kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第38回 甲府勤番1

2014-12-03 16:51:57 | 説明
甲府勤番について


 山梨県は1724年(享保9年)に江戸幕府の直轄地になりました。甲府城下には甲府勤番がおかれ、農村地帯には代官所が設置されました。代官所は甲府、石和、市川(最初は飯田にありました)の3箇所に設置されています。代官の支配地域は9万石~10万石で、3区域に分けて支配することから3部代官とも称されていました。この体制は幕末まで続いています。


 甲府勤番は甲府城の城番が本務であり、勤番支配2名、勤番士200名です。甲府城の管理と甲府城下の管理に当りました。甲府勤番は山手組と追手組の2つにわかれており、役所も2箇所あり、月交代で勤務していました。図に億署の位置を示します。両役所ともに甲府城内にありました。山手役所は現在のJR甲府駅付近、追手役所は現在の甲府市役所の位置です。また、図中の山本家と坂田家は甲府町年寄りの役宅の位置です。



甲府勤番支配は江戸から赴任し、任期が終わると江戸に帰りました。任期は2~3年です。勤番士は甲府在住です。少人数のため軍事力はほとんどありません。1836年(天保7年)の天保騒動の時も、一揆勢に甲府城下の侵入を許しています。鎮圧にも時間がかかっており、最終的に諏訪高島藩の手を借りています。


 江戸町奉行所の町方に相当するのが加勤といわれる役職で、勤番士の中から選ばれました。与力4騎、同心14人が任命されました。勤番士の本務は甲府城の城番なので、町方兼帯という意味で加勤と呼ばれていました。町民には町年寄、名主、五人組(長としての上組)、仲間の制度がありましたので、この人数でもやっていくことができたようです。殺害や傷害事件の犯人が逃亡しても探し出すのは町人の役目です。また、盗難事件の場合、古着屋や古道具屋に盗難品のリストが仲間の月行事を通じて回るだけで、古着屋や古道具屋自身が該当品があれば役所に届けます。加勤が直接回ることがありませんでした。人別帳の作成と管理も名主の仕事でした。

 このほか、甲府勝手小普請というものがありました。小普請なので役職はありません。いわゆる”山流し”はこの甲府勝手小普請のことです。
 
 幕府の崩壊とともに、勤番士は失職しました。一時、江戸あるいは駿府に行く者も多くありましたが、ほとんどは甲府に戻りました。鎮撫府(甲斐府)は、明治元年(1868)5月にこの勤番士を護衛隊として再組織化して甲府城と城下の警備に当てました。この護衛隊は明治3年に解散しています。

 明治元年に武田浪人や神官を中心とした護国隊や隆武隊も結成されていますが、これらの隊は戊辰戦争に従軍しています。護衛隊とは別なものです。

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