異説万葉集 万葉史観を読む

日本書紀の歴史に異議申し立てをする万葉集のメッセージを読み解きます。このメッセージが万葉史観です。

3 養老五年の元正朝 一

2013-01-06 | 万葉史観Ⅰ 天智東征


●大伴旅人の無念●


2012-04-19 | 3 養老年間の元正朝 長屋王は無実の罪で死においやられました。文献からただよってくる長屋王のイメージは、ひじょうに洗練された貴公子です。じっさいもイメージどおりだったと思います。この貴公子が藤原氏の権力欲の犠牲になったのです。人々はいたく長屋王に同情しました。

 万葉集も長屋王に強いシンパシーを感じていましたが、なかでも長屋王の死をなげかずにいられない人がいました。大伴旅人(おおとものたびと)です。すでにみたように、旅人は長屋王の変の前年に筑紫へ赴任し、変の翌年に京へかえっています。旅人を京から遠ざけたのは藤原氏の策謀であるのはだれの目にもあきらかでした。自分のせいでないことはわかっていても、旅人は長屋王を助けることができなかったことが無念で仕方なかったのです。


 はたして、長屋王一族の滅亡を一番なげいたのは旅人でした。長屋王の変に何もできなかった旅人のくやんでもくやみきれない思いが、万葉集に詠いこまれています。

 万葉集には長屋王と、子の膳部(かしわで)王(かしわでのおほきみ)の死を悼む歌がのこっています。巻三挽歌の部立てにあります。


   神龜六年己巳、左大臣長屋王の死を賜はりし後、倉橋部女
   王(くらはしべのひめおおきみ)の作る歌一首
 ○大君の命恐み 大あらきの 時にはあらねど雲がくります(巻三 441)
  ・おほきみのみことかしこみおほあらきの ときにはあらね
   どくもがくります
       「恐れ多くも大君の命により、まだその時期でも
        ないのにお隠れになってしまわれた」

   膳部王を悲傷する歌一首
 ○世間は空しきものとあらむとそ この照る月は満ち闕けしける(巻三 442)
  ・よのなかはむなしきものとあらむとそ このてるつきはみ
   ちかけしける
       「世の中は空しいものだなあ、まるで決まったよ
        うに照る月が満ち欠けするようだ」
    右の一首は、作者いまだ詳かならず。


 一首目は題詞から、倉(くら)橋(はし)部(べ)女王が長屋王の死をいたんでつくったことがわかります。倉橋部はこの歌のほか、もう一首万葉集に名前がでてきます。巻八の一六一三番歌で、題詞が賀(か)茂(も)女王(かものひめおほきみ)の作とするのを、左注が倉橋部女王の作と訂正しています。題詞の注は、賀茂女王を長屋王の娘で、母親を阿倍朝臣としています。ただ、倉橋部女王は万葉集にしかでてこないようで、どんな女性なのか、はっきりはわかりません。

 万葉集が編集された当時は、長屋王への同情は危険なことだったにちがいありません。それで、わざと作者の身元をあいまいにしたのでしょう。

 四四一番歌以上に万葉編者が作者に配慮をしているのが二首目の四四二番歌です。こちらは「作者がわからない」と左注がいっていますが、長屋王の変は大伴家持と同時代です。編者が知らないわけがありません。藤原氏に配慮して作者名をいれなかっただけです。万葉編者が家持だとしたら、それこそ名前をだすことがはばかられたはずです。作者は家持の父親の大伴旅人だからです。

 旅人は長屋王の変のときに京にいませんでした。これが残念でならなかったのです。自分が京にいれば、将来を嘱望された膳部王は死ななくてもすんだーー。その気もちが詠わせたのです。

 どうして四四二番歌が旅人作だといいきれるのか。それは、旅人がこの歌とまったく同じフレーズをもつ歌を詠っているからです。


   大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首
   禍故重畳(くわこぢゅうでふ)たり、凶問累集(きょうも
   んるいじふ)す。永く崩心(ほうしん)の悲しみを懐き、
   独り断腸(だんちゃう)の泣(なみだ)を流す。但し、両
   君の大助に依りて、傾命(けいめい)纔(わづか)に継ぐ
   のみ。筆言(ひつげん)尽きざるは古今の歎く所なり。
       「災い、悪い知らせが重なります。心が崩れるほ
        どの悲しみを懐き、ひとり断腸の痛みに涙を流
        します。ここの両君の助けで、危なっかしい命
        を生きながらえています。筆言尽きざるは、古
        今の歎く所です」
 ○世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり(巻五 793)
  ・よのなかはむなしきものとしるときし いよよますますか
   なしかりけり
       「世の中が空しいものと知ったときこそ、悟るど
        ころかいよいよ悲しくなることだ」

 この歌は巻五の冒頭におかれています。作歌背景は正確にはわかりませんが、旅人が大宰帥として筑紫に滞在していたときのものです。筑紫の旅人に不幸があり、その弔問の礼状のようです。

 旅人が筑紫に赴任して間もなく、妻の大伴郎女が亡くなっています。これが凶問だったのかもしれません。そうだとすると、膳部王の追悼歌と旅人の凶問にこたえる歌は、ほとんど同時期につくられたことになります。(つづく)





●長屋王 Ⅳ●


 長屋王の最期をしるす日本霊異記です。ここに長屋王の重大な肩書き表記がでてきます。記事で確認します。


 [日本霊異記]中巻第一
    諾楽宮に宇大八嶋の国を御む勝宝応真聖武太上天皇、大
   なる誓願を発し、天平元年己巳の春二月八日、左京の元興
   寺で、大なる法会を儲け、三宝を供養す。太政大臣正二位
   長屋親王に勅して、衆もろの僧に供ふる司に任ず。時に一
   沙弥あり。濫りに供養を?る処に就きて鉢を捧げて飯を受
   く。親王見て、牙冊を以て沙弥の頭を罰つ。頭破れ血流る。
   沙弥頭を摩り、血を捫でて?ひ哭きて忽ちに觀えず。去る
   所を知らず。時に法会の衆道俗偸て?ひて言く、「凶なり、
   善からず」。二日を逕て、嫉妬する人ありて天皇に讒りて
   奏す、「長屋社稷を傾け国位を奪うことを謀る」。爰に天
   心に瞋怒して、軍兵を遣し陳ぬ。親王みずから念ひて、
   「罪なくして囚に執はる。此れ決定めて死す。他に刑殺さ
   るるよりは、みずから死ぬに如かず」と念ふ。即ち其の子
   孫に毒薬を服せしめて、絞り死なし畢りて後、親王薬を服
   して自害す。天皇、勅して、彼の屍骸を域外に捨て、焼き
   末き、河に散らし、海に擲つ。唯だ、親王の骨は土左国へ
   流す。時に其の国の百姓、多く死すと云ふ。百姓患ひて、
   官に解して言く、「親王の気により、国内の百姓、皆な死
   亡すべし」。天皇、之を聞きて、皇都に近づける爲に、紀
   伊国海部郡椒村の奥嶋に置く。嗚呼、惆みなるかな。…略…


 記事の内容です。

 天平一年二月、聖武天皇が元興寺(がんごうじ)で大法会をひらきます。このとき、供衆僧司だった長屋親王が、一人の沙弥(しゃみ)が濫(みだり)がましく供養の飯をうけるのをみておこります。もっていた笏(しゃく)で沙弥の頭を血がでるほどうち、その応報からざん言のため二日後に自害することになったというストーリーです。王は罪がなかったが、刑殺されるより自害することをえらびます。子どもを服毒させて絞殺、自分も服毒死します。天皇は亡骸を京の外へすて、骨をやきくだいて河や海へながします。王の骨だけ土佐へながすと、土佐の百姓が多数死にました。このため、王の骨を紀伊国海部郡の椒村(はじかみむら)の奥嶋(おきしま)にうつしおきます。このあとは、長屋王がどうして無実の罪で死ななければならないのかの、理由説明がつづきます。仏教の因果応報を説くのが目的の霊異記です。そこで、長屋王は大法会で僧にひどい仕打ちをしたからだと、因果を説明しています。

 長屋王は仏教にふかく帰依してたとされているので、この話はいささか信憑性に疑問もありますが、ここで気になるのが長屋王にかんする二つの肩書き表記です。長屋親王と太政大臣です。続日本紀は長屋王、左大臣で一貫していますが、親王の肩書きについては長屋王の邸宅跡から出土した木簡から、日本霊異記のほうが正しかったことが確認されます。太政大臣はどうでしょうか。 (つづく)

 イラスト・水戸成幸






●長屋王 Ⅲ●


 長屋王の右大臣としての最初の仕事が、皇太子、後に聖武天皇となる首皇子(おびとのみこ)の教育係の任命です。一月二十三日にメンバーを発表しています。皇太子の教育係の選任が万葉史観に大きくかかわってくるのですが、これはじっくり検証します。しばらくは、長屋王の足跡をおいます。

 この年の十二月、元明太上天皇が亡くなります。

 神亀一年(七二四)二月四日、元正が譲位して、皇太子の首が即位します。聖武(しょうむ)天皇です。これにあわせて、長屋王は左大臣へと昇進します。まさに順風満帆といったところですが、ここに落とし穴がありました。聖武の母である藤原宮子の称号問題がもちあがります。宮子は不比等の娘です。



 息子が聖武天皇になったため、母親である宮子の称号をどうするかが問題になったのです。天皇というか、藤原氏側は、天皇即位のどさくさ紛れに、二日後の六日に宮子を大夫人(だいぶにん)と称すことにします。これに長屋王がクレームをつけます。

 聖武が即位する前は、宮子の肩書きは夫人でしたが、これが大夫人となるわけです。しかし、規則によると、臣下の出の場合は大夫人ではなく皇太夫人と表記しなければならないというのが長屋王の言い分です。結局、長屋王の抵抗にあって、宮子は文書にのこすときは皇太夫人として、口頭では大御祖(おおみおや)になりました。藤原氏側が、長屋王の筋論におれた形の落着をみたのです。これが藤原氏をカチンとさせます。聖武も不快に思ったはずです。

 もともと良好とはいえなかった両者の関係は、これにより決定的となります。藤原氏は復讐の機会をうかがいます。そのチャンスが到来します、というよりあたためてきた計画を実行にうつします。長屋王が左道(邪な呪術)で国家転覆をはかったとして、王と吉備内親王一家を死へとおいやります。

 通説では、長屋王討伐には名分はない、つまり無実の罪とされます。しかし、藤原氏側は、長屋王の謀反を喧伝する絶好の材料を手にいれていたようです。王が父親高市皇子と母親御名部皇女(みなべのひめみこ)のためにしたためた写経の発願文です。この文面をみると、たしかに揚げ足をとられかねない内容かもしれません。関係部分を引用します。


 [寧楽遺文]長屋王写経発願文
    神亀五年歳次戊辰五月十五日、佛弟子長王、至聖発願し
   て、大般若経一部六百巻を写し奉る。其の経の行行に華文
   を列ね、勾勾に深義を含む。讀誦者は邪を?き悪を去り、
   披閲者はを納れ栄に臻る。此の善業を以て、登仙二尊の
   靈を資け奉り、各おの本願に随ひ、上天に往生し、弥勒
   に頂禮し、浄域に遊戯し、弥陀に面じ奉り、并びに正法を
   聽聞し、倶に无生の忍を悟らん。また此の善根をもって、
   現の御宇(あめのしたしろしめ)す天皇并びに開闢以來代代帝
   皇を仰ぎ資け、三   寳覆護し、百靈を衛らん。現在は
   栄を五岳と争ひ、壽を千齢に保ち、登仙せば、浄國に生ま
   れ、天上に昇り、法を聞き道を悟り、脩善成覺せん。三界
   の含識、六趣の靈を稟けたるも、願の遂げざるは无く、有
   心は必ず獲て、因果に明かにして、罪を達り、六度の因
   を滿し、四智の果円とならん。


 登仙二尊は道教の世界の中心的な存在で、ここでは長屋王の両親の高市皇子と御名部皇女をさすとされます。この登仙者が天皇、初代天皇から現在の天皇にいたるまでを護るとあります。これが僭越ととられたのでしょう。

「現の御宇天皇并びに開闢以來代代帝皇を仰ぎ資け、三寳覆護し、百靈を衛らん」

 ここにでてくる神亀五年(728)は、長屋王の変があった天平一年(729)の一年前です。文章じたいは道教の観念的な世界観をもとづいているとされるものの、藤原氏に絶好の口実をあたえたと思われます。この発願文が長屋王の変のきっかけになったとしたら、親孝行が身をほろぼしたわけです。皮肉というほかありませんが、発願文がなくても、長屋王の変は藤原氏の手によって実行されたはずです。

 いずれにしろ、藤原氏はうごきます。

 天平一年(729)二月十日、左京の漆部(ぬりべの)造君足(きみたり)と中臣宮処(なかとみのみやこの)連東人(あずまひと)らが、長屋王が謀反をくわだてていると密告します。

「左大臣の長屋王がひそかに左道を学んで、国家をかたむけようとしています」

 その夜、朝廷は三つの関所をかたくまもらせ、式部卿の藤原宇合(ふじわらのうまかい)、衛門佐の佐味虫麻呂(さみのむしまろ)、左衛士佐の津島家道(つしまのいえみち)、右衛士佐の紀佐比物(きさのひもつ)を派遣して、長屋王の邸宅をかこみます。

 もちろん、長屋王の謀反は事実ではなく、藤原氏の陰謀、でっちあげです。が、ことは周到に準備され、長屋王は手も足もでない状態でした。藤原氏は長屋王を失脚させるために外堀を埋めていたのです。東国への関所も固められていて、長屋王に近いとみられる東国の兵を動員することもかないません。

 翌十一日、朝廷はさらに、舍人(とねり)親王、新田部(にったべ)親王、大納言の多治比 池守(たじひのいけもり)、中納言の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、右中弁の小野牛養(おののうしかい)、少納言の巨勢 宿奈麻呂(こせのすくなまろ)らをつかわして、長屋王を訊問します。何の対抗措置をとることもできないまま、翌十二日、長屋王は自殺においこまれます。本人のほかに、妻の吉備内親王と、その子の膳部(かしわで)王、桑田(くわた)王、葛木(かつらぎ)王、鈎取(かぎとり)王が首をつって自殺します。

 これを長屋王の変(ながやおうのへん)といいます。事件の前年の神亀五年(728)に、大伴旅人(おおとものたびと)が筑紫大宰帥として筑紫へ赴任します。事件のあとの天平二年(730)に帰京します。大伴氏は軍事氏族として兵をうごかす立場にありました。しかも、長屋王に近い立場をとっていたので、藤原氏側が長屋王打倒のために先手をうって、旅人を京から遠ざけたとみられています。藤原氏はそれほど用意周到にことをすすめていたのです。

 以上は続日本紀の記事ですが、続紀にはなぜか、旅人の筑紫大宰府赴任の記事はのっていません。

 長屋王の変は、日本霊異記(日本現報善悪霊異記)にもくわしい経緯がしるされています。日本霊異記には長屋王にかんする重要な肩書き表記がでてきます。次回は、霊異記をみます。 (つづく)





●長屋王 Ⅱ●


 長屋王が文献に最初にでるのは万葉集です。「長屋王の故郷の歌一首」という題詞をもつ歌です。

   長屋王の故郷の歌一首=題詞
 ○吾が背子が古家の里の明日香には
  千鳥鳴くなり嶋待ちかねて (巻三 268)
   ・わがせこがふるへのさとのあすかには
    ちどりなくなりしままちかねて
       「愛しいあなたが住んでいた明日香では、主がい
        なくなって荒れてしまった島を待ちきれないと、
        千鳥が鳴いています」=訳
    右は今案ずるに、明日香より藤原宮に遷りし後、この歌
    を作るか。=左注

 歌を解説する左注に「明日香より藤原宮に遷りし後にこの歌を作るか」とあるので、宮殿が明日香から藤原へ遷ったあとで詠われたことがわかります。持統か、文武朝の歌ということになります。西暦でいえば700年前後です。長屋王は養老五年(721)に右大臣になったとき、三十八歳とつたえられます。これからすると、十八歳前後だったと思われます。

 この歌は長屋王が女性にかわって詠っています。女性が現在いる藤原京から明日香へ里帰りしましたという歌ですが、この女性こそ長屋王の妻となる吉備内親王(きびのないしんのう)の母親、元明天皇(げんめいてんのう)です。この時点では天皇になっていないので、阿閉皇女(あべのひめみこ)です。どうしてそういえるのか。理由は、歌にでる「千鳥が鳴く島」です。万葉集では、明日香で鳥が鳴く島は特定の場所をさします。草壁皇子(くさかべのみこ)の邸宅である島宮です。草壁は阿閉皇女の夫です。長屋王が女性になりかわって「吾が背子」とよんで、島宮がでてきます。この背子は阿閉皇女の夫の草壁ということになります。

 その島の確認です。万葉集の巻二に柿本人麻呂が草壁皇子の亡くなったときに詠んだ長歌一首と短歌二首がでてきます。この挽歌にはさらに、草壁の舎人(とねり)たちの二十三首の挽歌(ばんか)がつづきます。この舎人の歌群に、明日香にある草壁の「島の宮」がでてくる歌が十首あります。そのうち五首が単に「島」だけで草壁の宮をあらわしています。さらに島にからめて鳥がでてくることから、長屋王の「千鳥が鳴く島」が草壁の宮をさしているとしてかまいません。

 二十三首のなかで確認します。

 ○御(み)立(た)たしの島をも家と住む鳥も
  荒びな行きそ年かはるまで (巻二 180)
   ・みたたしのしまをもいえとすむとりも
    あらびなゆきそとしのかはるまで
       「お造りになった島を家と思っている鳥よ、家で
        ある島がすたれたからといって見すててくれる
        な、せめて年が変わるまでは」=訳

 草壁皇子につながる人たちにとっては、明日香の島といえばストレートに草壁の宮を指しているようです。長屋王が故郷で詠んだ島は草壁の島宮としていいようです。

 長屋王は故郷明日香に里帰りして、妻の亡き父親の宮を詠っているのです。この時点で、長屋王は吉備内親王と結婚していたはずです。それで、長屋王にとって草壁の島宮が特別の存在になっていたのです。

 この歌から判断して、長屋王の後ろ盾は妻の実家だったのです。草壁は亡くなっていますが、後に元明天皇となる、吉備内親王の母親は健在です。長屋王は実質的に、妻の実家の婿養子みたいな存在だったのかもしれません。いずれにしろ、のちに天皇となる母親と姉をもつ女性を妻にしているのです。当時としては天皇にもっとも近い男性皇族だったのです。

 ちなみに、二六八番歌の「嶋」をまちがいだとする本もあります。たとえば、澤瀉久孝(おもだかひさたか)の『萬葉集注釋(まんようしゅうちゅうしゃく)』が「嬬(つま)」に、折口信夫(おりくちしのぶ)の『口譯萬葉集(こうやくまんようしゅう)』では「君(きみ)」にしていますが、作歌の背景からしていずれもまちがいです。「嶋(しま)」でなければなりません。

 公的に登場するのは慶雲一年(704)です。無位から正四位に叙せられます。このあと和銅二年(709)に宮内卿、同三年に式部卿、養老二年(718)に大納言とトントン拍子に出世します。慶雲四年(707)に妻の母が元明天皇として、霊亀一年(715)に妻の姉が元正天皇として即位しています。式部卿以降の出世は妻の実家のおかげのようです。

 そして長屋王にとって、決定的な事件がつづきます。養老四年(720)です。この年二月には大隅の隼人が反乱をおこします。朝廷はこれを理由に、大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人持節大将軍に任命して大事にそなえます。同五月、舎人(とねり)親王が日本紀三十巻と系図一巻を撰上します。日本書紀が完成したのです。さらに八月にはいると、右大臣の藤原不比等(ふじわらのふひと)が病にたおれ、そのまま亡くなります。

 日本書紀は藤原不比等(ふじわらのふひと)が主導して編集されたと考えられます。内容的にも藤原氏に都合のいいようになっています。天智天皇を脚色することで不比等の父で藤原氏の祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり)がじっさい以上に偉大にえがかれているのです。

 そして主題の養老五年(721)です。この年一月五日、長屋王が不比等のあとの右大臣になります。右大臣より上の太政大臣、左大臣はいません。右大臣が事実上のトップです。天皇は妻の姉です。朝廷のすべてを長屋王がとりしきったはずです。

 いよいよ万葉史観プロジェクトのスタートです。後に聖武天皇となる首皇子の教育係の任命です。 (つづく) イラスト・水戸成幸
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長屋王 Ⅰ
2012-04-15 | 3 養老年間の元正朝 長屋王(ながやおう)ときいて、どんな人物像を思いえがくでしょうか。わかくして左大臣までのぼりつめ、わかくして藤原氏にやぶれさる悲劇の人というイメージです。平城京に広大な邸宅跡が発掘されて、話題になりました。邸宅跡から、皇位継承権をうかがわせる「長屋親王」と墨書された木簡までみつかりました。王は天皇の孫ですが、親王となると天皇の子どもです。続日本紀で王の肩書きのままにされた長屋王は、じっさいは天皇にもっとも近い男性皇族だったのです。

 当時は天武(てんむ)天皇と持統(じとう)天皇の血がものをいいました。天武には十人の皇子がいました。そのうち有力なのが持統が生んだ草壁皇子、持統と同母の姉の大田皇女が生んだ大津皇子、さらに皇女でない母をもつ高市皇子(たけちのみこ)の三人です。このなかでは草壁と大津がライバル関係にあり、そのため大津は持統の手によって死においやれます。

 草壁は持統の願いどおりに皇太子になりますが、皮肉にも即位する前に亡くなります。これが長屋王の悲劇の遠因になるとはだれも予想していなかったにちがいありません。

 持統は天武の血だけでなく、自分の血をひく子孫に皇統をつがせたいという強烈な意思がありました。このつよい思いは持統亡きあともひきつがれます。草壁の子どもを文武(もんむ)天皇として即位させ、さらに文武がわかくして亡くなると、文武の子どもを聖武(しょうむ)天皇として即位させます。

 持統の思いを実現するのは藤原不比等(ふじわらのふひと)です。

 不比等は、天武と持統の子孫を即位させるために、強引に女帝をたてていきます。持統じしんが草壁、さらには文武のつなぎとして、嫁の元明(げんめい)天皇と孫娘の元正(げんしょう)天皇は聖武のつなぎとしたのです。まさに血の執念です。

 しかし、元明朝のおわり、さらに元正朝にはいると、天皇家と不比等の関係がくずれます。朝廷は聖武ー藤原氏と、元正ー皇親派の対立が表面化します。最終的には聖武と藤原氏も対立しますが、元正朝までは二つの系列が対峙します。

 元正についた皇親派が長屋王と橘諸兄(たちばなのもろえ)です。しかし、皇親派は諸兄を最後に力をそがれ、さらには持統の血まで皇統から放逐されるのです。

 持統が自分の血を皇統にのこすためにくんだ不比等の子孫によって、持統の血が皇統から消えていくのです。歴史の皮肉という以外ありません。

 こうした時代に長屋王は朝廷で実権をにぎり、それゆえに、藤原氏に敗れさることになるのです。長屋王は藤原氏にやぶれるのですが、権力の座についた一瞬に、人知れず藤原氏の野望をうちくだいていたのです。不比等が手をそめた歴史改ざんの証拠を、日本書紀そのものに埋めこんだのです。
 日本書紀に書きこまれた長屋王の筆の跡をたどる、これが万葉史観です。


 長屋王の父親は高市皇子です。高市は天武天皇の皇子です。長屋王は天武の孫ということになります。天皇の孫というと「なーんだ」と思うかもしれませんが、高市皇子は天武亡きあとの持統朝で皇太子的な扱いをうけていました。「後皇子尊(のちのみこのみこと)」が追贈されていますが、これは皇太子と同等です。

 母親は御名部(みなべ)皇女とされます。御名部は元明天皇と同母の天智(てんじ)の娘です。妻は草壁皇子と元明の娘の吉備内親王(きびのないしんのう)です。吉備内親王は元正天皇と同母の妹です。

 サラブレッド中のサラブレッドだということがわかります。

 長屋王の優れているのは、血統だけではありません。高い見識をもつ政治家にして、道理の人でもありました。仏教をあつく信じ、文武天皇が亡くなったときに大般若経六百巻を書写させています。これは王の私邸でおこなわれたともつたえられます。どことなく、日本書紀のえがく聖徳太子のイメージとかさなります。 (つづく)


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1 コメント

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万葉集の長屋とは (しろかべ)
2015-05-18 16:12:33
万葉集のこの歌の並びから考えたこと
01 0074 大行天皇幸于吉野宮時歌
01 0074 見吉野乃  山下風之    寒久尓   為當也今夜毛  我獨宿牟
01 0074 右一首或云 天皇御製歌

01 0075 宇治間山  朝風寒之    旅尓師手  衣應借     妹毛有勿久尓
01 0075 右一首長屋王

01 0076 和銅元年戊申 天皇御製
01 0076 大夫之   鞆乃音為奈利   物部乃   大臣      楯立良思母
01 0077 御名部皇女奉和御歌
01 0077 吾大王    物莫御念    須賣神乃  嗣而賜流    吾莫勿久尓
そして和銅五年の発願、「和銅経」と呼ばれている。「北宮」で『大般若経』一部六百巻を書写させたものと考える。長屋  天  皇 という理解が可能でしょうか。
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