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◆体験談◆

◆体験談◆

言葉の格闘技「詩のボクシング」で全国ベスト8

2006年10月04日 | 引きこもり
2001/05/29: ◆体験 言葉の格闘技「詩のボクシング」で全国ベスト8 福岡 高市宗治さん

 【福岡県・穂波町】“朗読ボクサー”たちが、四角いリング上で熱戦を繰り広げた。
 26日に東京で行われた「詩のボクシング」全国大会(考案者は楠かつのり・日本朗読ボクシング協会代表)。地方大会を勝ち抜いた29人の中の一人が、高市宗治さん(32)=新世紀支部、男子地区リーダー。
 会場は、文京区本郷のバリオホール。自作の詩を3分間朗読し、どれだけ観客をひきつけるかを競う“言葉の格闘技”。審査員には、作家の江國香織、島田雅彦各氏も名を連ねる。勝負のポイントは、詩の内容と朗読の力。
 2回戦(1回戦はシード)のゴングとともに、高市さんは、生の喜びを綴った「ありがとう」の朗読を始めた……。
 “何で生きてるんや?”。自分を責める。生きがいを見つける自信もないまま、毎日自室に引きこもり、死ぬことばかり考えていた大学1年生の春。
 8月、創価大学に入学した高校の同級生・日高伸次さん(31)=東京・八王子本陣区、部長=が訪ねてきた。
 「夢は絶対かなう!」
 確信が、胸の空洞を埋めた。11月、御本尊を御安置。
 「たかいっちゃん、10年後を目指そうな!」
 “この若さで何言いよっと?”……そう思いつつ、祈り続けた。
 命の底からこんこんと泉がわき出るように、いつしか生きる気力がみなぎり始めた。通学し、アルバイトも開始。2年後には母・和子さん(55)=副ブロック担当員=も入会。
 93年、大学を卒業し、早稲田大学第二文学部(夜間学部)に編入。学ぶほどに、ある意欲がわいてきた。
 “生の尊さを、文章で表現したい!”。そこに、求め続けた“生きがい”があった。アルバイトしながら、小説の執筆に取り組んだ。
 98年11月。「第29回九州芸術祭文学賞」の福岡県・地区優秀作(1作のみ)に。入会へ導いた彼に言った。「ちょうど10年目や。感謝しとうとよ」「……」。いつも明るい彼も、その時は言葉にならなかった。
 小説、詩で入選を重ねた。本年4月、「詩のボクシング」福岡大会で優勝し、全国大会へ。
 ――「もうダメだ」とばかりに羽根をとじるか/「負けてたまるか」と羽ばたくか/幸福というのは(中略)二者択一につきる
 自らの人生を重ねた「ありがとう」で、2回戦を突破するも、準々決勝で惜敗(ジャッジ9人で4―5)。高市さんの健闘を拍手でたたえる会場には、両親と同志の姿があった。
 現在、男子地区リーダー、そして高等部の支部責任者。「夢に向かって頑張ろう!」と励ます自分が、ちょっと照れくさい。
 仕事に、活動にと、挑戦の日が続く。活力の源泉は、池田名誉会長の長編詩。
 「どんな“朗読ボクサー”よりも、強烈に皆の魂を揺さぶる“励ましのパンチ”ですから!」
 師の詩心をわが魂のパワーとして、今、高市さんは、人生勝利へとさらに羽ばたく。

臨床心理士として子供たちと交流

2006年10月04日 | 引きこもり
2000/12/18: ◆体験 臨床心理士として子供たちと交流 兵庫県三田市 久富美咲さん

 久富美咲さん(35)=兵庫県三田市、三田希望支部、地区副婦人部長(ブロック担当員兼任)=は、臨床心理士。少年刑務所や教育相談機関で“本当の自分”を見失っている子供たちのために情熱を傾けてきた。
 調査専門官を務めた少年刑務所では覚醒剤(かくせいざい)事件を起こした少年が多かった。幻覚と快楽の世界に浸り、薬物の怖さを判断できない。
 「自分の体にクスリを入れて何が悪い!」
 「先生、クスリをやったことないの? それじゃ、話にならないよ。これまで生きてきて一つもいいことなんてなかった。クスリぐらいしかないんだよ!」
 愛情を感じて育ってこられなかったために、自分を大切にできず、生きることに希望が持てない。
 「でも、あなたは偶然に生まれてきたんじゃない。あなたにしかない使命を果たすために生まれたのよ」
 面接の回数は限られている。真剣勝負で状態を的確に分析し、更生への道を探る。
 「客観的な分析は大切です。でも、彼らと接して思うのは、彼らを信じ、捨て身の愛情で包んであげれば、必ず“自分のすばらしさ”に気づくということです」。一人ひとりを思い、祈った。三年間で二百人以上と出会った。
 一昨年は不登校者数が激増するなか、中学校でスクールカウンセラーを務めた。「本当の自分を取り戻し、自信を持ってほしい」と。ときには、自分の体験を語りながら……。
 ――久富さんは自身が不登校生だった。二人の兄の後、念願の女の子としてかわいがられた。だが、いつしか母の大きな期待にこたえようと、“良い子”を演じるようになっていた。成績はトップクラス。人気もあった。
 だが、高学年になると、優等生であることがいじめの対象に。“頑張ろう”が、いつしか“自分を最高に見せなければ”と……。
 母に勧められた中学受験に全部失敗した。落胆する母。“もうかわいがられないのでは……”。不安が心を覆う。中学二年から不登校になった。
 「学校に行くんだ!」。父に引っ張られる。「イヤ、行きたくない!」。玄関にしがみつき、泣き叫んだ。親に反抗したことがなかった娘の姿に母は泣いた。
 人の目が気になり、引きこもりに。“もう、生きていてもしょうがない……”。その姿を見かねて訪れたおばは、いつもと変わらず接してくれた。経済苦から学会に入会。希望を胸に、夫と運送業を大きく発展させてきた話をしてくれた。「この信心はね、勇気と生命力がわいてきて、どんなことも乗り越えられる強い自分になれるんだよ!」
 おばは学校のことに一言も触れなかった。一緒に唱題してくれた。人と会うのが怖かったが、座談会に参加できた。「苦労や悩みを隠さず、前向きに自分らしく生きてる皆さんの姿に驚きました」
 そのうち“学校に行かなければ”ではなく、“学校に行きたい”と思うように変わり、高校受験に挑戦。初めて自分の意志で決めた道だった。
 届いた合格通知。「良かったね!」「頑張ったね!」。心から喜んでくれた友の温かさが忘れられない。
 高校時代、再び不登校になった。二度と失敗できないと気負い、緊張して疲れてしまったのだ。
 当時の日記につらい思いがつづられている。
 「昨日、時間割までそろえておいたのに、結局、行けなかった。自分にも見えない心の呪縛(じゅばく)に締め付けられて抜け出せない。本当は学校に行きたいのに……」
 だが、今回は違っていた。“学校に行けない壁を破ろう”との思いがあった。一緒に座談会に参加し始めた母親はこう語った。「お父さんと話し合ったのよ。美咲が明るく笑ってさえいてくれたら、それ以上、何もいらないって。何があっても守るからね」
 おばがくれた池田名誉会長の『若き友へ贈る』を何度も読み返した。「友よ 君は不運にも多くの 社会的失敗はあったかもしれないが 人生の最後の優勝者になってくれ給えと 僕は祈り待っているのだ」
 “使命があるなら、もう一度立ち上がりたい”。真剣に祈り、心からそう思えたときだった。学校に行けた! 「それだけでなく、何があっても乗り越えていける自信をもつことができたんです」
 この経験が立教大学で臨床心理学を学ぶきっかけに。学会活動にも励んだ。大学会結成での名誉会長のスピーチが心の糧(かて)となった。「足下を掘れ そこに泉あり」
 卒業論文では、自分の不登校体験を取り上げた。「ここまで自己分析できることは珍しい」と高い評価を受け、教育専門誌等に紹介。不登校に悩む人や教員の研修等の講演を依頼された。
 “悩み、苦しむ子供たちとともに歩む仕事に就きたい”と卒業から一年後、大学院に進学。
 “不登校体験”をその後の生きるエネルギーに変えただけでなく、“自分の使命”へと開いていった。
 同じ大学で活動に励んだ夫の健治さん(37)=男子部副本部長=も五年前、大学の経済学の講師になり、東京から兵庫の地へ。久富さんは地域の小単位の集まりでも講演を行い、心の交流を深める。
 ウィメンズプラザで、最後に決意を込めて語った。
 「今、私も二人の子供の母となりました。こういう時代だからこそ、幸福の哲学をもった学会婦人部の一員として、友の悩みや苦しみに寄り添い、確信を持って励まし続けたいのです。さらにわが生命を磨き、鍛えながら、地域に安心のネットワークを広げていきます!」

平均年齢67歳の「ジャズバンド」に社会参加章

2006年10月04日 | 引きこもり
2000/10/13: ◆体験 平均年齢67歳の「ジャズバンド」に社会参加章 兵庫 真砂隆旺さん

 【兵庫県尼崎市】平均年齢六十七歳のジャズバンド「サンライズジャズオーケストラ」にこのほど、総務庁から「高齢者の社会参加の模範」として「社会参加章」が贈られた。
 同バンドの代表が真砂(まさご)隆旺(たかお)さん(74)=立花支部、副ブロック長=である。十一年前に、高齢者中心の音楽サークルで、五、六人の友人に呼び掛けて練習をスタート。その後、バンドの話を聞きつけた往年のジャズマンたちが押し寄せ、フルバンド編成に。
 「引きこもりがちなお年寄りたちに、私たちの音楽で生きる希望を与えることができるんじゃないか」と、老人ホームや障害者施設でのコンサートを始めた。阪神・淡路大震災の際には仮設住宅への慰問演奏も。今では、さまざまなイベントに引っ張りだこだ。昨年十月には、中国・上海市での国際芸術祭に招待されている。
 真砂さんの音楽との出合いは中学二年、ブラスバンド部。社会に出てからもアルトサックスの奏者として活躍。草創の音楽隊に属し、あの雨の文化祭にも出演している。
 「これまでの人生をどう総仕上げしていくか、ここからが大事なんです。私は、大好きなジャズで『人生を映し出すようなスイング』を響かせていきたい」
 六年前、脳出血で倒れ、入院中に最愛の妻・千恵子さんを肝臓がんで失った。自らの病気の後遺症もあり、それこそ悲しみのどん底に突き落とされた。
 しかし、“つらいときこそ信心で乗り越えるんだ、もう一度みんなと演奏したい”と、ベッドの上で真剣な唱題に励んだ。
 右足と腰に残った後遺症を乗り越え、深い悲しみから立ち上がり、再び舞台に立ったのは二カ月後のことだった。
 「お年寄りの気持ちは、私たちが一番分かります。自分の姿で、皆に希望を送ろう、と誓ったんです。私たちにしか出せない“いぶし銀のサウンド”がありますからね」と言う真砂さん。ジャズの本場アメリカで演奏したいと夢を膨らませる。

小児マヒのハンディ乗り越えた折り紙の先生

2006年10月04日 | 引きこもり
1999/04/20: ◆体験 小児マヒのハンディ乗り越えた折り紙の先生 東京 春元富美子

 *折り紙の先生はみんなの希望!/“すべてに挑戦”でハンディ(小児マヒ)
乗り越える
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 【東京・文京区】テーブルを囲んで折り紙に夢中になっている婦人たち。「
懐中雛(かいちゅうびな)ってなかなか難しいわねえ。ここはどうすればいいの
かしら」
 “折り紙の先生”である春元富美子さん(66)=常楽支部、支部副婦人部長=は
、立ち往生した人のもとに行き、自ら手ほどきをする。「この線に沿って折り込
めば……ほら、きれいに見えるでしょう」
 春元さんが趣味で折り紙を始めたのは五年前のこと。みるみる腕を上げ、今で
は、地元の老人会館で開催される月に二度の折り紙講座をはじめ、区の
女性センターや地域のフェスティバルでも教えている。
 長い間教えている生徒から「都合のつく時で結構ですから、私の家にも来てく
ださい。“教わりたい”という友人がたくさんいるんです」と頼まれることもし
ばしば。週に二、三回開いている、そうした“出張教室”では、折り紙を教えた
後も、楽しいお茶の時間が続く。
 「最近、嫁との折り合いが悪くてね。長生きしてもあんまりいいことないわ」
。ふだんは口に出せないそんな不満が出ることも。
 「私も、昔は長生きしたって仕方がないと思っていたわ。満足に歩くこともで
きない身体だったから。でもね、“大切なのは、今いる場所で自分らしく挑戦し
続けること”と気づいてから毎日の生活が一変したわ。みんな、元気な足がある
んだから、その気になれば今からでも遅くはない! なんだってできるわよ」
 ――小児マヒのため小さいころから右足がほとんど動かなかった春元さんが
学会に出あったのは、二十四歳の時。長男の友近さん(40)=地区部長=の成長に
つれて、肩や手を杖代わりにして学会活動に駆け回った。
 「もともとは、歩いている姿を見られるのがいやで家に引きこもりがちな性格
だったんですけどね。一生懸命、信心に励んでいるうちに一八〇度変わりました
」(笑い)
 三十八歳の時には、本紙の配達をしたいと初めて自転車にも挑戦。「何度も転
んで青あざを作りましたが、三日で乗れるようになったときの感動は忘れられま
せん。二十年間配達できたのが、何よりの誇りです」
 最近になって、折り紙講座に参加しているろうあ者の方たちと会話をしたいと
、手話を学び始めた春元さん。折り紙の技術に加えて、いつも前向きなその
生き方が、地域の友に大きな希望を与えている。
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 婦人たちに折り紙の手ほどきをする春元さん(中央)

社会貢献に奔走する女流画家

2006年10月04日 | 引きこもり
1991/07/20: ◆体験 社会貢献に奔走する女流画家 鹿児島市 田中成子さん

 *“奄美の民話”を残したい/社会貢献に奔走する女流画家
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 【鹿児島市】昨年、ベストセラーにもなった「西郷の島妻・愛加那」の表紙の
絵を担当した田中成子さん(47)=鹿児島南圏・脇田支部、副ブロック担当員=は
、現在、女流画家として活躍している。昨年十二月から「道の島民話の会」を
発足させ、その会長として、今、奄美諸島の民話を後世に残そうと尽力している
。ここでは民話をもとにした歌や歌劇を作り、民話を残す工夫をこらす。
テレビ局や出版社等の問い合わせも多く、社会的にも注目を浴びている。
 “道の島”とは東西の文化を船で伝えた海道の島の意。愛加那と遠い親せきに
もあたるという田中さんは小さいころ、祖母から島の民話を伝え聞いていた。
 「歴史の表舞台に登場しない島の女性に光を当てて、忘れられようとする庶民
の歴史を掘り起こしていきたい」という。
 民話の会は、昨年十一月に開催された「世界の童話展」に、愛加那の出版の縁
で知り合った三十人の来賓を誘ったことから始まった。「世界の童話を、こんな
に集めるなんて創価学会はすごいですね」と多くの来賓が語った。「いつも
あなたが言っていた民話をこれを機会に本格的に研究してみたら」との声も。
二週間後、勧められるままに、その日集った三人を中心に「道の島民話の会」を
設立した。二カ月に一回の研究発表会を軸に活動し、今ではメンバーが百人にな
ろうとしている。
 田中さんは生来、体が弱く小学校に上がるまで、足の骨を保護するための
ギプスをはめていた。ひざによく水がたまった。正座もまともにできない。それ
が昭和五十四年に入信して三カ月後、医者にいくと「あなたは別の病院に行きま
したね。もう治ってますよ」。弱かった足で、今は弘法に走り回る。きちんと
正座して勤行もできる。
 また、耳が不自由で、常に補聴器をつけていた。電話が聞き取れない。しかし
、入信して二年後ぐらいから、少しずつ聞こえる音が大きくなりはじめ、ついに
補聴器なしで生活できるようになった。
 無口で、引きこもりがちだった田中さんは、入信して何事にも挑戦する勇気を
得た。昨年まで経営していた学習塾でも有数の合格率を誇り、各地で講演をする
ほどまでに。
 こうして自身の変革をもたらした信仰への感謝を忘れず、田中さんは
南日本美術展等で活躍中。更にフリーのエッセイストとしても、鹿児島の
文化ジャーナルや同人誌で海や民話についての随想を載せるなど健筆をふるう。
 海は生命の母といわれる。おおらかな海ではぐくまれた奄美の民話に、不思議
な懐かしさを感じるのは、田中さんだけではないであろう。
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 「庶民の立場に立った歴史を残していきたい」と語る田中さん