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kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第39回 自殺事件

2014-12-08 08:42:31 | 説明
自殺事件


 享保16年(1731年)の御用留に愛宕町の伝左衛門後家の借家人の庄右衛門(38歳)の自殺の記録が載っています。この経過を見てみます。五人組、町名主、町年寄りの役割がわかります。

 3月23日の暮時、愛宕町の庄右衛門夫婦、伯母の3人で瑞泉寺へ参詣しました。五つ過ぎに帰ろうとしましたが、この時元主人の松木源之丞の母とあったので話をしました。夫庄右衛門は先に帰りました。”五つ”は現在の5時ではありません。江戸時代は不定時法で、日の入りが”六つ”で、ほぼ2時間後が”五つ”です。夜の8時頃でしょう。暗くなってから帰っています。

 庄右衛門妻は家に帰りましたが、先に帰ったはずの夫がいません。そのうち帰るだろうと、妻は待っていましたが、夜九つになっても帰りません。夜の九つは現在の12時です。妻は、大家の伝左衛門後家と妻の親の長左衛門に知らせました。長左衛門も愛宕町住んでおり家持です。長左衛門と長左衛門の五人組はあちこちと探しに出ましたが、夜中なので見つけることができませんでした。

 翌3月24日、長左衛門は元主人の松木源之丞の屋敷と庄右衛門の借家請け人(保証人)である柳町の七右衛門のところに行きましたが、来ていないとのことです。庄右衛門の兄たち(徳兵衛と惣兵衛の二人)が逸見筋江草村にいるので、兄のところでも行ったかもしれないと思い、この兄のところに尋ねていきましたが、やはり来ていないということです。
当時は、見つからなければ、「欠落」として公儀に届け出る必要がありました。

 3月24日の昼頃、愛宕町の市郎左衛門が草刈の帰りに長左衛門の家の裏の麦畑で人が倒れているのを見つけました。市郎左衛門は長左衛門女房に裏の畑で人が倒れていることを知らせました。長左衛門は江草村へ尋ねに出ていましたので留守でしたので、五人組の金兵衛、久左衛門、十右衛門に知らせ、3人は確認に出向きました。倒れているのが、探している庄右衛門であり、脇差でのどをついて死亡しているので、町名主庄兵衛にさっそく報告しました。町名主庄兵衛も確認し、町年寄りへ報告し、町年寄りはこれを受けて、公儀に報告しました。長左衛門の五人組は、庄右衛門の兄たちへ飛脚で知らせました。前夜は暗かったので長左衛門の裏で死亡しているのはわからなかったのでしょう。

 3月24日暮過ぎに、与力2人、同心3人が検使として現地に来ました。町年寄りの坂田与一左衛門も立ち合いに出向きました。夜中に一旦終了し、翌25日も検使が行われました。25日は町年寄りは山本金左衛門が立ち会っています。町人に関する事件の場合町年寄りは立ち合いの義務があったようです。

 さて、江草村を尋ねた長左衛門は、庄右衛門の兄たちと甲府に帰り始めました。その途中で、庄右衛門が死亡しているという手紙を受け取り、あわてて帰りました。兄たちは庄右衛門の借家の請け人である柳町の七右衛門方へ立ち寄っています。報告のためでしょう。

 3月25日、朝五つ半より七つ時まで調べが行われています。日の出を”六つ”といい、ほぼ2時間後を”五つ”といいます。9時ごろから4時ごろまで取り調べが行われています。この日は関係者全員(庄右衛門妻、大家伝左衛門後家、親長左衛門、長左衛門五人組、発見者の市郎左衛門など)から話を聞いています。

 話の内容は口書、つまり供述書として文章にまとめられています。この口書きによれば、他殺の可能性も考慮して、何か意趣になる(恨まれている)ようなことがあったかと関係者に聞いています。最初から自殺と決めているわけではないようです。関係者はそのようなことはないと答えています。また、去年8月に30日ほど大病を患い、この時にできた借金甲金2~3両を苦にして自殺した、あるいは病気が再発したのではないかとも答えています。この時の病気を「狐付」と称しています。

  3月26日、関係者の口書の内容を了解して、自殺と断定され、一件落着です。遺体の状況と、関係者の供述が筋が通っていれば自殺と断定されます。

脇差に関しては疑問に思っていないようです。おそらく本人のものと分かったのでしょうか。そうすると、当時は町民でも脇差を差していることになります。庄右衛門の当時の服装は袴羽織でした。羽織袴には脇差を差すことが正装だったのでしょうか。


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