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越中国の歴史と文化

越中国(富山県)の歴史と文化を紹介します。

新川・婦負郡の寺子屋 その3

2006-04-08 19:01:46 | 藩政期越中国の教育史
●関守橋本家 
 寛永十八年に作内が赴任し、十四俵を受ける。以降、作左衛門、又右衛門、作七郎、伴右衛門と続き、次の作内は勇猛義道居士と諡される程の人物で、十六俵に加増されている。作七郎、次も作七郎で、改心流剣術免許皆伝の腕前であった。明治二年に関所廃止が通告され、その後十三ケ村戸長や細入村初代村長に就任する。子息の恒作も第三代村長であった。また同じ関守の吉村家とは、長年縁組を通じて強い絆を有していた。

●深見(深美)六郎右衛門 
 初代は能登国門前町近く深見村の出身で、立山温泉湯元である。十代目は藤原頼雄の名で和歌や俳句を能くした。また書を京の天満宮二十六世に学び、元許中家皆伝を受ける。弘化二年九月二十五日七十三歳で没した。妻のきみも和歌を詠む。文久三年八十一歳で没した。

●上市の文化人 
 小柴伊左衛門(号松斎) 祖は飛騨国出身で前田家に仕え、山室の江口に住んだ。八右衛門が上市に移り、江口屋の屋号で薬種業を開く。俳句・茶の湯・活花・書道を能くした。明治二年に没する。
 岡部智中(嘉永六年~昭和七年八月) 家業を顧みず和算、特に幾何図の研究に夢中となり、稗田神社に成果を奉納した。 
 堀清平(嘉永六年~明治三十二年七月四日、号二喋) 幼時より数学を学び、長じて教育に従事して、明治二十三年四月湯神子小学校に勤務した。三十三年十一月に碑が建てられる。 山田長宣(東平、号新川、文政十年八月十七日~明治三十八年十一月四日) 玄東の孫であり、医者の父玄隆(俳号ありそ)長男。明治二年明倫堂教授、四年に石川県美川町で書と漢籍を講じる。十一年東京に移り『日本野史』を編集する。
 黒川村医者で漢詩人でもある山田治助(玄龍)は文政二年に長崎で西洋医学を学ぶため、妻子を同道して赴いた。この子が後の黒川良安で、父子共に蘭語を吉雄権之助、医術をシーボルトに学んだ。良安は高島秋帆にも就き、父母が天保五年二月に帰郷後も学習を継続し、同十一年加賀藩青山将監に五十石で仕える。後に江戸の坪井信道に入門して塾頭、弘化三年八十石で加賀藩医になった。 
 浄瑠璃が天保末より大流行し、竹本文声(宍戸清右衛門)や竹本島太夫(初代は酒井勘助、二代は石黒留次郎)がいる。 
吉田平吉(享和四年~明治九年)は宮川村江上で直四郎三男。祖は吉田神社の出。文化十三年浄泉寺福井充賢と上京し、写生を四条派紀広成に師事して廣均の号を貰う。後に天保十年貫名海屋と松村景文に学び、紀州家から公均の号を賜った。維新後も東京で作品を残している。生家では吉田善次が明治7年まで寺子屋を開いていたともいうが、確証がないため一覧表には記載しなかった。 

●滑川の文化人 
 上杉景勝家臣桐沢無理助尚元は慶長四年松倉に移り治右衛門と名乗る。同六年滑川に移住し、綿屋となった。二代九郎兵衛は寛永二年加賀藩御旅屋、同十九年本陣の指定を得る。五代尚庸(号蛙子、蓮蛙)は俳人で、天和三年大淀三千風が来宿した。九代尚昭(栗本居士)は和歌を能くした。 
 青山勝右衛は慶長九年妻と子の長十郎を伴い氷見阿尾村から滑川に移る。後に奥州南部右京太夫に仕官が決まり、妻子と別れた。妻は桐沢家二代九郎兵衛に嫁ぎ、長十郎は養子となるが、やがて別家し、綿屋青山九郎右衛門を称す。三代昌保(号酉干丸)は桐沢家から入り、尚庸は実弟。共に俳諧に秀でた。七代昌茂は和歌に秀で、岩城家からの養子十代九郎衛門や十一代荘蔵昌房(安永六年~天保三年、号百爾)も俳諧で名を知られた。碑もある。 
 旅篭屋で町肝煎の河瀬屋には、元禄二年七月十三日松尾芭蕉が宿を取った。組合頭の七代彦右衛門(号知十)は連句集『早稲の道』を編集する。浦方肝煎を務めた松村屋宗右衛門(号史耕)もこれに参加している。 
 他に神職十四世且尾嘉寛や専長寺二十二世梅原義芳は和歌で、本広寺九世神保了慶(号幻来)や大伴家持の子孫と称する小林村十村宝田家三代宗兵衛(号香堂)及び売薬業鷹取嘉重郎(号合矣、書斎を一層楼)は俳句で名を残した。 
 称永寺十一世恵浄三男恵遵(徳妙)こと蜷川観月(寛政元年~嘉永元年)は京で岸岱の門に絵画を学び、岸派にとどまらず円山派の写実や四条派の軽妙な筆致も取り入れた画を描いた。 

●寺子の遊び 
 天下落とし…机で階段を作り、拳を闘わせ、勝者は上段で天下、下段は乞食となる。

●寺子屋での試験 
 字明かし…文字の扁・作り・冠を挙げ、漢字を覚えているか試験する。

●魚津の俳人 
 宝暦頃、荒町の葉茶屋で肝煎役岸本藤右衛門(号倚彦、知済、海市舎、小貝庵)は美濃国各務支考に学び、画も描いた。 
 天明頃、増川屋こと小幡与八郎(号泗筌)は『魚津古今記』を著した。自邸に三浦樗良が滞在している。佐渡屋こと浦方肝煎の結城勘右衛門(号侶岸)も有名。 
 文化・文政頃には、荒町の木綿商大正寺屋又右衛門(号太翼)、大梅屋こと角川町の寺崎橘蔵(号孤山、弘風軒)、小竹屋伊十郎(徐風)等が活躍した。 
 橘蔵の長男橘次(文化十四年~明治二十五年六月、号靄村、木母屋)は俳句を梅室等に師事し、詩
・書・薮内流茶道・華道を能くした。弟の仁右衛門(号花弟、観舎人)も俳人として名をあげ、絵画にも優れた才を見せた。草庵は梅茶園。明治四十四年十月八十歳で没した。 
 藩政末期の魚津は俳句が教育の普及とともに大衆へ浸透し、句会が多く催されている。 
 藩政末期に金屋町三ヶ屋作兵衛(酒造業)は陽明学を研究した。末三ヶ野を開墾したものの、慶応三年に藩から地元民への売却を命ぜられ、明治ニ年のばんどり騒動(農民一揆)後に入牢・家産没収となった(玉川信明『越中ばんどり騒動』)。

●大島忠蔵維直(字無害、号贄川、居所は三古堂)
 魚津に生まれ、金沢の叔父の家へ養子に入る。二十三歳で昌平黌へ入り、寛政四年に明倫堂の助教、文政十二年都講、大小将組へと進み、天保五年七月に致仕する。同九年閏四月に七十七歳で没。

●黒部の俳人 
 天明に三日市の上嶋屋徳左衛門(号六雅)は加賀千代尼とも交流があり、肝煎の嶋屋二代目又四郎(号求呂)も俳諧で知られた。 
 文化・文政には十村神保嘉一郎(号横雲)は句会を開く。 
 安政頃、十村手代北山伝三郎(号西園恕兮)は諸国を行脚し俳句を詠んだ。医者の小林元章(号玄々堂不及)も俳句を読み、仙台から俳諧で知られた文器が来訪すると、本多吉十郎(号嶺松)が師事した。後に三日市町長となる平井順吾(号敬哉、慶哉)も俳句を詠んでいる。 
 安政四年秋に泊の俳人金森洞雨の養子で出羽国海野家出身の金森禎作(号立器)が句会を開くと、三日市、生地、魚津の俳人達が参加した。明治四年魚津に移住し、花蕚社を結成することになる。 

●朝日町の文化人 
 天保十五年に十村となって棚山野を開墾した伊東彦四郎(俳号松屋)や境関所足軽渡部久作(俳号蕪木)等がいる。宝暦六年春松任から俳人千代尼が、久作の母と懇意にしていた関係で渡部家に滞在している。舟川新村藤井辰右衛門昌弘は石黒信由門で測量に従事。

●入善の俳諧 
 米沢家(祖は源義朝臣米沢主計守利光)二代目紋三郎元昭(号応斉)、三男で三代目与平次養子与四郎元清(字君貌、号徳容、玉樹斉)、その甥で五代目半左衛門元保(字楽只、号省斉)は薮内流茶道も能くし、六代目紋三郎元義(号節堂、冬生)、長男の七代目与四郎元通(号漸斉)、次男裁二郎元即(号蘭谷、竹酔)、八代目紋三郎元寛(号国華)、弟紋三郎元随(号歌石)はいずれも俳人。 
 岡家(祖は山名家家臣で、出石落城後和倉に移住した彦兵衛を初代、弟は秋庭綱典の養子で後の沢庵)六代目与左衛門(号如峰)は稲香庵社中を結成した。 
 竹内家(岡家二代目の弟竹内兵左衛門を初代)四代目弥三右衛門(号松塢)、野島家(祖は宇奈月愛本八重堀城主で、前田家に従い雲雀野郷士)久兵衛(号柳斉)、脇坂家(祖は大坂夏の陣で豊臣方の将で、砺波郡内島に住み、明和四年舟見に移って本陣を務める)孝平(号貴和)なども俳人として名高い。 

●八尾の文化人 
 俳句・狂歌では文化・文政頃より芳澤蟻道子、禅定屋禅勝、西池屋、面谷屋赤椿、桐谷屋知立、山屋石亭、小原屋其柳、翠田貴山、古川屋稀水、益山一宇、吉友其翠等がいる。 
 華道では池坊主小野専定門弟深道屋佐吉(号松隨)とその妻が知られている。 
 茶道では弘化・嘉永頃から川倉屋八兵衛、紺屋徳右衛門、廣瀬養順等が裏千家の門であった。 
 謡曲では安政頃、紺屋治郎左衛門と治右衛門、室屋與四兵衛、菓子屋喜兵衛、大久保屋角兵衛、乗嶺屋甚三郎等がいる。 
 浄瑠璃では嘉永頃に小谷屋安兵衛、山岸屋佐七郎、桶屋庄之助、掛畑屋善兵衛等を輩出した。 
 美術では天保頃に狩野派や長谷川等叔に師事した紺屋安兵衛(号春甫)が活躍し、東町曳山の塗箔等の仕事は今に残されている。 
 その他、忘れてはならない偉人に、摩島助太郎元泰(字子毅、号松南)がいる。摩島家十一代惇仲の弟で、京で若槻幾斉の門で学んだ後に、佐久間象山に師事する。『日本海防論』を著すが、入獄を余儀なくされ、天保十年五月四十二歳で没した。

●東岩瀬にある筆塚 
 岩城正則の筆塚以外に、東出町一里塚内の筆塚(川上儀平)、現尾島家前の筆塚(舘町組合頭尾島屋か)があるが、寺子屋を開いていた確証が無いため、本文一覧表には記載しなかった。 

●内山家伝「門文」 
 天保十年路峯が書き残し、慶応三年年彦が補筆した。 
 その昔、京の嵯峨と内山両氏に“白鷹のとどまる所にわれを鎮座せしめよ”との神託が下り、御神体を背負って鷹の後を追うことになった。諸国を巡り、飛騨高山にやってきたら、婦負野の森に鷹が停まった。そこでその森に社を建てる。これが八幡宮の起源で、代々嵯峨家が神職となり、内山家は隣村百塚村宮尾に住むことになったという。 




砺波・射水郡の寺子屋 その3

2006-04-08 19:00:58 | 藩政期越中国の教育史
●杉木郷学所の句読
 杉木郷学所の句読には、島新村島田孝之、三谷村西蓮寺三溪、古上野村幾太郎、岡御所村永勝寺幸迹(?)、西部金屋村高畠脩蔵、桜町村儀一郎、頼成村順平、神島村柴田宗兵衛、筆生には、矢木村根尾次七郎、大門村末永宗七郎、太郎丸小野左吉郎、安川村坂井好之亟、算術には、頼成村弥兵衛、神島村宗兵衛、長田彦三郎、光明寺村義左衛門があたった。
●砺波の俳・歌人
 藩政後期には、河村田守と門下の清水有道や加藤知足など、五島雅名・雅直・柳之舎、小幡蓼牙・為積と門下の中村遅平、女流では高畠家の御旅屋内室、河村富治子、為積の妻小幡歌子などを輩出した。
●太田俳壇 
 太田地区からは俳人を多く輩出している。唐金屋安念家からは四代目安兵衛(号志鈎)、五代目清左衛門(号南水)と妻もん女(実家は金子家)、六代目安兵衛(号雪江)が俳諧で知られ、特に雪江(天明六年~嘉永五年二月十一日)は住居を桃李窟と名付け、太田俳句の基礎を作った。弘化頃に『其梅集』を刊行する。弟は金子家へ入って十七代目宗右衛門(号露仙)を養育し、従兄弟は川原屋安念次郎左衛門(号迎貨)である。他には入道家の忠兵衛(号二王堂)と長男の忠美(号二水)や、漢詩も能くした上田家の市郎兵衛(号乙宇)等がいる。天保十五年には千光寺観音堂に句額が奉納された。 
●石崎謙(天保十四年~明治三十六年)
 林村小島生まれ。金沢で漢籍や医術を学んだ後に京で儒学を神山鳳陽、医術を村田順蔵に入門する。文久二年六月射水郡海老江浦に開院するが、明治元年に加賀藩から招聘され、家塾も開いた。廃藩後も引き続き石川県に勤め、学制頒布の際には自宅を小学校の校舎に提供する。明治十一年に司法省の民法編集委員になり、更に元老院議長に富山分県の建白書を提出する。十六年に辞し『加賀藩史稿』を編纂しながら前田家の侍講を務め、三十四年に帰郷し漢学を教え、三十六年一月三日に没する。三十九年碑が小島に建てられた。なお、石崎氏の祖は美濃国土岐氏である。 
●野沢俊冏(嘉永六年~昭和八年)
 新屋敷出身で、文久二年に仏門に帰依し独学で研学に励む。明治二十年開塾し、その後に上京して泰寿院・浄土院・慈眼院・浄土宗光雲寺住職、伝通院貫主に就任し紫衣緋衣を賜る。後増上寺重役。東京浄土宗学本校、芝中学校(現大正大学)、淑徳女学校を創立した。郷里の林村へ書籍を寄贈し、千三百円の寄付をする。 
●文化人の多い上野屋 
 本家六兵ヱは伯芝の俳号をもった趣味人、分家七之丞の養子になる子の山田彦一(天保元年三月~明治三十一年七月)も俳号麦里、聴水園墨痴とも号し、画も能くした。家業は酒屋で、福野町長に選ばれる。
●滝田俊吾(明治二十九年~昭和二十年)
 河辺純三の子息で正三と四郎の弟。従兄で小矢部津沢蓑輪の滝田孝弟(明治十二年~昭和三十二年、村長、県議会議員、県立礪波高等女学校創設者)の養子に入る。軍医大佐で陸軍病院長を歴任した。なお孝弟の弟吉郎(明治十四年~昭和三十五年)は日本海海戦で巡洋艦日進の砲術長、第一次世界大戦では地中海に駆逐艦艦長として出動し、イギリスから勲章を受けている。
●武部家 
 寛文十三年十村に任じられる。祖は清原武則で、子孫の宣行長男宣衡は、能登武部村に配流の後に三清村へ移った。十一代目尚志(文政十二年~明治四十四年)の長男和正は三清村村長、次男其文は弟堅の養子になり、衆議院議員に選ばれる。
●石崎和善(嘉永元年~明治三十九年、号蘋洲、俳号歩水)
 十代目石崎市右衛門の五男で、福光村の九代目石崎善右衛門を継いだ。萬延元年加賀藩に召され兵術を学び、文久二年銃卒助教授に任じられた。慶応元年宮永菽園に漢籍を、今井保に雅楽を学び、江戸へ出た。帰郷後に実業界で活躍しつつ、福光小学校の創立に尽力する。五男猪四一(号光瑶)は竹内栖鳳門下の画家である。 
●福光書道 
 上原怡蹟(七代目上原三益) 
 代々医者、享保十年没 
 石崎世璋 享和二年没 
 有沢東海 医者、文化十三年没
 石崎五柳(平兵衛)海保青陵の
 門下、酒造業、文化十四年没
 石崎子温寛(肝煎喜兵衛) 
 海保青陵、中嶋棕隠門下 
 清水一教 嘉永二年没 
 石崎石鼎(清吉)酒造業 
 明治七年教員、十二年八月没
 松村精一郎知幾(西荘) 
 明治二十四年没 等
●中守衛筆塚(野上水月寺) 
 本名は赤田善右衛門で、享和三年金沢で生まれる。父の儀左衛門と共に前田弾香家臣であったが、嘉永二年致仕し、安政四年善徳寺の書役として約二十年勤めた。 
 筆塚は明治十五年六月門人により建てられている。ただし寺子屋師匠であるとの確証がなく、本文には含めていない。
●加賀騒動 
 大槻伝蔵朝元(元禄十六年一月一日~寛延元年九月十二日、後内蔵允) 加賀藩足軽大槻七左衛門の三男で、叔父長兵衛の婿養子に入る。享保元年に藩主世子前田吉徳の御部屋付御居間坊主を皮切りに出世を重ねる。世子が六代藩主に就任すると三千八百石人持組に進み、財政再建を取り仕切ることになった。そこで倹約策のため新格を立て、軍用金を取り崩すのだがこれが批判を浴びる。延享二年に吉徳が脚気で卒するや、看病不行届として左遷・蟄居となった。三年後の寛延元年四月に五箇山配流となり、まもなく自刃する。小鳥の丸ぐり用小刀を使っている。藩の調べで牢内に刃物・衣類・金子の差し入れが見つかり、責任は役付きの者一同にかかってくる。牢番伝兵衛は刎首験し切りになり、入牢する者も出た。利賀谷村祖山村十村野原家二代伊右衛門も七年間入牢の末宝暦四年に役を罷免され、以後野原家は二度と十村役に就けなかった。
●今石動の文化人
・深山加右衛門(字孟明、陸渾、号壷峯)漢詩人、宝永元年~享保七年に今石動奉行篠島主馬清政の与力を勤めた後、金沢へ移住。 
・碓井次郎左衛門 文化頃漢詩人
・内山充積(字高仲、号壷谷)漢詩人 
・光願寺 十三世養宇円称(号芹山)和歌を能くし、伏木勝興寺二十三世土山沢映と歌会の交流がある。養子十四世徳称(号白南)は伊勢神宮神職の石部清直と杉井久重、京の国学者福田美楯に師事して、漢詩・和歌・俳句を学ぶ。元治元年六月七日和歌の会を催し、更に三日間で千首を詠み、愛宕神社に奉納した。石動小学校創立にも尽力した。子息十五世受称も和歌を能くした。 
・桂井順平 文政四年八月に生まれ、和歌を祖父久成と養宇徳称、華道を伯父久道に学ぶ。点茶にも通じていた。明治二十九年十一月乗光寺に歌碑が建てられる。五男健之助(号未翁)は俳人。 
・牧田一芳 今石動の野島屋与右衛門。天保八年六月に川原町に生まれ、金沢の大夢や雪袋に俳句を師事し宗匠となる。活花でも円盛斎海梁と号す。明治四十三年一月七十三歳で没。 
・太田信岑(号鳩石) 埴生の十村、後に戸長、村長。俳句を能くした。明治三十四年十一月没。 
・宮永以足(号笘露庵) 十左衛門の孫として下川崎に生まれる。大坂で篠崎小竹に師事し俳句を学んだ。養子に行き富樫孤平。 
・中島壮吾 宮永其園の子息、宮永良蔵の従弟で勤王の同志。中島正文は孫。
●碓井治郎左衛門顯古 
 今石動町の中島嘉平次の弟で、加賀国鶴来町碓井幸右衛門の養子になる。猪飼敬所に入門し、帰郷して家業を継ぐ。元治頃京の志士と信書を往復する。明治元年十二月十五日六十九歳で没。 
●源平合戦以前からの旧家瀬島家 
 小矢部には源平合戦以前からの旧家が現存し、鷲ケ島の瀬島家もその一つである。伝承では庄川堤に二軒あった家の一つだという。熱心な浄土真宗本願寺派の門徒で龍太郎(明治二~昭和二十二年)は明治二十二年第三師団歩兵第七連隊に一兵卒で入隊し、日露戦争では乃木第三軍第七師団兵站監部副官・少尉にまで昇進する。帰郷後は西砺波郡書記、若林村助役、松沢村村長(大正十四年~昭和九年)を歴任する。長男松男は市議会議員、三男龍三は陸軍中佐で関東軍参謀、シベリア抑留から帰国後は伊藤忠商事取締役等を歴任する。その岳父は二二六事件で岡田啓介首相の身代わりになった松尾傳蔵大佐である。(『瀬島龍三回想録~幾山河』平成七年、扶桑社等を参照) 
●童子手習教訓誓詞の条 
 先ず朝起きて機嫌よく手水をつかい目を覚し膳に居てよそみず菜の善し悪しき必らず小言申しまじきこと 
一、父母に時宜をいたし手習所へおもむくこと 
一、道すがら人の噂、雑談いたすべからざること 
一、戸障子あけたてあわたゞしく走り歩くこと 
一、我が席すわり行儀正しきいたすべきこと 
一、机によりかゝり筆の軸を噛み雑言いたすべからざること 
一、筆紙墨みだりに費やし白い手足衣装を墨にて穢すこと 
一、高声高笑不行儀にして身の居住をくずすこと 
一、師の掟を背き兄弟子の指図をもちいず我がのゝなること 
一、読書並びに手本の読み不心得にして片言まじりつまずくこと 
一、手本書物の読み日々復し習ひたかむべきこと 
一、相弟子のまじわり楽に言葉づかいきれいにて致し教え含むこと
一、そうじて物さわがしく喧嘩口論いたすまじきこと 
 但し、文字のたずね、謡、算術のさたはかくべつのこと 
 右の条、常に心かくべき第一、手習学問いたすべきものなり 時に文化六年巳正月 
[これには光西寺檀家むろや太右門の署名がある。同寺のものであろうか。] 
●小山家 
 福岡町土屋の素封家。祖は下野国小山小四郎朝政で、源頼朝に従う。室町時代に結城の乱に巻き込まれ土屋八日市嶋に逃れる。その後小矢部川西に移った。寛永八年三月二十一年に十一代目半兵衛が十村に任じられ、子息嘉兵衛の代まで務めた。藩政後期の素軒は高岡石堤長光寺雪象の門弟であり、学規を所蔵していた。手書きの習字手本が残されている(ただしこれが素軒自身の練習用である可能性もあり、寺子屋師匠には含めなかった)。 
●斉藤蔵摂(天保六年~明治三十五年)
 浄永寺住職経将の次男。幼い頃より漢籍の素読を学び、兄を助けて文久元年素読を教えた。更に宗学や漢学を能登でも講じ、明治四年私塾を開いた。 
●測量用方位盤の製作 
 石黒信由が考案した軸心磁石盤の改良型でバーニア目盛(三百六十度を細分化)付きであり、全国に三台(新湊、七尾、東京)あるが、少なくとも七尾と東京のは高岡で製作されたものであり、刻印からすると七尾のは錺屋清六の作である(新湊市博物館発表)。
●高岡町の小学校 
 東之…六年八月二十日極楽寺 
 中之…同年同月二十一日聖安寺
 南之…七年二月十日御貸屋跡 
 西之…同年六月十三日宗泉寺 
 北之…同年同月十八日法光寺 
 →統合 育英…八年三月
●高岡を訪れた詩人たち 
 文政四年大窪詩仏が金沢への往復の途次に立ち寄る。 同年冬稲毛屋山が詩仏を追い掛け来訪する。天保二年夏から秋まで浦上春琴(備前の人、名選、字伯挙)が片原横町広乾寺に滞在する。
●日尾家(立野) 
 清作(文政二年五月~明治二十二年四月、通称藤四郎、号梅圃)は十村手代、明治五年六月戸長になる。十七歳高岡で医術を学び、大聖寺藩儒坂井梅屋に儒学を学んだ後に金沢で藤田容齊に就いた。天保六年六月来訪した坂井梅屋より庭前の梅樹に因んだ号を授かった。また書は五十嵐篤好に就き、
俳句は南無庵分器の添削を受け、自らも和歌や俳句を懇切に教えたという。諸本を手写し、著書もあ
る。 
 清太郎(号温済)は謹厳を実践した人で、漢籍を金沢の藤田容齊に学び、後に大坂で藤沢南岳に就いた。更に書を巻菱湖の三体千字文で練習し、寝具の裏になぞるため裏地が破れたという。維新後に戸長、初代立野村長になった。後に貧窮児童就学奨励金二千円を寄付し基金とした。寺子屋を開いていた可能性があるものの、確証はない。
●氷見の俳人・漢詩人 
 有名な俳人には、元禄に阿尾の大沢六兵衛(号路青)、宇波の扇谷春太郎(号一扇)、海人、享保・元文に有磯庵拾貝(後に雲石坊懐龍)、源友(了然斎、江金堂)等、明和に南上町の日名田屋伊兵衛(号馬十)、文化・文政頃より新町の七尾屋小右衛門(周泰、布世丸)、湊町の紺屋伊左衛門(号六葉)、北八代の中村理助(号斗山、七窓)、中町の菓子屋安東瀬兵衛(号晴天、晴風)と同名子息(号青阜、紫東園)、中伊勢の医者北浦半次(可水)、天保頃よりに新町の松村屋神杢仁左衛門(号
済美)と同名の子息(号余慶堂熈斎)、弘化頃に南上町の高辻屋清八(号月守、月守庵野乙)、安政前後より稲積屋伏脇作兵衛(号晏如、柳翠、禾汀)と養子の弥三平(号旅伯)、中村屋長沢徳八郎(号梅笠、茶屋)と子息次右衛門(号和亭、二松庵)等がいる。また嶋尾家累代も俳句をし、佐左衛門(号米露)、佐太郎後に佐左衛門(号清湘)、三郎(号湘月)、鉄(号月弓)が有名である。田中屋権右衛門は月江の号で俳句、雪嶋の号で漢詩を詠んだ。墨絵や彩色の美人画も能くし、日記『応響雑記』は一級の史料。安政六年没。
 三代北越伊左衛門(天保六年~明治三十五年)、武内文右衛門、浅井浅右衛門の三人は有坂兵九郎に漢籍・書を学び、日名田長福寺住職籍明(通称二日様)に真宗と俳句の教えを受けた。その後床鍋村民に俳句を手解きしている。 
●広沢周斎の添削指導 
 弘化四年正月ヨリ明治十四年二月迄習字手本差出シ者男女合計五拾五名 
●廣沢小学校就学生徒心得 
 塾ニ於テ學業ヲ鍛冶セント生徒ハ教師之命令ヲ尊守シ、互ニ孫攘ヲ主トシ、苟モ争議ノ挙動アルベカラス、孜々勉強ニ学術ノ進歩セン事ヲ企望スヘシ 
 明治十年六月 
●石庭伝右衛門 
 中新村の肝煎。小杉小白石の石川一秀に嫁いだゑゐは、この家で四書五経を学んでいる。ただしこの村は天保四年家数九軒(折橋家文書)に過ぎず、寺子屋ではなく個人的な花嫁修業の一環と思われる。
●大島の文化人 
 浅井島村から北野村へ分家した十村折橋家小右衛門の孫小左衛門(後に甚助、由助、寛政三年五月四日~安政三年七月二十七日、号雄山、清狂)は京の浦上春琴に画を学び、花鳥風月を得意とした。師が来訪の折りは自宅に招いている。 南高木津田家分家の三代目長三郎(天保十一年~昭和三年)は二十代に隣村高木村石黒信基に算学・測量術・天文暦学を学ぶ。加賀藩による敦賀から琵琶湖までの運河掘削計画にも参画し、明治八年に伏木港の測量、二十七・八年に金沢から京都までの道路測量に携わった。子息雅之も東亜天文学会の創設に参画し、後年呉羽山に備え付ける四十二?天体望遠鏡を製作した。
●藤井右門直明(享保五年~明和四年八月二十一日) 
 父は小杉町津幡江屋吉平(元赤穂藩江戸家老藤井又衛門宗茂)。浅野家改易後に浅野大学に従い来越し、津幡江村宅助の許に寄宿する。その後宅助縁戚の小杉町金森八三郎の世話になり、同家付近に家を構えて津幡江屋吉平と称し、大手崎の赤江屋九郎平の娘を娶った。長男吉太郎は十六歳で上京して伊藤紹述に学び、剣を染谷正勝に入門する。富山藩主前田正甫第六子利寛の猶子として地下諸大夫藤井大和守忠義の養子に入り、直明と称した。正六位下大舎人、後に養父を嗣ぎ従五位下大和守に任じられる。竹内式部と交流していたため、宝暦の大獄で郷里に避難し、右門と変名して売薬行商を装い九州まで尊王思想を広めた。明和元年甲府から江戸へ入り、山県大弐と接触するが、同四年八月二十一日に梟首となる。享年四十八歳。
●下条屋の祖 
 本家は現新湊の渡辺家。正応頃に高岡から移住する。代々安兵衛を襲名した。二十二代安兵衛は本江村から入婿し、その四男が小杉に別家、五男安之助は放生津の片口屋を興した。 
●石川家 
 祖は南朝遺臣で河内国石川村石川義純で、子息義昌が北陸に逃れて牧野村に住む。昌一が下村大白石に転じ村役人になる。二十代目三郎右衛門は元和八年郡縮役、二代から六代まで十村を務めた。四代子息芳昌は小杉小白石に別家して代々医者を務める。七代から本家も医者になり、濟美を代々名乗る。天明三年に家を妹一家に譲って小杉新町に移り、御郡役所御用医師になった。次代に一時金沢へ移るが戻って医院を開く。大白石では又次郎が文政三年新田才許に任じられて以後、孫の代まで山廻役等を務めた。維新頃小杉新町の石川家では跡を継ぐ男子がなく、廃藩後に金沢から二十二歳の玉造小右衛門子息八三郎(号乾山、岸石、嘉永五年三月十日~大正十四年九月十四日)を婿養子とする。明倫堂に学び、二十一歳より医業の傍ら句読・漢学をも講じ、六年八月和親小学校でも教えた。正學寺に碑がある。明治二十四年七月に婦負郡長沢村数井氏の懇請で移住した。小白石の昌徹(号五柳園主碧波、丸々坊)は白石小学校を創立し、五男日出鶴丸(明治十一年~昭和二十二年、生理学者)は大白石の戸籍を嗣いだ。
●舘成章玄龍(寛政七年~安政六年、字君慶、号北洋)
 三箇三拾三ケ村に生まれ、舘芸陵の養子。十四歳で富山藩医大野玄格に学び、文化十一年華岡青洲の門に入る。江戸へ出るが、文政六年に養父の病で帰郷し、外科医として名が広まった。著書もある。孫が高岡上川原町木津家の哲二(明治二十二年~昭和四十三年)で、舘家に養子として迎えられる。鳥取・石川・東京で知事を歴任し、昭和十三年内務次官、二十二年富山県知事、二十六年参議院議員となった。 



越中国の寺子屋総論

2006-04-08 19:00:10 | 藩政期越中国の教育史
一、概要
民間の教育機関である寺子屋は、越中国でも藩政末期に数多く設立され、加賀藩も文政七年二月「御学政御修補に付、四民共御教導之儀は孝悌を先といたし候より外無之、凡人は先入主と成候而、幼少之折覚込候儀は其習生涯透り申ものゆえ第一蒙養を重んずる事に候」と達し、幼少教育の重要性を強調していた。町部はもとより郡部の住民は、仕事上の理由からも子供たちを熱心に寺子屋へ通わせていた。寺子屋といっても寺によるものは、だいたい主に他に開く師匠がいない地域で開塾するに止まる。師匠(私塾では先生、寺子屋では御師匠様)の職業は各地域の特徴と密接に関わり、寺子屋専業者は稀であった。それでは入塾から卒業までを眺めることにしよう。
?師匠選び
師匠を選ぶ基準を、当時の父母は師匠の人格・人望及び文字の筆法に置いていた。例えば砺波郡福田町(現高岡市)では寺子屋師匠が自筆の手本を各家庭に届け、父母は各手本の筆跡を比較しそれに師匠の人格も考慮に入れて決定し、後で師匠が訪問した際に返事をしたそうである。従って師匠には手本に誤りが無いよう、常に研鑽を怠らないことが大切であった。また七夕で飾った牡丹や菊等の造花を未就学児童に配りそれを受け取れば入門の意思と見做す、という地域もあったようである。
書流 は御家流が最も多く、他には持明院流等である。漢様(唐風)は稀であったが伝わっている。
?入塾
だいたい地元の有志が師匠であるため、採算や収支をそれほど重視せず運営しているため、父母の経費負担は少なく済んだ。入塾時には父母が子供を正装させ連れて行き、師匠に束修(物納可能)を渡すだけでなく、門弟には菓子類を配ることが常であった。謝儀は中元と歳暮の二回のみで、現金なら身分に応じ、物納なら白米一・二升や季節の野菜、魚などでよく、児童の糞尿という所もあった。寺子屋によっては別に畳料や炭料を納めた。師匠からは七夕や歳徳の手本を渡される所もある。 
入塾期は節句の翌日(三月四日、九月十日)が多く、男子は八・九歳から三~六年間在籍した。女子の就学者は男子より少なかったものの、九・十歳から三年間ほど寺子屋通いをしている。
また学則・学規を定めていた規模の大きいところも少なからずあった。
?授業
 師匠や地域により各々特長があるものの、概ね上級生が諸役に任じられて下級生を指導し、師匠は個々の学習進行状況を把握して課題を与え、激励した。
 まず仮名各種を覚えた後に往来物等の教科書
を用いて学ぶが、師匠が寺子一人一人に手書きで渡す所が多く、また広徳館などで開発・編纂した物も使われた。これは絵図入りで興味を引きつつ、教訓話(心学)・地理・歴史・手紙文等を文例に、書写させる事で道徳教育と実学を兼ねた学習が出来るように工夫されている。更に中には素読を取り入れたり、上級者に漢籍を学ばせた師匠もいた。素読では解釈を加えず、習字教材や専用教材でまず師匠か上級生が範読し、それから一斉に素読した後に、各自が上級生の指導の下に暗唱する、という方法がよく採られた。
 教材の進め方の一例をあげると、書写はまず仮名や数字・日記・名頭・町盡等から入り、国盡・商売往来・消息往来等へ進んで、実語教・童子教・千字文等で修了する。その後志望者へ四書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を、始業前後に行った。
 この他に算術(珠算)を取り入れていた所もあり、加減乗除を基本に、有志者には開平・開立、八算以上へも進んだ。だが専門の珠算塾に通わせる父母も多かった。
 寺子は寺子屋に硯・硯箱・筆墨・文鎮・水入・拭布・墨挟等を自分の文庫に入れて置いてあり、通学時には草紙・弁当・下足札・上履き・雨具等を持参した。教室は男女に分かれていて、一脚三人掛の机(当初は飯台を使用)を使用した。大規模な寺子屋であると、良い席を確保するため朝早く登校して書物を置き、一旦帰宅したそうである。
 授業は八時頃より四時頃までだが、以前や以後に選択科目として漢籍素読や算術または謡曲などを開講した。習字では一般に藤巻という太筆を使った大字が奨励され、紙は土市または山田紙を用いた。初学者は上級生が手を取って書かせ、次に爪の痕を付けながら指先で書き示し、やがて独力で書けるように誘導した。また家では灰書・小糠書で練習した。一通り練習を終えたら清書をして、合格したら次の手本へ進んだ。
 一例を示そう。富山四方の寳山堂でのある日である。朝は食事前に町内単位で集団登校して朝学習をする。定座役が机を並べ、検断役が硯、草紙、手本を並べさせ、水を注いで墨を磨らせる。ただ磨らせるのではなく、その間に名頭や村名を読ませる。やがて調べ役が「墨上げよ」と号令すると皆は手本を開いて草紙に書き出す。朝食の時間が来ると、早く登校した町内から先に戻ることになっていて、目付役が「一番町いかっしゃい」「二番町いかっしゃい」と呼び立てる。
 朝食が終わって再登校すると、師匠が「師匠はん」「シーシー」の声の中で登場し、調べ役が無駄な食物や不用品を持っていないかを調べる。そして授業が始まり、大学・論語・女大学の読みを習う者は前に出て教わり、手習いの者は長番が回り訂正したり、行儀を直す。昼食の時間になると、朝と同様帰宅するが、夏には水判という判を腕に押して帰す。それは水遊びをしたらすぐ分かるようにするためである。午後に戻ると入口の庭で、長番が判調べをし、消えていると帳面に付けられる。
 午後の授業は清書が中心である。書いたら師匠の所へ持って行き直される。そこで「上々也」「上々見事也」「大上々見事也」の評価であれば次へ進む。山田紙を六折り(商売往来や消息往来は八折り)にし、端に前の手本の末の字を書き、下に姓名、裏に月日を記して提出すると、師匠はこれに自筆で手本を書いて明朝に渡す。清書が終わると次は九九の練習になる。師匠か取締役が主唱し、一同が和して唱える。一通り終わると長番が「しまわっしゃいやー」と発声し、道具を文庫に入れて、机とともに周りに積み上げる。ここで女子は礼をして退出、男子は机を背にして座り反省会をする。中央に師匠が座り、両側に取締と長番が並んで、目付はその日に悪いことをした者がいたら帳面を差し出す。これを見た師匠は、灸や尻叩きなど罰 を与えることになる。この後謡曲を習って、挨拶をして帰宅する。
?行事
 寺子屋には一般に夏休み(七月六日から二十五日)と冬休み(十二月二十一日から翌年正月二十日)があり、中には終業日に「上り仕舞」と称して、未明に登校し蝋燭を点して手習いをした後で、夜明けに用具を納めて師匠の訓示を受け各自が文庫等を持って帰宅する、という所もあった。なお、郡部では農閑期や夜間に集中して学習する場合が多かった。
 七夕の行事は多くの地域で盛大に行われている。桐の葉に文字を書いて供え、夜川に流して書道の上達を祈った。また献灯や字懸 などをする地域もあった。竹には短冊の他に牡丹・菊・菖蒲の造花や御殿・山等の模型を、女子も衣紋を作って吊し、胡瓜や茄子などを山のように供え、太鼓の伴奏で七夕の歌を唄い、町も夜中まで賑わった。
 五節句には清書の審査会があり優秀順に張り出された。正月には床の間の天神像や軸の前で試筆し、左義長の火に投じて上達を祈願した。また地域の神社で祭礼がある時には清書を奉納した。高岡では四月二十五日に関野神社境内の天満宮祭礼、富山では浄禅寺の天満宮(現於保多神社)の祭礼、放生津では曼陀羅寺の祭礼、砺波郡では水島(現小矢部市)の天満宮の祭礼等である。
 菅原道真命日の二十五日には、毎月天神祭りを行う所もある。寺子の家庭は三十文ずつ賽銭を出し費用に充て、正面に幕を張り天満宮の絵を掲げ、神酒・鏡餅・菓子等を供え、寺子の席書(清書)を張り出す。師匠から訓話を聞き、その後で一同は神酒や草団子などを分け合い帰宅した。
 これらの行事は師匠と寺子の親睦会を兼ねている。天満宮の祭礼には、三~五文の謝礼を各家庭から師匠が受け取るが、昼食会の費用に充てられている。節句ごとにも各人二~五文の謝礼をする場合があるが、煎餅を寺子に配ることで返礼とした。地域差はあるが、行事があるたび師匠は寺子と会食するのが常であった。
?試験
 寺子屋の中には、毎月晦日に習熟しているかどうかを確認するため、「つごもり」というその月に学習した内容を試験する所もあった。ただ一般的には師匠が個々の寺子の到達状況を把握して、進度を決めていた。
 また清書などで高い評価を受けた時は、父母が同門に生菓子等を配る程名誉な事であった。
?役付
 寺子は長幼や能力で役付けされ、新入生や下級生の面倒を見た。名称は長番・取締役・目付など寺子屋によって異なるが、授業準備から寺子の指導、懲戒まで万端を取り仕切った。
?卒業
 就学年限には特に決まりはないが、ほぼ三~五年で課程を修了するか、家庭の事情で中途卒業になった。その時には父母が出頭して在学中の礼を述べ、同門一同に挨拶した上で子供を引き取り帰宅した。
二、寺子屋統計
 『日本庶民教育史』(乙竹岩造編)という大著がある。ここには大正四年六月より六年六月にかけ、全国で寺子屋教育経験者にアンケート調査をした結果が載っている。調査は、アンケート用紙を友人知己に託す・全国各男女師範学校最上級生徒が長期休暇で帰省の折りに三日を割いて調査してもらい回送してもらう、という方法で行われた。ただし調査の際は男は男の古老、女は女の古老に当たるものとし た。配布数は一万二千余り、その内回収できたのは男二千五百四十人分・女五百五十人分の計三千九十人分であり、内訳は師匠及び補助者八十三人・寺子三千七人である。この中の富山県分は、天保より明治までの師匠男四人・寺子男五十四人と女十人で、別に一つの寺子屋から十人の報告があったがこれを一つとして数えている。
アンケートの富山県分をグラフ化したものを最後に史料として示した。



●書風
 御家流は和流の一派であり、青蓮院尊円法親王創始の青蓮院流が江戸時代に大衆化したものと伝えられる。公文書の書体であった。
 持明院流も和様書体であり、室町時代の持明院基春の流派といわれる。
 写真は佐々木志頭磨
●寺子屋教科書
 端手本、名頭、商売往来、村名附、消息往来、千字文、国盡、町盡、実語教、諸證文、書翰文、寺子教訓書、庭訓往来、文章規範、童子教、農業往来、名物往来、宿駅名、銭日記、米日記、定書、加越能往来、熊谷状、百人一首、女今川、女大学、四書五経、大学、唐詩選、孝経、十八史略、蒙求、唐宋八家文 等
 ※五経とは易経・詩経・書経・礼記・春秋のこと。
 寺子屋手本
●字懸
 短冊を付けた大竹を押し立て太鼓で囃したてて村を通行すると、饗応される時もある(文化以前は富山町でもあった)。一行は通行中に「字懸」の声がかかると「やろう」と応じ、文字クイズを出された(大の字の上に一字を冠すると何という字になるか、等)。もしここで答えられなければ小旗を折られたり奪われたりし、答えられると師匠の評価が上がり入門者も増えたという。
●罰則例 
 食止 昼食なし
 留置 放課後も残って勉強
 鞭撻 竹竿で鞭撻
 謹慎 師匠の座傍で正座 
 掃除 教場や便所の掃除 
 破門 放校処分 
 警告 家庭に通知し訓戒
 他には、直立・線香を持って直立・席上直立・縄縛・灸・筆や文鎮をくわえる、といったものもあるが、実際は留置がほとんどで、打ったり縛ったりは極めて稀、よほどの者には筆や文鎮をくわえさせた。



藩政期越中国の教育史

2006-04-08 18:57:48 | 藩政期越中国の教育史
■開講にあたって
 幕藩政下、日本人はよく勉強しました。大人も子供も、武士も庶民も、僧侶も神主も、藩校・郷学・私塾・寺子屋・学塾へ通っていました。それは武士にとっては学問することが出世の糸口であり、子供たちにとってはこれからの生活の知恵を身につける場であり、大人たちにとっては楽しみでもあったのです。また当時の学問は儒学倫理に基づいているところから、指導層の自覚を促し、心学を通じて商人の倫理観を高め、農業の改良を促進しました。そして町においては文化の成熟と自治意識の高揚へと導き、幕藩政末期の動乱期でもさして動揺しない自信を持つにいたったのです。
 指導者にいくら教養があっても、庶民になければ国に活力が生まれないことは、世界史を覗けば直に分かること。その点わが国は違っていました。幕藩政末に欧米から訪れた外国人の多くが知見し、驚きを日記に書き残しています。単に識字率が高いだけではない、文化と教養の深さが、やがて迎える明治の御世での富国強兵・殖産興業推進へ大いに寄与したことは言を待ちません。そこから充実した社会生活の前提が物質文明ではなく、精神文化にあることを認識させられます。これは現代を生きる私たちが、ともすれば忘却しがちになることであるようです。
 この講座では富山県の藩政期から明治初年に盛んであった藩校・郷学及び民間の教育活動について扱います。膨大な史料を駆使した先行研究者の努力に敬意を表しつつ、従来の調査ではともすれば大元の文献が同一である傾向があるため、重複や脱漏がある箇所、誤字脱字がそのまま複写され続けていることを鑑み、今回改めて予断を排して文献・論文を再吟味し、所在地に足を運び、原史料を読み直してみました(尤もいまだ不完全であり、今後の継続調査は必須です)。
 富山県は教育県といわれて久しいのですが、実態は虚であることも少なくありません。ですが藩政期の越中国は確かに教育が行き渡り、町人文化が成熟し、郡方でも冬季間や夜間の集中学習が行われていました。この講座でそのことを理解していただければ幸いです。
 末筆ながら、厄介な文献照会に協力していただいた図書館の方々、突然の電話や訪問にもかかわらず快く応じていただいた関係者の御子孫の皆樣に、心底より御礼申し上げます。
■注記
 ● 文中の用語の使い方、使用した漢字、句読点などは、原則として引用した文献に合わせました。
 ● 使用文献は、全講座の最後に一括掲載し、直接引用した史料のみ適宜表示しました。
 ● 文中の年月日は旧暦を使用しています。