今日はいつもよりさらに「長文」だ。
しかも、多くの読者にとってめちゃくちゃ「イタイ」文章であり「ドンびき」間違いなしの文章だ!
さぁ、思いっきり「ひいて」人生を無駄にするか、真剣に受け止めて考え直すかはあなた方の自由だ。www
■はじめに
20世紀の末は、日本では様々な悲劇的な出来事が起こった。
たとえば「地下鉄サリン事件」。要するに「オウム真理教」のこと。
こういった団体に若者たちが惹きつけられていく構造について、様々な分野の専門家が思い思いの説を語った。
そして、今は21世紀初頭。私がまだ小学生だった頃、夢のような未来の象徴であった21世紀になっても、ちっとも夢のような世界にはならなかった。あの頃、21世紀的な建造物の象徴でもあった丸っこい高層建築とその間を縫うように走る高速道路もなければ、ビルの間を飛び交う自家用の飛行体を目にすることもない。小学生の頃とほとんど変わることのない角張った建物の間で増えていったのは、自己保身に走る歪んだ心の人々の数だけのような気がする。
■偽物の“協調性”
私は「変わるということ」という記事の中で、“漫然と集団に埋没することなく「個人(individual)」として力強く生きること”を主張したが、その主張に基づいて生きる私を「協調性がない」と評する人が少なからずいるのを知っている。その中のある者は「ルールに則ったコミュニケーション」を主張するのだが、そういう主張をする人に限って、本人は日常的・常習的に(信号無視、スピード違反、自動車運行中の携帯電話機の使用などの)ルール違反を繰り返しているばかりでなく、「ルール作り/ルール遵守」の意味すらわかっていないことのほうが(経験上)多いのだ。
そもそも、「ルール」というものは厳密には「協調」とは馴染まない別次元の社会調整原理だ。
「ルール」という発想は、思想的にはトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソーの系譜に属する「社会契約論」的な近代合理主義の系列に属する思想との親和性が高く、原則としてまず合理的な判断に基づいたルール作りを先行させ、それに違反する者を処罰する権限を包括的に国家に与え、それを条件に「人権」が保障されるという形で国家による庇護を獲得するというものだ。
一方「協調」という発想は、古くはアダム・スミスの唱える“神の見えざる手”に委ねる自由主義的な系譜の思想であり、今日的な理論体系で言うならば「ゲーム理論」、あるいは経済学の世界で言うならば「シカゴ学派」の思想(競争、コンフリクト、応化(妥協や協定や隷属、カストや階級の形成)、同化の過程によって秩序形成過程が説明される)に近い。日々のトライ&エラーにより相手方との間のあり方に修正を加えることで「事前の合理的ルール設定なしに」対立を回避していくというものだ。
この対比に間違いがないとするならば、「ルールに則った協調」というのはありえないことになる(ここで私が述べた「ルール」「協調」についての考え方は一つの思考実験レベルのモデルに過ぎないという主張を容れることはできるにしても)。
■現代的“いじめ”の文化
そもそも、最近私が接する機会の多い「『協調』を主張する人々」の多くは、私の世代より若い「学校内での深刻な『いじめ』」に直面してきた世代のようである。
私の得ているデータに間違いがなければ、ここでいう「学校内での深刻な『いじめ』」というのは、それ以前の時代で使われている「いじめ」という用語法とは本質を異にしているようだ。
従来の「いじめ」の場合は、「いじめられっ子」は(それを判断する「いじめっこ」の側の判断に合理性がないことが多いにせよ)あくまでも「いじめっこの判断」がもとになって「いじめ」を行なうという構造になっていた。しかし、昨今の「いじめ」はむしろ「生贄」と呼ぶうにふさわしい状況だ。基本的に、「いじめ」のターゲットは、「自分がいじめられる側になりたくない」という集団的な意思のもとに作り上げられる。そして、その「いじめ」(実態は「いじめ」というより陰湿な「虐待」に過ぎないのだが)のターゲットである「いじめられっこ」は「いじめられっこ」の側の個性そのものよりも、「その『いじめられっこ』を「いじめ」のターゲットにすれば利益を得られる人間」の数によって決定されているのだ。「いじめられっこ」というより「スケープゴート」ですな。
そして、そのような現代的“いじめ”の文化の下で育った人々は高校も大学も卒業するようになり、「学校」やこどもたちの「ご近所」だけではなく、社会のあらゆる場所で「現代的“いじめ”」を繰り広げるようになった。もともと個人的主観による人事・査定が行なわれ、「派閥」といった形での歪んだ人間関係を形成しがちであった民間企業の中でそれが起こると実に悲惨な結果を生むことがある。JR西日本の福知山線の事故はその一つのあらわれに過ぎない。報道の間から垣間見られるのは「構造的『いじめ』」だ。前述の「学校内での深刻な『いじめ』」とその基本構造は何一つ変わっていない。
■そして、“ひく”という姿勢
だから私は、JR西日本の福知山線の事故が発生した時期に、このことはJR西日本だけの問題ではないとあるブログのコメントの形で主張した。ところが、そのブログの多くの読者からは「ひく」という奇妙な反応が返ってくるだけで、問題の本質については誰も気づいてはいないようだった。
この「ひく」、その強調形の「ドンびき」、別の形の表現でもある「イタイ」というのがこの頃ネット上で多数見かけられる。私のこのブログを読んでいる人々の多くは、必ずこの表現を使って私のことを評していることが容易に想像できる。ひきたければ勝手にひいてもらって構わない。その言葉の奥に「構造的に潜んでいる歪み」と私が考えている問題がなければね。
でも、この“ひく”という姿勢の奥にある「『いじめ』の構造」によって、自殺者が大勢出ているわけだし、事故という名に矮小化された「必然」によって電車の中や駅のホームや燃えさかるビルの中で大勢の人が死んでいるわけだから、いつまでも「ひいて」いてもらっては困る。キミたちの“ひく”という姿勢によって(必ずしも直接ではないにせよ)結局巡り巡ってキミたちの生き方の被害に遭っているんだから。
...さて、ここまでちゃんと読んできた人は何人かな?
学生時代に書いてた「論文」と比較すると超短文なのだけど、やっぱり「キミたち」には長すぎたかな?
さて、この次はとっても軽~いエンタテイメントについての文章を短く書いてみようか!
しかも、多くの読者にとってめちゃくちゃ「イタイ」文章であり「ドンびき」間違いなしの文章だ!
さぁ、思いっきり「ひいて」人生を無駄にするか、真剣に受け止めて考え直すかはあなた方の自由だ。www
■はじめに
20世紀の末は、日本では様々な悲劇的な出来事が起こった。
たとえば「地下鉄サリン事件」。要するに「オウム真理教」のこと。
こういった団体に若者たちが惹きつけられていく構造について、様々な分野の専門家が思い思いの説を語った。
そして、今は21世紀初頭。私がまだ小学生だった頃、夢のような未来の象徴であった21世紀になっても、ちっとも夢のような世界にはならなかった。あの頃、21世紀的な建造物の象徴でもあった丸っこい高層建築とその間を縫うように走る高速道路もなければ、ビルの間を飛び交う自家用の飛行体を目にすることもない。小学生の頃とほとんど変わることのない角張った建物の間で増えていったのは、自己保身に走る歪んだ心の人々の数だけのような気がする。
■偽物の“協調性”
私は「変わるということ」という記事の中で、“漫然と集団に埋没することなく「個人(individual)」として力強く生きること”を主張したが、その主張に基づいて生きる私を「協調性がない」と評する人が少なからずいるのを知っている。その中のある者は「ルールに則ったコミュニケーション」を主張するのだが、そういう主張をする人に限って、本人は日常的・常習的に(信号無視、スピード違反、自動車運行中の携帯電話機の使用などの)ルール違反を繰り返しているばかりでなく、「ルール作り/ルール遵守」の意味すらわかっていないことのほうが(経験上)多いのだ。
そもそも、「ルール」というものは厳密には「協調」とは馴染まない別次元の社会調整原理だ。
「ルール」という発想は、思想的にはトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソーの系譜に属する「社会契約論」的な近代合理主義の系列に属する思想との親和性が高く、原則としてまず合理的な判断に基づいたルール作りを先行させ、それに違反する者を処罰する権限を包括的に国家に与え、それを条件に「人権」が保障されるという形で国家による庇護を獲得するというものだ。
一方「協調」という発想は、古くはアダム・スミスの唱える“神の見えざる手”に委ねる自由主義的な系譜の思想であり、今日的な理論体系で言うならば「ゲーム理論」、あるいは経済学の世界で言うならば「シカゴ学派」の思想(競争、コンフリクト、応化(妥協や協定や隷属、カストや階級の形成)、同化の過程によって秩序形成過程が説明される)に近い。日々のトライ&エラーにより相手方との間のあり方に修正を加えることで「事前の合理的ルール設定なしに」対立を回避していくというものだ。
この対比に間違いがないとするならば、「ルールに則った協調」というのはありえないことになる(ここで私が述べた「ルール」「協調」についての考え方は一つの思考実験レベルのモデルに過ぎないという主張を容れることはできるにしても)。
■現代的“いじめ”の文化
そもそも、最近私が接する機会の多い「『協調』を主張する人々」の多くは、私の世代より若い「学校内での深刻な『いじめ』」に直面してきた世代のようである。
私の得ているデータに間違いがなければ、ここでいう「学校内での深刻な『いじめ』」というのは、それ以前の時代で使われている「いじめ」という用語法とは本質を異にしているようだ。
従来の「いじめ」の場合は、「いじめられっ子」は(それを判断する「いじめっこ」の側の判断に合理性がないことが多いにせよ)あくまでも「いじめっこの判断」がもとになって「いじめ」を行なうという構造になっていた。しかし、昨今の「いじめ」はむしろ「生贄」と呼ぶうにふさわしい状況だ。基本的に、「いじめ」のターゲットは、「自分がいじめられる側になりたくない」という集団的な意思のもとに作り上げられる。そして、その「いじめ」(実態は「いじめ」というより陰湿な「虐待」に過ぎないのだが)のターゲットである「いじめられっこ」は「いじめられっこ」の側の個性そのものよりも、「その『いじめられっこ』を「いじめ」のターゲットにすれば利益を得られる人間」の数によって決定されているのだ。「いじめられっこ」というより「スケープゴート」ですな。
そして、そのような現代的“いじめ”の文化の下で育った人々は高校も大学も卒業するようになり、「学校」やこどもたちの「ご近所」だけではなく、社会のあらゆる場所で「現代的“いじめ”」を繰り広げるようになった。もともと個人的主観による人事・査定が行なわれ、「派閥」といった形での歪んだ人間関係を形成しがちであった民間企業の中でそれが起こると実に悲惨な結果を生むことがある。JR西日本の福知山線の事故はその一つのあらわれに過ぎない。報道の間から垣間見られるのは「構造的『いじめ』」だ。前述の「学校内での深刻な『いじめ』」とその基本構造は何一つ変わっていない。
■そして、“ひく”という姿勢
だから私は、JR西日本の福知山線の事故が発生した時期に、このことはJR西日本だけの問題ではないとあるブログのコメントの形で主張した。ところが、そのブログの多くの読者からは「ひく」という奇妙な反応が返ってくるだけで、問題の本質については誰も気づいてはいないようだった。
この「ひく」、その強調形の「ドンびき」、別の形の表現でもある「イタイ」というのがこの頃ネット上で多数見かけられる。私のこのブログを読んでいる人々の多くは、必ずこの表現を使って私のことを評していることが容易に想像できる。ひきたければ勝手にひいてもらって構わない。その言葉の奥に「構造的に潜んでいる歪み」と私が考えている問題がなければね。
でも、この“ひく”という姿勢の奥にある「『いじめ』の構造」によって、自殺者が大勢出ているわけだし、事故という名に矮小化された「必然」によって電車の中や駅のホームや燃えさかるビルの中で大勢の人が死んでいるわけだから、いつまでも「ひいて」いてもらっては困る。キミたちの“ひく”という姿勢によって(必ずしも直接ではないにせよ)結局巡り巡ってキミたちの生き方の被害に遭っているんだから。
...さて、ここまでちゃんと読んできた人は何人かな?
学生時代に書いてた「論文」と比較すると超短文なのだけど、やっぱり「キミたち」には長すぎたかな?
さて、この次はとっても軽~いエンタテイメントについての文章を短く書いてみようか!
それはさておき、世の中には「出る杭は打たれる」と考えている人間が多くなっていることは疑いようがない。みんなスケープゴートにはなりたかないからね。
以前、「ゴーマニズム宣言」でも取り上げられた通りで、協調ではなく同一性のみを拠り所にした社会になって来てるってことだろうね。
一応友人として忠告しとくが、かような社会でこのような文面は確実に反感を持たれるよ、、、。まぁ、分かってて半ば挑発的に書いてるんだろうから、これ以上はいわないがね。
この文章を非難(断じて批判ではない)する人間も多かろうが、体制変えるなら真ん中にいなくちゃいけないのだよ。
もはや特定の「○○について」に限らず、かなり根本的なところで社会全体の歪みが極大化していると思ってるのでね~。
ちなみにこれでも、15年前に比べたらずいぶん丸くなったんですよ。これでもね(爆)。私の主張を若い頃のようにストレートに書くと、文章表現としてはもっと的確だがもっと刺激的なキーワードが並ぶことになるのですよ。そんなキーワードを徹底的に省いたのがこの文章です。