須崎市・大善寺に参拝しました。
高台にあるので、海岸よりからは良く目に付きます。
駐車場から登るのが大変ですが、足の不自由な人のためにモノレールがつけられていました。
四国別格二十霊場第五番札所、四国三十三観音霊場第十四番札所で、「二つ石大師」や「ぼけ封じ観音」として信仰されている。
石段を登りきった境内からは、鐘楼越しに、須崎湾を眺めることができる。
[八月十九日大師まつり]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』:大善寺(だいぜんじ)
大善寺(だいぜんじ)は高知県須崎市に所在する高野山真言宗の寺院。山号は高野山。本尊は弘法大師。別名は須崎高野山、二つ石大師。四国八十八箇所霊場番外札所、四国別格二十霊場第五番札所、四国三十三観音霊場第十四番札所。
須崎市街地の南西端にある丘陵に位置する。丘陵の下に大師堂があり、階段を登った丘陵上に鐘楼、本堂、本堂に併設して納経所がある。
伝承によれば、現在寺院がある丘陵は須崎湾に突き出た岬であった。ここには「波の二つ石」と呼ばれる二つの巨石があった。ここを通る際には、通常は丘陵を越えて通行していたが、干潮時は二つ石の端を通行していた。しかし、ここは「土佐の親不知」とも呼ばれる難所で突然の大波にさらわれる海難事故が絶えなかった。この岬は霊峰・石鎚山の南端に当たるとされ、不浄の者がここを通ると怪異に出会い難に遭うのだと言われた。
平安時代前期の弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が42歳の時、四国霊場開創のため巡錫中に須崎を訪れた際この話を聞いた。空海はここで海難死亡者の菩提を弔い交通安全を祈願した。その後、ここに大師堂が結ばれたとされている。やがてこの大師堂は「二つ石大師」と呼ばれるようになった。
二つ石は長年の波涛で周囲に土砂が堆積し陸地となった。昭和初期には防波堤が造られ、現在、二つ石は土中に埋まっている。
この寺院の名は、土佐藩の豪商・美濃屋が江戸時代後期の文化12年(1815年)に編纂した『南路志』に記録されている。元々、寺院の名称は八幡山明星院大善寺と言い、大和国(現在の奈良県)長谷寺の僧坊・小池坊の末寺であったと伝えられている。当時の本尊は阿弥陀如来で、元来は現在地より東寄りの古市町にあった。しかし、宝永4年(1707年)の宝永地震による津波で流され、城山の麓に移ったとされている。地震以前は末寺17ヶ寺を従える大寺であったと伝えられている。
明治時代になると廃仏毀釈により、明治27年(1894年)に廃寺となった。廃寺となったことを惜しむ信徒により、2年後の明治29年(1896年)現在の地に寺院が復興された。
平安時代前期の弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が42歳の時、四国霊場開創のため巡錫中に須崎を訪れた際この話を聞いた。空海はここで海難死亡者の菩提を弔い交通安全を祈願した。その後、ここに大師堂が結ばれたとされている。やがてこの大師堂は「二つ石大師」と呼ばれるようになった。
二つ石は長年の波涛で周囲に土砂が堆積し陸地となった。昭和初期には防波堤が造られ、現在、二つ石は土中に埋まっている。
大師の精神深く根付く:別格第五番・大善寺
奈良県の和州長谷寺の末寺として弘法大師が開山。1707年の宝永地震の津波で流され、古城山のふもとに移築。廃仏毀釈で1894年に廃寺となるが、96年に現在地に再興。二つ石大師とも呼ばれる。毎年8月19日に大師祭。毎月21日の「大師の日」には護摩供養があり、大師堂の大師像を拝顔できる。「ぼけ封じ観音」も信仰を集める。
須崎市西町1の2の1。(電)0889・42・0800。
HN:参拝者