表ブログ(笑)に書いた通り、「あゝ厚木航空隊」という本を今日読み終わったのですが、その中にちょっと興味深いエピソードがあったのでこちらで紹介します。ちょっと長いです。
厚木航空隊GJ!
小園が横浜刑務所に移される数日前(引用者注:小園元大佐が大津海軍刑務所から横浜刑務所に移送されたのは1945年11月1日)、ここでちょっとした事件が起こった。
というのは、東京警備隊に軟禁されていた岩戸中尉たち二十名の士官は、軍法会議で判決を受けたあと、全員が横浜刑務所に収容されていたのである。
岩戸、宮木、中井、犬丸、中原ら、獄舎につながれた士官たちは、端然と座禅を組み、瞑想の日を送っていた。
獄舎には、一般の受刑者も多数おり、喧噪をきわめたが、士官たちの悠容たる態度は異彩をはなち、
「さすがは、厚木航空隊の精鋭だけのことはある。立派なものだ」と、看守や受刑者たちを感歎させた。
この横浜刑務所に、進駐軍物資を闇流しして、MPに捕らえられた数十人の朝鮮人グループがいた。
日本の敗戦によって解放され、いっきょに戦勝国民になったような優越感をとりもどした彼らは、獄舎においても傍若無人に振舞っていた。
仲間から差し入れさせた酒を飲み、罐詰を開け、朝っぱらから歌をうたい、わめきちらして、勝手放題の真似をしている。看守が注意をしようものなら、
「てめえっち、戦争に負けたくせに、でけえ面するな。もういままでとはちがうんだぞ。おれたちは戦勝国の国民だ」と、大見得をきり、看守が運んだ食事を廊下に投げつけ、あげくのはては打つ蹴るの乱暴を働いた。
そのころの日本人は敗戦のショックで意気消沈し、腑抜けみたいになっていた。だから、朝鮮人グループの乱暴狼藉ぶりにも手をやいて、遠くから眺めるだけのていたらくだった。
隠忍自重していた厚木組の面々は、目にあまる彼らの無軌道ぶりに、ついに堪忍袋の緒をきった。
「おい、やつらを叩きのめして、日本人の骨のあるところをみせてやろうではないか」
平素おとなしい中井が、最初に口火をきったから、みんな「やろう」と立ち上がった。
「あんな外道ども、まともに相手にするのもいまいましいが、あとあとのことがある。やつらの鼻っ柱をへし折ってやる」
看守を説き伏せ、無法者を獄舎の中庭へひっぱりだして、壮絶な肉弾戦がはじまった。
相手側は、ざっとみても四十人はいた。数においては圧倒的に優勢だった。こっちは量では劣勢であるが、兵学校や大学で鍛えぬいた柔道、空手、剣道の有段者ぞろい、一騎当千の猛者ばかりだから、勝負ははじめからわかっていた。
腰車、大外刈り、体落とし、あの手この手でコテンパンに叩きのめし、俵でも積むように庭の隅に折り重ねたからたまったものではない。
下積みになったやつは、「アイゴウ」「アイゴウ」と、声を上げて、泣きだす始末だった。
この大乱闘いらい、さすがの無法者グループも、すっかり鳴りをひそめてしまった。
厚木航空隊GJ!
「アイゴウアイゴウ」にワロタ(w
この本が最初に刊行されたのは1971年、著者は関係者だった元軍人に何度も取材をしてこの本を書いています。それから30年以上経った今となってはもう書けないでせうね。(´・ω・`)
いずれにしろ犯罪者のやってることですから、すべての朝鮮人の気分を代弁したものではないでしょうが、少なくとも、後の出自の怪しい在日の方々とは違って(^_^)由緒正しい方たち^^;ですから、それなりのうっぷんはたまっていたでしょう。
例の「嫌韓流」の扱われ方を見れば判る通り、いま正面切って朝鮮民族批判をするのは難しいですが、ネット上にはその手の言説があふれかえっているのも確かで、やがては「電車男」みたいに非アングラな存在になるかもしれません。しかしいざそうなったとき、わが日本国民が冷静な態度を保てるかどうかがちょっと心配です。
まあ、ちうごく暴動への反応を見る限りでは、この国もずいぶん成熟したものだと思いましたが。
火がついたときの日本人の怖さをいちばん身にしみて知っているのは彼らでしょうから。なんだかんだと言っても戦前のニッポンはメチャクチャ強かったし、現在の国力は当時をも遥かに上回ってますからね。これでかつてのメンタリティを取り戻したら、とんでもなく強力な軍事国家になれます^^;
もっとも、ちうごく共産党にとってはそのこと自体みずからの正当性の証明になっているわけで、実は自分たちこそ日本軍の十倍以上に及ぶ自国民を虐殺したのだという事実を、なんとかして糊塗したいのでしょうね。
ちうごく人が数字を大きく見せたがる、ってのも、漢詩で『白髪三千丈』とか言ってるうちは教養の範囲ですが、日本軍による被害者数がどんどん増えるのはホント困りもんです。日本政府もきちんと反論せにゃならんというのに、こんな時に総選挙ときたもんですよ。(~。~;)ウウム
土下座外交に逆戻りすること必定の民主党政権だけは勘弁して欲しいですな。
僕は実際大陸に行っていた叔父などから日本兵の暴虐ぶりなども聞いており、中国人が日本人に抱く感情もわからないではないですが、そうしたものと政治的プロパガンダとははっきり区別しないと、いずれそんな嘘にはだまされない自国民から裁かれることになります。
ついこの間の天安門事件追悼集会では、中国人の間からさえ、日本人に謝罪を求める前にまず政府が犠牲者に謝罪しろ、等というスローガンが出ていましたからね。天安門事件の犠牲者など、文革から比べれば比較にならない程度の数でしょうが、いずれ歴史学者が本格的に文革の傷跡を掘り起こしたとき、たぶん共産党政権の命脈は尽きるのでしょう。
なにしろあのポルポトすらかわいく思えてしまうほどの犠牲者数ですから、真実が暴れたら何ごともなく過ぎるはずがない^^;
でもそうやってミクロな視点に陥ってしまうとまさに『木を見て森を見ず』になるわけですから、プロパガンダに踊らされないよう常に“森を見る”ことを忘れないよう心がけることが大切ですよね。
というわけで、最近は先の戦争中に日本軍に殺されたちうごく人民は5000万人に膨れ上がったみたいですよ。ちうごく人の言う日本との戦争の期間が、1931年の柳条湖事件を発端とした満州事変からなのか、1937年の蘆溝橋事件を発端とする日華事変からなのか、実はよく知らないのですが(迂闊!)、そのどちらからにせよそこから1945年の日本の敗戦までの15年間ないし9年間で一人当たり50人。これくらい殺せるだろ、ってちうごく人なら言うでせうね。(~。~;)