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黄金色の日々(移転)

海外ミドルエイジ俳優に萌えたり愛でたりするブログ

伯父と甥 王と後継者 そして部外者なる友(ホビット3)

2018-12-27 07:25:00 | 映画雑記
固いタイトルですが、伯父甥スキーの私が、三部の彼らの成り行きについて無理やり納得しようとひねり出した解釈です。無理があります。


その前にアルフリドです。奴からかよ! 彼の出番が多いのは結局、バルドを際立たせるためなのは明らか。
アルフリドは人間の嫌な部分の象徴で、3部ではゴラムの“わるいしと”部分を担当している。彼が小憎らしければそれだけバルドが輝く。
ルーク・エヴァンスは今、波に乗ってる人でかなり優遇された感じ。それに不満はない。子供たちも入れたバルド家大好き。
バルドがフューチャーされてるのは本人の魅力もさることながら、彼が二部と三部でアラゴルンの位置にあることは、結構みんな気づいてるよね。みすぼらしい身なりからじゃないよ! いやあるか(笑)
先祖の犯した過ちを背負ってる。バルドの父祖ギリオンは過ちというより、力及ばずデイルの民を助けられなかった。最後の正念場に自分がそれをやり遂げられるかという不安は、父祖イシルドゥアの過ちを繰り返さずに王になれるか悩み抜いたアラゴルンとかぶる。

バルドも自分はそんな器じゃないと言いながらも、民衆に推されてリーダーになるけれど、デイルの王になったことは少なくとも今回の映画では出さなかった。SEEに入るかは謎。
アルフリド、LOTRの蛇の舌グリマを彷彿とさせたキャラだった。きっとPJたちは、ゴラムも同様にサウロンのような壮大な悪とくらべて卑小な悪を示すキャラも好きなんだと思う。

トーリンも『思いがけない冒険』ではアラゴルンとボロミアのミックスに見えたんだけど、2部では焦燥から誘惑に捕らわれてゆき、よりボロミア的に見える。そして終章の3部では、闇から出て過ちをつぐない逝くローハンのセオデン王の最後を彷彿とさせる。
原作ではトーリンも「これで恥じることなく父祖のところへ行ける」(手元に本が無いのでニュアンス)と言って死んでいくんだけど、それを言わせなかったのは、セオデンのセリフとかぶるからというのもあるだろうが。
今わの際にそばにいたのが、ビルボ一人だったからじゃないか。
ドワーフを背負って立つドゥリンの直系の末裔として、彼は“私”としては生きてこなかった。祖父スロールの黄金病とは違い、財宝以上にエレボール自体への執着が高じたものに見える。

故郷を奪われ、奪還と復讐を誓ったトーリンの執着にとりつく呪い。たどり着いているのに求め続け、焦燥にかられる。
足らぬのがアーケンストーンだと思っているけれど、バーリンの言うように石が手に入れば増長しただろうか。むしろさらに欠乏を感じたんじゃないか。ドラゴンの念が入っていようがいまいが、「より多くの財宝」以上に求めるものがあったのだと。
亡国の王子として苦難と屈辱の歳月を送った彼が、財宝とドワーフ七部族をまとめる大王の証であるアーケンストーンを求める気持ちはわかる。でも満たされない心の奥にあったのは、かつての祖父、父、弟も揃った“ホーム”としてのエレボールで、そこに“我が妹の子たち”を迎え入れても彼の心はまだ昔に捕らわれていたのかもしれない。

たった一つのどんぐりを庭にまき、いつか大木になったらその下でゆっくり本を読む。友たちを思いながら。そんな未来を望むホビットであるビルボに、トーリンは“宝”と“家”の本当のありかを教えられたんだと思う。その後また欲に捕らわれてしまうけど、死を前にして想いをビルボに返す。

ここは本当に感動的。初回鑑賞では、長く付き従ってきたバーリンとドワーリンもいないの!?と思ったけれど、結局彼らがその場にいたら、トーリンはあのセリフは言えなかっただろう。王として、まさに上の“立派なセリフ”を言わなければならなかった。
原作でも映画でも言った、『もし人がささやかな・・・・』のくだりも名セリフですが、『本が待ってるぞ。肘掛け椅子でどんぐりが木に育つのを見るんだ』と言わせたのは秀逸でしたね。トーリンが決して選べず、また選びたいとも思わなかっただろうけれど、幸せの普遍性はどの種族、どの立場にいる者でも、同じくするものがある。死ぬ前に見せたあの穏やかな微笑み。

ここに思い至り、ようやくトーリンとビルボ二人だけの別れというのに納得がいってきた。
ビルボは異種族で、トーリンの責任下にはない。対等な個人としての存在。
だからこそ、トーリンの最初で最後の友人になれた。


・ドゥリンの落とし前

フィーリのだまし討ち的な死にに際し、トーリンがフィーリの名さえ呼んでやらないこと。そのすぐ後に「キーリ…!」と叫んだのに。リアクションも少なく見える。一見は。
でも二人の甥に対する態度の差は、単にお気に入りかどうかの差じゃないんだと思ってる。

フィーリは自分の跡を継ぐ者。そして長男である。
キーリは、比較的自由にふるまうことを許された“弟”である。

トーリンは自身の弟フレリンを戦いで失くしてる。守れなかったという想いは常にあっただろう。
キーリはその“弟”としての意味でも、トーリンの想いを受けてるんじゃないか。
キーリが恋バナ担当になったのはまさしく弟だからで、フィーリがエルフに恋したら「王冠を捨てた恋」になってしまう。でも彼は想いに一途なドワーフでもエルフに恋はしないね。常に長男として、伯父を継ぐ者として自分を律してきた部分があるはずだから。
トーリンは跡を継がせるフィーリには、自分と同じくドワーフ全体の為に自分を押さえることを求めてきたろう。そして弟を守ること。
二部のあの桟橋のシーン。「お前も王になればわかる」と初めて後継者とハッキリ口にしてる。それなのにフィーリが自分より弟を守ることを選んだのにも怒りは見せてない。そのまま行かせてる。
トーリンは青の山脈で、甥たちに自分の後継ぎとしての教育や訓練はしても、いわゆる「王族教育」はしてないと思うんだよね。
一族の復興だけで精いっぱいだったろうし、いずれかならずエレボールを取り戻しスマウグに復讐すると誓ってはいても、自分が本当に『山の下の王』になれるという確信までは持てなかったはず。
ドワーフの豪族の長の後継ぎとしてはフィーリを、その補佐としてキーリを育てはしたろうが、ロイヤルファミリーの心得などは先のことだったはず。教育係みたいなバーリンも、エレボール奪還を危惧してたくらいだし。

だからフィーリはあのとき、「王子」であることより「兄」であることを選び、それをトーリンも咎めなかった。
アゾクに捕まったフィーリが「逃げて」と言っても、甥を見つめてかすかに首を左右に振るトーリン。甥の死に詰めていた息を吐いただけのトーリン。あの時に彼の中で何かが変わった気もする。

宿敵アゾクとの一騎打ち。時間がたってもキーリは駆けつけない。余裕のない心の底でもキーリがすでに倒れたことがわかってたのではないか。
トーリンが自死を選んだとは言わないが、宿願であるアゾクを倒すためなら身を差し出す。そしてそこには、ドゥリンの血の呪いを打ち切るという気持ちがあった気もするんだよね。
あとを継ぐ甥たちはもういない。生き残り、子をなして…という気持ちは無かっただろう。映画のトーリンはそれだけ内面は情が深い。
ドワーフが一筋なのは恋する相手や伴侶だけにじゃない。一足先にマンドスの館に行った二人を追うのはトーリンらしくもある。
トーリンが次の世代に引き渡したかった故郷は、渡す相手を失くした。執着というドゥリンの血の濁りをクリーンして、新しいエレボールをダインに残す。
映画版ホビットは“望郷”と共に、子らに残す、引き渡す“遺産”というテーマもあると思う。バルドと息子バインの部分もそう思わせる。
今わの際のビルボに言った「家に帰れ」。あのとき彼自身のまぶたに浮かんだのは、エレボールでの輝ける昔ではなく、今度こそ妹や甥達、臣下達と暮らした青の山脈の日々だったと思う。自分の故郷が実はもうそこにあったことに気付き、それに気づかせてくれた初めての友に看取られて逝く。

そういった意味を込めて、PJたちがこのドゥリン伯父甥の最後を描いたかは実のところわからない。単にキーリびいき、トーリン&ビルボLOVEなのかもしれない(笑)
でもわたしの中では、こう考えることで先に進めるので、そういうことにしておきます。
そしてオルクリストをトーリンに戻す役をスランドゥイルではなくレゴラスにしたのも、アゾクとの死闘にはなむけた形になり、あれはあれで良かったかも。トーリンとレゴラス、2部から共闘ではないのに戦闘時に助け合ってた。あれものちのギムリとの間柄を匂わせていたのかもね。

ビルボに関しては、彼の目を通してこの物語を見ることにすっかり慣れてしまったので、客観的に見る段階にないわ、まだ…。
ただ一つ、今度は彼が“負の遺産”をのちの養子に受け継がせるんだなあと。原作よりはっきり繋げる描き方でしたね。
指輪のことに関してはガンダルフにも嘘をつき(見抜かれてるけど)、帰って指輪を取り出して満足げに眺めるビルボの表情がかつてホルム氏が見せた老ビルボにそっくりで震撼。マーティンよ…。
中つ国で最も外世界への欲がないホビットの世界に何十年もかくまわれることになる一つの指輪。持ち続けたビルボと、捨てに行くフロド。大きな運命を背負った二人は、生涯独身を通したんだね。



2015年1月11日初稿

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