Atonement (2007) - Official Trailer
1935年のイングランド。政府官僚の娘セシーリア(キーラ・ナイトレイ)と妹ブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、家政婦の息子であるロビー(ジェームズ・マカヴォイ)に、双方が密かな想いを寄せていた。
ある昼下がり。2人の些細な諍いから、噴水に落ちた花瓶を拾おうとセシーリアは服を脱いで水に飛び込むが、その結果ロビーに下着姿を見られてしまう。気まずくなったロビーは謝罪の手紙を書くが、彼女に対する思いがこみ上げ、卑猥な文面になってしまう。彼は書き直した手紙を姉に渡してくれるようブライオニーに頼む。しかし間違えて初めに書いた方の文章を入れてしまう。ロビーは直接セシーリアに謝罪を告げるが、そこで互いの正直な気持ちを知り、愛を交わす。だが、噴水の一件も、ロビーからの手紙も読んでいたブライオニーが、さらにその現場を目撃してしまう。
その夜、まだ年若い従姉妹のローラが何者かに襲われ暴行される。その現場にも居合わせてしまったブライオニーは、それがロビーだったと警察に証言する。ロビーは連行され、セシーリアは為すすべもなく見送るしかなかった。
4年後。刑務所から出征したロビーはドイツとの戦争の最前線にいた。セシーリアとブライオニーはそれぞれ看護婦として働いていた。
自分のしたことに気づき、二人に詫びる機会を待っていた18歳のブライオニー(ロモーラ・ガライ)は、姉とロビーの暮らすアパートを訪問する。ローラを襲ったのはロビーではなかったと言うブライオニー。ロビーは、“真相を書面に残してくれ。そして、二度と姿を見せるな”と告げる。
1999年。作家となりテレビ局でインタビューを受ける77歳のブライオニー(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)は、あることを語りだす。
これは本当につらい話だ。残酷でもあるが、むしろ人生の無常さを感じた。
以前の記事で“知らないということはひとつの罪だ”と書いた。しかし知ったと思ったことも、“自分がそう信じたいからそう見える”ことがあるという事実。真実はいとも簡単にその罠に隠され、消えてゆくのだ。
13歳のブライオニーは、小説や戯曲を書く想像力豊かな少女で、ロビーに対し初恋の思慕を抱いていた。
姉のセシーリアは逆に、彼女の父の援助でロビーが同じケンブリッジ大学に行っても、ほとんど口もきかなくなっていた。
それは彼との階級差から、自分の心を抑えていたからだったのだが、まだ少女のブライオニーには姉の複雑な心境はわからない。
共に育ったであろう二人が、なぜギクシャクしているのか。ロビーの姉に対する態度もどこかおかしい。
噴水でのひとこまも、二人は触れ合ってもいないのに、そこに何かを感じるブライオニー。
ロビーが間違えて入れた書き損じの手紙には、男性が思う女性に抱く情欲がそのまま書かれていた。それを読みショックを受けるブライオニー。
そしてとどめに、姉とロビーが体を繋げているところを目撃する。
多感な少女にとって、これは一日の内で起こることとしては度合いが過ぎていたのだろう。従姉妹のローラが襲われた時に、犯人をロビーだと証言するのは、彼女の嘘ではなくそう見えたと信じ込んだからである。
初めての淡い恋。騎士だとも思っていた男性は、薄汚い欲望を持つただの男であり、姉もまた被害者に違いない。
だって姉は彼と口もきかなかったのだから。
ロビーは変質者であり、姉は汚された。そういう“シナリオ”を、ブライオニーは自分の心に書き込んだのだ。
それでも、罪というものは変わりがない。
13歳の少女の証言は、一人の男の人生を破壊し、想いあう男女を引き裂いた。
18歳になったブライオニーは、それに気づき“贖罪”を願う。
大学に進学せず、看護士としての訓練を受けるブライオニー。その傍ら、あの日の顛末を小説に書こうともしていた。
セシーリアもまた、家を出て看護婦になっていた。3年半後のロンドン、フランスへの従軍に向かうロビーと再会するセシーリア。
互いの気持ちを確かめ、再会を約束し別れる。つかの間の邂逅だった。
前半の緑豊かなイギリスの大邸宅での日々と、後半のロビーが彷徨う戦地での風景はあまりにも対照的だ。
ブライオニーの訓練されていた病院にも、多くの戦傷者が運ばれてくる。その悲惨さ。
待ち続けるセシーリア。
本隊からはぐれ、故国帰還を求めて海を目指すロビーと部下二人。森の中でロビーは、大勢の寄宿学校生らしい死体を見つける。
横たわるまだ幼い制服姿の男子と女子。
表情を変えずにただ涙をこぼすロビー。ここのマカヴォイの表情には胸を打たれた。
彼の胸に去来するのは、かつての屋敷での日。ブライオニーが彼の気を引くために川に落ち、必死で助けた彼に喜んで飛び付いてきた姿。
激怒した彼に、酷く消沈していた少女。
根も葉もない冤罪をなすりつけたのが、敵意を持つ相手や自らの保身の為に濡れ衣をかぶせた者でもなく、幼い頃から知り妹のように可愛く思っていた相手。
その事実はロビーにとってどれほどのものだったのか。
医者になるために大学に入り直そうとしていたロビー。階級違いの恋人を迎えに行ける日を夢見た。ただ一人の母を大事にすることを望んだ。
すべては粉々に散り、何も残っていない。
ブライオニーを許してはいなかっただろう。それでも、涙をこぼすロビーの目は、幼い死体達と共に少女が自分に向けた思慕を見つめている。
浜辺にたどり着いたロビーたちは、30万人の帰還を望む兵士とともにそこに足止めされる。かの有名なダンケルクの戦い。
セシーリアからの手紙の束と、共に行くと約束したコテージの絵ハガキを胸に、ロビーは何度も心に繰り返す。
「再開できるかもしれない。あの日の計画を。正装で希望に満ちて屋敷の道を歩いた男に。
物語を再開するー君のところへ戻り、愛し結婚するために。堂々と生きるために」
半年後にブライオニーは、セシーリアの家を捜し訪ねる。彼女の謝罪にも冷たく、「シー(セシーリアの愛称)と呼ばないで」と言い放つ姉。
共に住んでいたロビーは、「正直、首をへし折るか、ここから突き落とすか迷ってる」とまで言い放つ。
それを当然のこととして受け入れるブライオニー。
真相を、ブライオニーは公表したのか、罪はつぐなわれたのか。
ここからは核心に触れるネタばれ。これから見ようと思う方は、読まないことを勧めます。
77歳の誕生日に、21作目の小説を出版することになったブライオニー。すでに作家として大成していた。
TV局のインタビューで、これが最後の作品になると告げる。彼女は認知性の一種の病気にかかっており、死期が迫っていた。
『Atonement』 贖罪とつけられた小説は、かつて看護婦時代に書き始めそのままになっていたもの。
事実とはラストは違っていると話す。真実は非情であり、読者はそれを求めないだろうと言う老作家。
あの日、怖気づいた自分は姉に会いに行かなかったのだと。
そして、セシーリアとロビーは共に暮らしてはいなかったこと。
ロビーは撤退の最終日に、敗血症で亡くなっていた。そして、姉セシーリアも、会うことなく地下鉄の事故で死亡していた。
二人は最後まで、共に過ごすことはできなかったのだと。
姉の家での顛末は、自分の創作だと言う。
そうされて当然だと思っていた、彼女が作り上げた場面。
本の中で、二人が失ったものを取り戻させる。それが私にできる最後のことと言い、映画は終わる。
果たしてそれは、“つぐない”であったのか。
結局は、作家になったブライオニーの罪悪感を埋める自己満足に過ぎないのか。
おそらく、ロビーもセシーリアも、ブライオニーを許してはいない。
けれど、憎悪を向け恨み続けてもいなかった。二人が望むのは、ただまた互いが一緒になること、だけだった。
激しく糾弾するロビーも、冷たく接するセシーリアも、ブライオニー自身がそうして欲しかった二人だ。
二人に恨まれ憎まれ、もう顔も見たくないと言われること。その“当然の報い”が為し得ていたならば。
姉とロビーが共に暮らす未来を持ち得ていたならば。
彼女の贖罪は成就されたのだ。
事実は、二人の人生は二度と重ならなかった。二人が死ぬ間際に見たものは、ただ互いのことだけだったろう。
二人はブライオニーのことを思いもせずに死んだだろう。
実らなかった愛。打ち砕かれた希望。成就しなかった二つの人生。
“幸せな結末”は、読者にではなく、その顛末を知る唯一の人間であり、“シナリオ”を書いてしまった少女が、創作者となって差し出せるただ一つのもの。
それを知らず、望みもしないであろう二人に向けた、ブライオニーの生きた証しだった。
そしてもう一つ。
長い間その思いを抱えて生きることは、すでに贖罪であり罪悪感という名の罰を受けていると言われる。
60年以上もその罰を受け続けたブライオニー。けれど彼女は、それだけでは足りないと思ったのではないか。
ハッピーエンドの結末が、わずかなりともつぐないになるとは、はなから思っていなかったのではないか。
そう思うのは、テレビでのインタビューでわざわざネタばれをしてしまうことだ。
読者、そして映画を見ている側からの、“結局は自己満足じゃない”“彼女も最後に人間性が露呈したね”等のそしりをまぬがれないこと、それはわかっていたはずだ。
当事者がもういなくなった今、完全なノンフィクションとして出版することができたはずなのに、そうはしなかった。
作家としてのキャリアや名声も最後に否定されるようなことをわざわざ口にするのは、それこそが彼女の最後にした“つぐない”だったという気がする。
“汚名”をかぶせ不幸にしたロビー、そして姉セシ―リアに対し、ブライオニーもまた“汚名”を自分に与えたのではないのか。
これは考え過ぎなのかもしれない。でもそう思う方が私はしっくりくる。
ロビーが学童の死体に涙するのも、ブライオニーの創造した映像内の彼なのか。私はそれも思わない。
あのロビーと、完全に創作の糾弾するロビーは別人の感がある。
そして、ロビーが死を前にして、走馬灯の夢を見る。逆回転するあの日のイメージ。
あの日、自分が間違った手紙を入れなければ、彼女に頼まなければ、自分が噴水に落ちた花瓶のかけらを取ろうとしていたら。
巻き戻される思いは、誰かへの恨みよりも、“もしあの時”というやり直しの機会。
もし自分が素直に告白できていたら、あの図書館で愛し合わなければ、会食の場にいなければ。
いくらでも浮かぶであろう後悔への道筋。この戻る描写は効果的で素晴らしい。
そこにいるのは、後悔はあるが怨念のある男ではない。ロビーはある意味ではもう、ブライオニーを許してもいたのではないか。
でも、それは逆に彼女にはあってはならないことだった。
贖罪とは、人になすものではなく、自分自身のある種の“落とし前”なのだと思う。
3人の主要キャスト。みな素晴らしい。
マカヴォイの、死に向かい横たわり過ぎゆく日を想う瞳。
逮捕されセシーリアと引き離されたた時、突然訪れた絶望を浮かべ、ただ恋人だけを見つめる目。そして死んだ時の空っぽな瞳。
セリフ以上に彼のあの目がものを言うシーンが多かった。表情以上に目語りができる少ない役者だ。
キーラ・ナイトレイ。このキーラは良かった。肌の出るドレスを着ても、ラブシーンでもあまりにも痩せていて痛々しいのだが、濃いメイクをし退廃的な風情も、看護婦としてロビーを待ち続けるところも美しい。
彼女は純粋ぶった役よりも、多少倦んだ感じが似合う。気だるさの中に気品が出る人だ。
煙草を吸う表情はぞっとするほど色気があるし、冷たく見えて内面は燃え盛るセーリアはぴったりだった。
少女時代のブライオニーは、この役でアカデミー助演女優賞候補になった若干13歳のシアーシャ・ローナン。このあとの『ラブリー・ボーン』でも見せた、硬質で繊細な演技は凄い。18歳時代のラモーラ・ガライ、77歳時は往年の名女優ヴァネッサ・レッドクローブで、三人が実際似ているところも感心した。
実質の主人公は3人のブライオニー。三人共に説得力がある。
ロビーが夢に見、セシーリアが待ち続けた物語はついに語られず終わり、遺された妹はつぐないという名の物語を紡ぐ。
引き裂いた者たちの望んだ世界を“再開”したのは、作家というつぐないを選んだ贖罪者だった。
1935年のイングランド。政府官僚の娘セシーリア(キーラ・ナイトレイ)と妹ブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、家政婦の息子であるロビー(ジェームズ・マカヴォイ)に、双方が密かな想いを寄せていた。
ある昼下がり。2人の些細な諍いから、噴水に落ちた花瓶を拾おうとセシーリアは服を脱いで水に飛び込むが、その結果ロビーに下着姿を見られてしまう。気まずくなったロビーは謝罪の手紙を書くが、彼女に対する思いがこみ上げ、卑猥な文面になってしまう。彼は書き直した手紙を姉に渡してくれるようブライオニーに頼む。しかし間違えて初めに書いた方の文章を入れてしまう。ロビーは直接セシーリアに謝罪を告げるが、そこで互いの正直な気持ちを知り、愛を交わす。だが、噴水の一件も、ロビーからの手紙も読んでいたブライオニーが、さらにその現場を目撃してしまう。
その夜、まだ年若い従姉妹のローラが何者かに襲われ暴行される。その現場にも居合わせてしまったブライオニーは、それがロビーだったと警察に証言する。ロビーは連行され、セシーリアは為すすべもなく見送るしかなかった。
4年後。刑務所から出征したロビーはドイツとの戦争の最前線にいた。セシーリアとブライオニーはそれぞれ看護婦として働いていた。
自分のしたことに気づき、二人に詫びる機会を待っていた18歳のブライオニー(ロモーラ・ガライ)は、姉とロビーの暮らすアパートを訪問する。ローラを襲ったのはロビーではなかったと言うブライオニー。ロビーは、“真相を書面に残してくれ。そして、二度と姿を見せるな”と告げる。
1999年。作家となりテレビ局でインタビューを受ける77歳のブライオニー(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)は、あることを語りだす。
これは本当につらい話だ。残酷でもあるが、むしろ人生の無常さを感じた。
以前の記事で“知らないということはひとつの罪だ”と書いた。しかし知ったと思ったことも、“自分がそう信じたいからそう見える”ことがあるという事実。真実はいとも簡単にその罠に隠され、消えてゆくのだ。
13歳のブライオニーは、小説や戯曲を書く想像力豊かな少女で、ロビーに対し初恋の思慕を抱いていた。
姉のセシーリアは逆に、彼女の父の援助でロビーが同じケンブリッジ大学に行っても、ほとんど口もきかなくなっていた。
それは彼との階級差から、自分の心を抑えていたからだったのだが、まだ少女のブライオニーには姉の複雑な心境はわからない。
共に育ったであろう二人が、なぜギクシャクしているのか。ロビーの姉に対する態度もどこかおかしい。
噴水でのひとこまも、二人は触れ合ってもいないのに、そこに何かを感じるブライオニー。
ロビーが間違えて入れた書き損じの手紙には、男性が思う女性に抱く情欲がそのまま書かれていた。それを読みショックを受けるブライオニー。
そしてとどめに、姉とロビーが体を繋げているところを目撃する。
多感な少女にとって、これは一日の内で起こることとしては度合いが過ぎていたのだろう。従姉妹のローラが襲われた時に、犯人をロビーだと証言するのは、彼女の嘘ではなくそう見えたと信じ込んだからである。
初めての淡い恋。騎士だとも思っていた男性は、薄汚い欲望を持つただの男であり、姉もまた被害者に違いない。
だって姉は彼と口もきかなかったのだから。
ロビーは変質者であり、姉は汚された。そういう“シナリオ”を、ブライオニーは自分の心に書き込んだのだ。
それでも、罪というものは変わりがない。
13歳の少女の証言は、一人の男の人生を破壊し、想いあう男女を引き裂いた。
18歳になったブライオニーは、それに気づき“贖罪”を願う。
大学に進学せず、看護士としての訓練を受けるブライオニー。その傍ら、あの日の顛末を小説に書こうともしていた。
セシーリアもまた、家を出て看護婦になっていた。3年半後のロンドン、フランスへの従軍に向かうロビーと再会するセシーリア。
互いの気持ちを確かめ、再会を約束し別れる。つかの間の邂逅だった。
前半の緑豊かなイギリスの大邸宅での日々と、後半のロビーが彷徨う戦地での風景はあまりにも対照的だ。
ブライオニーの訓練されていた病院にも、多くの戦傷者が運ばれてくる。その悲惨さ。
待ち続けるセシーリア。
本隊からはぐれ、故国帰還を求めて海を目指すロビーと部下二人。森の中でロビーは、大勢の寄宿学校生らしい死体を見つける。
横たわるまだ幼い制服姿の男子と女子。
表情を変えずにただ涙をこぼすロビー。ここのマカヴォイの表情には胸を打たれた。
彼の胸に去来するのは、かつての屋敷での日。ブライオニーが彼の気を引くために川に落ち、必死で助けた彼に喜んで飛び付いてきた姿。
激怒した彼に、酷く消沈していた少女。
根も葉もない冤罪をなすりつけたのが、敵意を持つ相手や自らの保身の為に濡れ衣をかぶせた者でもなく、幼い頃から知り妹のように可愛く思っていた相手。
その事実はロビーにとってどれほどのものだったのか。
医者になるために大学に入り直そうとしていたロビー。階級違いの恋人を迎えに行ける日を夢見た。ただ一人の母を大事にすることを望んだ。
すべては粉々に散り、何も残っていない。
ブライオニーを許してはいなかっただろう。それでも、涙をこぼすロビーの目は、幼い死体達と共に少女が自分に向けた思慕を見つめている。
浜辺にたどり着いたロビーたちは、30万人の帰還を望む兵士とともにそこに足止めされる。かの有名なダンケルクの戦い。
セシーリアからの手紙の束と、共に行くと約束したコテージの絵ハガキを胸に、ロビーは何度も心に繰り返す。
「再開できるかもしれない。あの日の計画を。正装で希望に満ちて屋敷の道を歩いた男に。
物語を再開するー君のところへ戻り、愛し結婚するために。堂々と生きるために」
半年後にブライオニーは、セシーリアの家を捜し訪ねる。彼女の謝罪にも冷たく、「シー(セシーリアの愛称)と呼ばないで」と言い放つ姉。
共に住んでいたロビーは、「正直、首をへし折るか、ここから突き落とすか迷ってる」とまで言い放つ。
それを当然のこととして受け入れるブライオニー。
真相を、ブライオニーは公表したのか、罪はつぐなわれたのか。
ここからは核心に触れるネタばれ。これから見ようと思う方は、読まないことを勧めます。
77歳の誕生日に、21作目の小説を出版することになったブライオニー。すでに作家として大成していた。
TV局のインタビューで、これが最後の作品になると告げる。彼女は認知性の一種の病気にかかっており、死期が迫っていた。
『Atonement』 贖罪とつけられた小説は、かつて看護婦時代に書き始めそのままになっていたもの。
事実とはラストは違っていると話す。真実は非情であり、読者はそれを求めないだろうと言う老作家。
あの日、怖気づいた自分は姉に会いに行かなかったのだと。
そして、セシーリアとロビーは共に暮らしてはいなかったこと。
ロビーは撤退の最終日に、敗血症で亡くなっていた。そして、姉セシーリアも、会うことなく地下鉄の事故で死亡していた。
二人は最後まで、共に過ごすことはできなかったのだと。
姉の家での顛末は、自分の創作だと言う。
そうされて当然だと思っていた、彼女が作り上げた場面。
本の中で、二人が失ったものを取り戻させる。それが私にできる最後のことと言い、映画は終わる。
果たしてそれは、“つぐない”であったのか。
結局は、作家になったブライオニーの罪悪感を埋める自己満足に過ぎないのか。
おそらく、ロビーもセシーリアも、ブライオニーを許してはいない。
けれど、憎悪を向け恨み続けてもいなかった。二人が望むのは、ただまた互いが一緒になること、だけだった。
激しく糾弾するロビーも、冷たく接するセシーリアも、ブライオニー自身がそうして欲しかった二人だ。
二人に恨まれ憎まれ、もう顔も見たくないと言われること。その“当然の報い”が為し得ていたならば。
姉とロビーが共に暮らす未来を持ち得ていたならば。
彼女の贖罪は成就されたのだ。
事実は、二人の人生は二度と重ならなかった。二人が死ぬ間際に見たものは、ただ互いのことだけだったろう。
二人はブライオニーのことを思いもせずに死んだだろう。
実らなかった愛。打ち砕かれた希望。成就しなかった二つの人生。
“幸せな結末”は、読者にではなく、その顛末を知る唯一の人間であり、“シナリオ”を書いてしまった少女が、創作者となって差し出せるただ一つのもの。
それを知らず、望みもしないであろう二人に向けた、ブライオニーの生きた証しだった。
そしてもう一つ。
長い間その思いを抱えて生きることは、すでに贖罪であり罪悪感という名の罰を受けていると言われる。
60年以上もその罰を受け続けたブライオニー。けれど彼女は、それだけでは足りないと思ったのではないか。
ハッピーエンドの結末が、わずかなりともつぐないになるとは、はなから思っていなかったのではないか。
そう思うのは、テレビでのインタビューでわざわざネタばれをしてしまうことだ。
読者、そして映画を見ている側からの、“結局は自己満足じゃない”“彼女も最後に人間性が露呈したね”等のそしりをまぬがれないこと、それはわかっていたはずだ。
当事者がもういなくなった今、完全なノンフィクションとして出版することができたはずなのに、そうはしなかった。
作家としてのキャリアや名声も最後に否定されるようなことをわざわざ口にするのは、それこそが彼女の最後にした“つぐない”だったという気がする。
“汚名”をかぶせ不幸にしたロビー、そして姉セシ―リアに対し、ブライオニーもまた“汚名”を自分に与えたのではないのか。
これは考え過ぎなのかもしれない。でもそう思う方が私はしっくりくる。
ロビーが学童の死体に涙するのも、ブライオニーの創造した映像内の彼なのか。私はそれも思わない。
あのロビーと、完全に創作の糾弾するロビーは別人の感がある。
そして、ロビーが死を前にして、走馬灯の夢を見る。逆回転するあの日のイメージ。
あの日、自分が間違った手紙を入れなければ、彼女に頼まなければ、自分が噴水に落ちた花瓶のかけらを取ろうとしていたら。
巻き戻される思いは、誰かへの恨みよりも、“もしあの時”というやり直しの機会。
もし自分が素直に告白できていたら、あの図書館で愛し合わなければ、会食の場にいなければ。
いくらでも浮かぶであろう後悔への道筋。この戻る描写は効果的で素晴らしい。
そこにいるのは、後悔はあるが怨念のある男ではない。ロビーはある意味ではもう、ブライオニーを許してもいたのではないか。
でも、それは逆に彼女にはあってはならないことだった。
贖罪とは、人になすものではなく、自分自身のある種の“落とし前”なのだと思う。
3人の主要キャスト。みな素晴らしい。
マカヴォイの、死に向かい横たわり過ぎゆく日を想う瞳。
逮捕されセシーリアと引き離されたた時、突然訪れた絶望を浮かべ、ただ恋人だけを見つめる目。そして死んだ時の空っぽな瞳。
セリフ以上に彼のあの目がものを言うシーンが多かった。表情以上に目語りができる少ない役者だ。
キーラ・ナイトレイ。このキーラは良かった。肌の出るドレスを着ても、ラブシーンでもあまりにも痩せていて痛々しいのだが、濃いメイクをし退廃的な風情も、看護婦としてロビーを待ち続けるところも美しい。
彼女は純粋ぶった役よりも、多少倦んだ感じが似合う。気だるさの中に気品が出る人だ。
煙草を吸う表情はぞっとするほど色気があるし、冷たく見えて内面は燃え盛るセーリアはぴったりだった。
少女時代のブライオニーは、この役でアカデミー助演女優賞候補になった若干13歳のシアーシャ・ローナン。このあとの『ラブリー・ボーン』でも見せた、硬質で繊細な演技は凄い。18歳時代のラモーラ・ガライ、77歳時は往年の名女優ヴァネッサ・レッドクローブで、三人が実際似ているところも感心した。
実質の主人公は3人のブライオニー。三人共に説得力がある。
ロビーが夢に見、セシーリアが待ち続けた物語はついに語られず終わり、遺された妹はつぐないという名の物語を紡ぐ。
引き裂いた者たちの望んだ世界を“再開”したのは、作家というつぐないを選んだ贖罪者だった。
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