黄金色の日々(書庫)

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グリーンブック雑感

2019-03-17 15:56:13 | 映画雑記
相変わらずの低空飛行ですが、冬の間仕事を控えてたのでそろそろ働いてます。結局ブログ書く余裕がない(^^;
プロによる映画評論や考察、Twitterやブログでの感想があふれ、読んでたら満足しました。自分で書くことないよもう。

『グリーンブック』とヴィゴの演技を見てもらいたくて、微々たる応援のために復活したので、目的は十二分に達成した(あたしが達成したわけじゃない)
今回のアカデミー賞効果は抜群で、沢山の人が見に行ってる。本国の賛否両論の嵐も逆宣伝か、そこまで情報追わないか。
しかしアカデミー賞は毎年あるので、毎年の作品賞が“受賞効果”とやらで動員数が増加するわけじゃありませんからね。

授賞式後に公開した日本や中国での大ヒットだけでなく、喧々諤々の本国アメリカでも動員数を増やした。それはこの作品が、見る人によりとらえ方は違っても、“今、見られるべき作品”だからだと思います。

左脳が働かないのできちんとまとめた感想は書けませんが、思ったことをつらつらと。
ネタバレ全開ですご注意!


イタリア系アメリカ人のトニー・“リップ”・ヴァレロンガと、アフリカ系のドクター・シャーリー。二人のロードムービー。
“白人側から見た差別映画だ”と、怒っている人もいるわけですが、賛否とは別に、イタリア系のトニーもまた被差別側だと指摘してる人も多いです。“イタ公”扱いされてトニーが切れて腕にものを言わせるシーンが何度もあるし、ドグが「暴力は何も生まない。品格こそが勝利をもたらすんだ」という彼の生きざまをぶつけるキモにもなっている。

ただ私は、トニーも差別側だという以上に、彼のイタリア系ならではものの捉え方と個人の性格も、ドグとの友情を生むのに作用したと思うんですよ。
実際のトニー・ヴァレロンガ氏がそうだったんでしょうが、食べるのが好きでおしゃべりで口が良く回る。そして大の家族思い。

イタリアは実際、良くも悪くもファミリー社会。それが移民したアメリカでも続いてる。仕事はコネ次第で、そのコネは「家族内」で回される。血の繋がりだけではなく、「家族とみなした関係」が重要。
トニーが冒頭、大物の爺さんの帽子を隠し、後で見つけたふりをして小金を稼ぐシーンがあります。あの爺様はイタリア系なんですね。「もう友達だ」と言われたことで、トニーは金だけでなくコネもそこで手に入れてるんです。
逆に2か月間の失職の間にいい仕事を世話してやると言われた相手は、地元の「ファミリー」関係でしょう。一度でもそこで仕事をすれば抜けられない。薬や人の殺傷まで請け負うことになる可能性は高い。そこには足を踏み入れたくないので断るトニー。

イタリア人は「家族」が愛国心より大きい。イタリア語の学校で先生方が言ってました。オリンピック見ないって(笑) 家族>地元>自分の州>国という感覚なので、よその州の選手を見ても応援しないんだよねと(^^; 例外はワールドカップだけだそう(笑) 
そして血縁以外にも、「ともに食事ができるか」「笑いあえるか」「話し合えるか」で家族となる。

トニーはドグの演奏を聴き、彼がすごい男だと認める。けれど妻ドロレスへの手紙には「彼は天才だけど、楽しそうじゃない」と書く。人生辛いことはあっても笑わなきゃという気質のトニーは、いつも考えこんで笑わないドグに、持ち前の厚かましさでガンガン体当たりする(笑)
最初は辟易し、トニーの無思慮な言動に怒りを抑え、コソ泥(翡翠)や暴力を諫めてたドグも、次第にトニーのペースに巻き込まれていく。
みんなが大好き、フライドチキンのシーンですが、あそこは実はとてもたくさんの意味が込められてる。フライドチキンは南部の奴隷が、白人が好まない手羽やモモ肉を使い、厳しい労働に耐えられるようにラードで揚げてカロリーを増やした料理。なのでトニーの「俺は、イタリア人がピザやパスタが好きだろと言われても気にしねえぞ」と言うのは無知からの無神経さ。
でもそれだけでなく、“一緒の車で旅をし、レストランで一緒に食事もした。もう一緒に食べて楽しもうぜ”という、イタリア流のお誘いでもあるのです。
旅の初めには、奥さんが二人にと作ってくれたサンドイッチも自分一人で食べてしまうトニー。あの時はまだ、「金持ちの学のある黒ナス」でしかなかったし、ドグの方も渡されたところで食べなかっただろう。
でも旅は二人の距離を、いざこざがありながらも少しずつ近づけていた。
一緒にものを食べる。そして笑いあう。それはトニー側からすると、家族までいかずとも友人の範疇。雇われ雇う側の線引きはあっても、壁は薄くなってる。

そしてドグもまた。ラジオから流れる同胞の音楽に「無知」だった。彼はクラッシックを専攻したけど、黒人が演奏しても受いれられないという理由でポップスも入れた。それもあってクラッシック以外の音楽を多少なりとも「差別的に」も見てたと思う。
普段聞かない音を聞き、トニーの五月蠅いおしゃべりに慣れ、拙いながらマメに妻への手紙を書く姿を見て、ドグも少しずつ歩み寄る。
初めて食べるソウルフード。衛生面で問題あるけど、美味しそうな匂いがする。手づかみで食べたことはドグの壁も一つ壊す。自然に笑みがこぼれるドグ。

あのシーンから一気に二人の距離は縮まる。それがゆえに、後半にはさらに深いチャレンジが待つんですが。

ラストシーンで送られる側から送る側になったドグ。眠るトニーは彼の大事な毛布をかけている。
トニーの誘いを断り、豪奢な部屋に戻ってひとりドグはあの翡翠をみつめ、思い切った行動に移る。
トニーは「ニガ―という呼び方はよせ」と言い、質屋から受け出しを頼んだ時計に手数料を吹っ掛ける親戚に複雑な顔をする。以前の自分もやっただろうことに。
訪ねて来たドグと初めてハグするトニー。もう雇われる側と雇う側じゃない。二人は対等な友人になった。
誇らしげに家族に紹介するトニーに、「席と皿を用意しろ」と言ったのは、手数料を吹っ掛けた兄弟(ドロレスの兄)。
あの家の主であるトニーが宣言したことは、家族が受け入れること。
それよりもずっと前にドグを受け入れていたのがドロレス。彼女の素晴らしさはまた後日語れたらいいな。

あのラストを「黒人が白人に救われる話」と感じる人もいるのかな。二人の関係は、自分の壁を壊して互いに歩み寄ったからこそ近づいたものだと思う。
最後のコンサート会場で食事ができなかったドグは、初めて忍耐をやめ、受け入れられないことを品格ある態度で言う。それでも崩せない地域の慣例の壁に、トニーに「君がやれというなら演奏する」と言う。あそこすごいですよ。ドグはもう、トニーを友人と思ってる。友人のためなら演奏する。言われてわからないトニーじゃない。ドグの勇気と歩み寄りがトニーの手を止めるんです。だから二人で出ていく方を取った。トリオの二人はドグの高潔な精神を尊敬しついてきたけど、ドグの孤独な壁は壊せなかった。

黒人差別の歴史は根深く、悲惨で信じられない事実は数え切れないでしょう。大きな事件や出来事は歴史に残るし、人の意識にものぼりやすい。けれど日常的な慣習や習慣からの差別は、している側も気づいてない場合が多い。『ヘルプ』でも描かれてた。
特別ゲストも庭の片隅のトイレ、VIPなのに控室は物置でレストランで食事できない。こういった理不尽を、している側は「差別ではなく習慣」と思ってる。終演後、若いカップルの女の子が「トイレ別って、汚いってこと? 信じらんない!」と言ってたけど、そんな風に考えてくれることがこの映画の目的でもある。
当時黒人がコックや乳母、清掃係など、まさしく衛生面にかかわる仕事をしていたはずなので矛盾してるけれど、単に白人の方が人種的に上なので、一緒のトイレや食事はあり得ないという感覚だったのかも。

外のトイレを勧めた支配人は、ドグが怒ってモーテルに戻ってまた来ると言うと、「お待ちします」と返す。
黒人ピアニストが白人の客を待たせることは了承してるので、結局は「慣例は壊せない」という感覚の方だと思う。自分は差別してると思ってない。
レストランを拒否し続けた主催者も、ドグの車は駐車場のVIP枠に停めろと言ってるんですよね。
最後に「黒人は無責任だから仕事がないんだ!」という本音を吐くけれど、二人が出て行かなかったら、土地の習慣に従ってるだけだと思ってたはず。レストランにいた白人客たちが全員、ドグが一緒の席でも構わないと言ってたら了承してたでしょう。つまりは差別は、多勢に責められたくない自衛でもある。

フライドチキンの場面も、もう一つの方は実は笑えないんですよね。初回は私も笑ってしまったが…。
「我が家のコックが考え抜いたおもてなしです!」と宣言して出した料理は、山盛りのフライドチキン。トニーは「召し上がれ~」みたいな振りをしてたが(^^; ドグの複雑な表情。ほんとマハーシャラ上手いです。
南部の上流社会の人々がフライドチキンの歴史を知らないのは、無学なトニーが知らないのとはわけが違う。知ってて出したらさらに問題。コックが黒人なら、特別扱いされてる同胞への嫉妬から出したものかもしれないし、白人のコックならもう黒人=フライドチキンだし、それを喜々として紹介するご主人のレベルも同じってこと。本人たちはおもてなし。でも実際は差別というか偏見。それでも一緒の席で食事に招待してるので、南部でも地域によっても違う。

トニーの本名「ヴァレロンガ」を上流の人も読めない件。バーの店主が言った「北部野郎」の通り、イタリア系やアイルランド系移民もまた、南部よりは差別がひどくない北部に流れついて定住してる。ヴァレロンガという名前に馴染みがないから読めないんですね。

トニーは戦争体験から、ドイツ人にも固定観念がある。チェリストのオレグはロシア人なのに、チクリ屋だからドイツ人!と決めて、最後に歩み寄ってウォッカを飲んだ時でさえ、「ダンケ・シェーン!」と言ってた(^^; 
ドグは見られたくなかった自分の性的志向をトニーに知られ切れた。ところがトニーは、「俺はニューヨークで働いてた。人生は複雑なもんだ」と言って流す。あの時代で、カソリックであるイタリア系は同性愛に対しては厳しいはず。でもトニーは仕事で色んな人を知っていてそこは寛容だった。
経験が差別を生むことも、崩すこともある。

『グリーンブック』は小さな積み重ねを描いてる。二人の道中にエッセンスがちりばめられている。
衝撃的な事実には怖くて近寄らないか、見ても忘れようとする人も、パーソナルな友情の面から笑いを含めて描いているこの映画なら、入っていきやすい。

初回でうっすら感じてたけど、リピートするうちに確信したのは、「あ、これいつもヴィゴが選ぶ作品だ」ということ。
コメディで、今までにはない役柄であろうが、ヴィゴが取り組む題材に差はない。

「涙するまで、生きる」というフランス・アラブ合作映画があり、大好きな作品。それと基本的には変らないと思った。
はるかに地味だしコメディ色はほぼ無し。徒歩で荒れ地を歩く二人の男のロードムービー。民族闘争がテーマで、ヴィゴ演じるダリュは複雑な背景を秘め、相手役のレダ・カテブ演じるモハメドは、部族間の掟に人生を投げ出そうとしている男。
接点がないと思われた二人が、最初のうちは険悪で、次第に互いを知り心が通うようになっていく。
あまりネタバレしたくないのでここまでにしとくけど、ほんと良い映画ですよ。砂漠と土色で色彩も地味だし、一般受けしないだろうが…。興味がある人はぜひ見て欲しいです。

属する居場所がないという異邦人の苦悩は、ヴィゴが演じることが多かった役。それを今回はマハーシャラが担当した。差別をなくすには、身近な人との垣根をまずは越えること。それですべてがOKにはならないけれど、まずは互いを知ることから一歩が始まる。
『グリーンブック』は個人と個人のつながりから描いた映画。今この時代には陳腐という声も見たけど、今更だからこそ必要なんじゃないかな。グローバルな視点の映画とは違ったやり方で見せてくれたと思います。


とりあえず思いついたことを書きなぐりました。










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