異説万葉集 万葉史観を読む

日本書紀の歴史に異議申し立てをする万葉集のメッセージを読み解きます。このメッセージが万葉史観です。

猟師にねらわれた獣

2013-01-25 | 番外・志貴皇子とムササビ寓話
 三つあるうちの一つはじっさいに体験したことを詠う歌、もう一つはムササビの習性を知識として取りこんだ歌、これにたいして志貴皇子の二六七番歌はどういう状況の下で作られたのでしょうか。

 すでに指摘しているように、ムササビは夜行性の動物です。昼間は木の穴に潜んでいて、夜になると餌をもとめて木から木へと飛びまわります。

 そうだとすると、この歌は夜の歌ということになります。夜行性のムササビが、梢をもとめて行動を起こしているからです。夜が得意のムササビと、夜は視界が悪くなる人間の猟師の真夜中の対決です。ムササビが致命的な情況に陥るとは思えません。せいぜい、びっくりする程度でしょう。

 ムササビと遇った猟師は、真夜中に何を求めて山をほっつき歩いていたのでしょうか。ムササビでしょうか、それ以外の動物、たとえば鹿を探していて偶然にムササビに出会ったのでしょうか。

 一〇二八番歌で分かるように、ムササビは捕まえようとして捕まえられるものではないのです。だから珍しいのです。天皇に献上するに値する珍しい動物なのです。

 志貴のムササビの歌はじっさいにあったことを詠っているようにはみえません。作者が机のうえで作った、観念的な歌のようです。そういう意味では、一三六七番歌も同じように、ムササビを観念的に詠っています。ムササビの習性を、知識として使っていますが、それはムササビの習性を、自分の恋い焦がれる思いを強調するためにもちだしているのです。

 万葉集の歌で、珍しい動物の習性を、動物学的に描写して、それだけで歌が完結するということはありません。絶対とはいえないかもしれませんが、基本的にはありません。植物でも、動物でも、その習性、特性を描写するのは、そこから自分の思いを引きだすきっかけにするためだったり、思いを暗示させたり、思いを強調するためです。

 一三六七番歌が自分の恋心を強調しているなら、二六七番歌は何のために持ちだされたのでしょうか。二六七番歌は、一見して、ムササビの行動の一部始終が描かれている感じです。梢をもとめて、その結果として猟師に遇ってしまった。これで終わっているからです。

 しかし、これだけのことをいうために、歌人の志貴皇子がムササビを詠うでしょうか。やはり、何かを暗示させていると考えるほうが自然です。



 猟師に遭遇するムササビが、同じような運命に遇った不運の人物を示唆していると考えていいでしょう。

 それならムササビはだれか。これまで指摘されているように、大友皇子か大津皇子でしょう。あるいは両方をさしているかもしれません。直前が大友皇子と関係が深い近江京がさびれた様子を詠った歌で、直後がこれまた無念の死に見舞われた天武天皇の孫の歌だからです。

 歌の解釈は、人によってじつに様々です。絶対に正しい鑑賞の仕方があるわけではありません。歌に解説があっても、それが一〇〇%正しいわけではありません。

 それなら、より深く感じ入ることができる解釈のほうがいいと思います。不運にも猟師に遇ったムササビの歌と思って解釈するよりも、不運なムササビを人々の共感を誘った主人公と重ね合わせたほうが、より楽しく鑑賞できるはずです。




  ◆悲劇の大津皇子と山部皇女




 志貴皇子のムササビの歌は、通説ではたんにムササビを詠ったとされています。しかし、以前には大友皇子、大津皇子の悲劇を示唆する寓意が込められていると考えられたようです。

 やはり、この歌はたんにムササビを詠ったのでもなく、大友皇子の壬申の乱の敗戦を詠ったのでもなさそうです。大津皇子の悲劇を詠っているのです。といっても、大津に同情しているわけではありません。大津の無防備さを、自戒を込めて詠っているのです。

 これはたんなる想像だけではありません。それを裏づける歌が万葉集にあります。これからみますが、歌だけになんとでも解釈が可能です。皆さんはどう判断されるでしょうか。


 歌をみます。

 巻十の秋雑歌の、鹿が鳴く鹿鳴を詠った歌です。ここには十六首が採られています。そのなかの二首です。

 ご覧になってわかるように、二一四七、二一四九番歌は「猟夫(さつお)」がでてきます。この二首以外に「猟夫」がでてくるのが、ここで取りあげている志貴皇子のムササビの歌だけです。万葉集には「猟夫(さつお」がでてくる歌は三首だけです。

 その三首が、どうも同じ背景のもとで詠われています。関連しているようです。関連性については、歌をみてから取りあげます。



[参考]巻十の二一四七ー二一四九番歌=猟夫の歌

   秋雑歌
   鹿鳴を詠む

 ○山の邊にい行く猟夫は多かれど 山にも野にもさを鹿鳴くも(巻十 2147)
   やまのべに いいくさつをはおほかれど
   やまにものにも さをしかなくも

       「山に分け入る猟師は多いのに、身の危険も
        知らずに山にも野にも牡鹿が鳴いていることだ」



 ◎山辺には猟夫のねらひ恐けど牡鹿鳴くなり妻の目を欲り(巻十 2149)
   やまべにはさつをのねらひかしこけど
   をじかなくなりつまのめをほり

       「山の辺りでは猟師が弓矢で狙いを定めて
        いるかも知れないので恐ろしいだろうに、
        牡鹿が盛んに妻を求めて鳴くことだ。
        それほどまでに妻の目を恋しがって」



 この歌は、秋雑歌の部立ての「鹿鳴を詠む」というグループに入っています。

 はじめの歌です。「山の邊」は、山の辺と訓みますが、原文万葉かなでは「山辺(やまべ)」とあります。意味としては、文字どおり「やまのあたり」です。
「い行く猟夫は多かれど」、山に入りこんでいる猟師は多いというのに、
「山にも野にもさを鹿鳴くも」山にも、さらに人が多い野にも、牡鹿がないている、というのが直訳です。


 つぎの二一四九番歌です。
 ここにも「山辺には」がでてきますが、ここは「やまべ」と訓ませています。
「猟夫のねらひ恐けど」、猟師の狙いはおそろしいけれど、「牡鹿鳴くなり妻の目を欲り」牡鹿は妻の目を見たいために…。逢いたいばかりに…。
    歌全体の訳です。


 万葉集に三首しかない猟夫(さつお)の歌の二首が同じ歌群にでてきて、その歌の発句がともに「山辺」です。偶然だろうと思うかもしれませんが、どうもそうではなさそうです。



 [日本書紀]持統称制前紀朱鳥一年(六八六)十月

   冬十月戊(つちのえ)辰(たつ)の朔己(つちのと)巳(み)(二日)、皇子大津の謀反、發覚す。
   …略…卅餘人を捕ふ。
   庚午の日、譯(を)語(さ)田(だ)舎で皇子大津に死を賜ふ。時に年廿四。
   妃の皇女山邊、被(ひ)髪(はつ)徒(と)跣(せん)(ひはつとせん)して奔赴して殉ず。
   見る者皆な歔(きよ)欷(き)(きょき=すすりなく)す。



 大津が死を賜ったとき、妃の山辺皇女が殉死したときの記事です。狂ったように泣きまわった山辺の姿が周囲の涙を誘ったとあります。山辺です。

 志貴皇子が、猟夫(さつお)に出会ったムササビを詠った歌だけでは、作歌、歌を作った背景ははっきりしません。しかし、鹿を狙う猟夫が出向く猟場、猟をする場所が「山邊」です。偶然でしょうか。

 猟夫が獲物を狙う猟場は、「山邊」です。学者は偶然というでしょうが、そうではないでしょう。

 巻十の秋雑歌の「猟夫(さつお)」の歌二首は、発句、第一句がともに「山邊」です。これを大津の妃の山邊皇女と無関係とするのは、相当に鈍感な歌の鑑賞ではないでしょうか。「猟夫」で関連づけられた歌は、明確に大津を指し示しているととっていいようです。

 季節も大津皇子と山辺皇女を指しています。猟夫が鹿を狙う「鹿鳴を詠む」歌群は、巻十の秋雑歌です。大津が亡くなったのも、山辺皇女が殉死したのも十月です。しかし、巻十の秋雑歌の歌では、鳴く鹿に仮託された人物はまだ死んでいません。不用意にも妻をもとめて鳴いています。これが大津なら、天武天皇が亡くなった直後ということで、歌の鹿は九月時点の大津皇子を詠っていることになります。九月は秋です。(2013/01/25 つづく)

万葉集のなかのムササビ

2013-01-18 | 番外・志貴皇子とムササビ寓話
 いよいよ万葉集のムササビにあいにいきます。万葉集にはムササビは三首にでてきます。すでにみた二六七番歌のほかに、巻六の一〇二八番歌、巻七の一三六七番歌です。

 この二首が二六七番歌のムササビとどうちがうか、内容をみます。



[万葉集]巻六の一〇二八番歌=ムササビの歌

   十一年己卯、天皇が高圓野(たかまとの)に遊猟(みかり)し時、
   小き獣、里の中に泄(も)れ走りき。是こに適たま勇士に
   値(あ)ひて、生きながら獲ふ。即ち此の獣を御在す所に
   献上するに副へたる歌一首 
   獣の名、俗に牟射佐妣(むささび)と曰ふ

 ○ますらをの高円山に迫めたれば里に下りけるムササビぞこれ(巻六 1028)

   ますらをのたかまとやまにせめたれば
   さとにおりけむむささびぞこれ
       「丈夫が高円山に追いつめたので、街中まで下りてきた
        ムササビというのが、これです」

    右の一首は、大伴坂上郎女の作れり。但し、未だ奏を経ずして
    小き獣死に斃(たお)れき。これに因りて歌を献ることは停めき。



 もう一首のムササビの歌です。



[万葉集]巻七の一三六七番歌=ムササビの歌

   譬喩歌寄獣

 ○三国山木末に住まふムササビの鳥待つごとく吾れ待ちやせむ(巻七 1367)

   みくにやまこぬれにすまふむささびの
   とりまつごとくわれまちやせむ

       「三国山の大きな木の梢に住んでいるムササビが、
        じっと鳥が近づいてくるのを待っているように、
        わたしも愛しいあなたが来るのをお待ちしてやせ細る
        ことだろう」



  ◆万葉人が親しんだムササビ



 詳しく歌をみます。

 巻六の一〇二八番歌です。

 題詞の「十一年己卯」は、天平十一年のことです。西暦では七三九年です。

 天皇が高圓野に遊猟(みかり)したとき、小き獣が京のなかにまよいこんできました。に適(たま)たま勇士がこれにであって、生きたままつかまえることができた。この獣を天皇に献上するさいにそえるつもりで詠った歌一首です。

 獣の名、俗に牟射佐妣(むささび)と曰ふ

 歌です。「ますらを」は「丈夫」と表記しますが、意味としては立派な官僚、武人的な役人から、ひとりの男といった広範囲にわたります。ここでは「大の大人」くらいの意味でしょうか。

「里に下りけるムササビぞこれ」の「下りける」は、原文では來に流れるとあります。そこで「下(お)りくる」と訓む本もありますが、ここでは「下りける」と訓んでいます。意味としては「下りて来る」となります。「けり」を助動詞にとれば「下りたのだなあ」という詠嘆、あるいは伝聞になりますが、それでは歌意にあいません。ここは明確に「下りて、やって来た」という意味になります。

 それで、現代語訳は「丈夫が高円山に追いつめたので、街中まで逃げ下りてきたムササビというのが、これです」となります。

 左注にでる大伴坂上郎女は、大伴安麻呂(おおとものやすまろ)の娘です。安麻呂は旅人の父親で、坂上郎女は旅人と異母兄妹ということになります。万葉集に長歌六首、短歌七十八首、旋頭歌一首の、合わせて八十五首もの歌をのこしています。

 万葉時代の才女であると同時に、相当に魅力的な女性だったようです。いわゆる才色兼備です。歌も華やいでいますが、異性関係も華麗です。

 最初に天武天皇の子どもの穂積皇子の妻となり、皇子が亡くなると藤原麻呂の求婚を受けます。正式に妻となったわけではないようですが、つきあいはありました。さらに、麻呂と別れてからは、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻になって、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおおとめ)を生んでいます。この大嬢が大伴家持の妻です。



 もう一首、ムササビの歌です。巻七の一三六七番歌です。

 歌の分類としては、譬喩歌(ひゆか)で、「獣に寄せる」グループにふくまれます。

 歌の三(み)国(くに)山(やま)は、三つの国に接した山という意味です。したがって固有地名ではありません。研究者によってはどこか場所を特定していますが、根拠はありません。歌の内容からすれば、どこの三国山でもかまいません。

「木(こ)末(ぬれ)(こぬれ)に住まふ」は「梢に住む」という意味です。二六七番歌の梢は、住まいではなくて、飛び出すための高い場所の意味ととれるので、同じ「木(こ)末(ぬれ)」で用途がちがうようです。

 下の句の「ムササビの鳥待つごとく吾れ待ちやせむ」です。ムササビがじっと鳥を待っているように、わたしもじっとあなたを待って、待ちつづけてやせ細ってしまいました、と詠っています。一途な思いを吐露した歌ということになりますが、いまならストーカーと訴えられるかもしれません。



 二つの歌をみて、どうでしょうか。

 巻六の一〇二八番歌は、観念的な歌でないことは明らかです。山から街中へ下りてきたのか、逃げてきたのか、ムササビはじっさいに捕まったようです。歌で「これですよ」と確認していることからも、まちがいありません。

 捕まったムササビは、夜行性で、移動は空中という習性から、当時でも人間に捕まる事はなかったようです。それで、珍しかったのでしょう。天皇に献上しようとします。ところが、献上していいという許可が下りる前に、ムササビは死んでしまいます。作者にすれば、せっかくのチャンス、天皇に会えるチャンスを逃して惜しいという気もちがあったのです。

 京では滅多にない「事件」を大伴坂上郎女が書き留めた歌です。いってみれば歌日記です。これに寓意があるとは思えません。

 つぎの巻七の一三六七番歌はどうでしょうか。こちらは慎重で、がまん強いムササビの習性を取りこんで、好きな女性への思いを詠っています。一〇二八番歌が体験したことを即物的に詠っているのとはちがいますが、どちらかといえば、あっけらかんとしています。

 こうしてみると、二六七番歌に幾ばくかの不気味さが感じられます。どう不気味か。次回確認します。(2013/01/18 つづく)



志貴皇子の処世

2013-01-11 | 番外・志貴皇子とムササビ寓話
「明日香風」と、それ以前にみた「磐瀬の社」の歌でわかるように、志貴皇子は美しいだけでなく、その裏に幻想性を秘めています。言葉をそのままにうけとっては意味が通じないあいまいさがあります。鑑賞者からすると、どうしても疑問がのこります。いっけん、具象画のようでいて、じつは蜃気楼のようです。それが志貴の本質ようです。

 美しい歌をつくっているので、文学的には優れていることはまちがいありませんが、政治的にはどうだったのでしょう。

 志貴は天智天皇の第七子として晩年に生まれ、天武系が絶頂の時代を生きています。政治的に優秀だったとしても、その能力を発揮する機会があったとは思えません。それ以上に権力者ににらまれないように、慎重にも慎重を期していたはずです。

 権力者ににらまれない、この処世術はたしかかだったようです。

 天武八年五月五日、天武、持統は、草壁、大津、高市の天武の皇子三人と、河嶋、忍壁、芝基皇子の天智の皇子三人をともなって吉野へ行幸します。天武は六人の皇子に「ちがう母から生まれていても、同じ母から生まれたごとく互いに助けあうように」との誓いをさせています。これを「吉野の会盟」といいます。

 天武の皇子でも、この盟約に加わっていなかったところをみると、志貴がそれほど軽くみられていなかったことが分かります。しかし、これが志貴の行き方に影響をあたえたのかもしれません。周囲に有力だとみられると、身の危険が大きくなります。


 危うい立場にある志貴が用心ふかく生き抜いてきたことを窺わせる歌がのこっています。

 ムササビが行動を起こすために猟師に見つかってしまったという歌です。ただそれだけの歌ですが、そこに寓意が秘められています。



[巻三の二六七番歌]処世

   志貴皇子の御歌一首

 ○ムササビは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも(巻三 267)
  ・ムササビはこぬれもとむと あしひきの
   やまのさつをにあいひけるかも

       「ムササビは移動するのにいい梢をさがそうと
        動きまわっているうちに、猟師にあってしまったのだろう」



 歌をみます。

 題詞はとてもシンプルです。「志貴皇子の御歌一首」と作者を指定しているだけです。歌も比較的に分かりやすい印象です。ムササビの行動を見たままに詠っています。

 ムササビは、はリスを大きくしたみたいな小動物で、両サイドの腕と脚の間に幕が張ってあって、木の高いところから滑空することができます。ムササビは空を飛び、しかも夜行性なので、人間に捕まりにくい動物です。それが夜間に行動を起こして、猟師に見つかったというのです。歌のなかのムササビはおそらく猟師にみつかっただけでなく、捕まったのでしょう。

 これ以上に説明も必要なさそうですが、もう少しくわしく見てみます。

 木末(こぬれ)は「木の末」と書くように、梢のことです。木の上のほうをさします。梢を住処(すみか)にするととって、いい住処をさがすともとれますが、ここは移動するために具合のいい、つまりは遠くまで飛べる梢を探していると解釈するのがいいようです。

「あしひきの山の猟夫(さつお)にあひにけるかも」の「あしひきの」は、山にかかる枕詞です。山を縄張りとする猟師にあってしまったことだとありますが、「あった」ということは捕まったということです。

 しかし、この解釈ではどうもスッキリしません。何かもやもやした感じです。



  ◆ムササビは誰をさす?



 この歌はむかしから、寓意が込められているとされてきました。どういう寓意かというと、皇太子である兄の草壁を無視するかのように振るまって、持統天皇に死に追いやられた大津の乱をさすとか、皇太子の大海人を差しおいて皇位に就こうとして壬申の乱で敗れた大友皇子だという説があります。

 どうして壬申の乱の大友皇子とか、持統に倒された大津に関連して解釈されるのかというと、歌の並びにあります。

 ムササビの歌の前後をみると、直前の二六六番歌は、柿本人麻呂の近江をしのぶ歌です。この歌自身には作歌事情を解説する注はつきませんが、二つ前の二六四番歌題詞に「柿本朝臣人麻呂の淡海国より上り来たる時に、宇治河邊に至りて作る歌一首」とあるので、同じときの歌だということがわかります。

 題詞から、近江を訪ねた人麻呂が、荒れた近江京を目の当たりにして、その侘びしさに心を動かされて詠ったようです。

 近江京が荒れて悲しいのは、近江京が本来なら栄えているはずなのに、そうなっていない情況に心を痛めているからです。近江京がさびれているのは、大友皇子が壬申の乱に勝利できなかったからです。近江京がさびれて悲しい遠因は、大友皇子が壬申の乱に敗れたからです。そういう意味で、この歌は遠回しに、大友が大海人と対立したことを悔やんでいるととれるのです。

 ムササビの次の二六八番歌は、長屋王の故郷の歌です。この歌は万葉講座で鑑賞しています。

 長屋王はいうまでもなく、藤原一族と対立して死に追いやられています。長屋王の変です。志貴皇子が亡くなったのは宝亀二年(七一六)八月、長屋王の変は神亀一年(七二九)なので、志貴皇子が長屋王の悲劇を知るわけはありませんが、編集上の意図としては、志貴のムササビの歌を、長屋王の悲劇に関連づけていると考えることも可能です。

 しかし、作歌事情、歌を作る背景を考えれば、不用心なムササビの不運をみて、じっさいに目の当たりにした悲劇を思いだしたとするよりは、目の当たりにした悲劇をもとに、ムササビの不用心を歌にしたと考えるほうが自然です。

 万葉集のムササビがどのようにえがかれているか、次回はムササビの歌を鑑賞します。(2013/01/11 つづく)


4 養老五年の元正朝 二

2013-01-06 | 万葉史観Ⅰ 天智東征
●元正天皇の日本紀観●

 元正が天皇だった養老五年(721)一月、長屋王が右大臣となります。この直後に皇太子の首(おびと)皇子(おびとのみこ)の教育係を選任しています。選任のタイミングと構成メンバーが、日本書紀の歴史改ざんや記事書きかえに関連していることを示唆しています。メンバーのプロフィルはこのあとくわしく確認しますが、そのまえに書紀完成当時の朝廷の空気を再現します。



 すでにみたように、前年の養老四年に舎人親王によって日本書紀が朝廷におさめられます。その時点の書紀は不比等がデザインした歴史観がえがかれています。改ざんされた歴史です。その改ざんされた歴史を修正するのが、長屋王による書紀の記事書きかえです。ここでは歴史改ざんと記事の書きかえを、この意味でつかいわけています。

 それはともかく、養老四年の日本書紀完成と、不比等の死以前から、官製史書にかんして朝廷内にさまざまな憶測を呼んでいたと思われます。書紀の歴史の改ざん、ねつ造です。それを不比等が主導した、不比等に舎人親王が全面的に協力した、というものです。

 養老三年(719)に元正がだした詔が、これを裏づけます。

 日本書紀にまつわるうわさは元正天皇の耳にもはいっていたはずです。日本書紀が完成する前年の養老三年十月、元正天皇が詔をだして、舎人親王らに贈封しています。一見、元正が舎人親王の労をねぎらった内容です。これまでの研究者は、そうとっているようです。
 しかし、じっさいは舎人にとって耳のいたいものでした。こうとるほうが、自然です。ひじょうにながい詔につぎの文言がはいっています。


 [続日本紀]養老三年(719)十月の詔
   「…略…遠祖の正典を稽(かんが)へ、列代の皇綱(くわ
   うかう)を考ふるに、洪緒(こうしょ)を承纂するは、此
   れ皇太子なり。然れども、年歯猶ほ稚(をさな)し。未だ
   政道に閑(な)れず。但し以(おも)ふに、鳳暦を握りて
   極に登り、竜図を御めて以て機に臨む者は、猶ほ輔佐の才
   を資り、乃ち太平を致す。必ず翼賛の功に由り、始めて安
   かなる運あり。況や舍人、新田部親王に及び、百世の松桂、
   本と枝の昭穆(しょうぼく)に合ひて、万雉の城石(ばん
   ちのせいせき)、維盤、国家に重し。理、須く清直を吐納し、
   能く洪胤を輔け、仁義を資より扶けて、信に幼齡を翼く。
   然るに則ち太平の治、期すべし。隆泰の運、応に致すべし。
   慎まざるべきや。今、二親王は宗室の年長なり。朕れ在り
   て既に重し。実に褒賞を加へ、深く須く旌異すべし。然る
   に崇徳の道、既に旧貫にあり。貴親の理、豈に今なきか。
   …略…ああ欽(つつし)めや。以て朕が意に副へ。凡そこ
   こに在る卿ら、並びて宜しく聞き知るべし。…略…」


 詔の内容です。

「朝廷の大事を引き継ぐのは皇太子(首皇子、聖武天皇)である。皇太子はまだわかく、政治になれていない。国をおさめるに、輔佐するものがささえて国の太平を実現せよ。皇太子につかえてはじめて自分にやすらかな運がひらけるのだ。とりわけ、舎人親王(とねりしんのう)、新田部親王(にったべしんのう)においては、百年をへた松や桂の本と枝のごとくに君臣の秩序をただすことがひじょうに重要であり、国にとって欠かせないものである。理にかなうようにものごとの算段をし、皇太子を支えよ。これによって、天下の太平が期待できるのだ。興隆、安泰へとむかわなければならない。そうであるのに、これらに十分な配慮をしないでいることができようか。親王二人は皇室の年長者である。私にとっても大事な存在である。そこで特別な褒賞をしようと思う。それゆえ、徳を尊ぶこと、昔と同様であるべきである。それにしても、親を貴ぶことはもはやなくなってしまったのだろうか。…略…ああ先祖を敬うように、私の思いにそうようにせよ。ここにいる諸卿たちよ、お前たちも同様である。心してききおけ」

 舎人と新田部の両親王は天武天皇の皇子で、元正朝では重鎮といっていい存在でした。その二人に、元正が褒賞します。褒賞するにしては、前口上がながすぎます。褒賞はだれもが納得できるからするものです。それなのに、褒賞の理由を延々としています。しかしながら、ここにある褒賞の理由であるかのような文言は、褒賞とは直接に関係がありません。

 これを何の偏見もなく読めば、政治になれていない皇太子を輔佐するのが、重臣のつとめだといっています。これほど当たり前のことを、元正はどうして詔までだして、舎人と新田部にいいきかせたのか。

 この詔はどうみても、単純に舎人を評価して褒賞したという内容ではありません。評価よりも注文です。やるべきことをやってこなかったから、それをやれ、といっています。褒賞の「褒」は、すでにある行いを褒めることです。これからの期待にたいしてあたえるものではありません。元正のいっていることは、これからやるべきことをあげて取りくめといっているのです。これまでやってこないことへの不満です。

 それなら、どうして褒賞などしたのか。養老三年(七一九)の段階で、日本書紀が完成しそうだという雰囲気になっていたのです。じっさい、日本書紀は翌年に元正に奏上されました。そうしたなか、日本書紀は本来の歴史を書きかえているという評判がたっていました。

 舎人を叱責する詔の発令、日本書紀の完成、直後の皇太子の教育係の選任、これらのタイミング、時間的な流れを考えると、養老三年にだされた元正の詔は、日本書紀に関係あると考えざるをえません。元正は将来、皇太子の教科書となる日本書紀の内容に不安をもっていたのです。それで、ぎりぎりになって書紀の編集姿勢をあらためさせようとしたのです。ストレートに叱責したのでは角がたちます。それで、褒賞にからめて釘をさしたのです。

 天皇が詔でここまで叱責めいたことをいうのですから、よくよくのことだったはずです。これにおどろいた舎人が書紀の中身について危機感をもったのかもしれません。このころは舎人のうしろ盾の不比等の体調も万全でなかったと思われます。日本書紀が不比等の亡くなる直前に奏上されたうらには、このような事情があったのです。不比等がいなければ、舎人が撰上する書紀はみとめられずに、朝廷からつきかえれたかもしれません。

 舎人と新田部親王が元正と友好的でなかったことを裏づけるのが、長屋王の変です。この事件で、舎人と新田部は、先頭にたって長屋王を糾問しています。明確にアンチ元正ー長屋王です。(つづく)



●元正天皇の歴史観と不安●

 藤原不比等が創作した歴史ストーリーが日本書紀に組みこまれます。これをあばこうとしたのが万葉史観です。長屋王が修正しようとした歴史改ざんとは何か。その粗筋をみます。

 皇統の正統性はいうまでもなく倭王権(大和朝廷)にあります。しかし、天智天皇は倭王権の系譜にありません。天智の権力基盤は筑紫です。筑紫の天智が倭王権の系譜にあるかのように皇統をくみかえたのです。

 その皇統の組みかえの根幹が万世一系です。日本書紀によれば、神武が筑紫から東征して倭を平定します。それ以来、一時的には宮殿が倭をはなれることもありますが、原則的には神武の血をひく王が倭に宮殿をおきつづけます。この系譜にのらないかぎり、倭王権の正式な継承者ではないのです。



 しかし、天武朝で歴史書編纂がスタートした時点の資料には、皇統の万世一系などなかったと考えられます。皇統の万世一系はフィクションです。これこそが不比等がつくりあげた歴史なのです。歴史の改ざんです。

 それならどうして、不比等は皇統の万世一系などを創りだそうとしたのか。理由はあきらかです。筑紫王権の天智の血統を万世一系の系譜にくみこむことによって、天智を倭王権の正統なる後継者に仕立てあげたのです。万世一系の皇統にはいっているということは、それがすなわち正統なる血統の証というわけです。



 不比等の歴史改ざんを強くにおわせるのが、日本書紀編集の最高責任者である舎人親王(とねりしんのう)と藤原氏との親密な関係です。

 舎人親王は藤原氏とひじょうに近い関係にありました。舎人の子どもの大炊王(おおいおう)が即位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう)となっています。その大炊王は即位する前、不比等亡きあとの藤原氏の中心人物、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の子の真従(まより)の妻をめとっているのです。真従が早世したため、仲麻呂が真従の妻だった粟田 諸姉(あわたのもろね)と大炊王とを結婚させ、私邸である田村第にすまわせていたのです。

 まるで実子でもあるかのような待遇です。大炊が天皇になれたのも、仲麻呂のバックアップがあったからです。大炊の世話をした仲麻呂は藤原氏の本流です。父親の武智麻呂(むちまろ)は不比等の長男です。藤原氏が舎人親王の子どもにたいしてこれほど手あつくもてなした理由、それこそが歴史改ざんだったと思われます。舎人親王は持統と不比等、持統が亡くなってからは不比等の意向にそって書紀の編集、歴史改ざんに手をそめたのです。当時の朝廷では、それはおそらく公然の秘密でした。

 持統天皇以降、藤原不比等と良好な関係をたもっていた朝廷は、元正天皇になると関係が完全にくずれます。不比等が亡くなって、長屋王、橘諸兄が藤原氏を牽制しますが、藤原氏の力はあなどれません。元正天皇は藤原氏との対応に腐心します。

 元正天皇は万葉集に七首の歌をのこしています。そのうちの五首は、長屋王と橘諸兄とのやりとりです。長屋王とのあいだが一首、諸兄とのあいだで四首です。七首中五首が反藤原を旗幟鮮明にしている橘諸兄と長屋王に関連し、そのすべてが皇位を聖武に譲ったあと、太上天皇として詠っています。権力を手ばなした元正の不安が詠わせたかのようです。

 念のために、万葉集にのる元正歌のすべてを確認します。


   天皇、酒を節度の卿等に賜へる御歌一首并に短歌

 ○食國の 遠の朝廷に 汝等が かく罷りなば 平らけく 吾れ
  は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ 天皇朕れ うづの御手
  もち 掻き撫でぞ 労たまふ うちなでぞ 労たまふ 還り
  来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は (巻六 973)
  ・をすくにのとほのみかどにいましらが かくまかりなばた
   ひらけく われはあそばむたむだきて われはいまさむ
   すめらわれ うづのみてもちかきなでぞねぎたまふ うち
   なでぞねぎたまふ かへりこむひあひのまむさけぞこの
とよみきは
       「この国の、国中(くになか)から遠くはなれた都
        に、汝らが出かけていって領土を平和にするなら、
        わたしは楽しく遊ぶこともできよう。何もしない
        でいることもできるだろう。天皇であるわたしは
        高貴なる手をもって掻きなでるようにねぎらうだ
        ろう、うちなでるようにねぎらうだろう。とその
        とき、汝らが遠くはなれた都から帰りくる日に飲
        む酒なのだ、この神酒は」


   反歌一首

 ○ますらをの行くとふ道ぞ凡ろかに思ひて行くな丈夫の伴(巻六 974)
  ・ますらをのゆくとふみちぞおほろかに おもひてゆくな
   ますらをのとも
       「この道は立派なますらおだけが行く道だ。決し
        ておろそかに思ってくれるな、ますらおのもの
        たちよ」
    右の御歌は、或は云はく、太上天皇の御製なりといへり。


   冬十一月、左大辯葛城王(かつらぎおう)等に、姓橘氏
   を賜ひし時、御製の歌一首

 ○橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹(巻六 1009)
  ・たちばなはみさへはなさへそのはさへ えだにしもふれど
   いやとこはのき
       「橘は、実も、花も、葉も、枝さえも、霜の寒さ
        にも負けずに、青々としていることだ」

    右は、冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐為王
    (さいおう)等、皇族の高名を辞して外家の橘の姓を
    賜ふこと已に訖りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后
    宮にましまして、肆宴きこしめし、即ち橘を賀く歌を
    作り給ひ、并た御酒を宿祢等に賜ひき。或は云はく、
    此の歌一首は、太上天皇の御歌なり。但、天皇皇后の
    御歌各有一首ありといへれば、其の歌遺落して未だ探り
    求むること得ず。今案内を検するに、八年十一月九日、
    葛城王等、橘宿祢の姓を願ひて上表す。十七日を以ちて、
    表の乞に依りて、橘宿祢を賜ひきといへり。


   太上天皇御製歌一首

 ○はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は萬代までに(巻八 1637)
  ・はだすすきおばなさかふきくろきもち つくれるむろは
   よろづよまでに
       「薄の尾花を逆さに葺いて、樹皮のついたまま
        の黒木でつくった家であるけれど、それでも万
        代までつづくことだろう」
     …1638番歌略…

    右聞く、左大臣長屋王の佐保(さほ)宅に御在(いま)
    して肆宴(しえん)する御製なり。


   御製歌一首 和(こた)ふ

 ○玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き滿てて繼ぎて通はむ(巻一八 4057)
  ・たましかずきみがくいていふほりえには たましきみてて
   つぎてかよはむ
       「玉を敷かなかったことで、あなたが悔いて敷い
        ておけばよかったという、その堀江が玉で満ち
        るようになるまで、難波に通いつづけましょう」

    右二首、件の歌は御船が江を泝りて遊宴する日に左大臣
    の奏す、并びに御製


   御製歌一首

 ○たちばなの遠のたちばな彌つ代にも吾れは忘れじこのたちばなを(巻一八 4058)
  ・たちばなのとおのたちばなやつよにも われはわすれじ
   このたちばなを
       「橘がはるか遠くの代になっても、実り豊かでいる
        ことを、わたしは忘れない」

     …4059ー4060番歌略…

    右件の歌は、左大臣橘卿宅に在して肆宴する時の御製と奏す歌なり


 973ー974番歌はその前後の題詞から、天平四年(731)につくられたことが確認できます。このときの天皇は聖武です。題詞どおりなら聖武作、左注にしたがえば元正作ということになります。いずれにしろ、特定の人物へ向けて詠ったものではありません。

 1009番歌は、題詞から葛城王が臣籍降下で橘氏を賜ったときに、元正が詠ったことがわかります。葛(かつら)城(ぎ)王は、橘諸兄です。

 1637ー1638番歌は、元正太上天皇が、長屋王宅を訪ねたときに詠っています。長屋王の邸宅新築をいわって、訪問したようです。

 4057ー4058番歌は、元正が難波宮を訪れたときに詠まれた七首のうちの、元正作の二首です。歌群の七首は同時に詠われたのではないようですが、すくなくとも元正太上天皇が難波宮にいるときにつくられたことがわかります。その難波行きには、左大臣橘宿祢がしたがっていました。左大臣は橘諸兄です。歌群の太上天皇の二首目は、直接的には橘諸兄との関連性を確認できませんが、諸兄が同道の難波で詠っているのですから、歌にある橘が諸兄とまったく関係ないとはいえないでしょう。

 これをみるかぎり、題詞が聖武作とするものを左注が元正作だとする973ー974番歌以外はすべて反藤原のリーダー、長屋王、橘諸兄と、元正とのあいだで交わした歌だったことが確定します。
 譲位して権力を手ばなした元正がどれほど反藤原の長屋王と橘諸兄を頼りにしていたかが、うかがえます。(つづく)



●持統と不比等の執念●

 書紀によって歴史が改ざんされていることは、万葉史観をとおして確認しますが、書紀の完成までを大ざっぱにたどります。

 官製の歴史書の編集を発案したのは天武天皇です。日本書紀の記事です。


 [日本書紀]天武紀天武十年(681)三月条
    丙戌、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子、忍壁皇子、広
   瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千、小
   錦中忌部連首、小錦下阿曇連稲敷、難波連大形、大山上中
   臣連大嶋、大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古諸事
   を記し定めしむ。大嶋、子首、親ら筆を執りて以て録す。


 天武十年三月、天武が天智天皇の皇子である川島皇子らに帝紀(ていき)、上古諸事(じょうこしょじ)を編集させたという記事です。ここにある帝紀、上古諸事が後の古事記、日本書紀に引き継がれたと考えられます。



 編集メンバーの一人として名前があがる三野王(みののおおきみ)は、万葉史観にかかわったと考えられる橘諸兄、佐為王の父親です。

 これだけみると、日本書紀は天武が主導して完成したようにみえますが、歴史書の完成は天武の発案から古事記が約三十年後、書紀になると四十年後です。天武の意向よりも、あとをついだ持統、さらには不比等の都合が大きく反映しているといえそうです。持統が歴史書に関心をもっていたことをうかがわせる記事が、同じ書紀にでてきます。


 [日本書紀]持統紀持統五年(691)八月条
    八月己亥朔辛亥、十八氏大三輪、雀部、石上、藤原、石
   川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、
   阿倍、佐伯、釆女、穂積、安曇に詔して、其の祖等の墓記
   を上進せしむ。


 これによると、持統は持統五年八月、歴史ある氏族の家史を朝廷に提出させています。ここの「墓記」はそれぞれの氏族の歴史書とされます。これら家史の情報は書紀にとりこまれたと考えられており、持統が歴史書編集にかかわったことはまちがいないようです。

 それを裏づけるのが、万葉集が書紀の歴史改ざんの修正記事へと読者を誘導する万葉史観の案内です。この案内は、持統の父親の天智天皇と、天智の母親とされる斉明天皇に関連して集中的にでてきます。この二人にからむ歴史が書きかえられていることをうかがわせます。

 もちろん、持統じしんが先頭にたって書紀編集をすすめたわけではありません。直接に書紀の編集をひっぱったのは藤原不比等と考えられます。不比等は天武朝ではほとんど活躍していません。天武に干されていた印象です。それが持統朝になると、にわかに元気になります。

 持統が不比等を重用したのには、大きく二つの理由が考えられます。一つは、持統の後継者選びです。もう一つが天智の過去です。忌まわしい過去をぬぐいさるために、歴史の改ざんをすることです。

 一つ目のポスト持統問題です。天武の後継者候補は草壁皇子と大津皇子、それに長屋王の父である高市皇子が有力でした。長男の高市は母の出自が低いというハンディがありました。大津はこの時点で母親が亡くなっていましたが、母親の太田皇女は持統と同母の天智の娘です。草壁にとっては、最大のライバルです。持統はこの大津を天武が亡くなるとただちに死においやります。

 持統の願いどおり、草壁は持統朝で皇太子にたてられますが、草壁は即位する前に亡くなってしまいます。

 持統の皇子は一人だけです。そこで、草壁の一人息子の軽(かる)皇子を即位させようとします。しかし、草壁の即位なら納得せざるをえない天武の皇子たちも、血統が自分たちよりも天武から遠い軽皇子の即位を受けいれるかどうか難しいところです。そこで、持統は不比等と手をくんだのです。

 不比等が書紀に登場する最初は持統朝です。持統三年(689)、判事に任命されたという記事です。この年、草壁が亡くなりますが、不比等は軽皇子を即位させるために手のこんだ細工をしています。


 不比等がどのように軽皇子を即位させたかは、続日本紀にはありませんが、東大寺献物帳に痕跡がのこっています。東大寺に献上された物品を記録したものです。そのなかに、草壁皇子の黒(くろ)作(つくり)懸(かけ)佩(はき)の刀(たち)(くろつくりかけはきのたち)がでてきます。その記事です。


 [東大寺献物帳]
    黒作懸佩刀一口  刃長一尺一寸九分 鋒者偏刃 木把 …以下略
    右 日並皇子常所佩持賜太政大
    臣 大行天皇即位之時便献
    大行天皇崩時亦賜太政大臣薨
    日更献 後太上天皇


 内容はつぎのとおりです。

 日並(草壁)は(死に臨んで、息子の軽皇子の将来を託す思いで)、身につけていた刀を太政大臣(不比等)に授けます。(不比等はその刀を)大行天皇(軽皇子、文武天皇)が即位するときに献じ、さらに大行天皇が亡くなるときに太政大臣へもどされます。太政大臣が薨じた日に後の太上天皇(元明天皇)に献上されます。

 この黒作懸佩刀は、最終的には東大寺におさめられたのですが、あたかも黒作懸佩刀が三種の神器でもあるかのように、皇位継承のシンボルになっています。しかも、シンボルの媒(なかだち)をするのが不比等です。ひじょうに作為的な手順をふんでいますが、これにより、不比等が持統の意向をうけて軽皇子を即位させたことがうかがえます。

 不比等は文武を皮切りに元明、元正をつぎつぎと即位させます。そのいっぽうで日本書紀の歴史ストーリーをデザインしていきます。狙いは、天智と中臣鎌足の系図の創作です。不比等は養老四年(720)に完成した書紀で天智と鎌足に都合のいいように歴史を改ざんしたのです。(つづき)




●歴史改ざんに駆り立てる過去●


 前回までにみたように、長屋王は当時、長屋親王と称されていたのですから、続日本紀は長屋親王と表記しなければなりません。そうなっていないのは、肩書き表記をおとしめたのです。理由はいうまでもなく、聖武天皇の母親、宮子の称号問題です。


 宮子にからむ肩書き問題は、不比等と県犬養 橘 三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)の娘の光明子(こうみょうし)の皇后称号で蒸しかえされる恐れがありました。

 神亀四年(727)九月に、光明子が聖武天皇の皇子を生みます。藤原氏にとっては待望の男の子です。ただちに皇太子にたてられます。しかし、皇太子は翌神亀五年九月に亡くなります。さらに悪いことに、これに前後して聖武夫人の県犬養 広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積皇子(あさかのみこ)を生んだのです。聖武の男子は安積皇子だけということになります。このままでいけば、安積が皇太子にたてられることになりかねません。藤原氏としては、これだけはうけいれられません。

 藤原氏にとって不幸中の幸いだったのは、光明子に阿倍皇女(あべのひめみこ)が生まれていたことです。藤原氏は阿倍を即位させることをはかります。皇子の安積をさしおいて阿倍を即位させるために、光明子を皇后にしようというわけです。これが実現したのが天平一年(七二九)八月です。長屋王が自殺においこまれてからわずかに半年後のことです。長屋王をざん言で強引に死なせたのは、こうした事情があったのです。もし、長屋王が生きていたら、臣下からの妃は皇后になれない、と反対するのは目にみえています。

 藤原氏は正史の続日本紀で、親王だった長屋を長屋王と一ランク下に表記します。さらにじっさいは太政大臣までのぼりつめていたのに、左大臣どまりにした可能性もあります。そのいっぽう、藤原氏出身の光明子を皇后と表記させて後世にのこします。宮子の称号問題の敵をとったのです。


  ◇不比等創作の歴史


 ながながと長屋王の経歴をみましたが、このなかで画期となるのが養老五年(七二一)です。藤原不比等の死によって、長屋王は右大臣になります。一月五日のことです。一月二十三日に皇太子の首(おびと)皇子の教育係を選任しています。これはたんに皇太子の教育係を選んだのではありません。元正天皇と長屋王にとっては明確な狙いがありました。
 不比等によって改ざんされた日本書紀の修正です。(つづき)
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Ⅰ 長屋王の敗北
2012-04-20 | 3 養老年間の元正朝 いずれにしろ、万葉集の編者が長屋王に同情しているのはあきらかです。世間も長屋王に同情的です。日本霊異記に、長屋王の骨がもちこまれた土佐で多くの人々が亡くなった記事がでてきますが、これは長屋王の祟りを暗示しています。この祟りはほんらい藤原氏へむけられるべきものです。霊異記が藤原氏に配慮したのでしょう。じっさい藤原氏は長屋王の祟りにおびえる事態をむかえます。

 長屋王が亡くなって八年後の天平九年(739)に流行した天然痘で、権勢をほしいままにした不比等の息子四兄弟がすべて亡くなります。平城京の貴公子が怨霊となってたたったのです。


 しかし、事件当時の当事者はそんなことまで気がまわりません。藤原氏とともに長屋王殺害にうごいたと考えられる聖武天皇は、王への同情など微塵もありません。そのぎゃくです。この事件で、聖武は長屋王にからんで勅をだしています。この内容が尋常でありません。これ以上ないくらい罵倒しています。恨み骨髄に徹す、です。自分の母親の宮子の称号問題がゆるせなかったのでしょう。


 [続日本紀]巻十天平一年(729)二月十日条
   二月丙子、(天皇が)勅して曰く、
   「左大臣正二位長屋王、忍戻昏凶にして途(みち)に触れ
   て則ち著(あらは)る。慝(とく)を尽くして姦を窮む。
   頓(とみ)に疎網(そまう)に陥り、姦党(かんたう)を
   苅り夷(たひら)ぐ。賊惡を除滅す。宜く国司は衆あらし
   むること莫かれ」


 難しい言葉がつづきますが、内容はつぎのようなものです。

「長屋王は残忍邪悪にして、折に触れてあらわれる。人知れず悪事を尽くし、邪なる悪行をきわめる。それがにわかに法の網にかかった。悪党をすっかり平らげて、悪しき賊は滅ぼしのぞくことだ。国司は悪党どもに徒党をくませるようなことがあってはならない」

 主旨は、長屋王に連なる人々が反攻できないように事前に手をうっておけ、ということです。

 当時、元正ー長屋王と、聖武ー藤原氏との間で暗闘が繰りひろげられていたのです。長屋王の変では、長屋王の妻と子どもも死にますが、死ぬのは元正の妹の吉備内親王とその子どもたちです。藤原不比等の娘も長屋王にとついでいますが、娘とその子どもは死罪をまぬがれているのです。露骨に差別しています。聖武と藤原氏が長屋王だけでなく、元正天皇をきらっていたことのあらわれです。元正はこのあとも太上天皇としていつづけますが、長屋王亡きあと元正は、反藤原の橘諸兄(たちばなのもろえ)を頼りにするようになります。


 続日本紀は日本書紀につづく勅撰の歴史書です。日本書紀よりははるかに客観的に編集されているようですが、すべてがそうだとはかぎりません。長屋王にたいしては、正当な評価をしていません。その典型が、長屋王の肩書き表記です。続紀は長屋王と表記していますが、すでに指摘しているように、これがおかしい。

 長屋王は天皇の孫です。だから皇子(親王)とならずに王となります。系図にあるとおりです。しかし、長屋王にかんしては正しい表記とはいえません。

 長屋王は生前、親王と称されていたのです。親王は皇子と同じです。天皇の子どもにつくものです。
 どうして長屋王が親王と呼ばれていたとわかるのかというと、すでにふれたように、平城京の長屋王の邸宅跡から「長屋親王」と書かれた木簡がでているからです。同時代の木簡は資料としては信憑性が高いとされています。文献的にも、長屋王の死をぼろくそに書いた日本霊異記が明確に長屋親王と表記しています。すでにみたとおりです。
 系図をみるかぎり「王」表記でいいのに、どうして親王と称されたのか。長屋王に親王がついたのは、皇位継承権に関係があるようです。

 この時代は女性天皇がつづきます。持統(じとう)から称徳天皇(しょうとくてんのう)まで八代の天皇のうち男性は三人だけです。そのうち淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は持統系ではありません。この時期、皇位の正統性は持統ー草壁皇子の系列にあったとされます。この流れでいえば、正当な皇位継承者として即位したのは文武と聖武しかいないことになります。しかも、元明朝から元正朝まで、聖武へつなぐ持統直系の有力な男性の皇位継承者がいません。それで、元正から聖武(首皇子=おびとのみこ)へつなぐ間に、首皇子に万が一のことがあった場合にそなえて、長屋王の系統に皇位継承権を認めたと考えられます。

 これを裏づける記事です。


 [続日本紀]霊亀一年(715)二月
   丁丑、勅して三品吉備内親王の男女を以て皆な皇孫の例に入る。


 霊亀一年(715)二月二十五日のことです。元明天皇は、自分の娘である吉備内親王の子どもは男女を問わずすべて皇孫にいれるという勅をだします。吉備内親王の夫は長屋王ですから、吉備内親王の子どもは天武天皇からみれば曾孫、元明天皇からすれば孫ということになります。本来なら「王」となるところですが、皇孫にはいるとなると親王、内親王と同等のあつかいとなります。吉備内親王の子ども、つまりは長屋王の子どもたちは皇位継承権をあたえられたのです。歴史的にみても、破格の待遇です。

 霊亀一年は元明が娘の元正に譲位した年です。譲位は九月、その直前の勅です。長屋王は吉備内親王の婿養子的な存在だったわけで、妻の姉である元正が即位するタイミングで事実上の親王となった、こう考えていいようです。

 長屋王一族は天皇家と同等だったのです。そうしてみると、長屋王の変で、長屋王の子どもたちへの対応が異なった理由がほのみえます。不比等の娘とのあいだにできた子どもたちは死なないですんだのに、吉備内親王の子どもが死においこまれた理由です。吉備内親王の嫡子膳(かしわで)王は、聖武に次ぐ皇位継承者だったのです。長屋王の変は、長屋王そのものよりも、皇位継承権のある吉備内親王の子どもすべてを抹殺するのが目的だったのです。(つづく)




3 養老五年の元正朝 一

2013-01-06 | 万葉史観Ⅰ 天智東征


●大伴旅人の無念●


2012-04-19 | 3 養老年間の元正朝 長屋王は無実の罪で死においやられました。文献からただよってくる長屋王のイメージは、ひじょうに洗練された貴公子です。じっさいもイメージどおりだったと思います。この貴公子が藤原氏の権力欲の犠牲になったのです。人々はいたく長屋王に同情しました。

 万葉集も長屋王に強いシンパシーを感じていましたが、なかでも長屋王の死をなげかずにいられない人がいました。大伴旅人(おおとものたびと)です。すでにみたように、旅人は長屋王の変の前年に筑紫へ赴任し、変の翌年に京へかえっています。旅人を京から遠ざけたのは藤原氏の策謀であるのはだれの目にもあきらかでした。自分のせいでないことはわかっていても、旅人は長屋王を助けることができなかったことが無念で仕方なかったのです。


 はたして、長屋王一族の滅亡を一番なげいたのは旅人でした。長屋王の変に何もできなかった旅人のくやんでもくやみきれない思いが、万葉集に詠いこまれています。

 万葉集には長屋王と、子の膳部(かしわで)王(かしわでのおほきみ)の死を悼む歌がのこっています。巻三挽歌の部立てにあります。


   神龜六年己巳、左大臣長屋王の死を賜はりし後、倉橋部女
   王(くらはしべのひめおおきみ)の作る歌一首
 ○大君の命恐み 大あらきの 時にはあらねど雲がくります(巻三 441)
  ・おほきみのみことかしこみおほあらきの ときにはあらね
   どくもがくります
       「恐れ多くも大君の命により、まだその時期でも
        ないのにお隠れになってしまわれた」

   膳部王を悲傷する歌一首
 ○世間は空しきものとあらむとそ この照る月は満ち闕けしける(巻三 442)
  ・よのなかはむなしきものとあらむとそ このてるつきはみ
   ちかけしける
       「世の中は空しいものだなあ、まるで決まったよ
        うに照る月が満ち欠けするようだ」
    右の一首は、作者いまだ詳かならず。


 一首目は題詞から、倉(くら)橋(はし)部(べ)女王が長屋王の死をいたんでつくったことがわかります。倉橋部はこの歌のほか、もう一首万葉集に名前がでてきます。巻八の一六一三番歌で、題詞が賀(か)茂(も)女王(かものひめおほきみ)の作とするのを、左注が倉橋部女王の作と訂正しています。題詞の注は、賀茂女王を長屋王の娘で、母親を阿倍朝臣としています。ただ、倉橋部女王は万葉集にしかでてこないようで、どんな女性なのか、はっきりはわかりません。

 万葉集が編集された当時は、長屋王への同情は危険なことだったにちがいありません。それで、わざと作者の身元をあいまいにしたのでしょう。

 四四一番歌以上に万葉編者が作者に配慮をしているのが二首目の四四二番歌です。こちらは「作者がわからない」と左注がいっていますが、長屋王の変は大伴家持と同時代です。編者が知らないわけがありません。藤原氏に配慮して作者名をいれなかっただけです。万葉編者が家持だとしたら、それこそ名前をだすことがはばかられたはずです。作者は家持の父親の大伴旅人だからです。

 旅人は長屋王の変のときに京にいませんでした。これが残念でならなかったのです。自分が京にいれば、将来を嘱望された膳部王は死ななくてもすんだーー。その気もちが詠わせたのです。

 どうして四四二番歌が旅人作だといいきれるのか。それは、旅人がこの歌とまったく同じフレーズをもつ歌を詠っているからです。


   大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首
   禍故重畳(くわこぢゅうでふ)たり、凶問累集(きょうも
   んるいじふ)す。永く崩心(ほうしん)の悲しみを懐き、
   独り断腸(だんちゃう)の泣(なみだ)を流す。但し、両
   君の大助に依りて、傾命(けいめい)纔(わづか)に継ぐ
   のみ。筆言(ひつげん)尽きざるは古今の歎く所なり。
       「災い、悪い知らせが重なります。心が崩れるほ
        どの悲しみを懐き、ひとり断腸の痛みに涙を流
        します。ここの両君の助けで、危なっかしい命
        を生きながらえています。筆言尽きざるは、古
        今の歎く所です」
 ○世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり(巻五 793)
  ・よのなかはむなしきものとしるときし いよよますますか
   なしかりけり
       「世の中が空しいものと知ったときこそ、悟るど
        ころかいよいよ悲しくなることだ」

 この歌は巻五の冒頭におかれています。作歌背景は正確にはわかりませんが、旅人が大宰帥として筑紫に滞在していたときのものです。筑紫の旅人に不幸があり、その弔問の礼状のようです。

 旅人が筑紫に赴任して間もなく、妻の大伴郎女が亡くなっています。これが凶問だったのかもしれません。そうだとすると、膳部王の追悼歌と旅人の凶問にこたえる歌は、ほとんど同時期につくられたことになります。(つづく)





●長屋王 Ⅳ●


 長屋王の最期をしるす日本霊異記です。ここに長屋王の重大な肩書き表記がでてきます。記事で確認します。


 [日本霊異記]中巻第一
    諾楽宮に宇大八嶋の国を御む勝宝応真聖武太上天皇、大
   なる誓願を発し、天平元年己巳の春二月八日、左京の元興
   寺で、大なる法会を儲け、三宝を供養す。太政大臣正二位
   長屋親王に勅して、衆もろの僧に供ふる司に任ず。時に一
   沙弥あり。濫りに供養を?る処に就きて鉢を捧げて飯を受
   く。親王見て、牙冊を以て沙弥の頭を罰つ。頭破れ血流る。
   沙弥頭を摩り、血を捫でて?ひ哭きて忽ちに觀えず。去る
   所を知らず。時に法会の衆道俗偸て?ひて言く、「凶なり、
   善からず」。二日を逕て、嫉妬する人ありて天皇に讒りて
   奏す、「長屋社稷を傾け国位を奪うことを謀る」。爰に天
   心に瞋怒して、軍兵を遣し陳ぬ。親王みずから念ひて、
   「罪なくして囚に執はる。此れ決定めて死す。他に刑殺さ
   るるよりは、みずから死ぬに如かず」と念ふ。即ち其の子
   孫に毒薬を服せしめて、絞り死なし畢りて後、親王薬を服
   して自害す。天皇、勅して、彼の屍骸を域外に捨て、焼き
   末き、河に散らし、海に擲つ。唯だ、親王の骨は土左国へ
   流す。時に其の国の百姓、多く死すと云ふ。百姓患ひて、
   官に解して言く、「親王の気により、国内の百姓、皆な死
   亡すべし」。天皇、之を聞きて、皇都に近づける爲に、紀
   伊国海部郡椒村の奥嶋に置く。嗚呼、惆みなるかな。…略…


 記事の内容です。

 天平一年二月、聖武天皇が元興寺(がんごうじ)で大法会をひらきます。このとき、供衆僧司だった長屋親王が、一人の沙弥(しゃみ)が濫(みだり)がましく供養の飯をうけるのをみておこります。もっていた笏(しゃく)で沙弥の頭を血がでるほどうち、その応報からざん言のため二日後に自害することになったというストーリーです。王は罪がなかったが、刑殺されるより自害することをえらびます。子どもを服毒させて絞殺、自分も服毒死します。天皇は亡骸を京の外へすて、骨をやきくだいて河や海へながします。王の骨だけ土佐へながすと、土佐の百姓が多数死にました。このため、王の骨を紀伊国海部郡の椒村(はじかみむら)の奥嶋(おきしま)にうつしおきます。このあとは、長屋王がどうして無実の罪で死ななければならないのかの、理由説明がつづきます。仏教の因果応報を説くのが目的の霊異記です。そこで、長屋王は大法会で僧にひどい仕打ちをしたからだと、因果を説明しています。

 長屋王は仏教にふかく帰依してたとされているので、この話はいささか信憑性に疑問もありますが、ここで気になるのが長屋王にかんする二つの肩書き表記です。長屋親王と太政大臣です。続日本紀は長屋王、左大臣で一貫していますが、親王の肩書きについては長屋王の邸宅跡から出土した木簡から、日本霊異記のほうが正しかったことが確認されます。太政大臣はどうでしょうか。 (つづく)

 イラスト・水戸成幸






●長屋王 Ⅲ●


 長屋王の右大臣としての最初の仕事が、皇太子、後に聖武天皇となる首皇子(おびとのみこ)の教育係の任命です。一月二十三日にメンバーを発表しています。皇太子の教育係の選任が万葉史観に大きくかかわってくるのですが、これはじっくり検証します。しばらくは、長屋王の足跡をおいます。

 この年の十二月、元明太上天皇が亡くなります。

 神亀一年(七二四)二月四日、元正が譲位して、皇太子の首が即位します。聖武(しょうむ)天皇です。これにあわせて、長屋王は左大臣へと昇進します。まさに順風満帆といったところですが、ここに落とし穴がありました。聖武の母である藤原宮子の称号問題がもちあがります。宮子は不比等の娘です。



 息子が聖武天皇になったため、母親である宮子の称号をどうするかが問題になったのです。天皇というか、藤原氏側は、天皇即位のどさくさ紛れに、二日後の六日に宮子を大夫人(だいぶにん)と称すことにします。これに長屋王がクレームをつけます。

 聖武が即位する前は、宮子の肩書きは夫人でしたが、これが大夫人となるわけです。しかし、規則によると、臣下の出の場合は大夫人ではなく皇太夫人と表記しなければならないというのが長屋王の言い分です。結局、長屋王の抵抗にあって、宮子は文書にのこすときは皇太夫人として、口頭では大御祖(おおみおや)になりました。藤原氏側が、長屋王の筋論におれた形の落着をみたのです。これが藤原氏をカチンとさせます。聖武も不快に思ったはずです。

 もともと良好とはいえなかった両者の関係は、これにより決定的となります。藤原氏は復讐の機会をうかがいます。そのチャンスが到来します、というよりあたためてきた計画を実行にうつします。長屋王が左道(邪な呪術)で国家転覆をはかったとして、王と吉備内親王一家を死へとおいやります。

 通説では、長屋王討伐には名分はない、つまり無実の罪とされます。しかし、藤原氏側は、長屋王の謀反を喧伝する絶好の材料を手にいれていたようです。王が父親高市皇子と母親御名部皇女(みなべのひめみこ)のためにしたためた写経の発願文です。この文面をみると、たしかに揚げ足をとられかねない内容かもしれません。関係部分を引用します。


 [寧楽遺文]長屋王写経発願文
    神亀五年歳次戊辰五月十五日、佛弟子長王、至聖発願し
   て、大般若経一部六百巻を写し奉る。其の経の行行に華文
   を列ね、勾勾に深義を含む。讀誦者は邪を?き悪を去り、
   披閲者はを納れ栄に臻る。此の善業を以て、登仙二尊の
   靈を資け奉り、各おの本願に随ひ、上天に往生し、弥勒
   に頂禮し、浄域に遊戯し、弥陀に面じ奉り、并びに正法を
   聽聞し、倶に无生の忍を悟らん。また此の善根をもって、
   現の御宇(あめのしたしろしめ)す天皇并びに開闢以來代代帝
   皇を仰ぎ資け、三   寳覆護し、百靈を衛らん。現在は
   栄を五岳と争ひ、壽を千齢に保ち、登仙せば、浄國に生ま
   れ、天上に昇り、法を聞き道を悟り、脩善成覺せん。三界
   の含識、六趣の靈を稟けたるも、願の遂げざるは无く、有
   心は必ず獲て、因果に明かにして、罪を達り、六度の因
   を滿し、四智の果円とならん。


 登仙二尊は道教の世界の中心的な存在で、ここでは長屋王の両親の高市皇子と御名部皇女をさすとされます。この登仙者が天皇、初代天皇から現在の天皇にいたるまでを護るとあります。これが僭越ととられたのでしょう。

「現の御宇天皇并びに開闢以來代代帝皇を仰ぎ資け、三寳覆護し、百靈を衛らん」

 ここにでてくる神亀五年(728)は、長屋王の変があった天平一年(729)の一年前です。文章じたいは道教の観念的な世界観をもとづいているとされるものの、藤原氏に絶好の口実をあたえたと思われます。この発願文が長屋王の変のきっかけになったとしたら、親孝行が身をほろぼしたわけです。皮肉というほかありませんが、発願文がなくても、長屋王の変は藤原氏の手によって実行されたはずです。

 いずれにしろ、藤原氏はうごきます。

 天平一年(729)二月十日、左京の漆部(ぬりべの)造君足(きみたり)と中臣宮処(なかとみのみやこの)連東人(あずまひと)らが、長屋王が謀反をくわだてていると密告します。

「左大臣の長屋王がひそかに左道を学んで、国家をかたむけようとしています」

 その夜、朝廷は三つの関所をかたくまもらせ、式部卿の藤原宇合(ふじわらのうまかい)、衛門佐の佐味虫麻呂(さみのむしまろ)、左衛士佐の津島家道(つしまのいえみち)、右衛士佐の紀佐比物(きさのひもつ)を派遣して、長屋王の邸宅をかこみます。

 もちろん、長屋王の謀反は事実ではなく、藤原氏の陰謀、でっちあげです。が、ことは周到に準備され、長屋王は手も足もでない状態でした。藤原氏は長屋王を失脚させるために外堀を埋めていたのです。東国への関所も固められていて、長屋王に近いとみられる東国の兵を動員することもかないません。

 翌十一日、朝廷はさらに、舍人(とねり)親王、新田部(にったべ)親王、大納言の多治比 池守(たじひのいけもり)、中納言の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、右中弁の小野牛養(おののうしかい)、少納言の巨勢 宿奈麻呂(こせのすくなまろ)らをつかわして、長屋王を訊問します。何の対抗措置をとることもできないまま、翌十二日、長屋王は自殺においこまれます。本人のほかに、妻の吉備内親王と、その子の膳部(かしわで)王、桑田(くわた)王、葛木(かつらぎ)王、鈎取(かぎとり)王が首をつって自殺します。

 これを長屋王の変(ながやおうのへん)といいます。事件の前年の神亀五年(728)に、大伴旅人(おおとものたびと)が筑紫大宰帥として筑紫へ赴任します。事件のあとの天平二年(730)に帰京します。大伴氏は軍事氏族として兵をうごかす立場にありました。しかも、長屋王に近い立場をとっていたので、藤原氏側が長屋王打倒のために先手をうって、旅人を京から遠ざけたとみられています。藤原氏はそれほど用意周到にことをすすめていたのです。

 以上は続日本紀の記事ですが、続紀にはなぜか、旅人の筑紫大宰府赴任の記事はのっていません。

 長屋王の変は、日本霊異記(日本現報善悪霊異記)にもくわしい経緯がしるされています。日本霊異記には長屋王にかんする重要な肩書き表記がでてきます。次回は、霊異記をみます。 (つづく)





●長屋王 Ⅱ●


 長屋王が文献に最初にでるのは万葉集です。「長屋王の故郷の歌一首」という題詞をもつ歌です。

   長屋王の故郷の歌一首=題詞
 ○吾が背子が古家の里の明日香には
  千鳥鳴くなり嶋待ちかねて (巻三 268)
   ・わがせこがふるへのさとのあすかには
    ちどりなくなりしままちかねて
       「愛しいあなたが住んでいた明日香では、主がい
        なくなって荒れてしまった島を待ちきれないと、
        千鳥が鳴いています」=訳
    右は今案ずるに、明日香より藤原宮に遷りし後、この歌
    を作るか。=左注

 歌を解説する左注に「明日香より藤原宮に遷りし後にこの歌を作るか」とあるので、宮殿が明日香から藤原へ遷ったあとで詠われたことがわかります。持統か、文武朝の歌ということになります。西暦でいえば700年前後です。長屋王は養老五年(721)に右大臣になったとき、三十八歳とつたえられます。これからすると、十八歳前後だったと思われます。

 この歌は長屋王が女性にかわって詠っています。女性が現在いる藤原京から明日香へ里帰りしましたという歌ですが、この女性こそ長屋王の妻となる吉備内親王(きびのないしんのう)の母親、元明天皇(げんめいてんのう)です。この時点では天皇になっていないので、阿閉皇女(あべのひめみこ)です。どうしてそういえるのか。理由は、歌にでる「千鳥が鳴く島」です。万葉集では、明日香で鳥が鳴く島は特定の場所をさします。草壁皇子(くさかべのみこ)の邸宅である島宮です。草壁は阿閉皇女の夫です。長屋王が女性になりかわって「吾が背子」とよんで、島宮がでてきます。この背子は阿閉皇女の夫の草壁ということになります。

 その島の確認です。万葉集の巻二に柿本人麻呂が草壁皇子の亡くなったときに詠んだ長歌一首と短歌二首がでてきます。この挽歌にはさらに、草壁の舎人(とねり)たちの二十三首の挽歌(ばんか)がつづきます。この舎人の歌群に、明日香にある草壁の「島の宮」がでてくる歌が十首あります。そのうち五首が単に「島」だけで草壁の宮をあらわしています。さらに島にからめて鳥がでてくることから、長屋王の「千鳥が鳴く島」が草壁の宮をさしているとしてかまいません。

 二十三首のなかで確認します。

 ○御(み)立(た)たしの島をも家と住む鳥も
  荒びな行きそ年かはるまで (巻二 180)
   ・みたたしのしまをもいえとすむとりも
    あらびなゆきそとしのかはるまで
       「お造りになった島を家と思っている鳥よ、家で
        ある島がすたれたからといって見すててくれる
        な、せめて年が変わるまでは」=訳

 草壁皇子につながる人たちにとっては、明日香の島といえばストレートに草壁の宮を指しているようです。長屋王が故郷で詠んだ島は草壁の島宮としていいようです。

 長屋王は故郷明日香に里帰りして、妻の亡き父親の宮を詠っているのです。この時点で、長屋王は吉備内親王と結婚していたはずです。それで、長屋王にとって草壁の島宮が特別の存在になっていたのです。

 この歌から判断して、長屋王の後ろ盾は妻の実家だったのです。草壁は亡くなっていますが、後に元明天皇となる、吉備内親王の母親は健在です。長屋王は実質的に、妻の実家の婿養子みたいな存在だったのかもしれません。いずれにしろ、のちに天皇となる母親と姉をもつ女性を妻にしているのです。当時としては天皇にもっとも近い男性皇族だったのです。

 ちなみに、二六八番歌の「嶋」をまちがいだとする本もあります。たとえば、澤瀉久孝(おもだかひさたか)の『萬葉集注釋(まんようしゅうちゅうしゃく)』が「嬬(つま)」に、折口信夫(おりくちしのぶ)の『口譯萬葉集(こうやくまんようしゅう)』では「君(きみ)」にしていますが、作歌の背景からしていずれもまちがいです。「嶋(しま)」でなければなりません。

 公的に登場するのは慶雲一年(704)です。無位から正四位に叙せられます。このあと和銅二年(709)に宮内卿、同三年に式部卿、養老二年(718)に大納言とトントン拍子に出世します。慶雲四年(707)に妻の母が元明天皇として、霊亀一年(715)に妻の姉が元正天皇として即位しています。式部卿以降の出世は妻の実家のおかげのようです。

 そして長屋王にとって、決定的な事件がつづきます。養老四年(720)です。この年二月には大隅の隼人が反乱をおこします。朝廷はこれを理由に、大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人持節大将軍に任命して大事にそなえます。同五月、舎人(とねり)親王が日本紀三十巻と系図一巻を撰上します。日本書紀が完成したのです。さらに八月にはいると、右大臣の藤原不比等(ふじわらのふひと)が病にたおれ、そのまま亡くなります。

 日本書紀は藤原不比等(ふじわらのふひと)が主導して編集されたと考えられます。内容的にも藤原氏に都合のいいようになっています。天智天皇を脚色することで不比等の父で藤原氏の祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり)がじっさい以上に偉大にえがかれているのです。

 そして主題の養老五年(721)です。この年一月五日、長屋王が不比等のあとの右大臣になります。右大臣より上の太政大臣、左大臣はいません。右大臣が事実上のトップです。天皇は妻の姉です。朝廷のすべてを長屋王がとりしきったはずです。

 いよいよ万葉史観プロジェクトのスタートです。後に聖武天皇となる首皇子の教育係の任命です。 (つづく) イラスト・水戸成幸
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長屋王 Ⅰ
2012-04-15 | 3 養老年間の元正朝 長屋王(ながやおう)ときいて、どんな人物像を思いえがくでしょうか。わかくして左大臣までのぼりつめ、わかくして藤原氏にやぶれさる悲劇の人というイメージです。平城京に広大な邸宅跡が発掘されて、話題になりました。邸宅跡から、皇位継承権をうかがわせる「長屋親王」と墨書された木簡までみつかりました。王は天皇の孫ですが、親王となると天皇の子どもです。続日本紀で王の肩書きのままにされた長屋王は、じっさいは天皇にもっとも近い男性皇族だったのです。

 当時は天武(てんむ)天皇と持統(じとう)天皇の血がものをいいました。天武には十人の皇子がいました。そのうち有力なのが持統が生んだ草壁皇子、持統と同母の姉の大田皇女が生んだ大津皇子、さらに皇女でない母をもつ高市皇子(たけちのみこ)の三人です。このなかでは草壁と大津がライバル関係にあり、そのため大津は持統の手によって死においやれます。

 草壁は持統の願いどおりに皇太子になりますが、皮肉にも即位する前に亡くなります。これが長屋王の悲劇の遠因になるとはだれも予想していなかったにちがいありません。

 持統は天武の血だけでなく、自分の血をひく子孫に皇統をつがせたいという強烈な意思がありました。このつよい思いは持統亡きあともひきつがれます。草壁の子どもを文武(もんむ)天皇として即位させ、さらに文武がわかくして亡くなると、文武の子どもを聖武(しょうむ)天皇として即位させます。

 持統の思いを実現するのは藤原不比等(ふじわらのふひと)です。

 不比等は、天武と持統の子孫を即位させるために、強引に女帝をたてていきます。持統じしんが草壁、さらには文武のつなぎとして、嫁の元明(げんめい)天皇と孫娘の元正(げんしょう)天皇は聖武のつなぎとしたのです。まさに血の執念です。

 しかし、元明朝のおわり、さらに元正朝にはいると、天皇家と不比等の関係がくずれます。朝廷は聖武ー藤原氏と、元正ー皇親派の対立が表面化します。最終的には聖武と藤原氏も対立しますが、元正朝までは二つの系列が対峙します。

 元正についた皇親派が長屋王と橘諸兄(たちばなのもろえ)です。しかし、皇親派は諸兄を最後に力をそがれ、さらには持統の血まで皇統から放逐されるのです。

 持統が自分の血を皇統にのこすためにくんだ不比等の子孫によって、持統の血が皇統から消えていくのです。歴史の皮肉という以外ありません。

 こうした時代に長屋王は朝廷で実権をにぎり、それゆえに、藤原氏に敗れさることになるのです。長屋王は藤原氏にやぶれるのですが、権力の座についた一瞬に、人知れず藤原氏の野望をうちくだいていたのです。不比等が手をそめた歴史改ざんの証拠を、日本書紀そのものに埋めこんだのです。
 日本書紀に書きこまれた長屋王の筆の跡をたどる、これが万葉史観です。


 長屋王の父親は高市皇子です。高市は天武天皇の皇子です。長屋王は天武の孫ということになります。天皇の孫というと「なーんだ」と思うかもしれませんが、高市皇子は天武亡きあとの持統朝で皇太子的な扱いをうけていました。「後皇子尊(のちのみこのみこと)」が追贈されていますが、これは皇太子と同等です。

 母親は御名部(みなべ)皇女とされます。御名部は元明天皇と同母の天智(てんじ)の娘です。妻は草壁皇子と元明の娘の吉備内親王(きびのないしんのう)です。吉備内親王は元正天皇と同母の妹です。

 サラブレッド中のサラブレッドだということがわかります。

 長屋王の優れているのは、血統だけではありません。高い見識をもつ政治家にして、道理の人でもありました。仏教をあつく信じ、文武天皇が亡くなったときに大般若経六百巻を書写させています。これは王の私邸でおこなわれたともつたえられます。どことなく、日本書紀のえがく聖徳太子のイメージとかさなります。 (つづく)


2 二つの万葉集

2013-01-06 | 万葉史観Ⅰ 天智東征

●二つの万葉集 Ⅲ●

二つの万葉集 通説によれば、巻一原撰部最後は、「藤原宮の役民の作る歌」(50番歌)、「明日香宮より藤原に遷りし後、志貴皇子の作る御歌」(51番歌)、「藤原宮の御井の歌一首并びに短歌」(52-53番歌)です。それぞれ、藤原宮建設および遷都の歌です。

 藤原遷都は持統天皇になってからですが、藤原京じたいの計画は天武天皇がしています。したがって、原万葉の編集は、天武天皇の意向、歴史観が反映されていたはずです。しかし、その原万葉の編集方針は天武が亡くなって、持統と藤原不比等によって天武の歴史観から大きくそれていきます。


 徳田浄が指摘するように、日本書紀と万葉集巻一、二の編集は内容的に連動していた可能性があります。つまり、書紀と原万葉は、天武が亡くなるまえは、原万葉集の前身ともいうべき原・原万葉原撰部と日本書紀ともに、天武の歴史観が反映されていたはずです。それが、天武が亡くなってからは持統、不比等の歴史観によって全面的にぬりかえられていったのです。日本書紀が完成した養老四年以前の原万葉は、この持統、不比等の歴史観にもとづいた編集になっていたのです。

 持統と不比等の歴史観にぬりかえられた万葉集、これが本来のいわゆる原万葉原撰部です。養老四年以前の段階の万葉集です。そして、これこそが大事なことですが、この段階までにとられていた歌は1ー53番歌のうちの3、4番歌と13-15番歌の五首をのぞいた四十八首と、巻二にまわされた196ー227番歌の三十二首の八十首構成だったはずです。

 さらに、養老四年以前の原万葉原撰部にあった5ー12番歌、16ー21番歌の十四首はすべて左注(歌の後ろにつく解説)はなかったはずです。5ー12番歌、16ー21番歌の左注(問題の類聚歌林引用に代表される解説)は、あとで追加された3ー4番歌、13ー15番歌の尋常ならざる題詞と左注とまったく同じスタンスで編集されています。この編集スタンスは、いずれみますが、中大兄(天智天皇)をコケにするものです。その異常な左注が不比等主導の原万葉集原撰部にあるはずがありません。だいたいにして、先行万葉集に異常な解説があったら、藤原定家がこれを優先して参考テキストにするとは考えにくい。もうすこしみてみます。


 原万葉集の構成を整理します。

 ⊂万葉集⊃巻一、二の変遷

 原万葉集原撰部(和銅六年に完成)
     1-2、5-12、16-53、196-227

 原万葉集(養老四年までに完成の巻一、二)
  巻一 1-2、5-12、16-53
  巻二 196-227

 先行万葉集(大伴家歌集に原万葉集を取りこんだ万葉集)
  巻一 1-2、5-12、16-53、54-83、(84?)
  巻二 (85-195の一部)、196-227、228-234

 現行万葉集(先行万葉集に類聚歌林の歌と解説を追加)
  巻一 1-2、3-4、5-12、13-15、16-53、54-83 84
  巻二 85-195、196-227、228-234


 養老四年までの原万葉集巻一、二は、藤原不比等主導のもとにまとめられました。基本的には元明天皇の意向も反映されていたと思われます。この原万葉集段階の編集には、万葉史観は影も形もなかったはずです。ごくごくふつうの歌集でした。

 ところが、この単純な歌集である養老四年以前の原万葉集が、大伴家持が編集する段階で日本書紀に異議申し立てをする歴史、政治の歌集へと変質したのです。万葉集を歴史書へと変質させる編集をしたのは家持ですが、その青写真をえがいたのは山上憶良(やまのうえのおくら)をメンバーとするグループです。
 日本書紀が完成した養老四年(720)に、藤原不比等が亡くなっています。不比等の肩書きは右大臣、このときの朝廷のトップです。翌養老五年一月に、反藤原の旗頭、長屋王が右大臣になります。右大臣になるや、長屋王は皇太子の教育係という名目で、山上憶良らを召集します。このグループが不比等に改ざんされた日本書紀の部分修正と、その修正部分への案内を歌にあみこみます。これが万葉史観です。

 日本書紀告発の歌群(万葉史観)は、おそらく山上憶良の『類聚歌林』にとりこまれました。いっぽう、家持は大伴家の歌集を編集しており、それが最終的に養老四年以前の原万葉である巻一、二をとりこんで万葉集としてまとめられたのです。大伴家の私歌集を編集していた家持に、橘諸兄が原万葉集をわたしたのでしょう。このとき、類聚歌林も一緒に家持の手にわたったかもしれません。あるいは、類聚歌林だけは憶良の上司である大伴旅人をとおして家持へともたらされかもしれません。

 この想像が正しければ、養老四年以前の原万葉(巻一、二)をとりこんだ大伴家集が、藤原定家が参考にした万葉集ということになります。「先行万葉集」です。これはだれが読んでも、歴史的、政治的にまったく問題のない歌集です。家持はこれを朝廷むけに公開するつもりだったのでしょう。

 そのいっぽうで、万葉史観をとりこんだ万葉集を編集します。おそらく、家持は類聚歌林をそっくりとりこんだと思われます。類聚歌林からとりこんだ歌が、定家の参考にした先行万葉集になくて、現行万葉集に存在する歌群です。類聚歌林にあった歌や解説は、二十巻すべてにわたってわりふられたはずです。

 ほんとうにそんなことがあるのか。巻一、二のすべての歌をここで確認して、次へすすむことにします。歌の内容がわかるように、近々に1ー234番歌の題詞をつけています。



●二つの万葉集 Ⅱ●

 現在の万葉集がすでに完成したとされる平安時代に、二種類の万葉集があったのです。一つはいうまでもなく、現在につたわる万葉集です。そして、もう一つは現存する万葉集の先行本と考えられます。これをとりあえず「先行万葉集」とします。

 二種類の万葉集が併存した、そんなことがあるのか。それがどうもあったのです。藤原定家(ふじわらのていか)があらわした「定家長歌短歌之説(ちょうかたんかのせつ)」で確認できます。万葉集の異本はいくらでもありましたが、勅撰歌集の新古今集をまとめた定家の著作にでてくるのですから、いい加減なものではありません。

「長歌短歌之説」は、長歌と短歌の定義をするためにあらわされました。当然すぎる正名のきっかけは、『古今和歌集』です。古今集で紀貫之(きのつらゆき)ら古今編者が、長歌を「短歌」と表記したため、長歌と短歌に混乱がありました。紀貫之らは、タイトルに「短歌」と書きながら、じっさいには長歌をのせているのです。ちなみに、貫之以外の古今集の編者は、紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)です。

 貫之らがどうして長歌を短歌と表記したのか、理由はわかっていません。しかし、日本最初の勅撰和歌集である古今和歌集の編者たちがそろって長歌を短歌としたのです。そのため、当時の歌人たちも本気で長歌を短歌と理解していたようです。

 そこで、定家は混乱を収拾しようと、万葉集が長歌と短歌をどのように表記しているか、検証作業をしたのです。その検証結果が長歌短歌之説としてのこりました。このとき、定家が検証にもちいた万葉集のテキストが、ここでいう先行万葉集です。定家が長歌と短歌之関係について検証にもちいたのですから、抄本などであったはずはがありません。れっきとした正本万葉集です。

 長歌短歌之説に先行万葉集のすべての歌がとられているわけではありません。とりあげた歌は全文を引用しているものもありますが、大半は題詞だけを引用しています。題詞で歌を特定しているので、題詞のない長歌は一首もとりあげていません。しかし、この編集態度からして、題詞をもつ長歌はすべてとりあげていると考えてよさそうです。

 現万葉集と先行万葉集を長歌にかぎって比較すると、現万葉集は先行本に歌と解説を追加しただけのようです。つまり、現万葉集の編集段階で、先行本の長歌を削除するということはなかったことになります。ただし、短歌(反歌)には、現万葉集にない歌が先行本にあります。ここでは短歌は関係ありませんので、長歌だけにしぼります。

 それでは、原万葉集といわれる巻一、二で、現万葉集と先行万葉集はどうちがっているか。巻一の長歌は現万葉集が十四首、定家が引用した先行万葉集が十二首です。巻二は現行万葉が十九首、先行万葉が九首です。現行万葉集は、先行万葉集に巻一で二首、巻二で十首もの長歌を追加したことになります。巻三以降も、原万葉集にあって、先行万葉集に収載されない長歌は相当数にのぼります。

 ここでは、原万葉といわれる巻一、二が問題なので、巻三以降はあつかいません。

 現万葉集が先行万葉集に追加した長歌は、巻一が3番歌(反歌一首)、13番歌(反歌二首)です。巻二は冒頭(85番歌=短歌)から194番歌(反歌一首)までに載録される長歌十首です。次の長歌196番歌(反歌二首あり)以降は、現万葉も先行万葉もまったく同じです。

 巻二の場合、冒頭から194番歌までの長歌はすべてなかったとしても、短歌はどうでしょうか。長歌短歌之説は、短歌の題詞、あるいは注に「短歌」と表記されていればとりあげていますが、短歌の表記のないものは反歌以外はのりません。長歌の題詞のないのと同じ扱いです。

 したがって、断定はできませんが、おそらく巻二は冒頭85番歌から194番歌、その反歌一首195番歌までなかったと思われます。巻二は、先行万葉集に大量の歌が追加されたのです。

 日本書紀書きかえ情報である万葉史観は、すでにふれたように、類聚歌林に一時的に保管されました。それを裏づけるのが類聚歌林引用の左注ですが、先行万葉集に類聚歌林をそのままとりこんだのが現行万葉集ということになりそうです。

 類聚歌林に収録された歌や解説のすべてが万葉史観というわけではありません。万葉集にとりこまれた類聚歌林の資料や情報で万葉史観と無関係なものは、類聚歌林のクレジットがつかなかったのでしょう。

 ところで、藤原定家は十二世紀の終わりから十三世紀前半(1162ー1241年)に生きています。この時点で現在の万葉集は確実に存在しています。現行万葉集が存在しながら、定家はどうして別の万葉集を参考にしたのでしょうか。歌のエキスパートが、現在につたわる万葉集があるのを知らないはずがありません。そうだとしたら、定家は先行万葉集が本来の姿をとどめていると判断したのです。

 理由は容易に想像がつきます。先行万葉集と現行万葉集をくらべれば、内容の差は一目瞭然です。万葉史観がおりこまれていない先行万葉集と現万葉集をならべたら、現万葉集の異常さは歴然です。現万葉集の巻一の3ー21番歌は、まっとうな鑑賞眼をもっていれば、藤原定家でなくても採用しようとは思いません。文学、芸術として万葉集を楽しむなら、先行万葉集を優先するはずです。

 先行万葉集と現行万葉集二つの万葉集の完成時期は、どうなっているでしょうか。定家がつかった万葉集が先、それに歌と解説を加えたものが現在つたわる万葉集とするのが自然です。このぎゃくは考えにくい。抄本なら別ですが、すでにくみこまれている歌を、いちいちはずしていくような作業はしません。すでにあるものをはずすとしたら、それがまちがってはいりこんだことが確実のときです。

 編集時期は先行万葉集が古く、現万葉集が新しい。これでいいと思いますが、二つの万葉集の最終編者はだれでしょうか。通説では、大伴家持が万葉集の最終編者とされます。これはまちがいないと思われます。それなら、家持はどちらの万葉集の最終編者でしょうか。ふつうに考えれば、先行万葉集ということになります。家持が最終編者だとしたら、先行万葉集はおそくとも八世紀のおわりまでには完成していなければなりません。

 現存の万葉集はどうでしょうか。先行万葉集に手をくわえているのですから、先行万葉集よりはやいことはありません。どんなにはやくても、先行万葉集とほぼ同時の完成です。同じ時期の完成だとしたら、二つの万葉集は家持がつくったことになります。この可能性は高いと思われます。

 というのは、3番歌から21番歌までは、すべて同じ編集スタンスだからです。万葉歌には歌本体のほか、タイトルに当たる題詞、編者の説明である注がつきます。なかでも3番歌から21番歌の十九首はおおくに題詞や左注がつきますが、ことごとく異常ともいえる細工がほどこされています。この十九首はまったく同じ編集意図で作業されたのです。

 それではどうして3ー21番歌のうちの3-4番歌群と13-15番歌群が先行万葉集からぬけおちたのか、説明がつきません。ただし、二つ万葉集の最終編者が大伴家持だとしたら、ある程度は想像がつきます。(つづく)



●二つの万葉集 Ⅰ●

 徳田浄は万葉集と日本書紀編集の時間的側面を中心にとりあげていますが、編集内容そのものからも両書の関連性を指摘しています。その根拠として、万葉集歌と書紀歌謡の時代的な採録頻度に相関性があること、万葉集には書紀掲載歌との重複がないこと(じっさいには一首あるが別系統で採録したとする)、万葉集の天皇名表記が書紀と一致していることなどをあげて、万葉集の編集が書紀をにらみながらおこなわれた可能性を指摘します。

 それでも、徳田は万葉集と書紀が同じ歴史観を共有しているとまではいっていません。あくまでも、編集の機運の盛りあがり、あるいは編集作業のすすめかたが共通するということのようです。それにしても、万葉集と書紀の編集が相互に関連しているという徳田の指摘はほかに類をみないものです。しかも、正しいようです。『萬葉集成立攷』の歌の注記の詳細な時代考証をみればうなずけます。

 徳田の万葉集成立論はおおくの示唆をあたえますが、おしむらくは、徳田の指摘は表面にとどまっています。成立の時間的な流れに重きがおかれ、編集の動機というか、思想的な背景までふみこんでいません。徳田は万葉歌の時代考証にあたって、現行万葉集の巻一冒頭部の尋常ならざる解説に手をやいたのでしょう。それで、万葉集の編集的方向性と、日本書紀に流れる思想性を関連づけることができなかったのです。

 万葉集は純粋に歌集としてみたとき、ひじょうにいびつな形をしています。形がくずれています。歌集としては編集態度が不誠実といわざるをえません。それは巻一冒頭3ー21番歌の十九首をみれば一目瞭然。歌の注記である題詞や左注(歌のうしろにつく解説)が歌の理解をたすける役目を果たしていません。当然です。巻一冒頭歌群の左注についていえば、万葉集の最終編者は歌の解説などしていないからです。

 それならどうして、これまで支離滅裂な解説が放置されてきたのか。

 徳田にかぎらず、研究者たちは万葉集の注記の異常さに目をつむってきたのです。無垢で素朴な万葉集に、おかしなことがあってはいけないのです。政治でけがれてはならないのです。俗塵にまみれてはいけないのです。しかし、事実と願望は別です。万葉集に発明など必要なかったのです。偏見と先入観を排して万葉集をながめれば、そこにありのままの万葉集がみえてきます。発明される前の万葉集を鑑賞するのです。

 これまでの万葉学にあって、徳田の成立論は異彩をはなっています。万葉集は純粋文学ではないというのです。万葉集の成立は朝廷の政治的な空気をうつしていたのです。

 ここまで感じとっていて、徳田から万葉史観的な発想がわかなかった最大の理由は、徳田説が万葉集の有力な最終編者の一人を大伴家持としならが、その編集自体は朝廷の意向にそったものだとしたからです。権力側の政治的、文化的な気分の高揚感にあわせて万葉集が成立したと考えたのです。

 万葉史観はちがいます。有力な万葉集の最終編者の一人が家持であるというのは同じですが、万葉編者が目指すものは書紀がえがく歴史の軌道修正です。日本書紀とは対立した存在なのです。

 徳田は万葉集のコアである巻一、二の成立を養老五年(721)におきます。理由は養老二年の養老律令撰定と同四年の日本書紀完成です。これと徳田じしんの時代考証によって、原万葉集の成立を養老五年とみちびきだしています。

 しかし、書紀の完成はともかく、万葉集のコア成立は、たんなる朝廷の時代空気などではありません。万葉編者側の事情があったのです。それは万葉史観全体で確認しますが、万葉編者側にとって養老五年でなければならない理由がありました。

 養老四年に日本書紀が完成して、直後に書紀編集を主導した藤原不比等が亡くなります。翌五年、不比等のあとをついで長屋王が右大臣につきます。このタイミングに、反藤原の長屋王は、不比等主導の書紀の歴史の修正をはかったのです。この修正部分の情報が、万葉史観として万葉集にとりこまれたのです。この経緯はあとで詳細に確認します。

 それはともかく、万葉集は左注に日本書紀を引用します。その引用は巻一、二にかぎられます。すくなくとも書記の名前をだしての引用はこの二巻だけです。書紀からの引用記事は万葉歌の解説のためだけでなく、万葉史観に連動する書紀の記事への誘導につかわれています。というより、万葉集の書紀引用は、あきらかに読者を書紀へ誘導するためです。

 引用といえば、万葉集には続日本紀からの引用は一つもありません。歌の数でいえば、続紀とかさなる時代のほうが圧倒的におおいのです。万葉編者はどうして続紀から引用しなかったのか。続紀の完成が延暦十六年(797)とおそかったからです。徳田によれば、続紀の一ー三〇巻は宝亀一年(770)には草稿ができあがっていますが、万葉編者は続紀をじっさいにはみることができなかったのです。それで引用しようがなかったのです。これは万葉集が勅撰歌集でないことの裏付けになるかもしれません。

 日本書紀の場合はどうでしょうか。現実に書紀から引用しているのですから、書紀からの引用が必要なら全巻にわたってでてきて当然です。それが、巻一、二にかぎられるのは、どんな事情からでしょうか。巻一、二の編集段階で書紀をみることができたのはまちがいありません。それなのに、巻三以降には書紀の引用がない。考えられる理由はただ一つ、巻三以降の編集に書紀をつかうことができなかったのです。

 万葉編者側は巻一、二の編集のときだけ、日本書紀と接触できたのです。そしてこのとき、万葉集と書紀の編集が連動したのです。このタイミングで、万葉集史観のデータの埋めこみと書紀の記事の書きかえがおこなわれたのです。

 日本書紀と万葉集の編集が連動できた一瞬、それが徳田が巻一、二が完成したとする養老五年です。長屋王が朝廷を牛耳って、反藤原派が日本書紀を自由にできた養老五年だったのです。

 以上が、徳田浄と万葉史観の万葉成立論です。しかし、万葉集が現在の形にまとまるまでの経過は、徳田がイメージしたよりはるかに紆余曲折しています。現在の万葉集の形ができあがった平安時代にはいっても、複数種類の万葉集があったことが知られています。そのおおくは、本来の万葉集から歌を抜粋した抄本万葉集と考えられています。しかし、万葉集が定着した平安時代に、ちゃんとした万葉集が二種類あった可能性があります。次回、確認します。(つづく)



1原万葉集の成立

2013-01-06 | 万葉史観Ⅰ 天智東征

●養老五年の原万葉集 Ⅲ

2012-04-09 | 1 原万葉集の成立 万葉集の成立は、ことほどさように複雑です。もともとの歌集とは別の編集の手がくわえられているからです。それはどのような手順をふんで編集されたのか、これをみていきます。

 日本書紀の歴史を修正する案内が、万葉集にいつくみこまれたのか、これに大きな示唆をあたえてくれるのが徳田浄の万葉集成立説です。『萬葉集撰定時代の研究』と『萬葉集成立攷』をあらわして、万葉集が古事記、日本書紀、続日本紀と互いに連動して編集されたと説きます。その結論として、万葉集は官撰歌集で、大伴家持はじめ大伴氏が編集に参加したとします。

 徳田は、二十巻にまとめられた四千五百首あまりの歌を詳細に時代考証しています。巻ごと、歌群ごとに歌の注記の年代の上限と下限をあきらかにして、編集された時代を特定していきます。さらに、日本書紀や古事記の編集時期から、両者の編集が連動していることを解きあかします。もっとも詳細な万葉集の成立論といっていいかもしれません。

 徳田によると、万葉集の巻一、二は六グループに分かれます。これは通説とほぼ同じです。六グループは、A(巻一の1ー53番歌)、B(巻一の54ー83番歌)、C(巻一の84番歌)、D(巻二の85ー140番歌)、E(巻二の141ー227番歌)、F(巻二の228ー234)です。徳田は二十巻すべてにわたって検討を加えていますが、巻一、二のAーFについてはきわめて詳細な検討をくわえてています。


 ⊂原万葉集⊃徳田浄の巻一、二グループ分け

  巻一 ┌─┐   巻二 ┌─┐
     1        85
     - A      - D
     53        140 
     └─┘      └─┘
     ┌─┐      ┌─┐
     54        141
     - B      - E
     83        227 
     └─┘      └─┘
     ┌─┐      ┌─┐
              228 
     84 C      - F
              234 
     └─┘      └─┘


 この成立論はひじょうに厳密で、膨大なデータを動員しています。したがって、こまかく紹介することはできませんので、「萬葉集撰定時代の研究」から結論だけを引用します。
 徳田の考証によると、万葉集はまず巻一の核部分が成立します。つまり、Aが最初に成立したとします。その理由です。


[萬葉集撰定時代の研究]巻一の部分成立
   文武天皇四年三月十五日、諸王臣に詔して令文を讀習せしめ又
  律條を撰成せしめ給ひ、更に同年六月十七日に刑部親王、藤
  原不比等に勅して律令を撰定せしめ給ふたが、大寶元年八月
  三日に至って始めて成功した。所謂大寶律令であって、翌二
  年にこれを讀習せしめ又天下に頒った。右に對して別事業で
  ある國史撰修は大寶、慶雲の年間に日本書紀の曹案が成って
  も、まだ完璧に到らなかった。慶雲年間に懐風藻に含められ
  た古詩集が成り、また萬葉集巻第一に取込まれたAの成書が
  成立した。


 これによると、文武四年(700)ー大宝一年(701)に律令の草案がととのいます。さらに大宝ー慶雲年間(701ー707)ごろ、後に日本書紀、古事記となる国史の草稿もできあがります。これにあわせて詩歌集の編集も一つの区切りをみます。それが日本最初の漢詩集である懐風藻(かいふうそう)の草案です。徳田は懐風藻の成立についてもくわしく論証していますが、ここではとりあげません。朝廷は漢詩集の編集に並行して、さらに和歌集の編集もすすめていきます。これが万葉集のコアとなる巻一のA部分というわけです。
 
 巻一の核部分につづけて、巻二が成立します。これが元明朝の和銅六年(713)ごろです。この経緯について、徳田はつぎのようにしるします。


[萬葉集撰定時代の研究]巻二の成立
   元明天皇の和銅元年四月より和銅六年五月までの間に萬葉集巻
  第二の中のDEの成書が出來たが、前月の六年四月十六日には先
  に成った新格を天下に頒たれ、前年の五年正月二十八日には稗田
  阿禮の誦習した舊辭を太朝臣安萬侶が採?して古事記が成り、六
  年五月には諸國に制して風土記を上進せしめ、翌年七年二月十日
  には紀 清人、三宅 藤麻呂に詔して國史を撰ばしめ給うた。


 この説明によれば、巻二は和銅一年(708)から和銅六年(713)のあいだに編集作業がすすめられます。これは和銅六年の古事記完成に連動しています。古事記に連動する文化的な動きは、万葉巻二のほかに風土記(ふどき)収集があります。全国の土地につたわる風土記を朝廷に献上するように命じています。さらに、和銅七年(714)に、紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)が国史撰修メンバーへ追加的に参加します。紀清人らの国史撰修参加は養老四年(720)に撰上される日本書紀の編集布陣の強化のため、と徳田はみています。

 つぎに巻一が増補され、巻一の最後の一首(C=84番歌)をのこして巻一、二が完成します。この二巻は原万葉ともよばれ、万葉集の核となるものです。徳田はこの二巻の完成を養老(ようろう)五年(721)のこととします。日本書紀が完成した翌年です。
 巻一、二の完成は、元正朝の養老二年(718)の養老律令の撰定、養老四年(720)の日本書紀完成に連動したとします。徳田は原万葉集といわれる巻一、二の完成を日本書紀の完成と関係していると断定しています。
 つまり、万葉集巻一、二と日本書紀の編集は並行しておこなわれたとみているのです。


[萬葉集撰定時代の研究]巻一、二の成立
   元正天皇養老二年に藤原不比等が勅を奉じて撰した律令各十巻
  が成ったが、これが所謂養老律令である。養老四年五月廿一日は、
  是より先に舎人親王が勅を奉じて撰する所の日本紀三十巻、系圖
  一巻が成って奏上された。これに伴って養老五年より末年(養老
  八年二月三日)までの間にAにBが添加されてAB、DEに二巻
  が成立した。


 巻一、二が養老五年(721)に成立したという徳田の直感は、おそらく正しい。万葉史観があつかう万葉史観も、書紀が撰上された翌年の養老五年が起点となります。この年に、万葉集と日本書紀が形づくられたのです。

 ただ、徳田は養老五年の万葉集巻一、二を現存するものと同一としています。原万葉集といわれる巻一、二が現在の万葉集にそのままとりこまれたと考えています。しかし、養老五年にいちおうの完成をみたのは、おそらく徳田の考えたものとはちがいます。現在の万葉集より歌数が少なく、解説もついていないものが相当数あったはずです。「現」万葉集にあって「原」万葉集にない資料こそが万葉史観です、この資料はいったん類聚歌林にとりこまれたと考えられます。

 徳田が「原万葉集」の巻一、二から感じとった時代感は、養老四年以前に藤原不比等が主導してまとめられた原万葉集のものではなく、万葉史観の風味づけされた現在の万葉集の巻一、二だったのです。

 ところで徳田は、巻一、二の完成を養老律令撰定、日本書紀完成とむすびつけていますが、これを時間的な関連としています。もちろん、時間的な関連のうらには、それらを完成させる朝廷の時代空気というか、思いがあるわけです。徳田はそれを当然のこととして、それ以上の説明はしていません。しかし、以上みたように、養老五年の万葉集巻一、二の編集作業は日本書紀の完成とたんに時間的に連動しているだけではありません。この年に万葉集、あるいは万葉史観と書紀が編集的に一体となるのです。養老四年に完成した日本書紀は、万葉史観に連動するよう養老五年に部分的に書きかえられたのです。これが万葉史観の主題です。万葉史観の仕組みについては、このあと紹介します。(つづく)



●養老五年の原万葉集 Ⅱ

2012-04-08 | 1 原万葉集の成立 原万葉集ともいうべき巻一、二は、基本的に時代順に歌がならびます。しかし、初っぱなの巻一冒頭部で、この原則がくずれます。

 あきらかに歌の時代配列に逆転がみられるのが、8ー15番歌のあいだです。この八首は、8番歌、9番歌、10ー12番歌群、13ー15番歌群の四つのグループにわかれます。これを通説の時代順にならべかえると、「9」→「10ー12」→「13ー15」→「8」となります。

 9番歌と10ー12番歌群は、斉明四年(658)の斉明天皇の紀国行幸のときです。10ー12番歌群は正体不明の中皇命の紀国旅行で詠われたことになっていますが、左注がこれを斉明天皇の紀国行幸へと変更しているので、斉明の紀国行幸時の歌だということになります。

 8番歌と13ー15番歌群は、通説では、斉明が百済救援のために難波から筑紫へむかう途中で詠まれたことになっています。斉明七年(661)のことです。13ー15番歌群は播磨(はりま)沖で、8番歌は伊予(いよ)の熟田津(にぎたつ)で詠まれたとされます。難波を出発して筑紫を目ざすなら、播磨を通過してから伊予へといたることになります。通説どおりなら、播磨灘のほうが、伊予より時間的に先になります。倭(やまと)の三山歌(13ー15番歌群)は中大兄が詠んだとされる播磨灘の歌で、額田王作とされる8番歌は伊予の歌です。あきらかに歌の配列がぎゃくです。

 歴史的事実としての時代配列の矛盾に、これまでは巻一冒頭は歌が時代順に配列されていなかったのだろうとされます。そんなことがあるでしょうか。歌がつくられた時間経過がわかっているのに、それをあえてランダムに配列するほうが編集的にはやっかいです。

 ふつうに考えて、8ー15番歌の時代配列の乱れをたまたまの錯誤とするわけにはいきません。というのは、8番歌一首を、13ー15番歌のうしろに移動するだけで時代配列の矛盾は改善されるからです。それを訂正していないということは、いっけん矛盾する時代配列は確信的な編集だったということです。

 つまり8ー15番歌は、巻一原撰部とはちがった編集方針のもとでとられているのです。直感的に不自然な編集の痕跡をのこす3ー21番歌の十九首は原撰部本来の編集方針とは別の編集の手がはいっています。しかも、このなかには、ほぼ確実に原撰部になかった歌があります。巻一冒頭の1ー21番歌の編集は、歌集万葉集とはまったく別の編集方針のもとでおこなわれたのです。

 もともと原撰部になかったと考えられる歌は、3ー4番歌群、13ー15歌群です。これはこのあと確認します。(つづく)
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養老五年の原万葉集 Ⅰ
2012-04-07 | 1 原万葉集の成立 以上が万葉集巻一成立の通説です。しかし、万葉史観の万葉成立の考えはちがいます。原撰部にふくまれる3ー21番歌の十九首は、もともと原撰部にはなかったか、あっても後の編者の手がはいっている可能性が高い。この十九首はすべて万葉集のほかの歌とはちがう編集上の細工がほどこされています。

 一連の歌群はふつうに読んで、あきらかにおかしい解説、変則・異例表記のオンパレードです。おかしな解説にはきまって山上 憶良(やまのうえおくら)の『類聚歌林(るいじゅうかりん)』が引用されています。類聚歌林は万葉集に九つ引用されていて、そのうちの五つが巻一冒頭の21番歌までにでてきます。類聚歌林引用の解説の異常さはこれから検討しますが、類聚歌林引用の解説もおいおい紹介します。類聚歌林引用の五首は、6、7、8、12、18番歌の五首です。十九首の尋常ならざる編集は、ほかの原撰部の歌と明確に一線を画します。

 十九首の歌群と、これに関連する歌群の不自然な案内、これこそが万葉史観です。万葉集の不自然な案内にしたがって日本書紀の記事をたどっていくと、書紀の歴史に修正がかけられていくのです。これが万葉史観のテーマです。そこで、ここでは万葉集の成立を確認するために、問題の十九首がもともと原撰部にあったのではなく、あとで追加、あるいは編集的な細工をほどこされた可能性を指摘します。

 どのようにおかしいか、具体的に13-15番歌で確認します。


[万葉集]巻一の13ー15番歌群

  中大兄(なかのおおえ) 近江宮御宇天皇 三山の歌一首(題詞)

○香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かく
 なるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも 妻を 争
 ふらしき (巻一 13)
 ◇かぐやまはうねびををしとみみなしとあひあらそひき かみよ
  よりかくなるらし いにしへもしかなれこそうつせみもつまを
  あらそふらしき

  反歌

○香具山と耳梨山とあひし時 立ちて見にこし 印南国原 (巻一 14)
 ◇かぐやまとみみなしやまとあひしとき たちてみにこしいな
  みくにはら

○わたつみの豊旗雲に入り日さし 今夜の月夜 清明くこそ (巻一 15)
 ◇わたつみのとよはたぐもにいりひさし こよひのつくよあき
  らけくこそ

  右の一首の歌は、今案ずるに反歌に似ず。但し、旧本この歌
  を反歌に載せたり。故、今この次に載す。また紀に曰く、天
  豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇の先
  の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となすといふ。(左注)


 この題詞は、ながめるだけならとくに問題あるようにはみえません。「中大兄という人物がつくった三山の歌一首です」。さらにそのなかに注釈がはいって「この作者は近江宮で天下を治めた天皇のことです」、以上が題詞の情報のすべてです。

 この題詞のおかげで、三角関係をテーマに詠まれた大和三山歌が、のちに天智天皇となる中大兄作であることを知ることができます。しかし、この題詞は、万葉集の編集ルールから大きくはずれます。ルール違反はたんなる言葉の置きかえといったものではありません。ルール違反のベクトルはあきらかに中大兄の身分をおとしめる方向へむいています。これほど失礼な題詞はほかにはありません。どう失礼か、確認します。

 この題詞には万葉集の編集ルールにそわない表記が二つあります。原文はわずか十五文字しかないのに変則表記が二つもあるのです。

 万葉集は天皇の子どもには、天皇の子どもあることを明確にするために名前のあとに「皇子」をつけます。しかし、この題詞には皇子がつきません。「皇子」がつかない天皇の子どもは中大兄だけです。ここは中大兄を呼びすてしているのです。左注には、中大兄が「皇太子に立てられた」とあるので、皇太子を呼びすてにしたことになります。

 中大兄を天皇の子どもとみとめない表記はもう一つあります。万葉集は天皇の子どもの歌は「御歌」と表記します。しかし、この題詞はただの「歌」としかありません。中大兄の歌を、天皇の子どもの歌とみとめていないことになります。

 この題詞は、古くから注目されてきました。その表記の異常さからです。これまでの研究者はこの異常さを、題詞を書いた編者の単純ミスだとか、原資料にあったものをそのまま転写したのだとか、呼びすては親しさのあらわれなどと説明しています。

 そんなことがあるでしょうか。二つの異例表記のベクトルは、ともに中大兄を天皇の子どもとみとめない方向をさしています。最高権力者となった人物の肩書きを、ケアレスミスでおとしめたままなどということじたい考えられません。そのありえないことがくりかえされる。これは編者の確信的な細工というほかありません。最高権力者にこれほどの不敬をはたらいて、これを親しさのあらわれなどというのはのんきすぎます。(つづく)
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万葉集の形 Ⅳ
2012-04-07 | 1 原万葉集の成立 万葉集はどのように成立したのか。すでにみたように、これについて合理的に説明するのは困難です。というより、よくわからないのです。万葉集に一貫した編集方針があるようにみえません。その編集がいくつかの段階をふんでいるのはまちがいありませんが、それがどのような段取りをへていったのか、これがまったくみえないのです。

 いっぱん的に、万葉集は巻一、巻二がコアとしてあり、それをもとに歌が追加されていって現在の形になったと考えられます。万葉集の最終編者はすでにみたように、橘諸兄とか、大伴家持のようですが、原万葉といわれる巻一、二の編者についてはほとんどわからないというのが現実です。

 原万葉集といわれる巻一、二も同時にまとめられたわけではありません。まず巻一が編集されて、つづいて巻二がまとめられたと考えられています。

 万葉集の巻としてまっさきに編集された巻一も、いっきに編集されてはいません。通説では、巻一はおおもととなる原撰(げんせん)部と、それにつづく増補部にわかれます。先行する原撰部が一ー五三番歌とされます。さらに原撰部に三一首が追加され、巻一は最終的に八四首構成になります。くりかえしますが、これはあくまで通説です。

 巻一の構成をくわしくみます。巻一には、つくられた時代ごとに標目(ひょうもく)がたてられます。標目は宮殿名で表記された天皇で時代を特定します。これにより、歌がつくられた時代がわかる仕組みになっています。

 念のために、巻一にでる標目のすべてを引用します。上が標目、下がその標目にふくまれる歌番号です。

 ⊂万葉集⊃巻一の標目

  泊瀬朝倉宮御宇天皇代      1  番歌
  高市岡本宮御宇天皇代      2-6 番歌
  明日香川原宮御宇天皇代     7  番歌
  後 岡本宮御宇天皇代       8-15番歌
  近江大津宮御宇天皇代      16-21番歌
  明日香清御原宮天皇代      22-27番歌   ↑
  藤原宮御宇天皇代        28-53番歌 ここまでが原撰部
                  54-80番歌 これ以降が増補部
       (寧楽宮)標目なし  81-83番歌   ↓
  寧楽宮       標目あり  84  番歌

 泊瀬朝倉(はっせあさくら)宮に御宇(あめのしたしろしめ)す天皇は雄略(ゆうりゃく)です。同様に高市岡本(たけちおかもと)宮は舒明(じょめい)、明日香川原宮と後岡本宮は斉明(さいめい、皇極=こうぎょく)、近江大津(おうみおおつ)宮は天智(てんじ)、明日香清御原(あすかかわら)宮は天武(てんむ)、藤原(ふじわら)宮は持統(じとう)、文武(もんむ)、元明(げんめい)です。藤原宮の三天皇は、原撰部が持統だけ、増補部が文武と元明です。したがって、持統朝までが原撰部となります。

 原撰部とされる泊瀬朝倉宮から藤原宮の持統朝までは、原撰部の歌の題詞と左注が標目にある天皇と同時代の解説をします。たとえば、天智天皇の「近江大津宮御宇天皇代」の標目では、天智の肩書きを天皇、大海人皇子を皇太子としています。これにたいして、増補部はすべて元明天皇の時代が起点になっています。つまり、天皇とあれば元明を、太上天皇とあれば持統を、大行天皇とあれば文武をさします。

 この時間のとらえかたの違いが、巻一を原撰部と増補部にわける根拠の一つになっているようです。

 さらに増補部をこまかくみます。すると、増補部もすべての歌が同時にとられてはいないことがわかります。

 原撰部の時間表記は天皇の代までですが、増補部になると年号で年を特定します。追加された最初の五四番歌は、題詞に大宝元年(七〇一)の年代がでてきます。大宝(たいほう)元年は文武天皇の時代です。つぎにでてくる年が大宝二年、ついで慶雲(けいうん)三年(七〇六)、和銅(わどう)元年(七〇八)、同三年、同五年です。和銅三年に寧楽(なら)遷都しているので和銅五年は寧楽遷都後ですが、この年の八一ー八三番歌は「藤原宮御宇天皇代」の標目にふくまれます。そして、このあとにつづく最後の八四番歌に「寧楽宮」の標目がつきます。

 この「寧楽宮」ですが、標目の位置が変則です。標目は同じ時代の歌グループの最初におかれます。標目のあとには、標目のしめす天皇の時代の歌がつづきます。標目が指定する時代は、つぎの標目がたてられるまでおよびます。そうだとすると、最後の寧楽宮の標目は和銅五年の前にでてこなければなりません。藤原京から寧楽(平城)京へ遷ったのが和銅三年(七一〇)三月だからです。

 このため、増補部のうち、すくなくとも最後の八四番歌はほかの歌よりあとにとられたことはまちがいないと考えられています。(養老五年の原万葉集につづく)



●万葉集の形 Ⅲ

原万葉集の成立 万葉集がいつ成立したのか、これは万葉集が日の目をみたときから大問題でした。万葉集の成立にふれた文献がほとんどないのです。そうしたなかで、もっとも古く万葉集についてとりあげたのが、『古今集(こきんしゅう)』序と『新撰万葉集(しんせんまんようしゅう)』序です。その古今序に、つぎのようにあります。

「昔平城天子、詔ニ侍臣-令レ撰ニ萬葉集-、自レ爾以來、時歴ニ十代ー、数過ニ百年-」
 むかし、平城天皇が万葉集を編集させる詔をだし、それ以来、天皇十代をへて、年をかぞえるに百年がすぎたというのです。これから平城(へいぜい)天皇時代に勅撰(ちょくせん)和歌集として完成したと考えられてきました。

 長いあいだ、古今序がそのままうけいれられてきたのですが、江戸時代にはいって契沖(けいちゅう)が大伴家持の私撰和歌集だとの説をだします。契沖の説に説得力があったため、それ以降は契沖説が一時的に定説化します。契沖の説は補完されながら、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)へとひきつがれます。

 編者としては、家持のほかに橘 諸兄(たちばなのもろえ)もあげられます。左大臣までのぼった諸兄がでてきたことで、万葉集勅撰説も見直されるようになります。

 明治以降も契沖の説が有力ですが、もちろん異説もおおくあります。編者については大伴家持が主体的に、あるいは何らかの形でかかわったということで結着しています。これに橘諸兄がからんできます。諸兄にかんしては、栄華物語(えいがものがたり)がとりあげています。
「むかし高野の女帝(孝謙=こうけん=天皇)のみよ、天平勝宝五年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等あつまりてまんようしうをえらはせ給ふ」

 これから、諸兄が有力な撰者とみられるようになります。ちなみに、天平勝宝五年は西暦で753年です。

 勅撰か私撰かも問題です。家持編者説をとる研究者でも、意見が分かれます。勅撰説をとるのが折口信夫(おりくちしのぶ)、私撰説が沢潟久孝(おもだかひさたか)です。もちろん、ほかにもおおくの有力な説があって、定説をみるまでにはいたっていません。

 これまででている説にかんして総じていえることは、万葉集が歌集として独立した存在だということです。純粋歌集として孤高をたもっているという理解です。この裏には、万葉集は世間から超絶していなければならない、という思いがあるようです。万葉集は俗世にけがされてはならない、素朴でなければならないのです。万葉集の研究者には、その考えの底流に、万葉集は純粋に歌集でなければならない、という文学至上主義があるようです。

 万葉集はあくまでも文学作品で、政治や歴史などからは超越していなければならない、古事記や日本書紀とは無縁でなければならない。そう考えられてきたのです。無垢で、素朴でなければならなかったのです。これこそ「万葉集の発見」の成果なのでしょうか。(つづく)




●万葉集の形 Ⅱ

原万葉集の成立 万葉集がどうして書紀の歴史を修正できるのか、ちょっと信じられないかもしれません。万葉集はいうまでもなく歌集です。しかも、大伴家持の私歌集と考えられています。プライベートな歌集が朝廷の正式な歴史書の記述を修正する、ふつうに考えればありえません。しかし、万葉集はさまざまなサインを発して、読者を書紀の記事へと案内します。そして、そこにえがかれた歴史を修正します。

 万葉集と日本書紀が編集的に連動しているなどといってもうけいれられないかもしれませんが、事実として万葉集と書紀に接点がないわけではありません。万葉集は書紀の記事を引用して、歌の解説をしています。

 もちろん、これだけなら万葉集の一方的な都合ということになりますが、万葉集は書紀をたんなる参考文献にしているのではありません。万葉側による書紀引用の解説がきわめて恣意的です。あきらかな編集意図をひめて読者へうったえています。読者を万葉集から書紀の記事へ誘導するサインにしているのです。

 万葉集の書紀の記事への案内はいたって客観的です。万葉編者の案内ルールにしたがえば、よけいなことを考えることなく、書紀の記事へとジャンプできます。万葉集と書紀の編集が連動しているからです。案内された書紀の記事は、万葉編者の歴史、政治的な意図をあきらかにします。

 万葉史観は万葉集の案内で日本書紀を解読していきますが、いきつくさきはこれまでの常識とはかけはなれています。万葉集の主張はわかっているだけでも、三つあります。一つは斉明天皇の家族関係の見直し、天智天皇が筑紫から畿内への東征王であること、そして孝徳ー斉明朝が二王権並立だったという主張です。今回は天智東征がテーマです。天智が筑紫をバックにした王権であることがあきらかになります。これについては、このあとくわしく確認します。

 一見するときわめて恣意的ともうつる、万葉集と書紀の編集が相互に連動するという説は、しかしながら万葉史観の独創ではありません。徳田浄(とくだきよし)がすでに指摘しているところです。徳田の説はこのあと紹介します。(つづく)



●万葉集の形 Ⅰ

原万葉集の成立 万葉集は日本最古の歌集として、古くから親しまれてきました。素朴に、大らかに、日本人の心が詠われています。万葉集には季節の自然を詠みこんだ歌や、親子の情を吐露した歌など、今の日本人が読んでも心うたれるものが数多くふくまれます。もちろん、素朴で、大らかだけではありません。近代的な感性につながる先進的な作品もあります。

 七世紀の中ごろから八世紀の中ごろまでの、いわゆる万葉の世紀の歌を中心に四千五百首を二十巻にまとめた歌集、それが万葉集です。

 これら作品は純粋に文学作品として鑑賞するものとされてきました。たしかに、万葉集は日本を代表するすぐれた文学作品です。千二百年以上も昔に生きた大伴 家持(おおとものやかもち)の感性は、いまを生きるわたしたちの心にひびいてきます。

 と、ここまで書いて、何か引っかかります。ここに書いたことが、万葉集の説明として大きく外れているということはありません。それでも気になります。ここにある万葉観は、万葉集が国民歌集だとの前提の理解だされるからです。

 常識的な万葉集理解は、明治時代に入ってから一部文化人によって誘導されたものだというのです。『万葉集の発明』(品田悦一)によると、鎖国がとけて西欧の文学が入りこむ動きのなかで、それでただの歌集でしかない万葉集は国民歌集へと格上げされます。西欧文学をにらんでの国民文学運動です。一言でいえば、西欧を意識したナショナリズムです。この愛国心がなければ、現在のような万葉集理解は存在しなかったのです。

 たしかに、第二次世界大戦前後に万葉集にふれた人たちは、万葉集にかたよったイメージをもっています。『万葉集の発明』が指摘するように、自然を詠んだ歌、愛国的な歌など、きれいにまとまった歌の集まりだと素朴に信じこんでいたようです。万葉集の文化講座に参加される年配者はいまでも、例外なく「万葉歌は美しいものばかり」と思っています。彼女たちの知識にない万葉歌を紹介すると、「こういう歌も万葉集にあるんだ」という反応です。これが発明された万葉集の理解なのでしょう。

 それなら発明される前の万葉集とはいったい、どんな存在だったのでしょうか。万葉集の本当の形はどうなっているのでしょうか。

 万葉集はたんなる文学作品ではありません。鑑賞する詩歌集であると同時に、息を殺して耳をかたむけるべき政治、歴史の書でもあるのです。愛の告白、戯れ、別れ、こうした歌そのものがメッセージといえばメッセージですが、それとはべつに万葉集には明確な歴史観にもとづいた政治的メッセージがこめられています。もちろん、万葉集の大部分は歌集です。その端々に政治的な主張がこめられているのです。

 これが発明される前の万葉集です。文学作品であると同時に、ねつ造された歴史と政治の告発の書でもあるのです。読者が古い先入観や、かってな発明などせずに、冒頭一番歌から二一番歌までを鑑賞したなら、権力への異議申し立ての声が聞こえてきます。少なくとも万葉集がただの歌集でないことくらいは感じられるはずです。

 万葉集の歴史的、政治的な主張が万葉史観です。万葉集の案内で、日本書紀にえがかれた歴史の修正をする、万葉史観です。(つづく)



明日香のたたずまいを詠う

2013-01-04 | 番外・志貴皇子とムササビ寓話
 今回の主題は、志貴皇子の「ムササビの歌」にこめられた寓意です。ムササビの歌は、志貴の歌八首のなかで三番目にでてきます。最初にムササビの歌をもってきてもいいのですが、志貴がどんな歌をつくっているのかを知っていたほうが、ムササビの歌の理解に役だつと思います。それで、ムササビの歌の前に、万葉集に最初にでてくる歌を鑑賞していきます。

 万葉集に最初にでる志貴皇子の歌は、「采女の袖吹きかへす明日香風 京を遠みいたづらにふく」というものです。

 宮殿が藤原京へ遷ったあとの明日香のたたずまいを詠っています。いまは明日香にいない采女のあでやかな風情が目にうかぶようです。素晴らしい歌ですが、高く評価されるいっぽうで、否定的な評価もあります。

 万葉集の入門書とされる『万葉秀歌』は、斎藤茂吉と久松潜一のものがあります。久松はこの歌を秀歌として取りあげていませんが、茂吉は秀歌に入れています。その茂吉の評を紹介して、歌を具体的にみていきます。



[万葉秀歌]斎藤茂吉
 「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬風、佐保風、伊香保風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址なって寂れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然とこうなったのものであろう。采女の事などを主にするから甘くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは楽に解釈して好い。



 茂吉は、志貴皇子の歌を「精厳」として評価していますが、いっぽうで批判的な評価も紹介しています。歌で「袖ふきかへす」と現在形になっているのおかしいので「袖ふきかへしし」と過去形にすべきだという指摘です。

 この指摘は、時制に混乱があるというものです。志貴が明日香を詠ったときは、すでに京はなく、袖を吹きかえす采女もいなかった。志貴がみた采女は過去の記憶なのだから、現在形を使うのはおかしい、過去形でなければ整合しない、というわけです。

 歌だから、それくらいの矛盾はかまわない、とも思いますが、これは志貴皇子の歌の特徴のようです。ムササビの歌でも、この認識のズレがでてきます。そのとき取りあげますが、頭に入れておいてください。



  ◆雅な女性の袖を吹きかえす明日香風



 歌をみます。万葉集にでる志貴皇子の歌で、最初のものは、巻一の五一番歌です。とても雰囲気のある歌で、ほんわかとした色気を感じさせます。じっさいは裏にどろどろしたものを秘めているのかもしれませんが、すてきな歌です。



[万葉集]巻一の五一番歌

   明日香宮より藤原宮に遷りし後、志貴皇子の作る御歌
 ○采女の袖吹きかへす明日香風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く(巻一 51)
   うねめの そでふきかへす あすかかぜ
   みやこをとおみ いたづらにふく
       「采女のあでやかな袖を吹き返していた飛鳥の
        風だのに、京が藤原に遷ってしまったので、
        今ではただ虚しく吹くことだ」



 京もむかしとなった明日香のたたずまいを詠っています。

 題詞です。「明日香宮より藤原宮に遷りましし後、志貴皇子の作りませる御歌」とあります。この歌は、巻一の藤原宮に宮殿がある表題のなかにあります。明日香から遷宮したのが藤原京です。藤原宮に宮殿を置いた天皇は、持統、文武、元明の三人です。この歌は藤原へ遷宮してそれほど時間が経っていないと考えられるので、持統天皇の時代と思われます。題詞もそれを裏づけます。

 歌本文の「采女」は、宮中をはなやかにいろどった女性たちです。(後宮)職員令に「采女は地方の少領の姉妹、子女のうちの容姿端麗なる者」と規定されています。仕事は、宮中での雑用を担当しました。いっぱんの宮廷人にとっては、まばゆい存在だったようです。采女は天皇の女ということで、男子が関係をもつことは許されませんでした。

「袖吹きかへす明日香風」、そのまばゆいばかりの采女の着物の袖をひらひらさせる明日香風、これだけでとても優雅な雰囲気になります。明日香風は、明日香に吹く風です。

 このフレーズだけでは、采女の袖が吹き返すのを目の当たりにしている印象です。それだと、京は藤原に遷っても、明日香にも一部はのこっていたことになりますが、実景ではなさそうです。風はともかく、采女の袖がひらひらするのは想像です。

「京を遠みいたづらに吹く」、筆者は遷宮後間もないころに、飛鳥へいったようです。そこには宮廷人が賑やかに動き回っていたのに、いまはだれもいない、ただ風だけが吹いている。そういった情景を詠っています。

◇訳です=「采女のあでやかな袖を吹き返していた飛鳥の風だのに、京が藤原に遷ってしまったので、今ではただ虚しく吹くことだ」

(20130104 つづく)