異説万葉集 万葉史観を読む

日本書紀の歴史に異議申し立てをする万葉集のメッセージを読み解きます。このメッセージが万葉史観です。

万葉集があばく 捏造された天皇・天智

2013-09-25 | 日記

 ◇新現役ネットの異説万葉集が出版されます


 新現役ネットの文化講座「異説万葉集」が本になりました。『万葉集があばく 捏造された天皇・天智』のタイトルで、10月5日に大空出版から発売されます。大きな書店では店頭に並びますが、店頭に並ばない書店もあります。

 上下2巻で、内容は次のようになっています。


・上巻

 序章 万葉コードは誘う
  1 万葉集と万葉史観
  2 原万葉集の成立
  3 万葉集が狙いうつ中大兄
  4 編集が連動する万葉集と日本書紀
  5 養老五年の万葉集
  6 二種類あった万葉集
  7 改ざん日本書紀を読みとく万葉コード

 1章 天智東征を詠う
  1 中大兄と倭三山歌
    ◇中大兄を皇子とみとめない日本書紀
    ◇東征に失敗した中大兄
    ◇時代順にならぶ巻一冒頭歌群
  2 時代順にならぶ巻一冒頭歌群
    ◇書紀の記事に連動する倭三山歌群
  3 筑紫の「秋山われは」
    ◇万葉集の季節と方角
    ◇倭は酸っぱい葡萄の天智天皇
    ◇壬申の乱の「金」は西、「赤」は南
  4 天智を拒否する三輪山の雲 ………………………………………………………………… 100
    ◇十八番歌左注の皇太子と称制天智朝
  5 天智をコケにする紫野
    ◇額田王をめぐる三角関係で読みとく
  6 額田王の歌は別に四首あり
    ◇万葉史観へいざなう額田王

 2章 中大兄皇子、不在の証明
  1 中大兄と皇位継承のライバルたち
    ◇繰りかえされる天皇なり損ね
  2 乙巳の変の真実
    ◇皇極朝の皇太子は古人大兄?
    ◇皇子でないのに皇太子
  3 大化に天誅くだすは蘇我蝦夷
    ◇青龍、西へ馳せる
    ◇天誅下すは蘇我蝦夷
    ◇暴きたてる『扶桑略記』
  4 蘇我本家を称揚する孝徳朝
    ◇詔から消えた用明、崇峻朝
  6 ねつ造された古人大兄一族殺害
    ◇『続紀』が否定する中大兄謀反事件
    ◇古人謀反共犯者の信じられない後日譚
    ◇古人殺害を認めない『藤氏家伝』
  7 重なる古人大兄と大海人皇子
    ◇古人、大海人の出家は同一記事



・下巻

 3章 斉明七年の皇太子二人
  1 皇太子が二人いた斉明朝
    ◇巨大水時計をつくった皇太子
  2 斉明七年に皇太子がわたりり歩いた宮殿
    ◇斉明七年の皇太子二人
  3 筑紫に宮殿をおいた称制天智
    ◇称制天智紀から消えた蝦夷
    ◇蝦夷を討伐し続けた阿倍比羅夫
    ◇筑紫大宰帥の正体
  4 宮殿をうつす「遷」、うつる「移」
    ◇遷宮の代用とされた「移宮」の作為

 4章 『善隣国宝記』は語る
  1 書紀改ざんをあばく『善隣国宝記』
    ◇称制天智の勅は「筑紫太宰の辞」並み
  2 日本書紀と対立する文献の扱われ方
    ◇書紀 vs『国宝記』、これまではどちらに軍配?
  3 飛鳥京へ行けなかった唐使
    ◇『懐風藻』の中の劉徳高
    ◇天智十年の舞う皇太子

 5章 長屋王と万葉史観
  1 長屋王の栄光と敗北
    ◇大伴旅人の無念
    ◇親王長屋の敗北
  2 歴史を創作した不比等
    ◇不比等の官製史観 vs 長屋王の万葉史観
    ◇養老年間の元正朝
  3 歴史改ざんを修正する『類聚歌林』
    ◇中心メンバーは山上憶良
  4 万葉史観の仕組み
    ◇書紀書きかえの手口
    ◇旧唐書と一致する万葉史観

 終章 権威を疑う
  1 天智天皇と大島
  2 海のない畿内倭に大きな島
  3 鏡王女と額田王は姉妹か?
  4 無批判に引き継がれる権威の説



 上下ともA5版各250ページ、各1400円
 大空出版 101-0051
      東京都千代田区神保町3-10-2
      共立ビル8階
      03-3221-0977
      http://www.ozorabunko.jp/ozora/




 ◇内容の一部を紹介します 



   正実を違い、虚偽を加う

朕れ聞きたまへらく、「諸もろの家の賷(も)てる帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虛僞を加へたり」。今の時に當たりて、其の失(あやまち)を改めずは、未だ幾(いく)ばくの年も經ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の經緯、王化の鴻(こう)基(き)なり。故(かれ)、惟(おも)ひみれば、帝紀を撰び錄し、舊辭を討(たづ)ね覈(きは)め、僞(いつは)りを削り實(まこと)を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。

 古事記の序にでる天武天皇の言葉です。ここで天武は、自分がふれることのできる歴史書が、正実にたがえて、虚偽を書きくわえているといっています。天武朝につたわる歴史資料が真実を反映していないと認識していたことになります。
 それなら、天武天皇がみずから聞いたとする「虛偽」とは何をさしているのでしょうか。天武じしんが虚偽と判断しているのですから、天武が真偽を確認できる時代の歴史だったはずです。天武から、それほどとおい過去ではないでしょう。すくなくとも、神武や応神、継体朝といった大昔の歴史ではありません。それならいつでしょう。
 天武が生まれた推古朝? それとも直前の天智朝?
 いずれにしろ、天武の言葉は改ざんされた歴史の修正宣言です。その天武の計画は日の目をみません。天武のあとをついだ持統天皇と藤原不比等によってほうむりさられたからです。しかし、天武の思いはひきつがれていました。それが万葉史観です。


 
  万葉集と万葉史観

 万葉集は日本最古の歌集として、ふるくからしたしまれてきました。素朴に、おおらかに、日本人の心が詠われています。万葉集には季節の自然を詠みこんだ歌や、親子の情を吐露した歌など、今の日本人が読んでも心うたれるものが数おおくふくまれます。もちろん、素朴で、おおらかだけではありません。近代的な感性につながる先進的な作品もあります。
 七世紀の中ごろから八世紀の中ごろまでの、いわゆる万葉の世紀の歌を中心に四千五百首を二十巻にまとめた歌集、それが万葉集です。
 これら作品は純粋に文学作品として鑑賞するものとされてきました。たしかに、万葉集は日本を代表するすぐれた文学作品です。千二百年以上もむかしに生きた大(おお)伴(ともの)家(やか)持(もち)の感性は、いまを生きるわたしたちの心にひびいてきます。
 と、ここまで書いて、何かひっかかります。ここに書いたことが、万葉集の説明としておおきくはずれているということはありません。それでも気になります。ここにある万葉観は、万葉集が国民歌集だとの前提の理解とされるからです。
 常識的な万葉集理解は、明治時代にはいってから一部文化人によって誘導されたものだというのです。『万葉集の発明』(品田悦一)によると、鎖国がとけて西欧の文学がはいりこむ動きのなかで、それまでただの歌集でしかない万葉集は国民歌集へと格上げされます。西欧文学をにらんでの国民文学運動です。一言でいえば、西欧を意識したナショナリズムです。この愛国心がなければ、現在のような万葉集理解は存在しなかったというのです。
 たしかに、第二次世界大戦前後に万葉集にふれた人たちは、万葉集にかたよったイメージをもっています。『万葉集の発明』が指摘するように、自然を詠んだ歌、愛国的な歌など、きれいにまとまった歌の集まりだと素朴に信じこんでいたようです。万葉集の文化講座に参加される年配者はいまでも、例外なく「万葉歌はうつしいもの」とおもっています。彼女たちの知識にない万葉歌を紹介すると、「こういう歌も万葉集にあるんだ」という反応です。これが発明された万葉集の理解なのでしょう。
 それなら発明される前の万葉集とはいったい、どんな存在だったのでしょうか。万葉集の本当の形はどうなっているのでしょうか。
 万葉集はたんなる文学作品ではありません。鑑賞する詩歌集であると同時に、息を殺して耳をかたむけるべき政治、歴史の書でもあるのです。愛の告白、戯れ、別れ、こうした歌そのものがメッセージといえばメッセージですが、それとは別に万葉集には明確な歴史メッセージがこめられています。もちろん、万葉集の大部分は歌集です。その端々に歴史、政治的な主張がうめこまれているのです。
 これが発明される前の万葉集です。文学作品であると同時に、ねつ造された歴史と政治の告発の書でもあるのです。読者がふるい先入観や、かってな発明などせずに、冒頭一番歌から二一番歌までを鑑賞したなら、権力への異議申し立ての声がきこえてきます。すくなくとも万葉集がただの歌集でないことくらいは感じとれるはずです。
 万葉集の歴史的、政治的な案内が万葉史観です。万葉集の案内で、日本書紀にえがかれた歴史の修正をする、これが本書のいう万葉史観です。
 万葉集がどうして日本書紀の歴史を修正できるのか、ちょっと信じられないかもしれません。万葉集はいうまでもなく歌集です。しかも、大伴家持の私歌集と考えられています。プライベートな歌集が朝廷の正式な歴史書の記述を修正する、ふつうに考えればありえません。しかし、万葉集はさまざまなサインを発して、読者を書紀の記事へと案内します。そして、そこにえがかれた歴史を修正します。
 万葉集と日本書紀が編集的に連動しているなどといってもうけいれられないかもしれませんが、事実として万葉集と書紀に接点がないわけではありません。万葉集は書紀の記事を引用して、歌の解説をしています。
 もちろん、これだけなら万葉集の一方的な都合ということになりますが、万葉集は書紀をたんなる参考文献にしているのではありません。万葉側による書紀引用の解説がきわめて恣意的です。あきらかな編集意図のもとに読者を万葉集から書紀の記事へ誘導します。
 万葉集の書紀の記事への案内はいたって客観的です。万葉編者の案内ルールにしたがえば、よけいなことを考えることなく、書紀の記事へとジャンプできます。万葉集と書紀の編集が連動しているからです。案内された書紀の記事は、万葉編者の歴史、政治的な意図をあきらかにします。
 本書は万葉集の案内で日本書紀を解読していきますが、いきつくさきはこれまでの常識とはかけはなれています。その万葉集の主張の一つが、天智天皇が筑紫から畿内への東征王であることです。本書のタイトルである天智東征です。天智が筑紫をバックにした王権であることがあきらかになります。これについては、一章以降で検証します。
 うけいれがたい万葉集と書紀の編集が相互に連動するという説は、しかしながら本書の独創ではありません。徳(とく)田(だ)浄(きよし)がすでに指摘しているところです。徳田の説はこのあと紹介します。
 万葉集がいつ成立したのか、これは万葉集が日の目をみたときから大問題でした。万葉集の成立にふれた文献がほとんどないのです。そうしたなかで、もっともふるく万葉集についてとりあげたのが、『古(こ)今(きん)和(わ)歌(か)集(しゆう)』真名序です。その『古今』序に、つぎのようにあります。

 #[古今和歌集]真名序
    昔、平城の天子、侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ。それより以来、時は十代を歴、数は百年を過ぎたり。其の後、和歌は捨てて採られず。

 むかし、平(へい)城(ぜい)天皇が万葉集を編集させる詔をだし、それ以来、天皇十代をへて、年をかぞえるに百年がすぎたというのです。これから平城天皇時代に勅(ちよく)撰(せん)和歌集として完成したと考えられてきました。
 ながいあいだ、『古今』序がそのままうけいれられてきたのですが、江戸時代にはいって契(けい)沖(ちゆう)が大伴家持の私撰和歌集だとの説をだします。契沖の説に説得力があったため、それ以降は契沖説が一時的に定説化します。契沖の説は補完されながら、賀(か)茂(もの)真(ま)淵(ぶち)、本(もと)居(おり)宣(のり)長(なが)へとひきつがれます。
 編者としては、荷(か)田(だの)春(あず)満(まろ)によって、家持とならんで橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)もあげられます。左大臣までのぼった諸兄がでてきたことで、万葉集勅撰説も見なおされるようになります。
 明治以降も契沖の説が有力ですが、もちろん異説もおおくあります。編者については大伴家持が主体的に、あるいは何らかの形でかかわったということで結着しています。これに橘諸兄がからんできます。諸兄に関しては、『栄(えい)華(が)物(もの)語(がたり)』がとりあげています。

 [栄華物語]月の宴
昔、高(たか)野(の)の女帝の御代、天平勝宝五年には左大臣橘卿、諸卿大夫等集まりて万葉集を撰(えら)ばせまたふ。醍(だい)醐(ご)の先帝の御時は、古今二十巻撰(え)りととのへさせたまひて、世にめでたくさせたまふ。ただ今まで二十余年なり。古の今のと古き新しき歌、撰りととのへさせたまひて、世にめでたうせさせたまふ、この御時には、その古今に入らぬ歌を、昔のも今のも撰(せん)ぜさせたまひて、後に撰ずとて後撰集といふ名をつけさせたまひて、また二十巻撰ぜさせたまへるぞかし。

 これが諸兄が撰者とされる根拠の一つになっています。高野の女帝は孝(こう)謙(けん)天皇のこと、天平勝宝五年は西暦で七五三年です。
 勅撰か私撰かも問題です。家持編者説をとる研究者でも、意見がわかれます。勅撰説をとるのが折(おり)口(くち)信(しの)夫(ぶ)です。折口は「平城万葉集」を前提に勅撰集だとします。これに対して私撰説をとなえるのが沢(おも)潟(だか)久(ひさ)孝(たか)です。沢瀉は家持の私撰集説をつよく主張しますが、ほかにもおおくの有力な説があって、定説をみるまでにはいたっていません。

 これまででている説に関して総じていえることは、万葉集が歌集として独立した存在だということです。純粋歌集として孤高をたもっているという理解です。この裏には、万葉集は世間から超絶していなければならない、という思いがあるようです。万葉集は俗世にけがされてはならない、素朴でなければならないのです。万葉集の研究者には、その考えの底流に、万葉集は純粋に歌集でなければならない、という文学至上主義があるようです。
 万葉集はあくまでも文学作品で政治や歴史などから超然としていなければならない、古事記や日本書紀とは無縁でなければならない。そう考えられてきたのです。無垢で、素朴でなければならなかったのです。これこそ「万葉集の発明」の成果なのでしょう。(2013/09/25)