BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

語とは

2020-10-05 | 日本語学2020

語とはなにか。語と語彙の始まり。日本語学2020後期は語彙と意味について述べる。語を意味を前提にした単位とするので、意味についての扱いは後半にする。しかし、語は最小単位である、何についてか、意味の最小単位として、話が始まるので、意味そのものを述べない構造主義言語の出発点であり、意味はシンタクスにあるとするアメリカ流言語の捉え方は、それはやりやすくなる。そのはずだったが、実は語の最小単位に意味を当てるという説明は、その単位にさらに形態の論があるようになって、それを入れた捉え方で、語の分析をして形態素を音素で言い出すと、大体が混乱をする。音韻で言えば音節で分析してきた文字レベルが単音レベルを音素にする文字表記が異なる体系で国語を見るようになってくるからである。これまでも接頭語接尾語と言って語構成に語のレベルさらに分解することがあったが、いまや、語基と接辞に分解して仮名文字にローマ字分析が加わる。これを文法単位に表記で言えば仮名レベルで論理を作ってきている、その説明を聞いていたものが、ローマ字レベルで語を書くというならない表記に戸惑いがある。仮名で統一理解していたものを、表記で混ぜて仮名とローマ字で語を単位とする説明となる。仮名による国語、音素による機械分析と、分けることもないが、論理にとらえるのは形態論を入れてのことになって、そこに意味が前提となっている言語の捉え方の背景がある。
語と形態素は同じか。まったく異なると言ってよいのであるが、形態素を記号素とする文法理論があって、それに合わせた説明ができれば、語、形態素、記号素という循環になる。



8 コメント

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語と外延と内包 (Mr.Moto)
2020-10-06 09:49:54
お邪魔します。あくまで私見ですが、私の考えるところを述べます。
意味には「外延的な意味」(そのものの存在に対応するイデア的なもの)、「内包的な意味」(“それ”がどんなものであるかの性質とか説明とか)の二側面があり、「語」とは「外延」に紐づけられたコトバなのではないか、と考えています。正確な喩ではいえませんが、辞書であれば見出し語(品詞なども含む)に相当するのが外延、語釈が内包、というところでしょうか。
そうなると、「動く」という語は、その活用形「動き」「動いた」「動いて」を包括して「動く」という語(動詞)ということになります。
その結果、「動かされる」は、語としては「動く」「す・さす」「れる・られる」の3語からなる、と自然に解釈できて、「この3語がそれぞれどのように字義的に結合しているか」という点については形態素(および音素。たとえば “ugok・as・are-ru” )の観点から個別に論じることができて、議論がすっきりするように思います。
こう考えると、
> 語、形態素、記号素という循環になる。
についても、「循環」というより「階層」として扱えるのではないでしょうか。
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「循環」について (Maria)
2020-10-06 13:46:45
お邪魔します。
国文法的なアプローチとしては、
> 語、形態素、記号素という循環になる。
という態度に対して批判的になるとは思いますが(悪いのは Moto ちゃんだぞ)、あたしは語彙的なアプローチとして「たしかに循環関係に近いものがあると考えなければならない」と思っています。
大野 晋先生が「語根」という概念について述べていらっしゃいました。
たとえば「ノブ」は「範囲を広げる」という意味の語根(らしきもの)であって、「述べる」「伸びる」の語根です。「タカ」は「上向きにのびる」という意味で「高い」「岳」「竹」「丈」「茸」「長け」などの語根ですし、「ハヤ」は「勢いが盛んになる」という意味で「早い」「速い」「生える」「流行る」「囃す」の語根だと考えられます。そうなると、語根「トル」には、語としての「取る」「獲る」「採る」「撮る」「捕る」「撮る」「摂る」「盗る」に属している、と想定されます。
ここには、「意味としてのアイデンティ」である「語根」があり、その延長としての「語」があり、その内包的対象としての「内包的な意味」を通じて語根と対照する、という「循環関係」あるいは「照応関係」というものを考えたくなります。
これが、「『書く』という行為の結果として、自らが『表現』として捉えなおす」行為の結果なのか、「『文章を書いて、伝える』という行為の結果として、他者というものを捉えなおす」行為の結果なのかにおいて、「循環」なのか「照応」なのか「コミュニケーション」なのかという評価が与えられそうに思います。
失礼いたしました。m(_ _)m
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外延、内包 (ksk_ym)
2020-10-06 21:51:06

外延と内包
外延:動く 内包:動き 動いた 動いて  
こういうような解釈でしょうか。

概念説明には次があります・
内包に intesion 、外包に extention;《論理学》内包⇔外延denotation ;明示的意味(⇔内包connotation) など、用語によるところ、概念は、さまざまに議論しますね。

>辞書であれば見出し語(品詞なども含む)に相当するのが外延、語釈が内包
この喩えだと、逆にとらえそうです。
人間という概念に、外延のまま、人間ですが、そこに、人、人類、ホモサピエンス、と、外延をくっつけていくと人間は概念としては、外延の内側にそれこそ確かなものとして、内包=人間となると考えています。

こんな説明だと、次の解説で、わたしの考えるところです。

図書館情報学用語辞典の解説
>一つの概念が適用される事物の範囲.言葉を換えれば,一つの概念の示す本質的性質を具有する表象群をいう.概念の内包が本質的属性の総和であるのに対して,外延は,その概念の適応することのできる範囲となる.両者間には相関関係があって,反対の方向に増減する.内包が増加すれば,適応の範囲は少なくなり,外延は減少する.階層分類では,一般的なものから特定のものへと区分が進行するにつれて,概念の外延が縮小し,内包が増大する.
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イカとタコ (Maria)
2020-10-07 14:05:46
たびたびお邪魔します。ども m(_ _)m
坂井 秀寿さんの『日本語の文法と論理』における外延主義の話に戻るわけですが、「実体としての『もの』」を「外延」として捉えてしまうと、意味処理において矛盾が生じてしまいます。
「明けの明星は金星である」「宵の明星は金星である」というのは、物理的な外延である「金星」が、「明けの明星」「宵の明星」と、外延として合同である、というふうに、「物理的な外延」という立場からは解釈されるはずです。
そうすると、「彼女は明けの明星と宵の明星が同じ天体だということを知らなかった」は、「彼女は明けの明星と明けの明星が同じ天体だということを知らなかった」「彼女は宵の明星と宵の明星が同じ天体だということを知らなかった」「彼女は金星と金星が同じ天体だということを知らなかった」と "同義" であることを認めなければならなくなってしまいます。
これは、いかがなものかと思います。
「彼女は、(関西でいう)『煮カツ定食』が、(関東でいう)『カツ丼の別れ』であることを知らなかった」というときに、「物理的な外延」としては「煮カツ定食」と「カツ丼の別れ」が(個体としてはともかく、語としての範疇としては)"同じ" 外延です。
そうなると、「あたしがイメージしている『カツ丼』」と、「他の人がイメージしている『カツ丼』」は、「外延として区別しないといけない」という話になります。「おれは新潟県人なので、『カツ丼』といえば『ソースかつ丼』だ。こういうのは、新潟では『カツとじ丼』というのだ!」という話には、なります。
私は辞書管理担当なので、語彙に関しては気になることがあります。
いわゆる「凧」を「たこ」と呼ぶのは、かつての江戸近辺であり、そこを離れると「はた」「いか」「いかのぼり」になります。
江戸城で将軍に謁見することが許されているのは旗本(はたもと)で、そうでない武士は「お目見え以下」と呼ばれていました。そんなわけで、「『お目見え以下』より高く上がったから『タコ』」という話ではないかと思います。
動詞では「語根→語」という関連があるのはおおむね確認できます。ただ、名詞にみられるような「語源→語」の関係になると、どうしても「語」と「内包的な意味」というものは切り離せなくなってきます。
そういう意味では、(特に、コンピュータ上で扱う場合には)「語」というものは「イデア」として類別しておくのが無難ではないだろうか、と思います。もちろん、これは電算屋としての便宜的な主張でしかない、と思うのですが。
「ライスカレー」と「カレーライス」や「広島風お好み焼き」と「大阪風お好み焼き」のように、「カレー」「お好み焼き」というコトバからイメージされるものは違うわけですので、「語」というところで区切っておかないと、正直なところ辞書管理担当者としては手に余ります (^_^;)。
目の前に「凧」があったときに、「これは、イカかタコか」と訊かれても、正直なところ、なんと答えたらよいかというと困りますので。
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芋タコ南京 (ksk_ym)
2020-10-08 02:32:38
morning star と evening star は語の単位をとる話でしょうか。
それとも外延主義という立場では、概念と意味を同一視した議論展開でしょうか。
語の単位における外延と内包を用語に論じるのでしょうか。
さきに概念における外延と内包はそのとらえ方が一つのもの、すなわち概念であって、そこに語のラベルを貼るわけですから、語における外延、概念における外延という捉え方を、外延において区別して議論しようとするものでしょう。
概念において、その本質と個々のものとの関連では外延、内包に区別がある理解にはなりません。脳に刺激を与えて、ことばによって反応するところは、能の全体にわたる、概念とはいっても、脳内作用と言っていいかどうか、人間の言語活動には、明けの明星、宵の明星があって、その本質に金星があるとする、それは内包とする金星の周縁におかれた、明けのの明星も、宵の明星も、すべて金星であるということが脳の働きとしてあって、その人のことばによって場面の使い分けがあるわけです。
イカもタコもそれを外延だけを取り出すように表現する述語では、どうなるか。
明けの明星と宵の明星はその述語の論では異なったものという見方になるのは、そういうことを現象に見て脳で理解する結果であるのでしょう。しかし議論は主義主張に押しやろうとする――
それをさらに、語の内包とは、概念の内包に金星があって、語の周縁の捉え方と概念の周縁にあるものとは、一致しないという論理の立て方で、意味の見方を広げようとしたのでしょう。
どちらの立場をとるかで、外延、内包の解釈が真逆になるのは、実際の言語作用を見ようとしない、論理だけに抽象しようとするからだと思います。
それぞれの立場で概念と語、そこに述語を入れる、ときどき外延のラベルを議論する説明におどろきます。イカもタコも、目の前にあれば、烏賊か、であり、凧か、です。その表現をする内実には、ほかの要因を見ることになる、その語だけではない、という用法の意味でしょう。
季語は俳句があって意味があります。
いもタコ南京かぼちゃ、いか凧南京、ここに蛸があるわけですね。いも たこ なんきん しばい どれもお好きですか。
語で区切るのが概念としてわかりやすいですね。

凧 読み:たこ 濁音符号:たこ 現代かなたこ
1 紙鳶 いかのぼり いかのほり いかのぼり
2 いか いか いか いか
3 はた はた はた はた
4 繪凧 ゑだこ ゑたこ えだこ
5 字凧 じだこ したこ じだこ
6 奴凧 やつだこ やつたこ やつだこ
7 人形凧 にんぎやうだこ にんきやうたこ にんぎょうだこ
8 鳶凧 とびだこ とひたこ とびだこ
9 板木凧 はんぎだこ はんきたこ はんぎだこ
10 小袖凧 こそでだこ こそてたこ こそでだこ
11 三河凧 みかはだこ みかはたこ みかわだこ
12 角凧 かくだこ かくたこ かくだこ
13 切拔凧 きりぬきだこ きりぬきたこ きりぬきだこ
14 五角凧 ごかくだこ こかくたこ ごかくだこ
15 六角凧 ろくかくだこ ろくかくたこ ろくかくだこ
16 扇子凧 せんすだこ せんすたこ せんすだこ
17 扇凧 あふぎだこ あふきたこ おうぎたこ
18 壽賀凧 すがだこ すかたこ すがだこ
19 軍配凧 ぐんばいだこ くんはいたこ ぐんばいだこ
20 けんえき凧 けんえきだこ けんえきたこ けんえきだこ
21 旗凧 はただこ はたたこ はただこ
22 骨牌凧 かるただこ かるたたこ かるただこ
23 達磨凧 だるまだこ たるまたこ だるまだこ
24 行燈凧 あんどんだこ あんとんたこ あんどんだこ
25 南京凧 なんきんだこ なんきんたこ なんきんだこ
26 細工凧 さいくだこ さいくたこ さいくだこ
27 蝙蝠鳶 かふもりとび かふもりとひ こうもりとび
28 切凧 きれだこ きれたこ きれだこ
29 懸凧 かゝりだこ かゝりたこ かかりだこ
30 落凧 おちだこ
季語のページより

語根、語基、語幹は、その論議で、形態素、形態、活用また屈折の現象をとって、単純語、複合語、合成語となる、音素から漢字語にまで、それぞれに使う方がいますね。
root of word;stem;basis
日本語で、どういうふうに、現象を説明の用語とするか。

なお、「国文法的」は音節仮名のレベルをいいますか?システム屋さんは発音的でしょうか。
>>国文法的なアプローチとしては、
> 語、形態素、記号素という循環になる。
というのは、中国語から日本語、構造から形態素論、機能言語の記号、と見えることで、「国文法的なアプローチ」なるものと見えますか、語と記号の循環を見たわけです。
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国文法の処理レベル (Maria)
2020-10-08 09:18:18
> なお、「国文法的」は音節仮名のレベルをいいますか?システム屋さんは発音的でしょうか。
一般に、日本語処理は
形態素解析→構文解析→意味処理
と理解されていますが、現代の日本語処理における
形態素解析(もっとも、構文解析は英語やフランス語などの欧米語を除くとほとんど手法が未確立で、意味処理は論理式の記号処理に留まっているので、「日本語処理」というのはほぼ「形態素解析」と同義です)は、ブラックボックス化されているというかブラックアート(黒魔術)というか、要するに国語学・国文法とは乖離したノウハウやテクニックの集積でしかありませんでした。
それをいま一度「国語の文法」の観点から整理し、コンピュータ上で処理可能な形にしよう、というのがわれわれ大森総研のアプローチです(一九九一年ごろからやってます)。
このとき、「記号的な表現」から「発話・書字」への変換の際に、どうしても音素的なものが入りこんできます。「を」は発音上「お」になりますし「は」は「わ」、「へ」が「え」になります。ローマ字を「かなからラテン文字への変換」と見るか、「日本語の音のラテン文字表記への変換」と見るか、というのはこのあたりの例でもあります。
そうなると、「記号的」か「形態的」か「音節仮名」か「発音的」かというと、区別しづらい部分があるわけです。
「書く」は「kak-u」ですが「書いた」「書いて」はそれぞれ「ka(k)-i・ta」「ka(k)-i・te」であり(あるいは「ka(k)-i・t-a」「ka(k)-i・t-e」であり)、「形態素」「音素」「仮名表記」をどう区別して扱うかは、システム開発上のテクニックのような、「国語学レベルの理解」とは別の分野の話になってしまいます。
われわれの目標としては、今のところ「漢字かな交じり文の処理」があるのですが、「日本語による音声入出力」まで考えると「形態素・音素・仮名表記をどう区別して扱うか」の点まで踏みこんだ音声学的な分析に踏みこむ必要があるものの、現時点では「そのあたりはシステムで呑みこむ」ということにして、残念ながら分析・解明は先送りせざるを得ません。
> 語で区切るのが概念としてわかりやすいですね。
と、私たちも思っています。ただ、語で区切って語彙として整理する前に、活用やら助詞やらといった説明に手間取って(学生さんの側からいうと、「足元を掬われて」でしょうか)、国文法が嫌いになってしまった人も多いと思います。
このあたりは、中学国語のカリキュラムあたりから見直したほうがいいように思います。「日本の学校と日本語学校では、教えている文法が違う」というのも、考えてみるとおかしな話ではありますので。
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共同幻想 (Mr.Moto)
2020-10-08 13:52:00
フロイト派の精神分析家である岸田 秀さんは、「ヒト」というのは「野生動物であるサル」がネオテニー化によって「遺伝子」以外の情報伝達手段(言語やらなんやら)として、「文化」という(本能とは別枠の)共同体概念を獲得したと唱えています。
カイコにとっては、桑というのは、本能によって規定された「食べられるもの」と同義です。アゲハチョウの多くの蝶にとっては、「柑橘類の葉っぱ」は「食べられるもの」と同義です。だけどキアゲハにとっては、「食べられるもの」というのは「セリ科の植物」だったりするのですが、岸田さんは「人間は本能がぶっ壊れているので、『文化的な規範』というものがないと、世界を認識できない」と主張しています。「食えないものでも、なんとなく口に入れちゃう」というのが幼児です。
「われわれ人類は、本能が壊れているので、幻想を貼りつけることによってしか、世界を認識できない」という主張です。
> morning star と evening star は語の単位をとる話でしょうか。
> それとも外延主義という立場では、概念と意味を同一視した議論展開でしょうか。
> 語の単位における外延と内包を用語に論じるのでしょうか。
というのは、「実在物としての『金星』」というのは、われわれ人類(あるいは言語文化)以前からずっと存在していたわけで、それに「明けの明星」「宵の明星」とかいった幻想を貼りつけ、そののちに「実在物としての『金星』」について思い立ったものだから、そこに「抽象概念としての金星」という "幻想" を貼りつけた、という話なのだと思います。
これは、私が「幻想」は「実在」に比べて劣位であると思っているわけではありません。下手に実在に接触してしまうとサルトルみたいにゲロを吐いたり統合失調症を疑われたりします。
われわれ人間は、「実存」に対して「文化」の範疇である「(外延としての)幻想」というレッテル(ラベル)を貼ることで、(岸田秀さんが『保育器の中の大人』でいうところの)「文化」という共同幻想の中で生きているのだと思います。
つーても、吉本隆明がいうところの「共同幻想」というのは、「限りなく誤用に近い用法」だとは思うのですが。
あんまり「日本語の語用論」とか「"語" の意味」とかいった話からは遠ざかってしまいました。お邪魔して申し訳ありません。m(_ _)m
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足を掬う (ksk_ym)
2020-10-08 22:19:17
国文法的について、大変ですね。説明を、ありがとうございます。日本の学校と日本語学校では、教えている文法が違う、考えてみるとおかしな話だというのもその通りのようですが、学習文法として学校文法にするか、規範文法まで整理しているか、いや、文型習得か、対照文法で抑えるか、実用的な語法でひとわたりの理解を作り出す、という、違いがあって、口語文法を現代語文法にしない、文語文法は古典語文法になってしまって、これは習得する言語環境と学習個々の持つバックグランドの違いということでもあって、20年近く習得し続ける読み書きにポイントがある日本語と、この年数はもっと短くてもいい、それに対して、600時間から900時間で話すことができるようになる日常会話の日本語と、そういう学習量の違いは、教えている文法が違うように見えて、その実際は、中級に進むとそうではないということです。2000漢字を18歳までで読み書きできるようにする、その2000漢字を3年から5年のわずかな期間で使えるようにするとなると、言語環境があっても、おのずと習得方法が変わってきますし、漢字文化という、中国文化の影響にある漢和辞典が使えるかどうか、日本の高校生も使えなくなってしまって、現代漢語の辞典を出した新潮、岩波と、これは言ってみれば、帯に短したすきに何とかで、学習者向けではあるものの、漢字の背景を脳中に備えるには、中国古代漢語と国語と、その視点を持たなければならないという困難があります。

形態素解析→構文解析→意味処理
このステップでしょうか、移行段階があるとすると、この理論に、語の分析を必要としているように見えます。何かよくわからないのですが、語すなわち語りのパターンをいれて、単語に屈折を見るような考えです。すでにある程度は、ワード変換で長文解析には、ひらがなを打ち続けていると、自動処理で、語の単位を区切って出てきますね。なんか、見当はずれを、ご容赦!ください。
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