今回の主題は、志貴皇子の「ムササビの歌」にこめられた寓意です。ムササビの歌は、志貴の歌八首のなかで三番目にでてきます。最初にムササビの歌をもってきてもいいのですが、志貴がどんな歌をつくっているのかを知っていたほうが、ムササビの歌の理解に役だつと思います。それで、ムササビの歌の前に、万葉集に最初にでてくる歌を鑑賞していきます。
万葉集に最初にでる志貴皇子の歌は、「采女の袖吹きかへす明日香風 京を遠みいたづらにふく」というものです。
宮殿が藤原京へ遷ったあとの明日香のたたずまいを詠っています。いまは明日香にいない采女のあでやかな風情が目にうかぶようです。素晴らしい歌ですが、高く評価されるいっぽうで、否定的な評価もあります。
万葉集の入門書とされる『万葉秀歌』は、斎藤茂吉と久松潜一のものがあります。久松はこの歌を秀歌として取りあげていませんが、茂吉は秀歌に入れています。その茂吉の評を紹介して、歌を具体的にみていきます。
[万葉秀歌]斎藤茂吉
「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬風、佐保風、伊香保風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址なって寂れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然とこうなったのものであろう。采女の事などを主にするから甘くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは楽に解釈して好い。
茂吉は、志貴皇子の歌を「精厳」として評価していますが、いっぽうで批判的な評価も紹介しています。歌で「袖ふきかへす」と現在形になっているのおかしいので「袖ふきかへしし」と過去形にすべきだという指摘です。
この指摘は、時制に混乱があるというものです。志貴が明日香を詠ったときは、すでに京はなく、袖を吹きかえす采女もいなかった。志貴がみた采女は過去の記憶なのだから、現在形を使うのはおかしい、過去形でなければ整合しない、というわけです。
歌だから、それくらいの矛盾はかまわない、とも思いますが、これは志貴皇子の歌の特徴のようです。ムササビの歌でも、この認識のズレがでてきます。そのとき取りあげますが、頭に入れておいてください。
◆雅な女性の袖を吹きかえす明日香風
歌をみます。万葉集にでる志貴皇子の歌で、最初のものは、巻一の五一番歌です。とても雰囲気のある歌で、ほんわかとした色気を感じさせます。じっさいは裏にどろどろしたものを秘めているのかもしれませんが、すてきな歌です。
[万葉集]巻一の五一番歌
明日香宮より藤原宮に遷りし後、志貴皇子の作る御歌
○采女の袖吹きかへす明日香風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く(巻一 51)
うねめの そでふきかへす あすかかぜ
みやこをとおみ いたづらにふく
「采女のあでやかな袖を吹き返していた飛鳥の
風だのに、京が藤原に遷ってしまったので、
今ではただ虚しく吹くことだ」
京もむかしとなった明日香のたたずまいを詠っています。
題詞です。「明日香宮より藤原宮に遷りましし後、志貴皇子の作りませる御歌」とあります。この歌は、巻一の藤原宮に宮殿がある表題のなかにあります。明日香から遷宮したのが藤原京です。藤原宮に宮殿を置いた天皇は、持統、文武、元明の三人です。この歌は藤原へ遷宮してそれほど時間が経っていないと考えられるので、持統天皇の時代と思われます。題詞もそれを裏づけます。
歌本文の「采女」は、宮中をはなやかにいろどった女性たちです。(後宮)職員令に「采女は地方の少領の姉妹、子女のうちの容姿端麗なる者」と規定されています。仕事は、宮中での雑用を担当しました。いっぱんの宮廷人にとっては、まばゆい存在だったようです。采女は天皇の女ということで、男子が関係をもつことは許されませんでした。
「袖吹きかへす明日香風」、そのまばゆいばかりの采女の着物の袖をひらひらさせる明日香風、これだけでとても優雅な雰囲気になります。明日香風は、明日香に吹く風です。
このフレーズだけでは、采女の袖が吹き返すのを目の当たりにしている印象です。それだと、京は藤原に遷っても、明日香にも一部はのこっていたことになりますが、実景ではなさそうです。風はともかく、采女の袖がひらひらするのは想像です。
「京を遠みいたづらに吹く」、筆者は遷宮後間もないころに、飛鳥へいったようです。そこには宮廷人が賑やかに動き回っていたのに、いまはだれもいない、ただ風だけが吹いている。そういった情景を詠っています。
◇訳です=「采女のあでやかな袖を吹き返していた飛鳥の風だのに、京が藤原に遷ってしまったので、今ではただ虚しく吹くことだ」
(20130104 つづく)
万葉集に最初にでる志貴皇子の歌は、「采女の袖吹きかへす明日香風 京を遠みいたづらにふく」というものです。
宮殿が藤原京へ遷ったあとの明日香のたたずまいを詠っています。いまは明日香にいない采女のあでやかな風情が目にうかぶようです。素晴らしい歌ですが、高く評価されるいっぽうで、否定的な評価もあります。
万葉集の入門書とされる『万葉秀歌』は、斎藤茂吉と久松潜一のものがあります。久松はこの歌を秀歌として取りあげていませんが、茂吉は秀歌に入れています。その茂吉の評を紹介して、歌を具体的にみていきます。
[万葉秀歌]斎藤茂吉
「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬風、佐保風、伊香保風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址なって寂れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然とこうなったのものであろう。采女の事などを主にするから甘くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは楽に解釈して好い。
茂吉は、志貴皇子の歌を「精厳」として評価していますが、いっぽうで批判的な評価も紹介しています。歌で「袖ふきかへす」と現在形になっているのおかしいので「袖ふきかへしし」と過去形にすべきだという指摘です。
この指摘は、時制に混乱があるというものです。志貴が明日香を詠ったときは、すでに京はなく、袖を吹きかえす采女もいなかった。志貴がみた采女は過去の記憶なのだから、現在形を使うのはおかしい、過去形でなければ整合しない、というわけです。
歌だから、それくらいの矛盾はかまわない、とも思いますが、これは志貴皇子の歌の特徴のようです。ムササビの歌でも、この認識のズレがでてきます。そのとき取りあげますが、頭に入れておいてください。
◆雅な女性の袖を吹きかえす明日香風
歌をみます。万葉集にでる志貴皇子の歌で、最初のものは、巻一の五一番歌です。とても雰囲気のある歌で、ほんわかとした色気を感じさせます。じっさいは裏にどろどろしたものを秘めているのかもしれませんが、すてきな歌です。
[万葉集]巻一の五一番歌
明日香宮より藤原宮に遷りし後、志貴皇子の作る御歌
○采女の袖吹きかへす明日香風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く(巻一 51)
うねめの そでふきかへす あすかかぜ
みやこをとおみ いたづらにふく
「采女のあでやかな袖を吹き返していた飛鳥の
風だのに、京が藤原に遷ってしまったので、
今ではただ虚しく吹くことだ」
京もむかしとなった明日香のたたずまいを詠っています。
題詞です。「明日香宮より藤原宮に遷りましし後、志貴皇子の作りませる御歌」とあります。この歌は、巻一の藤原宮に宮殿がある表題のなかにあります。明日香から遷宮したのが藤原京です。藤原宮に宮殿を置いた天皇は、持統、文武、元明の三人です。この歌は藤原へ遷宮してそれほど時間が経っていないと考えられるので、持統天皇の時代と思われます。題詞もそれを裏づけます。
歌本文の「采女」は、宮中をはなやかにいろどった女性たちです。(後宮)職員令に「采女は地方の少領の姉妹、子女のうちの容姿端麗なる者」と規定されています。仕事は、宮中での雑用を担当しました。いっぱんの宮廷人にとっては、まばゆい存在だったようです。采女は天皇の女ということで、男子が関係をもつことは許されませんでした。
「袖吹きかへす明日香風」、そのまばゆいばかりの采女の着物の袖をひらひらさせる明日香風、これだけでとても優雅な雰囲気になります。明日香風は、明日香に吹く風です。
このフレーズだけでは、采女の袖が吹き返すのを目の当たりにしている印象です。それだと、京は藤原に遷っても、明日香にも一部はのこっていたことになりますが、実景ではなさそうです。風はともかく、采女の袖がひらひらするのは想像です。
「京を遠みいたづらに吹く」、筆者は遷宮後間もないころに、飛鳥へいったようです。そこには宮廷人が賑やかに動き回っていたのに、いまはだれもいない、ただ風だけが吹いている。そういった情景を詠っています。
◇訳です=「采女のあでやかな袖を吹き返していた飛鳥の風だのに、京が藤原に遷ってしまったので、今ではただ虚しく吹くことだ」
(20130104 つづく)