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三国志 Three Kingdoms 第6部 三国鼎立(後半) 第77~84話 

2017-12-04 13:42:56 | 三国志 Three Kingdoms

 

 第6部後半に入ります

劉備は蜀の名士李厳の元を尋ねる。李厳は劉備の意向を察して皇帝に即位するように勧める。

「天子だからこそより多くの恩恵を民に授けられます。ご主君が王の間は蜀の俊才は将軍や主簿にしかなれません。帝位を継承されて初めて才人は侯爵になれるのです。」

これまで曹操も劉備も孫権も上奏(天子に申し上げる)するという形で貢献した部下に”侯”の位をを与えていたけど、天子になれば直接与えることができるし、直接仕える仕官の身分は自ずと高いものになる。肩書をとても重要視していたようです。孔明も同じことを言ってましたね

221年劉備は蜀漢を建国し即位し、年号を改める。

蜀の露台は質素なつくり

  

劉備は呉を討つことを最初の詔とする。

その詔に趙雲はすぐに異議を唱える。

「国賊は孫権ではなく曹丕。漢皇室を廃した恨みは公のもの、兄弟の仇討は私事です。」そしてその機に乗じて曹丕が攻撃を仕掛けて領地を奪いにくることも指摘

孔明も賛同する。劉備は軍官と文官のトップの意見に従わざるを得ない。延期を承諾。それでも軍備を整えたら討伐すると釘を刺す。

 

だけど、張飛は納得できない。喪服を羽織り、劉備の元に行き、いつまでたっても出撃の命令が下されないことを涙ながらに責める。

討伐を止めた孔明をなじり、劉備がたしなめると張飛は言う

「孔明がいないと大業を成せないのか?孔明こそ兄者の抜擢がなければ今日はなかった。兄者は孔明に助けられたと言うが、兄者が奴を育てたんだ。」

かつて関羽はそう話していたという・・・・一理あると思いました。

劉備は陣地に戻る張飛に自分のマントをかけてあげる

劉備は涙ながらにしみじみと去っていく張飛を見届ける・・・

張飛の訴えを受けて劉備は呉討伐を再び考え始める。魏と呉を比べれば呉の方が弱いから、先ず呉を滅ぼしてから魏を討てばよい。地上戦では呉の兵力は弱く蜀の方が有利だし、魏も曹丕は大きな戦は未経験。速攻で呉を倒せば魏も手を出せなくなる。劉備は李厳を呼び出しそのことを相談。李厳は元から蜀にいた重臣たちと算段し各地から6割の税を徴収し、3人に一人の男子を徴兵するということで賄えるとこたえ、決定する。

劉備は、関羽や張飛と同じように呉を甘く見ている。曹操軍が大軍で押し寄せて攻めてきたとき、撃退されて大敗したのに。それにこのとんでもない重税と徴兵!「非常の時は非情の手段もやむを得ない」なんて劉備は言っているけど、劉備の恨みであって、国は非常事態でない。

重税もさることながら、3人に一人の男子って、子供も老人も病人も含めて数えるのだろうか。そうしたら殆どの青年と成人男子が戦争に駆り出されることになる。またそうしないと数十万の人数は徴兵できないはず。国を養う働き手の不足で農業や産業が滞り国の衰退を招いてしまう。これでは険しい山脈に州を守られているのを幸いとして平和を愛し民を戦争に巻き込んではいけないと考えていた劉璋の方が良かったのではと思いました。絵ばかり描いて暗愚と言われていたけど、蜀の豊かさは平和の賜物。劉璋が劉備を迎えに行くとき、臣下がこぞって反対して止めようとした気持ちがわかる。平和な時代が終わる。彼らには劉備は好戦的に見えたのでしょう。

実は李厳も呉討伐には反対だったのだけど、劉備軍の部下になって日の浅い彼は保身のため賛成した。

その動きをまだ知らない張飛は討伐戦ができないいらだちで部下に無理な命令を下し、それができないと過酷な刑罰を下していた。それはひどいパワハラ。でも、劉備の弟分なので誰も文句が言えない。あまりのひどさに見ていて腹が立ちました。張飛は本当に自分本位。大事な人を無くした悲しみを持ってない人なんてこの時代にいるだろうか。でも自分の悲しみばかりこだわって周りの人や部下へのいたわりが一切ない。あまりの傍若無人に死を待つ身になってしまった部下の兵士は追い詰められて張飛の寝首を掻き、張飛の首級を持って孫権軍に投降する。

でも兵士には自分の命を守る自由すらない。

孫権は劉備の憎しみがますますこちらに向けられた事に焦り、国境の軍備を増強し、投降した二人を牢屋に入れる。

 

劉備は復讐の鬼となる。不遇の時代から苦労を分かち合い、青春を共にした自分の分身みたいな存在だったもんね。義弟たちの死を防げず自分だけ残ってしまった腹立たしさもあるのでしょう。「我が両手を失った」と嘆き、孫家を滅ぼし肉を食らうとまで言う。

弱い呉を先に討ってから魏を滅ぼすことが大儀、以後異を唱えるものは敵とみなすと宣言。大義は弔い合戦にすり替わってしまった。

孔明も趙雲ももう何も言えない。呉討伐に賛同した李厳や蜀の重臣たちに実権を取らせ、孔明は干される。

 

東屋で琴を弾く孔明。だが弾いている途中で弦が切れる。傍にいた馬謖も魏延も胸騒ぎを感じる。

孔明の琴も、周瑜の弾く琴も、今でいう古琴ですが、音色が金属的鋭い音で、この時代に金属弦があったのかな?なんて思ってたのですが、気になって調べてみたら、昔は絹弦だったけど、今の古琴はスチール弦、もしくはスチールを芯としたナイロン弦を使っているそうです。

 

うん、確かにこの弦はスチール。きっと1800年前の音色は少し違っていたでしょう。でも、このドラマに出てくる琴の音色も深みがあってとても好きです。

 

劉備は自ら指揮して城を出て進軍。呉討伐に反対した趙雲と孔明は蜀に残し、見送る孔明を見ようとしない。

孔明は劉備に同行する馬良を呼び止める。

んん?馬良!生きていたΣ(・ω・ノ)ノ!樊城の敗戦から蜀まで一人で逃げてきたのだろうか。。。。というよりまるで樊城攻めに参加してなかったような風情ですが(^^;)何にしても元気そうで何よりです。孔明は馬良に、呉に入ったら駐屯のたびに周囲の地形と敵の情勢を図に描き送り届けることを言いつける。

 

水陸合わせて70万の大軍で呉に攻め入る。何とか戦争をとどめてほしい孫権は使者を行かせ、劉備に張飛を殺した二人を引き渡して停戦を求めたが、使者は差し出した二人と共々処刑される。その残忍さがまるで張飛のようだと思いました。

孫権は蜀軍に対抗する武将を募るが、武将たちもなかなか名乗り出る勇気がでない。孫権は曹操軍の侵略に5万の兵で撃破した周瑜と魯粛の不在を嘆き自ら指揮すると言い始めた時、孫一族の一人、孫桓(そんかん)が名乗りでる。孫桓は荊州の入り口に位置し堅牢な秭帰(しき)城で食い止める任務を受ける。

一方蜀軍は

劉備は関羽と張飛の息子達に秭帰城を3日で落とすよう命令。人が変わってしまった劉備。怒りと憎しみで目が吊り上がり肩をいからせて、威圧感があります。

手前が張飛の息子張苞(ちょうほう)、奥にいるのが関羽の息子関興(かんこう)。二人は父達に倣い義兄弟の関係です。今度は張苞が年長なので兄。

二人の指揮でわずか3刻(約6時間だそうです)で陥落させ、劉備も「虎の父に犬の子なし」と満足する。

陥落した城は略奪を禁じ蜀の支配地として蜀の法令を発布して取り込み、荊州を進む。

蜀軍の怒涛の勢いに危機感を持った孫権は諸葛瑾を使者にして、関羽と張飛殺害は孫権の意思でないことを申し開きして、連れ戻した孫小妹と荊州を返還し和睦を提案。さらに劉備軍本来の大義は漢賊曹軍を倒す事ではないかと諌めるが、劉備は「ならば関羽と張飛を返せ」と拒絶。諸葛瑾に孔明の兄でなければ処刑するところだと言って追い返す。・・・まるでかつての関羽と同じ事を言ってます。

苦渋の孫権に諸葛瑾は魏への帰順を提案する。それはこれまで曹軍に屈せず独立してきた孫権にとって屈辱的な提案。だけど、魏を味方につけないと呉が危ない

 

敬愛する魯粛の墓前に佇む孫権。魯粛は孫劉同盟を推し進めた人だった。 まさか死後こんな事態になるとは。張昭がやってきて孫権に、国の主は国を守るため数限りない屈辱に耐えるべきと諭す。

洛陽の宮殿。さすが豪壮な造りです。221年、曹丕は帰順を受け入れ、孫権を呉王に封じる。

第5部で孫軍の兵士が孫権を呉王と呼んでいた場面がありましたが、ここで正式に呉王になる。だが、曹丕も司馬懿も水軍は強いが騎馬兵や歩兵が脆弱な孫権軍は劉備軍に勝てないと予想していた。とりあえず援軍は出さず静観してみる。

 

秭帰城を劉備軍に陥落されて命からがら脱出した孫桓の軍は、今度は夷陵(いりょう)城にこもって劉備軍に応戦し持ちこたえていた。

孫権は孫桓の軍に援軍を出すと言うと、老将程普が「これは罠では」と指摘。

堅牢な秭帰城ですら3刻しか持たなかったのに、脆弱な夷陵城が数日持つのはおかしい。経験上不穏な物を感じるという。だが孫権は程普の懸念を「考えすぎだ」と否定して援軍を決定し、10万の兵を出陣させる。

その決定がされると、河原で白装束(死装束を意味しているのか)で髪を振り乱して泣き叫ぶ男が現れる。それは陸遜。

「呉の兵士たちよ、そなたらはなんと気の毒なことか。まるで虎口に入る羊や薪を抱えて火事場に入るも同じだ。今日出陣した者は二度と戻ってくることはない。なんとむごいことか。」

陸遜は捉えられ、孫権の居城に連れてこられるが孫権に直接訴えることは叶わず牢に入れられる。

一方、蜀軍はやはり呉軍が全力を挙げて送る援軍を狙い殲滅させる作戦を立てていた。狭い富池口(ふちこう)の谷におびき寄せる策を考えた五虎将軍の一人黄忠が自ら囮になる事を申し出る。75歳という年齢もあり申し出を一度は断る劉備だったが、黄忠は懇願する。

「陛下、私は60歳までは英明な主君に出会えず我が人生はこの程度かと諦めておりました。ところがその後陛下に出会い五虎将軍に任じられたのです。無為に余命を延ばすより対戦で一生を終わらせたいのです。さすれば悔いはありません。心よりお願いします。」劉備は黄忠の申し出に心打たれる。

出陣する孫権軍

大将の 韓当(向かって左)と副将の周泰・・・この兜といい白い房飾りと言い白いマントといい、孫軍の甲冑姿は相変わらずかっこよくてなんだか懐かしい・・・

呉軍の出陣に不穏を感じた程普も病をおして自ら参加する。

「孫家三代にご厚恩を賜った命を賭して報いる他ない。安心しろ、戦になれば剣を振るい敵を殺す。」

夷陵城を守るため陣を作った呉軍に黄忠の軍は呉軍の陣を攻めてから撤退し富池口の谷間に誘い込む、だが、韓当らはさすがに警戒して谷間に入ろうとせず矢を放つ。そこへ黄忠が引き返して呉軍の前に現れ

矢に射られながら富池口の狭い崖の谷間に入っていく、誘い込まれるように谷間に入った呉軍は伏兵に矢を射られ石を投げられ斬られ次々と倒れていき、韓当周泰も黄忠の捨て身の作戦に感嘆し、自分達はここまでと思ったとき

陣を守っていた程普が軍を連れて助けに来る。

韓当と周泰は助かり、かわりに程普は矢を受け討ち死にする。結果蜀軍は大勝。呉軍は10万のうち7万の兵を失い多くの将軍も失う大敗となり、騎兵歩兵の戦力の大半を失う。蜀軍と呉軍の戦力差は明らかになってしまった。

蜀軍の黄忠は沢山の矢を受けながらも陣に戻り治療を受けた。が見舞う劉備に笑顔で

「もしあの世で雲長に会ったら言ってやります『わしを五虎将軍に陛下が任じなさったぞ。どうだ?恐れ入ったか?参ったかと』」そう言って絶命する。

・・・関羽は生前、「わしと互角に戦った」と黄忠を高く評価していたよ。五虎将軍になったのも納得してたよ(:_;)・・・

劉備は悲しみ孫権への憎しみをさらに増大させ、「必ずや孫氏三代の墓を暴いてやる」と罵る。

黄忠の想いもしみじみ胸を打たれましたが、程普も泣けました。程普はこのドラマの第1部から孫堅の武将として現れて、孫堅の死後、孫策と共に袁術の軍に身を寄せて苦労し一緒に独立し、孫権の代になっても周瑜、魯粛や呂蒙と共に戦ってきたので、孫家の歴史の生き証人でもありました。ドラマでは劉備軍の方に焦点を当ててしまうけど、両陣営の老将軍の覚悟と心意気に胸を打たれる戦いでした。

 

自分の戦の采配の未熟を痛感した孫権は、陸遜を牢屋から出して大都督に抜擢する。陸遜が蜀軍との戦いに策があると示すため白装束で目立つ行動をしたと見抜いていた。

陸遜はまだ27歳の一介の書生でしかないので、周りの武将が納得しないのではとためらうと、孫権は覚悟を言う。

「亡き兄の孫策が江東を率いたのは21歳だ。私が父兄の大業を継承したのは18歳。周瑜は赤壁の時30路前後。呉では昔から若輩が英雄となる。危急存亡の時に用いる以上、栄辱も生死も共にする。」

 

大都督となった陸遜は10日で25の砦を作らせ、蜀軍に応戦させる。が、あくまでも砦の死守を命じ攻撃を禁じた。しかし10日で撤退を命令する。瞬く間に劉備軍はすべての砦を突破した。しかし、さらに30里進んだところに20の砦を築き応戦させる。

劉備のところに、呉は陸遜という若者が大都督となった報告が届くが、青二才と気にも留めない。馬良は危急の時に抜擢されたのだから大才かもしれないと指摘するが、劉備は実力を試してやると言い鼻で笑う。

陸遜はまたしても攻撃を禁じ数日後撤退させる。蜀軍は進む。

このまま夷陵の山を突破すれば平原になるので荊州はほぼ平定される。

 

将軍たちは陸遜が夷陵城に援軍を送らず、蜀軍と戦わず退却し続けることに不満を感じ、あからさまに不信感を表す将軍も現れる。が、陸遜は軍法を守らせ不遜な態度には厳しく処罰する。そして新たに命令する。

「30里先に第3の砦を築いた。全部で20だ。5日間出撃するな、5日後蜀群が猛攻してきたらやはり退却せよ。50里先に第4の砦を準備する。」将軍たちは今後の作戦の行方を聞くと答える。

「最後の防衛線は猇亭山(おうていざん)だ。今はただあらゆる時間を用いて敵を疲弊させ好機を待つのだ。2か月後30万の精兵が天より降りる。」

将軍たちは陸遜の言う30万の精兵の存在を疑い無策を嘆く。

 

蜀にいる孔明の元には劉備軍から戦況報告が届く。連戦連勝であまりにも順調なことに胸騒ぎがする。そして呉の大都督にまだ無名の陸遜という青年が就任したらしい。

「孫権は戦は下手で戦えば負けるが、ただ1つ人を見る目だけはある。周瑜、魯粛、呂蒙と人選は正解。今用いている陸遜にも人に勝る何かがあるのだろう。」

 劉備が年内に呉を倒すつもりで早くも遷都を考えていると聞き、さらに不安に駆られ馬謖に書簡を持って行かせる。

 

呉の国では、文官も蜀軍に負け続けている状況に不安を募らせ陸遜の罷免を孫権に要請する。が、孫権はきっぱり言う。

「良いか私は陸遜を替えぬ。重要なのは過程ではなく結果。陸遜は今3連敗中だが10連敗しても絶対に替えぬ!」

 

陸遜の陣営では将軍たちが集合していた

すでに第4の砦も劉備軍に突破された。将軍たちは戦わず敗走してばかりの戦いに不満と焦燥をためていた。もうかなり蜀軍は侵攻してしまった。陸遜は言う

「我らには後がない。あれを見よ夷陵の山々の最期の尾根だ。あそこを越えれば平原が広がり荊州までもう難関はない。私はあそこに強固な砦を50築いた。最期の防衛線だ。今日からこの大都督以下すべての兵は砦と生死を共にするのだ。」

陸遜と将軍たちは陸遜の持つ剣をみな握りしめ血を酒に注ぎ、劉備を倒すと誓い飲み干す。

 

蜀軍は猇亭(おうてい)に陣を張り、そこに馬謖が兵糧運搬と共に孔明の書簡を劉備に渡した。書簡は陸遜は無名だけど才があり決して油断されないように、と書かれていた。が、

「我らには前進はあっても後退はない。勝利はあっても敗北はない」と孔明に伝言。勝利を確信していた。

だが、第5の砦群は強固に守られこれまでのように陥落できない。次第に蜀軍に疲れが出始める。馬良は蜀軍を一度休ませることを提案。劉備は不満ながら承諾する。

一旦退却した蜀軍に攻撃を申し出る呉軍の将軍たちだが、陸遜はなおも攻撃を厳格に禁じる。

「私は援軍を待つ。まもなく着く。時が来たら30万の精兵が天より降りる」その意味を計りかねる将軍たち。

蜀軍は呉軍の砦の前で兵士たちに孫権の悪口を言わせて挑発する。その挑発に乗ってしまった傳駿(ふしゅん)将軍は怒り砦から出て戦いを仕掛け逆に砦を奪われ、連鎖して4つの砦を奪われる。

軍令を破って損害を被らせた罪で陸遜は傳駿を処刑する。

その直後、孫権が呉軍の砲虎(ほうこ)陣に陣中視察に来る。傳駿は孫権の身内となる人物だった。

陸遜は処刑したことを伝え、処罰を覚悟するが、孫権は将軍たちに言う。

「私が何を考えているか分かるか?もし陸遜が法を曲げてでも傳駿を斬らなければ、私の首は劉備に斬られて建業の城壁に晒されよう!」そう言って文官たちが陸遜の罷免を訴えた木簡を持ってこさせて目の前で火にかける。木簡は炎に包まれた。

一度信任したら、何があっても絶対に覆さない孫権の強い信頼と覚悟に陸遜は誓う。

「必ずご主君に”炎”をお返しします。天を覆う勝利の炎を」

 

季節は夏となり、蜀軍は次第に酷暑に消耗し、水が枯れて不衛生な水を飲み疫病が蔓延し、10の陣営のうち3か所が壊滅状態になる。馬良が軍の半分ずつ交替で秭帰(しき)城に戻って休ませることを進言するが、劉備は後退を許さず山林の中に軍営を置き、谷川沿いに留まらせよと命令。谷川沿いならきれいな水も調達できるし木陰だと日差しも和らぎ少し楽になる。

陸遜のもとに劉備軍が谷川沿いの山林の茂みに全軍が陣営を移したと知らせが入ると、陸遜は顔をほころばせる

「負ける、蜀軍は必ず負ける。」

陸遜は将軍たちを招集して30万の精兵の到来を告げる。それは酷暑と疾病と風土であった。蜀軍は遠征の疲れがたまり、病気が蔓延、戦力が落ちてしまっている。将軍達はやっと理解し笑顔を見せる。さらに蜀軍は山林に陣営を敷いてしまった。乾いた木や草は乾いた薪が積みあがった竈も同然・・・湿気の多い日本で考えると夏はむしろ雨が多くムシムシしていますが、中国荊州は雨が少なく乾燥しているようです。

昔、周瑜が赤壁で曹操軍を火攻めで大敗させたように、陸遜はさらに大きな火で劉備軍を火攻めで壊滅させると宣言

 

一方馬良は陣営図を書いて蜀の孔明の所まで持って行き見せに行くと孔明はいきり立ち羽扇子を机に叩きつけ叫ぶ

「誰の指金だ?誰がこんな布陣を進言した?そいつは奸賊だ、直ちに斬り殺せ!」そして蜀の敗北を断定。劉備の策と聞き、馬良に急ぎ戻って移動を進言するように命令。

ただし蜀から陣に戻るには数日を要する。もしすでに敗北していたら劉備を益州入り口にある白帝城に避難させるように言い渡す。そして呉の追撃をかわすために魚腹浦(ぎょふくほ)に10万の伏兵を置いたと告げる。馬良は急ぎ劉備の陣営に戻る。

孔明は敵ながら陸遜の才を感嘆。

急ぎ馬謖に2千の兵を使って魚腹浦に石を積み上げ八卦の陣を作らせ、陸遜の軍の追撃に時間稼ぎをする(迷路のようなものだろうか?)。

急ぎ趙雲を呼び手持ちの騎兵1万で劉備のいる陣へ行き劉備を助け出し白帝城に護衛して送ることを命令。

 

魏の都の洛陽では、

曹丕の元に劉備軍が川沿いの山林に陣を置いた情報が入り、呉軍の勝利と判断。曹丕は司馬懿の判断の誤りを指摘。今後について意見を聞くと司馬懿は勢いづいて蜀まで進軍する呉軍の背後を突き、荊州を奪い取る作戦を進言。自ら軍を指揮したいと申し出るが、曹丕は曹仁を総指揮に曹休、曹真の曹一族に任せることにする。

そして司馬懿は曹丕の隠している病を偶然見てしまう。

司馬懿は自邸で息子司馬昭と曹一族が司馬一族を警戒していることを伝える。障子の向こうに気配を感じると静姝(せいしゅ)が食事を持って待っていた。司馬懿は静姝に家族同然だから遠慮なく入りなさいと告げ、息子に先ほどの話の続きをと促すと、意を受けた司馬昭はたわいない祭事の話を始める。

 

夜、谷川に沿って作られた蜀の陣営の周りでは

呉軍が陣営を囲み、陸遜の合図を受けて一斉に火矢を放ち火の球を飛ばす。

 

瞬く間に蜀の陣営は火に囲まれ、絶えず放たれる火矢と火の玉に兵士たちは討たれ、馬たちも火のついた姿で逃げ惑う。

 

 

 火の地獄でした。火が回ったところで呉軍は突撃。次々と倒していく。

劉備は突然の夜襲に呆然となり、勝利を確信していたのに、事態を受け止めることができず、怒りを爆発させる。

「孫権を殺せ!呉を殲滅しろ!」劉備軍は70万の兵をほとんど失った。

 

夷陵の戦いの大勝利で呉の将軍たちは陸遜に感服。でも陸遜は冷静で、孔明の才には及ばないと言って思い上がらない。孔明の八卦の陣も老馬を使って無事通過する。その積み上げられた石には碁器が置いてあった。それは孔明が馬謖に命じて置いたもの。陸遜が蓋を開けてみると中に蝉とカマキリの死骸が入っていた。

「蟷螂 蝉を狙い 黄雀 後ろにあり」陸遜はこれ以上追撃すると魏軍が背後を突くという孔明の警告と理解。追撃をやめ引き返す。

砲虎陣に戻ると孫権と諸葛瑾が来ていて、やはり曹軍が呉に攻めてきているという。孫権の余裕の表情に、陸遜は孫権が万全の対策を配したのを理解。一同は乾杯をする。そして呉も蜀も戦争で国力も兵力も弱まってしまい、魏はますます強大となった以上孫劉同盟の復活を考える。

 

222年、呉は夷陵の戦いの後に魏から独立、呉独自に年号を改めます。これで歴史的に三国が並び立った事になったそうです

 

劉備は衰えていた体調を無理して戦争をしかけ、敗北で健康を失ってしまった。急ぎ阿斗と孔明を呼び、孔明は李厳も同行を願い白帝城に馳せ参じる。

劉備は孔明の貢献でここまで成しえたことを感謝し、慢心で戦争を起こして、これまで築き上げた多くのものを失ってしまった事を想うと胸を締め付けられる思いだという。隆中で孔明と会った日に孔明から聞いた天下三分の計は今も鮮明に覚えている。それは劉備にとって最高の展望だった。

その中に「外は孫氏と結び、うちは仁政をしく。」というものがあったけれど・・・帝位についた劉備は、関羽も張飛も非があったのに復讐の念に駆られ呉を憎み、あなどり、正常な判断を失い戦争を仕掛けてしまい、蜀の民を仁政とは程遠い重税と無理な徴兵で苦しめて多くを死なせてしまった。

そこに諸葛瑾が呉の使者として 奪い取った武器や馬や車、捕虜にした兵を船に乗せ白帝城に到着する。

劉備に謁見した諸葛瑾は、孫権は呉の勝利は幸運であったにすぎないと思っていると言い、奪った兵馬や武器は全て返還するので改めて孫劉同盟の復活し、共に魏へ対抗したいと伝える。いまだ遺恨が深い劉備は怒り血を吐き倒れる。

意識が戻ると阿斗が傍にいた。劉備は孫劉同盟をどう思うかと聞いても阿斗は答えられない。父の亡き後大業を継げる覚悟があるかと聞くと、このまま太子のままでいたいと泣く。その時ふっと1つの明かりの火が消えた。どうするかと聞いても阿斗は自分では決めれない。

劉備は孫劉同盟を承諾。夜に李厳を呼び寄せる。蜀の旧臣の中でも忠疑心と人望の篤さ随一と李厳を評価し、孔明と力を合わせて国に尽くしてほしいと頼み、そして阿斗の面倒を頼む。

「悪事は小さくともさせてはならぬ。善事は小さくとも必ず行わせよ。常に賢德であり自らを正しく保てと諭せ」

李厳は涙ながらに忠義を誓う。

 

孫劉同盟復活が了承されて諸葛瑾は白帝城から呉に戻るのを孔明は船着き場まで送る。魏に飲み込まれないためにも孫劉同盟の復活は必要と二人は安堵した。

 孔明は兄に呉の翻意はあり得るかと問うと、諸葛瑾も弟に蜀の翻意はあり得るかと問い返す。

孔明は言う「我が蜀は信義が国是。一諾千金、断じて背きませぬ。」

諸葛瑾も言う「我が賢主も一度発した言葉を覆した事はないぞ。」

二人は笑いあう。こじれきって再生不能と思われた両国間の同盟が復活できたのは、やはり諸葛孔明と諸葛瑾兄弟の仲が良くて、それぞれの国の君主の信頼篤い重臣だという功績が大きいです。本当にとても優秀な一族なんですね。

別れ際に孔明は兄に陸遜への伝言を頼む「そなたの才はかつての周瑜にも劣らぬ。それゆえ私は敬服しております。そこで自重を心得、私を敵と見なさず、大才を国や民に使い魏に対抗されよ」魏への戦いに照準をすえて呉とは余計な争いをしたくないことを陸遜なら理解できると思ったのでしょうね。

 

劉備の体調はいよいよ思わしくなく、急ぎ孔明は劉備のそばに侍る。

劉備は孔明に言う

「我が息子の阿斗だが補佐役を望むなら補佐してくれ。だが阿斗が大器になれぬと思うならばそなたが取って代わり帝位を継ぎて蜀を治めてくれ。」

・・・劉備は建前を言う人だと思うのです。陶謙に徐州の牧を譲ると言われた時も、劉表に荊州の牧を譲ると言われた時も、益州の劉璋にも本当は喉から手が出るほど領地が欲しいのに仁義を理由にその気はないと答えてしまう。けれど結局は自分の所有にしてきた。帝位につく気はないと激怒しながら、本当は望んでいた。だから、阿斗を差し置いて帝位を継いでほしいというのも建前で孔明から阿斗に忠誠を誓う言葉を言わせたかったように思えるのです。孔明はわかっていたと思う。

孔明は涙ながらに生涯忠誠を誓う。劉備は阿斗に孔明を亜父と思うようにと諭す。それはたよりない息子の人生を守ってあげたい父の思いでした。

 そしてもう一つ、馬謖の事を言う。孔明は愛弟子馬謖を陸遜に匹敵する英才と言うが、劉備は大言壮語、大事は任せられぬと孔明に釘を刺す。

そして阿斗に「高祖本紀」をもう一度暗誦させるも、とうとう覚えていなかった。

劉備は落胆と心配のまま崩御する。西暦223年、63歳でした。父の後を継ぎ、劉禅(阿斗の正式名)が2代目の帝位を継ぐ

孔明は劉備の霊前に琴を弾いて捧げる。

 

その琴の音に呼応するように、遠く江東の地、呉では孫権が孫小妹の墓前に妹愛用の笛を吹いて聞かせていた。

 

白帝城から戻った諸葛瑾は無事孫劉同盟が復活したことを報告。孫権は小妹は劉備軍の敗戦を知ってから食を絶ち衰弱死してしまったことを話す。それを聞いた諸葛瑾は小妹の死が劉備の死の翌日だと指摘。劉備の死の知らせに驚いた孫権は墓前に話しかける。

「小妹よ聞いたか?そなたの夫も世を去った。これで寂しくないぞ。劉備も一緒だ。そなたらは天上で会える。」そう言って涙ぐみながら笑う。

そして劉備の死でもう憂いはなくなった、事実上政治をする孔明は北伐はしても東征はしないと安心して高らかに笑う。

 

魏の都 洛陽では、

曹丕は劉備の死による混乱に乗じて蜀に攻撃を仕掛けることを考える。司馬懿は献策する。5路から攻撃し、孫権にも蜀の山分けを提案し参戦してもらう。中でも一番重要な第5の攻撃は有能な将軍が大都督になって50万の兵を引いて攻撃すれば蜀は必ず敗れる。そしてその大都督に司馬懿は自ら立候補する。

だが、曹丕は父の司馬懿に気を許すなという言葉を守り、傍にいて助けていて欲しいと頼む形で却下する。

 

蜀の都 成都では

曹軍の攻撃の報告を受け、劉禅は孔明に対策を聞く。孔明はすでに対策を打っていた。

安心して笑顔を見せる蜀漢の二代目皇帝 劉禅公嗣。

劉禅は無邪気に孔明へ全幅の信頼を寄せている。

だが、孫権がどう動くか気になる。おそらく曹丕が協力を要請する使者を呉に向かわせているはず。そこで蜀からも魏に協力しないよう馬謖が説得しに呉に出向く。

 

呉の都 建業では

孫権の元に孔明からの書簡が届き、馬謖がやってくる。孔明からの書簡ではすでに対策を整えていると伝えるが本当であるか、孫権は巨大な鼎に油を煮えたぎらせ使者の馬謖を威圧し、もし説得力がなかったら酈食其(れきいき)の故事にちなんで鼎に放り込んでしまうことにする。・・・そんな野蛮な(゚Д゚;)

馬謖は鼎を見てもひるまず堂々と孫権に挨拶。ひざまずかない馬謖に孫権が無礼を指摘すると「天子の使者は小国の主に伏しません」といい孫権を怒らせる。

が、馬謖は呉と蜀は盟友となれば永遠に平安だが敵対すれば共に滅びる。呉が魏に協力しても、そのあと魏は呉を攻滅ぼすだろう。魏、呉、蜀は鼎の足のごとく三国が支え均衡を保っている。どちらかの足が壊れれば鼎は倒れる。さらに呉と蜀は人間の両足でどちらかが倒れれば立っていられなくなる。己の足を斬る者がいるだろうかと堂々と説明し、孫権も納得。

同盟の再確認ができたが、得意満面な馬謖はさらに魏の使者を鼎に入れて蜀との同盟の意思を示して欲しいと要求、実行される。。。

蜀は魏の攻撃を撃退できたが、孔明は五路からの攻撃を献策したという魏以外ではまだ無名の司馬懿という男を警戒する。

 

洛陽では

魏の蜀攻撃の失敗を曹丕は呉の不協力のせいと言い、今度は呉を水軍で攻撃し荊州を奪い取ると言い渡す。曹一族の将軍が次々と敗戦の汚名を晴らすべく次々と名乗り出る。

だが司馬懿は一人呉の討伐に反対する。呉を攻めても今度は蜀が背後から攻撃してくる。孫劉同盟が内部崩壊しない限り、両国は協力して魏の侵攻を食い止め魏に勝算はない。今はむしろ富国強兵に励めば10年後魏は更に強国になり、孫劉同盟に亀裂が生じたときに攻め落とせばいい。・・・これは赤壁の戦いの直後にやはり司馬懿が曹操に言った話とほぼ同じ。曹操は納得して長期展望に臨んだが、曹丕は承知しなかった。司馬懿は軍議から外される。

 

西暦223年需須口の戦いで魏軍は呉軍に敗退、江東の水軍は最強ですからね。蜀軍もやはりこの機に乗じて長安を攻撃してきた。

敗戦後、司馬懿が曹丕の元に行くと、曹丕は血を吐いていた。13歳からずっと肺病を隠し通していたという。でなければ父曹操も自分を跡継ぎに指名しなくなるので。

曹丕には残された時間が少なく、生きているうちに天下統一の大業を果たそうと急いだのだという。司馬懿は陛下のために戦場で功を立てたいと言うと、曹丕は司馬懿だけが孔明と渡り合えると父王も認めていたという。だが・・・

「仲達、朕は聞きたいことがある。そちが軍権を握ったら誰が抑えられる?」曹一族が司馬懿を警戒している理由を明かす。

そういった後、司馬懿を車騎大将軍に任命。曹丕は司馬懿を信頼することを選ぶ。そして息子曹叡の補佐を頼む。

 西暦226年 文帝曹丕は40歳で崩御。

司馬懿は自宅で静姝に曹丕の死を知らせる。ショックを受ける静姝に言う。

 

 「静姝、そちの主は素晴らしい天子であった。口惜しくてたまらぬ。天に召されては、この私であってもどうしようもできぬ。」

表情が読めず不気味さを感じる司馬懿だけど、自分を慕ってくれて皇帝になってからは警戒されたけれど、最後に信頼を見せてくれた曹丕を司馬懿は悼んでいました。曹操が懸念したように司馬懿は孔明や周瑜のように純粋な忠誠心で主君についているわけではないと思っていましたが、曹丕に対しては尽くすつもりだったのかもしれない。曹操も司馬懿がついているからこそ曹丕を後継者に指名したのだし。

曹丕はよくおどおどして、気の小さい性格を見せていたけど、いつも一生懸命で、銅雀台の詩作の時のように表面は地味だけど考え抜いた詩を作ったり、自分を高めてくれる司馬懿に先生になってくれるよう熱心に頼み込んだり、洞察力の優れた人物だと思いました。そして自分に致命的な病を隠し通した精神の強さも持っていました。

俊才や英雄が多く表れる三国志の人物の中で親近感を持った人物でした。

曹沖の死がこの人をダークな印象にしてしまうけど、史実では曹沖の死は曹丕によるものとは書いてなかったです。曹沖が亡くなることによって曹丕が跡継ぎの最有力候補になったのは確かですが。

どの国も時代も跡目争いや権力の転換期に兄弟や前の支配者は殺されていくことが多いけれど、曹丕には温情を感じました。

不器用なりに精一杯生きてきた曹丕に惹かれました。

 

魏は第3代皇帝の時代へ

三代目皇帝 曹叡元仲(そうえいげんちゅう)

曹真と曹休は司馬懿は二心ある危ない人物だと曹叡に吹聴し。不安を感じた曹叡は司馬懿の車騎大将軍を解き、辺境の地に任命する。

司馬懿は喜ぶ。都にいては曹一族から命が狙われる、赴任する地は実は魏の要の地。やがて孔明が侵攻してくると予想。その時司馬懿は好機をつかめる。望んだ通りになった。

 

蜀の都成都では

孔明は出師の表を書き上げる。

すでに南蛮は制圧、漢室再興の大儀のため北伐を始めることを天子劉禅に上奏。

李厳は国は天符の山に守られ、国も豊かなので無理をして北伐をしなくてもいいのではと意見を言うと、孔明はこの地も永久に平和ではない、出ていかなければ敵に滅ぼされるという。劉禅は孔明を平北大都督に任命。丞相、益州の牧、武郷侯を兼任させる。

馬超も亡くなり(病死らしい)今や唯一の五虎将軍となった趙雲を孔明は蜀にとどめておきたかったが、趙雲は先鋒を受けなくては頭をたたき割って死ぬと主張し、孔明は先鋒大将に命じる。

劉備の悲願を達成するため孔明の指揮のもと魏への北伐に出陣する。

 

 

孔明が、手痛い敗北をさせた陸遜の手腕を何度も高く評価して、そして自分の愛弟子馬謖も陸遜に匹敵する英才と何度も言うのが印象的でした。よほど自分の弟子が自慢なようです。

その馬謖は第6部のテーマとなる三国鼎立の重要性を見事に演説しました。

それから孔明が呉の人材の豊かさを感心し、呂蒙も評価が高かったのが嬉しかったです。

陸遜は呉軍が出陣する船着き場で白装束で泣き叫んだと思ったら、大都督に就任すると厳格に軍紀を守らせる厳しさを持ち、自分の策をぎりぎりまで漏らさず、味方が不信感を募らせても動じず、勝利して将軍たちの誉め言葉にも思い上がらない冷静さを常に持っていて、時に冷たい表情に見える時がありました。が、蜀軍が自分の思った通り谷川沿いの木の中に陣を張ったという報告を聞いて嬉しそうに表情をほころばせたのが印象的でした。孔明は陸遜がいれば呉は当分安泰だと言ってました。忠誠心篤い人物なので司馬懿仲達のような不気味さはないのですが、才人は自分の中にいろいろな顔を持って計り知れない深さを持っているようです。

阿斗ちゃん、じゃなくて劉禅はやはり賢くはなさそうですが、自分も自覚しているようで、だからこそ孔明を信頼して政治を任せていけた。皇帝と丞相の権力争いや牽制もなく孔明も自分の手腕を大いに発揮できた。劉禅なりに一番良い判断はしていたように思えました。

 

そして、曹丕の生きざまがとても印象に残りました。曹丕を演じた俳優の鬼気迫る表情や演技のすばらしさもあって、決して善人ではない曹丕の人間的な弱さや心の葛藤、なりふり構わないで権力志向を見せ、そのためには病を隠し通す意志の強さに悲壮な決意を感じました。実は非凡な人なのだと思いました。

 

テレビ番組では第74から83話までが第6部でタイトルは「天下三分」ですが。ここでは鑑賞しているDVDシリーズに倣い、第73から84話までを第6部としてタイトルもDVDシリーズの「三国鼎立」としました。

 

第7部につづく

 


2 コメント

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早速! (ごみつ)
2017-12-13 20:44:10
こんばんは!

早速おじゃまさせていただきました!
色々とお手数をおかけしてしまいすみませんでした。

「スリキン」もいよいよ佳境ですね。
いつも本当に丁寧に記事をつくっていただいて、お貸した冥利につきます。
私自身も、物語も思い出しながら、いつも興奮しながら読ませていただいています!

後にも先にも3回も繰り返してみたドラマはこの「三国志 スリー・キングダム」だけです。
ホント、三国志の面白さって尋常じゃないですよね。

今回の孔明の石兵八陣はとても怪しいシーンで(笑)、リアリズム重視の「スリキン」でよくスルーされなかったな・・と思いました。
完全カットされた「南蛮征伐」のエピソードは怪しさ満載で凄く面白いので、もしも旧版の「三国志」を見る機会があったら是非!
旧版は孔明没後も丁寧にストーリーを追ってるのでお勧めなんです。
ただ見る機会がちょっと難しいかも。

とにかく、今、一番きついのはすーまーいーですよね。

この後は司馬懿と孔明の一騎打ち対決になりますので、引き続き楽しんで下さいね。
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うねりの着地はいかに (himari)
2017-12-14 15:56:16
ごみつさん
ブログの使い方がわかってなくて、何度もコメントをかかせることになりすみません

とうとう第6部まで見終わりました☆
見るのも書くのも遅い私なのに、ゆっくり鑑賞してくださいと言ってくださり、本当にお言葉に甘えてしまってます。
おかげさまで物語の大きなうねりを感じ、思いっきり楽しんで感想を書くことができました!
今回もかなり長い文章になってしまいました。もう書かなきゃ気がすまなくて。
そんな長い文章を読んでくださり本当にありがとうございます。

かなり長い文章になり、そのため簡単に触れただけですが、孫小妹が今回はかわいそうで・・・。劉備も呂布も周瑜も自分が生きたいように生きたので納得できて、献皇帝も最後は自分の意志で人生を閉じる事を選べたのですが、三国志の女性は男たちに運命も委ねて翻弄されてしまう。小喬は気概を見せてましたが、そのあといなくなってしまったので離縁されたのかもだし・・
日本の戦国時代もきっとそうだと思うのですが、戦乱の世は女性は生きにくい時代ですね。私はこの時代に生き残れる自信はないのですが、透明な空気の中の存在になって馬を駆る彼らの頬をすり抜けたい、なんて妄想しながら見ています
このドラマ、私も何度でも鑑賞したくなると思います。どの部でも心に引っかかる人物が現れて、これまでに登場しては消えていった人たちがすでに懐かしくてまた会いたいと思ってしまうので☆本当に面白さが尋常でない!

ドラマでは「南蛮征伐」は事後報告、「出師の表」もあっさりと表され、物語の終わりをどこに着地しようかと作り手が手探りを始めているような感じがしました。
すーまーいーの苦悩も少しずつ分かってきて、それを覆す歴史的事実をどう表現するか楽しみです♪
以前これからが孔明の本当の良さが発揮されると言われてましたが、少しずつ現れてきているように思えました。先ずは注目したのは琴でした。
そして旧版、う~ん、見てみたい・・・
第7部も楽しんで見ます

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