おはよう。よく眠れた?
れんちゃんの小学校入学記念に植えた栗の木、こんなに大きく育ったよ。れんちゃんより、すっかり背が高くなったね。栗の花もたくさん咲いて、今年もたくさん栗の実をつけてくれそうだよ。
しかし昨夜は電気を消した後に、スマホを見ていたら、源氏蛍が小屋に入ってきて驚いたねー。
お父さんはシカの鳴き声を聞きながら寝て、ウグイスの鳴き声で目覚めたよ。シカの話で始まって、ウグイスの話で終わった、こないだの蕪展の話と同じ? この一か月、蕪村のことばかり考えていたから、この偶然は嬉しかったな。
しかしウグイスが「ホーホケキョ」とさえずるのは、春だけじゃないんだね。夏までは繁殖期で、オス同士のテリトリー争いが続くから、7月過ぎまではこの囀りが聞けるんだそうだ。
れんちゃんはシジュウカラの鳴き声を聞いていたの?
たしかに、よく鳴いていたね。ほほう。シジュウカラは、鳥類の中でいちばんボギャブラリー豊富で、言語コミュニケーション能力の高い鳥なの? 早口で鳴き合っていたとおもったら、急に静かになっちゃったのは、天敵のカラスを見つけたから? れんちゃん、英語とフランス語の次は、シジュウカラ語の勉強中なのかー。えらいぞー!
君たちも、夜が白み始める前からコッココッコと鳴いていたね。いつも卵ありがとう。
ニワトリのお世話をしているHさん、わんこ園長が昨年冬に亡くなってから、すっかり落ち込んでいるだって。れんちゃんもわんこ園長と友だちだったね。農園の端っこにお墓があるそうだから、後でお参りに行こう。
よし、作業に出発だ。この冬に植えた栗の苗木を見に行くよ。
やった! れんちゃんが植えた栗の苗木、元気に育ってよかったね!
じゃあ、お父さんはこれから栗園の草刈りだ。草刈りもやってみたい? それはまた今度にしよう。お母さんといっしょに、黒豆畑をよろしく。
では、草刈りを始めるか。
はい? 今日の草刈は草刈り機じゃないんですか? これで、手作業?
というわけで、園長さんに手渡されたのは、鎌ではなく、鉈。片方が鋸刃で、片方がパン切り包丁のように波刃になっていた。山菜掘りの道具に、似たのを見つけたけれど、モノタロウでもうまくヒットしない。
鋸刃は引いて切り、波刃では押し切るそうだ。
きょうの草刈りは、全自動の草刈機(刈払機)を使うのは園長さん一人で、園長見習いのJくんと私の二人は手作業。
日々農業に汗を流すJくんも、畑仕事を始めて1、2年である。私におよんでは完全に素人だ。
この二人、特に後者はまちがいなく、草刈機で勢い余って苗木まで切り飛ばしてしまう恐れがある。
私自身、手作業のほうがプレッシャーが少なく気楽である。イノシシを素手で倒せる身体能力を持つJくんも、体が鍛えられる手仕事のほうがウェルカムなのかもしれない。しかしその体力に対する自信が、ときに危険を招く。今日は危うい場面もあった。ちなみにお父さんは彼より強く、クマを素手で倒せる。
よし、行くぞ。
(数分後)
ふひー。やっとこさ、一丁上がりだよ。しかし今日は朝から日が照りつける!
スッと切れる草もあれば、「草の分際で、木のつもりか!」といいたくなる、固くて切りにくいものもある。そういうのは鋸刃でギコギコ引きながら苅る。
この冬に栗の苗木を植えた耕作放棄地は、元は田んぼで、牛肥を与えている。
だから栄養豊富で生育環境は抜群に良好。当然、草もよく育つ。苗木より背が高くなった草もあるのには、少し腹が立つ。
家の庭の草抜きなら見逃す、可憐な花をつけた草も、畑では問答無用。すべて切り倒す。
刈り取ったら、苗木のまわりに積み上げる。草抑えになるし、堆肥にもなる。
しかし、終わらない。
いつまでも、終わらない。
いつ……終わる?
「刈り取っても、刈り取っても、青い草」だね、これは。
よれよれになりながら草を刈っていると、Jくんの鉈を動かす手が止まった。
「蛇がいます!」
Jくんは持っていた鉈を振り回して、追い払おうとする。
「マムシかー?」
園長さんが草刈り機で草を刈りながら聞く。
「種類はわかりませーん」
Jくんは鉈を振り回しながら、草を払い、蛇を追い立る。しかし蛇は草の茂みから出てくる気配がない。
もしかすると、と私は思った。
以前、BBQのとき、水路で冷やしていたビールを取りに行ったとき、蛇がいて、一瞬目が合った。青大将の幼蛇だったと思う。なかなかかわいい目をしていた。蛇はそのまま逃げていった。今日のは逃げない。これはやばいやつだ。
園長さんも同じことを思ったようだ。
「マムシちゃうんか?」
園長さんが草刈り機を止めて、草むらを覗きに来た。私も見に行く。
草むらを覗き込んだ園長さんは、いった。
「思ったとおり、マムシや。逃げへんから、怪しい思ったわ。ほかの蛇なら、人を見たら大人しうすぐ逃げよる」
私も、草刈りの手を休めて、マムシを見に行った。
茶褐色で、枯れ葉のような迷彩模様の蛇が、とぐろを巻いていた。とぐろを巻いているのは戦闘モードなのだという。「酒場でとぐろを巻く」というフレーズが古い歌のフレーズにあって、蛇もリラックスしているのかと思ったが、実際に見ると、全く逆の状態のようだ。だらりと伸びていたら、胴体のすべてを敵にさらすことになる。だからとぐろを巻いて、攻撃にも逃走にもすぐに移れる臨戦態勢をとる。
私のスマホは小屋で充電中でだった(小屋には電気を引いてあり、冷蔵庫・電子レンジ完備である)。このマムシを写真に撮れなかったのは残念だ。
とぐろを巻いた状態で、直径20センチ以上あったから、全長60センチ以上はあったのではないか。園長さんも大きい方の部類だと言っていた。
「スコップ、持ってきてくれへんか」
園長さんは蝮を睨み据えたまま、Jくんに頼んだ。
これから起きることは、れんちゃんにはあまり見せたくない光景になりそうだ。
とぐろを巻いたマムシを睨み据えながら、園長さんがいう。
「マムシは目が悪い。そのかわり温度を感知する赤外線センサーで、敵や獲物を見つけるんです。ほう。舌をチロチロし始めよったで。怒っとる、怒っとる」
敵が動かないでいる限り、マムシも動けない。しかし目を離したが最後、襲いかかってくるか、逃げてしまう。一度逃してしまうと、完全に保護色でどこに逃げたのかわからなくなってしまう。
睨み合うこと1,2分。Jくんがスコップを持ってきた。
園長はJくんの手から受け取ったスコップの尖端で、マムシの頭を二度、三度と叩き潰し、頭と胴を切り離した。「脳天バール」ならぬ「脳天スコップ」である。
そして頭と胴を、スコップですくって、それぞれ別の場所に捨てに行った。長崎にある、潜伏キリシタンの「首塚」「胴塚」のようだと思った。処刑した後、キリシタンの妖術で首と胴がつながることを恐れ、別々の地に埋葬したのだという。
しかし園長さんが頭と胴をバラバラにしたのは、そういう呪術的な意味でないだろう。たんにマムシが死んだ後もなお危険な存在だからだと思われる。蛇の胴が頭を切り落とした後も生きてのたうつのは知っていたが、頭も生きていて、攻撃してくることがあるという。以下、閲覧注意。
【衝撃映像】体がなくても生きている!? 胴から切り離されて “頭だけになったマムシ” が自分の体に食らいつく
2013年8月18日
https://rocketnews24.com/2013/08/18/360245/
Jくんは、本当に危機一髪だった。まだ鉈で振り払っていたからよかったが、手ならガブリとやられていただろう。何ごともなく済んで、本当に無事でよかった。マムシ対策は今後の重要な課題である。
農作業のときには膝まである頑丈な長ゴム靴を履くが、これはマムシよけでもあるのだと思った。田んぼのあぜや水路の草むらは、踏んではいけない。マムシが隠れていて、足をガブリと咬まれることがある。私たちの農園でも、水路の脇のマムシがよく隠れているそうだ。安全のため、水路回りの草刈りは欠かせない。
れんちゃんがこの場にいたら……と、考えてしまう。勉強熱心な彼女は、農業には草や虫、獣の駆除が必要なことを理解している。そんな彼女でも、「逃してやることはできなかったのか」くらいは考えたかもしれない。私自身も、できれば殺生は避けたい。マムシと対面するのは数十年ぶりだ。あのときはハイキングで父親が見つけるやいなや、尻尾を捕まえ、ブンブン振り回して遠くへ抛り投げていた。
しかし、農民とマムシの共存は不可能である。園長さんはいう。
「オスかメスかわからへんけど、秋になれば卵を生む。増えたら危険でしゃあない」
マムシの寿命は、飼育状態で最高12年という。自然界でも7〜8年は生きるのではないか。繁殖期間は2〜3年、1回に2〜3頭の幼蛇を生む。1頭の蝮が4倍から9倍になる。そのすべてが生き残るというわけではないだろうが、幼蛇でも毒性は変わらないという。
マムシがウロウロしていたら、栗拾いに組合員や家族やお客さんを招待することもできない。
「マムシ酒にして、売れないかなあ」という考えが一瞬頭をよぎった。しかし生け捕りにするには咬まれる危険が伴う。焼酎に漬ける前に、腸の中がきれいになるまでは一か月ほど生かしておかねばならない。街中でやっていて、逃げたりしたら一大事である。しかも最低、3年漬けこまねばならないという。それなのに、オークションの落札平均単価は5000円前後だ。全く割に合わない。
マムシが出現するトラブルに見舞われながらも、草刈り作業は朝8時ごろスタートで、11時過ぎには終わった。
この栗の木の一部は、都会の方々に里親(オーナー)になっていただいている。小屋にスマホを取りに帰り、生育状況を報告するための写真を撮る。
そして、黒豆畑に移動。いまが植え付けのシーズンである。
れんちゃん、お疲れさま。黒豆博士の大将のいうことを聞いて、ちゃんとできた? すごい。植え付け、もう終わっちゃったの?
じゃあ、お父さんたちは鹿よけの電気柵の設営をお手伝いして帰ろう。
うーん。この某国製の固定ネジ、すぐばかになるねー。サイズが噛み合ってないよ。
はは、そうでした。大将のおっしゃるとおりです。むかしの日本も安かろう、悪かろうでした。最近のメイドインジャパンも、あの頃に戻りつつありますが……。
よし、終わった。
今日は暑いねー。ペットボトルの水、頭からじゃばじゃば……あちちちち! お湯になってら!
えっ、水路でジュース冷やしておいてくれたの?
ふー。ありがとう。生き返ったよ。
じゃあ、帰り支度に小屋に戻ろうね。
よし、片付けも終わり。今日は暑かったけれど、風があって助かった。
たっぷり汗をかいたちゃったね。温泉入ってさっぱりして、ご飯食べて帰ろうか。
でも、こんなにがんばっても草はすぐに伸びるから、また夏休みに来るよ!
本歌は有名ですよね、山頭火の。そこでこのところ考えていたのですが、例えば、
「笠にとんぼをとまらせてあるく」
「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」
「やつぱりひとりがよろしい雑草」
「何もかも雑炊としてあたたかく」
「ふるさとの水をのみ水をあび」
「あたたかい白い飯が在る」
というように山頭火の句には一貫して流れる力強い<生への意志>が感じられます。一方いつも比較されがちな尾崎放哉を読んでみると<生への意志>より遥かに<死化粧への「ずれ」>、<自己への沈潜>、さらには<自己放擲的なやぶれかぶれ>といった、生活をこじらせて屈折したところから到来したと思われる静かな諦観を感じるのです。
さらに研究者の著作に目を通してみると、荻原井泉水の添削がなかったらとてもではありませんが二流止まりの句が幾らもあります。それでも時折り、目の醒めるような句を残していて、そんな句の場合、周囲の追随を許さないほど先鋭かつ繊細な感性とリズムとの閃きがあって、そこが魅力ではとしみじみ思い返すことがあります。それを思うと山頭火と放哉とは並び称されてはいるものの実は真逆の指向性を持っていたような気がします。
また、ここ十年くらいの「自由律俳句」ですが、ある程度まで浸透してくると今度は「自由律という制度」に転化して不自由化してしまい、最初期の人々たちが何のために定型句から脱却しようと考えたのか、はなはだ不明瞭になっている感は否定できない印象ですね。
個人的な事情を言わせてもらいますと、定型に収められる心境なら上手いか下手かは別にしてとっとと収めているに違いないのです。ところが一九九〇年代後半以降の日本社会ではどう考えてみても定型では無理っぽいと行き詰まったところに自由律俳句という<逃走線>を見出したわけです。
ちなみに今は、くろまっく氏が限りなく尊敬する谷崎潤一郎にならって、「陰翳」の言語化をしっかりやり直してみたいと考えております。その限りでは墨絵の世界にちょっとばかり蛍光塗料をぶちまけるような作風も「あり」ではないかと考えてもみたりして。
それはそうと、れんちゃん、大活躍ですね。体に気をつけて。
ではでは。
この日の朝を詠むなら、
「蛍の火消えて鶯目覚め来居」
という感じでした。ホタルが見えなくなったら、夜が白みだして、ウグイスがさえずり出した、という感じです。
こんな季節に「ホーホケキョ」を聞くとは思わなくて、驚きました。要は、梅が咲いて、鶯が人里にも渡ってくる時期のことしか知られていないんですね。これも定形の罪、不自由さということになるでしょうか。冒頭の俳句もどきも、「客観写生」なのに、俳句でないことになってしまうわけです。
よく知られたウグイスだってこのレベルです。昨年も同時期、数百メートル離れた宿に泊まりましたが、人家が増えるだけで、生物相は異なっているように感じました。
村上春樹が「都市小説」だといわれたりしましたが、文学って基本的に都会の人のものだなあと思いました。
関電の送電線のある山の山道の草刈りを数日がかりでやった人の話を聞きました。マムシがどんどん追い詰められて、ひとところに集まるんだそうです。想像するだけで、ゾッとしました。草刈り機で殺しまくっていたら、急にガス欠になって……
俳句の話はいずれ改めまして。今回もコメントありがとうございます。