀城主で、前田家に従い雲雀野郷士)久兵衛(号柳斉)、脇坂家(祖は大坂夏の陣で豊臣方の将で、砺波郡内島に住み、明和四年舟見に移って本陣を務める)孝平(号貴和)なども俳人として名高い。
●八尾の文化人
俳句・狂歌では文化・文政頃より芳澤蟻道子、禅定屋禅勝、西池屋、面谷屋赤椿、桐谷屋知立、山屋石亭、小原屋其柳、翠田貴山、古川屋稀水、益山一宇、吉友其翠等がいる。
華道では池坊主小野専定門弟深道屋佐吉(号松隨)とその妻が知られている。
茶道では弘化・嘉永頃から川倉屋八兵衛、紺屋徳右衛門、廣瀬養順等が裏千家の門であった。
謡曲では安政頃、紺屋治郎左衛門と治右衛門、室屋與四兵衛、菓子屋喜兵衛、大久保屋角兵衛、乗嶺屋甚三郎等がいる。
浄瑠璃では嘉永頃に小谷屋安兵衛、山岸屋佐七郎、桶屋庄之助、掛畑屋善兵衛等を輩出した。
美術では天保頃に狩野派や長谷川等叔に師事した紺屋安兵衛(号春甫)が活躍し、東町曳山の塗箔等の仕事は今に残されている。
その他、忘れてはならない偉人に、摩島助太郎元泰(字子毅、号松南)がいる。摩島家十一代惇仲の弟で、京で若槻幾斉の門で学んだ後に、佐久間象山に師事する。『日本海防論』を著すが、入獄を余儀なくされ、天保十年五月四十二歳で没した。
●東岩瀬にある筆塚
岩城正則の筆塚以外に、東出町一里塚内の筆塚(川上儀平)、現尾島家前の筆塚(舘町組合頭尾島屋か)があるが、寺子屋を開いていた確証が無いため、本文一覧表には記載しなかった。
●内山家伝「門文」
天保十年路峯が書き残し、慶応三年年彦が補筆した。
その昔、京の嵯峨と内山両氏に“白鷹のとどまる所にわれを鎮座せしめよ”との神託が下り、御神体を背負って鷹の後を追うことになった。諸国を巡り、飛騨高山にやってきたら、婦負野の森に鷹が停まった。そこでその森に社を建てる。これが八幡宮の起源で、代々嵯峨家が神職となり、内山家は隣村百塚村宮尾に住むことになったという。
