手垢のついたメモ帳

ヤクザが出家して、障害者福祉に従事。必死に歩いた過去の懺悔帳?

久しぶりの更新

2009年07月30日 | Weblog
ここ半月ほど、夏風邪を引いてしんどい日が続いた。

別に、同居人の彼女が若いからと、裸で寝ていたから風邪を引いた訳ではない。

暑かったり、急に雨が降って気温が低い日が有ったりで、体温調整が乱れたのだと思う。

熱発はなかったが咳がひどくて、結局病院にかかってしまった。

5日分の投薬を受けて服用したが、まだ多少咳はでる。

それにしても、子供の頃は雨に濡れることも汗でベタベタになることも苦ではなかったが、

大人になるとどうして濡れることが不快に感じるのだろう?

むろん人によるとは思うが、普通は大部分が汗をかいたり雨で濡れることを嫌う。

慣れの問題なのかも知れない。

スポーツや肉体労働をする人は、汗は避けてはおれない。

しょっちゅう汗をかく環境・状態ならばそれが普通となり、

苦ではなくなるのだろう。

そう言えば、俺の人生にしたところで、他者から見れば「苦境」であっても、

当人の俺にしてみればその「苦境」が当たり前で、

人が思うほど苦しさを感じなかった時期もあった。

今になって振り返れば「よくあんな苦しさを乗り越えることが出来た」と

思うことも少なくない。

結局、幸・不幸に限らず、人は何事にも慣れて「当たり前」になってしまうのだろう。

それは進歩とか成長と捉えるべきか、はたまた惰性感と考えるべきか?


案外、「防御反応」の一つかもしれないが。

ともあれ、人はどんな環境に置かれても「慣れる」生き物だ。

そしてさらに、その「慣れた環境」は変わらずに継続すると勘違いする生き物だ。

諸行無常を失念するから不平不満が生じ、

自分で自分を追い込むのだろう・・・。

寂しさを知った日は

2009年07月15日 | Weblog
ある人と話していたら、彼は俺に「子供の頃から(寂しかった)でしょう?」

と言った。

振り返ってみたら、子供の頃は「寂しい」などと考えたこともなかった気がする。

寂しいなどよりも、「どうやって生きていくか、目の前の空腹を満たすか」

に追われ、寂しいなどと考える余裕さえなかった。

当時の俺の置かれた状況を考えれば、絶対に寂しかったはずだがそんな記憶がない。

むしろ、大人になって妻を持ち、子供が居るにもかかわらず指名手配で逃げ回り、

見知らぬ旅先で独り寝の夜の方が、寂しさの記憶として残っている。

これは多分、「妻」とか「子供」とかを知ったから感じた寂しさだったと思う。

ガキの頃家出して、神社の床の下や他所の家の犬小屋に潜り込んで寝た夜でさえ、

闇の中での恐怖はあったが、寂しさはなかった気がする。

少年院や刑務所も、周りに必ず他の収容者が居るから一人ではないが、

しかし、基本的には自分しか居ない環境だ。

それでも孤独ではあったが寂しくはなかった。

そして、その孤独にも慣れていたと思う。

しかし今、振り返ってみると本当の「寂しさ」という感情を知ったのは最近の気がする。

まぁ、そうは言っても俺は「いつ、何が起こるか判らない」と考えているから、

いつでも覚悟は持っている。

つまり、いつでも自分を棄てる覚悟、投げ出す覚悟を・・だ。

人は皆、それなりに生きるために頑張るが、それは裏返せば死ぬために頑張っているとも言える。

呪詛を呟きながら逝くか、微笑んで黄泉に向かうかの違いはあるが、

何れにしても人は「死ぬために生きる」のは間違いない。

産まれるために宿り、生きるために産まれ、そして死ぬために生きる。

命のバトンを次々につなぎながら・・・。

それは、どんな命も共通なのだから、できれば「寂しさ」とか

「孤独」といった言葉を知らないままで終われたら幸せなのかも知れない。

う~む、もしかしたら知らないままは不幸なのだろうか?

せっかく生まれたのだから、幸、不幸の様々な彩り模様を知った方が

人生お得とも、考えられなくもない。

いったい、どっちなんだ!!


ふるさとは 遠きにありて 2

2009年07月09日 | Weblog
湯布院名物?の霧がたなびく翌日の早朝、露天風呂で身体を目覚めさせ、

再び車で大分に出発した。

やまなみハイウェーを経由するつもりだったが、それでは別府周りで遠くなる。

そこで国道210号を走ることにした。

周辺の山の緑を眺めながら走ること1時間あまりで大分市内に入った。

大分に向かった目的は、俺が幼年・少年期を通じて辛い時代を過ごした家を見たかったからだ。

その家がまだ有るとは思っていなかったが、とにかく行ってみたかった。

ところが、その近くまでは行けたのだが何処がその家の場所かが判らない。

何度もぐるぐると同じ場所をまわって、結局昔から有った自転車屋を見つけ、

そこで俺が育った家の場所を訊いてみた。

中から出てきたおっさんが、俺の顔を見るなり「あんた、○○ちゃんじゃない?」

と、俺の子供の頃の呼び名で訊いてきた。

「うん、そうだけど・・・」と、俺。

俺を覚えていたのだ。

むろん、俺の顔が子供の頃とあまり変わっていない事もあるだろう。

しかし、それほど俺の子供時代の印象が深かったという事だろう。

まぁ、近所では色々な意味合いで有名な家ではあったのだが。

「兄ちゃんが居ただろう?」と訊くので、

前夜、湯布院で20年ぶりに会った事を話した。

そのおっさんは、俺より2歳くらい上で近所でも頭の良い子だったが、

普通のおっさんになっていた。

俺とは、どうだろう・・・50年ぶりくらいの顔合わせだろう。

それでもお互いが覚えているのだから凄いものがある。

隣近所の事も尋ねてみたが、もうほとんどが転居したり空き家だったりしていた。

さらに驚いたのが、俺の家が有った場所は駐車場になっていたが、

「こんなに狭かったのか!」と思うほどに小さな土地だった。

そして、家の前の道はそれなりの道幅だったと記憶していたが、

実際はなんと狭い道路だったか・・・。

すぐ近くの「火の見やぐら」も、俺の家から若干離れていた記憶だったが、

その自転車屋に聞いた場所は、家の目の前とも言うべき距離だった。

むろん、「火の見やぐら」はとっくに撤去されたらしい。

俺が車を停めると、他の車が通れないほど狭い道の街。

さらに、通った小学校も中学校も家からすぐの所に在った。

学校の場所は昔から変わっていないそうだから、

やはり大人になってからと子供時代との距離感が違っていたのだ。

それにしても、今回の旅行はほろ苦くて懐かしい旅行だった。

ふるさとは 遠きにありて

2009年07月08日 | Weblog
九州旅行に行ってきた。

羽田から長崎へ。

長崎空港からレンタカーでハウステンボスへ。

特段の記事ネタはなかった。

というか、書くことがないのがネタといえばネタだった。

二日目。 長崎平和公園へ。

そこで、あの公園の敷地にはかつての「長崎刑務所浦上支所」の

跡地が含まれていることを知った。

原爆投下地点から1キロ足らずに位置し、当時の収容者と看守、

看守の家族が暮らす官舎に居た人達のすべてが即死だったという。

長崎平和公園や浦上天主堂は知られていても、

彼の地が刑務所の跡に作られたことは、あまり知られていないことだろう。


その後、湯布院に向かう。

http://blog.goo.ne.jp/kurara_77/e/d984e951865b2eacb0c3e945a7825777

http://blog.goo.ne.jp/kurara_77/e/28b8a5da2ae532a756ad257705b6821f


上記に書いた「兄貴」に会うのを兼ねて、湯布院温泉に向かったのだ。

20年ぶりに会う兄貴は、見違えるほどに老けていた。

ということは、俺も歳を取ったのだろう。

昔の話しを肴に酒を酌み交わしながら、

20年の月日を埋めていった。

俺はこの兄貴には頭が上がらない。

実質的には10年足らずの一緒の暮らししかないが、

非行を重ねる俺に、随分と良くしてくれた。

少年院や刑務所に収容されるたびに、差し入れや金の無心をしたが、

兄貴はすべて聞きとどけてくれた。

佐賀少年刑務所を出所するときは、身元引受人にもなってくれた。

俺とはまったく血縁はないのだが、気持ち的には「二人きりの兄弟」だ。

20年・・・・。

産まれた子供が成人するほどの時間会っていなかったが、

そして、血の繋がりは全くなくても、やはり俺達は「兄弟」のままだった。