大阪府高齢者大学校 2013年度 考古学研究科

2013年度考古学研究科がスタートしました。
この一年を、楽しい学習の場にしていきましょう。

校外学習 崇福寺 百穴古墳群方面

2014年02月03日 | 日記
2014.1.23

 抜けるような青空の大阪を出発し、長等山トンネルを抜けると大津京は曇天でした。時折しぐれる中しっかり登山装備の面々が元気に滋賀里の駅に集合しました。この辺りは縄文時代は琵琶湖の波打ち際であったそうだ。正確にいえば現在も地形は日々変化続けているのだろう。最初に参拝した八幡神社の境内には古墳の石と思われる大きい石がごろごろ頭を出していた。
大津市埋蔵文化センター
 神社参拝後 埋蔵文化センターを訪れ、出土品の展示物を拝見する前に、館長さんから6世紀前半~7世紀前半までの古墳に副葬されたかまどのミニチュア炊飯セットを見せて頂いた。

 主な展示品は、真野廃寺、上仰木遺跡、坂本里坊遺跡、穴太廃寺、大津城跡、青江遺跡の出土品であった。特に目にとまったものは、上仰木遺跡の美しい緑色の陶器の破片。中国磁州窯系の陶器「緑裕白地掻落牡丹唐草文梅瓶」12世紀~13世紀(大英博物館所蔵のものと同工品)や皿に描かれた墨書土器、堺のすり鉢。大津城の胞衣壺(あと産を入れた)

石造 阿弥陀如来坐像(志賀の大佛)
崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へ抜ける旧山中越え(志賀の山越え)で、大津側の入り口に位置する場所で旅人が道中の安全を祈願したという。
高さ 約3.5m  幅 2.7m  13世紀頃造られた。

東海自然歩道
東京の「明治の森高尾国定公園」から、大阪の「明治の森箕面国定公園」まで1300キロある道が通っている。

崇福寺跡
崇福寺は天智天皇7年(668)の大津遷都の翌年に建立された寺で寺跡は三条の尾根の上に残っている。
南尾根は、金堂・講堂の跡で白鳳時代の遺物は出土しない。(桓武天皇によって建立された梵釈寺ではないかの説もある)
中尾根 小金堂・塔跡
 東側の建物は塔あとで、基壇中央部の地下1メートルの所に塔の基礎があり、舎利容器は金銅製外箱・銀製中箱・金製内箱・金製の蓋をもった瑠璃(ガラス)壺からなっており、 壺の中には水晶の舎利三粒が納められていたそうです。
北尾根は 弥勒堂跡です。
 南尾根(金堂・講堂跡)から中尾根(小金堂・塔跡)への移動は狭い山道でした。事故なく完歩しました
壬申の乱によって大津の宮が廃都になった後も繁栄を続け、平安時代十大寺の一つに数えられるほどになったようです。

百穴古墳群              
 際川の谷口部の北側、南北150m、東西250mに広がる古墳群で現在は六十数基が確認されています。いずれもドーム状の横穴式石室を内部主体とした小円墳で直10m前後。被葬者は百済系渡来人、6世紀後半と推定されている。
往時、近江には百済系渡来人の一大中心地であった。飛鳥から奈良・京都へと政治の中心が移る中間に大津京があったこと、渡来人が住みついた理由などを辿る校外学習でした。 

午後は大津市歴史博物館見学
穴太遺跡のオンドル遺構 
7世紀前半につくられた物渡来人が暮らした跡がよくわかる遺構です。