1月17日は私にとってとても大きな意味ある日である。
一つはもちろん阪神大震災のあった日だからだ。
この震災のあった当時は、阪神間の実家に住んでいたので、
被災した。
地震が起こった時は、この世の終わりかと思うほどの揺れだったし
街並みは戦時中のロケ現場かと思うような有様だった。
とにかく家の中のものがめちゃくちゃに壊れたので、
「もの」というのは壊れるんだなあと当たり前のことをしみじみ思い、
それ以降「物欲」が著しくなくなったのを覚えている。
とにかくなるだけ「もの」を所有しない。
背の高い家具は倒れてくると凶器なので、私は背の低い
(冷蔵庫以外は)家具しか自宅には置かない。
家の倒壊はまぬかれたが、ライフラインなかなか復旧しなかったので
普通の生活がいかに幸せなのか、しみじみと味わった。
それから、あの温度差は忘れられない。
阪神大震災は、ある意味局地的な地震であった。
私は兵庫の西宮というところに住んでいたが、お隣の大阪に出たときの
ショックは鮮明だ。
街は震災前と何も変わらない賑やかさと煩雑さと明るさで、
同じこれが日本か、関西かと衝撃を受けた。
この手のものは、体験していないと分からないものらしく、
大阪在住の知人や友人の何人かが、震災をネタにして冗談をいう神経
がよく分からなかった。
その無神経な友人たちが悪いのだろうが、
私はしばらく大阪人に対してかなりひねくれた感情を抱いていた。
(ただし、今は私は大阪に住んでいるし大阪は好きだ)
それから震災後の3月には、報道がオウム事件一色になってしまい、
全国規模では、阪神大震災への関心はいっきょに薄められてしまった。
あれから17年もたったかと思うと、時のたつ早さにおののいてしまう。
震災の記憶は年々風化されてしまうらしく、震災が起こった
兵庫県内でも阪神大震災があったという事実を知らない若い世代
が増えてきた。
変わらぬ悲しみと痛みを抱え続けている人は大勢いるのに。
ただ、表面上街は見事に復活している。
でも、阪神間で妙に新しい建物が続く整然とした町並みをみると、
ああ、ここは被害が甚大だったのだなあと逆に感じさせられる。
時が経つのは人には恩恵なのか、残酷なのか、私にはよく分からない。
二つめは、1月17日は私の最愛の師匠(カウンセリングにおいて)
である神田清美先生を失った日だ。
ちょうど、二年前、阪神大震災が起こった同じ未明に亡くなった。
先生は神戸でずっと活動していたので、先生自身震災に対して
強い関わりや思いがあったと思う。
だから、同じ日に、同じ時間くらいに死んじゃったのかなと
考えたりする。
先生がいなくなって2年も経つかと思うと、やっぱり時の経つ早さに
驚いてしまう。
私は父も含め、大切な人の何人かがすでに亡くなっているが、
私が死んであの世にいったら、一番はじめに会いたいのが
神田先生だ。
先生は今でも、どこかで私たちを見守っているとは思うけど、
「先生、私、こんなに頑張ったんですよ。」
とかなんとか言ってみたい。
こういう記事は、1月17日に書くべきだろうが、昨日は気持ちがいっぱい
いっぱいで書けなかった。
東日本大震災では、阪神大震災をはるかに上回る被害が出て、
この世に生きているということは、困難や、哀しみや、苦しみ
から逃れられないということを改めて認識したが、
どうかどうか、少しでも痛み少なく幸い多い世の中であって
欲しいと、そんな風になって欲しいと
心から祈らずにいられない。