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暇人の戯言

40有余年の俸給生活を終えて、サンデー毎日の生活ですが、思いつきの侭の記録です!

中世の在銘仏を訪ねる

2009-10-16 09:52:42 | 歴史探索
地元の市の主催である歴史セミナーに参加して、鎌倉時代の後期に千葉県下での活躍が知うられてる仏師で、仏像内部に「賢光」の名が記された作例が、現在県内に5件確認されています。その内市原市内の南部にある「長栄寺」と北総地域の印西市の2箇所を所有者・檀家の皆さんと印西市教育委員会のご協力により、特別に拝観させて頂き、又その作例の発見にご尽力された慶応義塾大学名誉教授紺野敏文先生のその作風や変遷の解説を頂き、貴重な仏像彫刻が大切に受け継がれ、今もなお信仰され続けていることを知ることが出来た一日でした。




今回訪問の寺院は何れも「天台宗」の寺院であるが、先ず地元の「長栄寺」小高い丘の上の寺院で山門の長い階段を登った処に本堂がある古刹である。



長栄寺蔵の在銘仏は「木造十一面観音立像」像高は158.8cmで制作年代は文永元年(1264年)と内部に墨書銘があり、髻(モトドリ)上に仏面を、地髪部には頭上面を等に計十一面を表し、現在市原市有形文化財指定になっている




北総の地である印西市にある多聞院(奈良市・興福寺の塔頭の一つ)には鎌倉時代の三尊形式の毘沙門天像が特別拝観させて頂く事ができた。




毘沙門天像は、本来は彩色されていたものと思われるが、現在は素地像で、像高は
139cmで、中尊の毘沙門天は、髻を三束に結び、宝冠台を着け、眉をつり上げ、怒りの目で、口を真一文字結んでます。
毘沙門天と吉祥天の像内の銘文に、正応2年(1289年)仏師賢光によって造像されたことが記されています。
この像全ては千葉県有形文化財指定になってます。



   


同じ印西市で多聞院からさほど遠くない所にある「西福寺蔵の「木造不動明王立像
及び毘沙門天立像」も拝観させて頂く事が出来た。


「木造不動明王立像」で、像高は他の仏像より低く62cmで、光背は火焔光背とし、框座付き岩座となっている。

「木造毘沙門天立像で、像高は65.5cmで光背は火炎付き輪光、台座は框付き岩座の上に邪鬼を載せる。
両仏像共に印西市有形文化財指定である。

今回のセミナーのテーマは今まで地元では余り参加してない分野でもあったので、先ず地元にこの様な素晴らしい作家と作品があり親しく作品に接し出来る事は大変恵まれた環境に居る事を実感させて頂きました。
尚本文中の仏像用語は全て市原市教育委員会が今回のセミナー用に用意して頂いたレジメより引用させて頂きました事をお断りさせて頂きます。








鎌倉の古刹「長寿禅寺」を訪ねて。

2007-12-01 14:32:24 | 歴史探索
初代鎌倉公方(鎌倉府長官で、関東を支配)の足利基氏(1340~1367年)が父尊氏の菩提のため開創したと伝えられる臨済宗建長寺塔頭のお寺で、一般公開はされていないが、寺域は元足利尊氏の住居跡と云われ、谷の自然に溶け込み、露盤・宝珠を屋頂に載せた仏殿の茅葺き屋根が印象的である。山門は江戸時代からの伝統の藁葺屋根、苔の庭はご住職様のお手入れで春先の芽吹きが今から楽しみである。



境内の一郭の窟(ヤグラ)には足利尊氏のお墓がある。

書院の前の石庭の美しさ又格別な趣で、苔庭ともども季節毎に楽しませてくれる事と思う。



信州・龍岡城址と松代城址を歩く。

2006-11-12 15:44:26 | 歴史探索
龍岡城は三河奥殿の松平氏は本拠三河に四千石、信濃一万二千石に陣屋を置いていた。11代藩主の松平乗謨(のりかた)になり、三河の本領が手狭なのと領地の大部分が、ここ佐久郡にあることを理由に信濃へ居館を移すことを幕府に許可を得
て、元冶元年(1864年)3月着工、慶応3年(1867年)に完成し、地学名から龍岡城と称した。藩名も奥野藩を改めて田野口藩とした。


龍岡城の俯瞰図であるが、函館五稜郭と共に貴重な様式城郭の一つであるが、南西、西側二稜郭の部分が未完成のままとなっており、内部の建物瓦も全部準備しながらも一割にも満たない使用であったという。崩壊間際の幕府で、老中格、陸軍総裁(勝海舟の前の総裁)などの要職にあった藩主松平乗謨にはもはや築城に目を向ける時間も資金もなかった事と思う。




城址は明治を迎えて全て、建物は一部地元の有力者に売られたり、未完成の五稜郭も埋められたりして、敷地は地元の学校用地になった。
昭和7年に地元有志が、五稜郭の内完成していた3稜郭を掘り起こして、「五稜郭は私達先祖が残した誇るべき遺産」今も地元「龍岡城五稜郭保存会の方々が今も貴重な文化財を守っていただいてる。



当時、藩では御台所を「御台所櫓」と称した。天守閣や櫓を持たない陣屋格大名にとって櫓はあこがれだった。城中で一番高かった御台所を「櫓」呼んだ。
かっての城中の現在は小学校の敷地に現在移築されている。



藩主松平乗謨公は明治になり改名して「大給恒」になり、日本赤十字社の設立に尽力された。地元の方々に記念碑も大手門前に建立されている。

 
松代城址   


松代城(海津城)は戦国時代jの永禄3年(1560年)、甲斐の武田信玄が越後上杉謙信との「川中島の戦い決戦」に備えて築いた、縄張りは信玄の軍師「山本勘助。
現在の本丸と二の丸一帯を海津城と称した。
三面を山に囲まれて、一方に千曲川が回る、自然立地に恵まれた天然の要害である。本丸への太鼓門と高麗門に櫓門が復元されている。


天正10年(1582年)武田氏滅亡後は、織田信長の武将森長可から上杉景勝の支配から豊臣秀吉を経て徳川家康の支配する時代から、関が原」で徳川方についた元和8年(1622年)真田信之が上田から10万石で入封。以後、真田氏10代の居城として明治維新を迎えた。
城名を松城城と改めたのは正徳元年(1711年)真田氏三代の幸道の時代である。



過って天守閣があった天守台跡であるが、周りの石積みは野づら積みで、豊臣時代の特長石垣内側に力が集中するよう「たわみ」を持つ時代の特長がよく表れている。



天守台から長野方面を望むが、城の外側は自然のお濠である「千曲川」が流れている。


旧松代藩鐘楼であるが、この鐘楼は初代藩主真田信之が元和元年(1622年)10月上田城より移りまもない寛永元年(1624年)設けたもので、ここに足軽千人余りの番割りをした割番所の場所でもあり、一日昼夜の別なく一時(2時間毎)ごとにつかせて時刻を知らせた。その後火災による焼失の後、現存の鐘楼は享和元年(1801年)再建されたものである。
また、こ鐘楼は嘉永二年(1849年)佐久間象山がオランダ語の書物より電信機を作り、北東七十メートル先との電信実験に成功した「日本電信発祥の地」でもある。


藩士の子弟の学問、武芸を奨励するため、真田家8代藩主、幸貫は、佐久間象山らの意見を入れ、蘭学・西洋砲術を積極的に取り入れ、藩校としての文武校の建設を目指した。9代藩主・幸数はその意思を受け継ぐこととなり、嘉永6年(1853年)に建物が完成し、安政2年(1855年)開校した。

中心となる文学所の藩主用の玄関であるが、他に教授用、生徒用と三箇所の玄関がる。
この敷地面積は約1,000坪、建坪500坪、で文学所、御役所、剣術所、柔術所、弓術所などがあり、現在の建物は当時のままと云う藩校は稀である。

当時(1855年)のけいこ日割り(現在の時間割表)であるが、佐久間象山先生の名前も見える。


長国寺は歴代の真田家の菩提寺で、戦国時代の天文16年(1547年)祖先が真田郷の松尾城内に創建、その後藩主がこの地に移封の際に移転される。
変わった形の屋根、屋根に聳える「鯱」は松代城から移築、正面には真田家の家紋である「六連銭」がある。

本堂裏手にある初代藩主信之の御霊屋は国の重要文化財指定で、極彩色、金銀をめぐらせた豪華絢爛の造りで、霊廟内陣は極彩色のふすま絵と彫刻、格天井は狩野探幽の筆にとも伝えるが、一般には公開されない。

霊廟の屋根に飾らてる「左甚五郎作と云われる」きらびやかな「鶴」


永禄四年(1561年)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開さた「川中島古戦場跡」での「三太刀七太刀」像であるが、謙信、信玄一騎討ちの跡に建てられた像である。

過っての古戦場跡も現在は公園になって休日と折りからの紅葉の最盛期で、夕刻迫る時間でもかなりの人であった。
朝6時出発の日帰り強行であったが、心配された天候も行く先々では、薄日ももれる様な幸運に恵まれて、約4時間で家に帰り着いた。






弘前城へ~

2006-05-27 14:53:25 | 歴史探索
函館を青函トンネルを経て復路青森経由で最後の巡り先「弘前城」に向うのであるが、前日松前からの函館に向かうバスの車窓から同行のI氏の撮影による福島町の青函トンネルの入り口のショットであるが、青函トンネルは昭和63年に完成。
全長53.85kmで世界最長のトンネルである。途中、吉岡と竜飛のそれぞれに海底駅
が設けられ、「竜宮スーパービジヨン」や「竜宮水族館」などを下車して楽しむ為に普通乗車券のほかに見学整理券(有料)を購入して、次の列車までの時間内(約2時間)で見学出来る事を知るが、次の機会には是非立ち寄りたいスポットである。


ここ津軽という一風土が、一藩という行政区画でもって画されるようになったのは、戦国時代の津軽為信(1550~1608)の功である。

日本七名城の一つといわれる「弘前城」は二代藩主津軽信枚が慶長16年(1611)に完成させた。
当初の天守は五層で本丸西南に構築されていたが、築城から16年後の寛永4年(1627)に落雷で焼失する。
現在の天守は、江戸時代末期の文化7年(1810)九代藩主寧親により、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。


司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の中で「弘前城」を「季節になれば、堀も石垣も、天女が舞い降たようにように、桜の羅衣(ウスゴロモ)になる。)書かれている時期を過ぎたが、城内の所々にまだ咲き始めた遅咲きの桜も見られた。

弘前城の正門である「追手門」である。門は二階建てで、二階は白堊、一階は黒い板壁で白と黒の対比が面白いと「司馬遼太郎」さんももいわれてる。

ニノ丸は城の中のもう一つの城であり、ここにも堀がめぐらされ、石垣が築かれていて、そこに、三層の角櫓が静かに建っている。辰巳(南東)の櫓である。


  天守閣正面
  

ニノ丸よりの辰巳櫓


天守閣より見える岩木山には残雪があったが、この津軽平野も「春」の桜祭り、「夏」の
ねぶた祭り、「秋」の菊と紅葉祭り、「冬」の雪灯篭祭りと厳しい季節も含めて時代々文化を継承している静かな「もほろば」でこの地も再度訪ねたい~
今回の一泊二日の駆け足の旅の記念チケットであるが、又の機会の新企画に期待して、是非利用したいと思う!





函館の史跡を訪ねて!

2006-05-23 16:39:36 | 歴史探索
松前からバスと電車に乗り換えて約3時間で午後7時過ぎに「函館駅」に到着する。

早速夜の函館名物である標高334mの函館山からの夜景見物に、ホテルにチェックインそこそこに出掛けるが、思いのほかの混雑には驚くが、流石百万ドルの夜景には北海道の春を迎えて昼夜を問わず人気スポットである。

五稜郭公園の入り口に伸びる白い塔の「五稜郭タワー」はこの4月に新装になり、旧タワーは現在隣りで、解体中であるが、新タワーは展望台の高さが旧タワーより30m高く90mになる。

五稜郭の誕生のきっかけは、安政(1854)に結ばれた日米和親条約(神奈川条約)によって開港された箱館(函館の当時表示名)をはじめとする北辺の防備のため、幕府は蘭学者の武田斐三郎に命じて、西洋の城郭都市の要塞を考慮して設計で、安政4年(1857)4月に着工され、元冶元年(1864)に完成した西洋式の城であり、慶応3年(1867)10月の大政奉還後、新政府に移管された。
明治元年(1868)におこった戊辰戦争では旧幕府脱走軍榎本武揚らによって短期間占拠されたが、新政府軍に平定されてから開拓後、陸軍省の所管をへて、大正3年
(1914)以降公園として市民に開放されている。
城の形が模型の如く五稜形をしているのは、守備の際に死角をなくすためであり、武田斐三郎の指導のもとに、西洋式の築城法をとりいれて造られたもので、展望台からもその形を見る事が出来る。




五稜郭城(箱館奉行所)えの橋である。

箱館奉行所の玄関で、箱館戦争でも残り、その後奉行所が解体されて払い下げになったが、この屋根材は奉所の内玄関式台に利用されて、当時は藁葺き屋根であったが、その後トタン屋根に変えられたが、幕末の建築様式を知る貴重な資料である。

城内に咲いていた「枝垂れ桜」は満開である。

この地は日本の歴史流れを数々と記憶されてる事であろうが、新撰組の土方歳三等もこの地の何処かに眠っている事と思うが、そのご北の大地を夢見て多くの人の往来が内外を問わず歴史の中の時代を通り過ぎて行った地「函館」である。 


松前の史跡を訪ねて

2006-05-21 10:57:00 | 歴史探索
日本の歴史のなかで異彩をはなつ松前。
辺境を支配し、交易でさかえ、世界情勢に翻弄された北国の雄である松前を桜前線も津軽海峡を越えて未だ優雅に咲き誇る地を史跡巡りを兼ねて訪ねる。

松前城(福山城)は今から約700年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終わり頃には和人政権の拠点となり、その後武田信広(松前家始祖)が平定して五世「慶広」の時に松前氏に改め、幕府により蝦夷地における支配権を認められ、一時期(1807年)箱館奉行を松前に移したが、安政2年に再び箱館奉行になる。
17世崇広の時代に幕府より北辺警備の命を受け、安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成したもので、一見簡素に見える天守閣も火器戦争には最もがん丈な意匠構造で、従来の日本式に西洋式が加味されていた。
その後明治維新で廃墟と化して、その後明治8年(1875)には天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀を残して取り壊された。前記の三棟は昭和16年に国宝に指定されたが、昭和24年本丸御門を残して他の建物は焼却して指定を解除された。
昭和25年文化財保護法の施行により、現在天守閣の左に見える「本丸御門」は重要文化財に指定された。天守閣は昭和36年に再建された。

北の小京都とも呼ばれる松前の春は、咲き乱れる桜におおわれる。
松前の桜は、過って松前城下で財力を誇った商人や、京の都から輿入れした藩主の
奥方たちがふるさとを偲んで植えたり、藩主の参勤交代の際に江戸から持ち帰えったのがはじまりともいわれ、この松前藩時代の古木、今も花を咲かせている。

天守閣背景の花筏

城址公園内の桜いろいろ!
 
「染井吉野」散りはじめていたが、右側の「南殿」今を盛りに咲いていた。
  
「糸括」                        「雨宿」
  
「開山」                         「一葉」

この地では、桜と梅が同時咲く事も多いとの事であるが、紅梅も満開であった。
松前も新幹線と津軽海底トンネル経由の特急とバスを乗り継ぎ東京から約7時間の旅であったが、天候に恵まれた事は最高であった。




お江戸「日本橋」界隈を巡って

2006-05-11 10:29:32 | 歴史探索
最近何かと話題の日本橋を中心に江戸時代の史跡巡りをしてきたが、現役時代は別に改めての思いはなかったが、この日本橋は徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1602年)と伝えられ、幕府は東海道をはじめとする五街道の基点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差として江戸経済の中心となっていた。


現在の日本橋は東京市により、石造に連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。昭和東京大空襲にも残って重要文化財にも指定されたが、橋の上を首都高速道路が通る現状を都市景観からもいろいろな提案がなされている。


橋詰には高札場、魚河岸があったことも有名で、この地から木更津も遠望できたとのことであるが、かの大久保彦左衛門の一心太助の活躍の場所であったと思われる。


現在の日本国の道標と国内主な都市までの里程標も視られる。 


  

日本銀行本店であるが、この場所は江戸時代の金座跡で、幕府が発行する大判、小判、一分金など金貨の鋳造元の場所である。



日本銀行の貨幣博物館での解説者よりの我が国の貨幣の歴史の説明を受けたが、甲州金の貨幣単位、幕末の安政5年(1858年)の日米修好通商条約による日本の貨幣との交換ルートによる大量の金貨流失等も含めて等含めて再度訪ねたい場所である。


常盤橋門は江戸城外部の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為の門であった。
天正18年(1590年)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。現在の石橋は枡形に使っていた石を用いて、明治10年(1877年)に改架した都内随一貴重な様式石橋である。



常盤橋門は大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門で、橋詰には北町奉行所があった時代もある。



東京駅丸の内南口であるが、このレトロなレンガ造りは東京の顔で、大正3年に東京中央停車場として開業の際に、総工費280万円で設計は日本銀行と同じ辰野金吾が設計で、オランダのアムステルダム駅をモデルにしたルネッサンス式で、今や丸ビルも含めて大変貌であるが、せめてこの東京駅のレンガ建物は後世まで残したい遺産である。
近くの過っての東京都庁(現在の東京フォーラム)は今NHK大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊の土佐藩の江戸上屋敷跡(8,000坪)であった事も知る上で、この日本橋界隈は江戸城周辺の重要な地域であったことを再認識させられる有意義な一日であった。












史跡足利学校を訪ねて

2006-04-02 13:44:40 | 歴史探索
足利学校の創建に就いては様々の説があり、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説があるが、鎌倉建長寺の住職(住持)が長享元年
(1487年)に足利の学校には諸国から学徒が集り学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利は誠に風雅の一都会と詩文の中で賛美している。
又天文19年(1550年)フランシスコ・ザビエルをして日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学として世界に紹介され、学徒3000人と云われるほどになったが、江戸末期に役割を終え、明治5年に幕を下ろした。
その後「史跡足利学校跡保存整備事業」により平成2年に江戸中期の姿に蘇る。




学生は当時全国から集まり、学生の大半は僧侶で、それ以外の俗人には僧侶の学徒名がつけられ、校長(庠主)先生は当時学問のトップレベルの学問僧が任命さてれた。


足利学校に隣接する足利氏の館跡にある緵阿寺(ばんなじ)は開祖800年の歴史を持ち、国の重要文化財の本堂等があり、境内の周りは館跡らしく堀と土塁が廻っている。


ご本尊である大日如来を祀る「多宝塔」

鎌倉・義経の腰越状の地と江ノ島を歩く

2005-12-22 17:55:07 | 歴史探索
鎌倉の腰越にある「満福寺」は、天平16年(744年)「生きながら菩薩」云われた僧・行基が開山した寺であるが、源義経の腰越状で世に知られた寺であr。
義経伝説を語る際、満福寺は絶対に落とすことは出来ない。
数々の武功を上げて、兄・源頼朝に面会すべくこの鎌倉の入り口で関所でもある腰越まで来たが、頼朝は兄弟である前に家臣である義経が後白河天皇に近ずき過ぎた
義経をとの面会を許さなかったので、この地で一通の嘆願状(腰越状)書き側近の「大江広元」に差し出し申し開きをするが、それも空しく、ついに鎌倉の門は開かれずで、その4年後、再び義経がこの「満福寺」に戻った時に義経は一個の首に成り果てていたという義経ゆかりの寺である。


満福寺には義経ゆかりの弁慶が書いたされてる「腰越状の下書き」とか境内には弁慶が腰掛けた「腰掛石」「手玉石」「源義経慰霊碑」と最近造られた可愛い「一休さんの像」印象的である。


文永8年(1271年)既成宗派を激しく攻撃した日蓮は、時の鎌倉幕府によって捕らえ
られたが、この地「瀧の口刑場」で処刑される予定が、執権「北条高時」夫人の解任で罪一等を減じられて佐渡流罪になった場所で、日蓮が閉じ込められた霊窟とその時の日蓮の坐像が安置されている。




江(絵)の島は面積約0.3km2,周囲約4km,最高地は61mの小島で、先ずこの竜宮門から島内に入る。

江島神社には「辺津宮」「中津宮」とこの「奥津宮」あるが、この石鳥居は源頼朝の造営といわれている。
奥津宮の隣に祀らてる「竜宮」でこの小さな島には色々な施設があるが、島の反対側には海水の浸食と隆起で海面に現れた、幅50mほどの岩原がベランダ状に広がっていて、ここよりの冨士山の遠望も素晴らしいとの(当日は生憎見えず)ことである。


房総館山戦跡めぐり

2005-12-05 17:57:59 | 歴史探索
1916(大正5)年東京湾入り口の横須賀に海軍航空隊を開隊して以来、航空兵力の増強に力を入れ、全国に航空基地をつくっていった。館山も横須賀の対岸で、首都東京を守るための最重要「要塞地帯」、秘密裏に多くの軍事施設がつくられていた。
1923(大正12)年、突如襲った関東大震災によって館山湾沿岸と海底は大きく隆起し、広い遠浅の海岸になり、この遠浅は空母の形に似せた海上基地建設を構想としていた海軍にとってきわめて好条件の地形であり、その後1930(昭和5)年、横須賀、佐世保、霞ヶ浦、等に次ぎ、全国で5番目の館山海軍航空隊が開隊した。

房総特有の西風を強く受ける訓練用にの滑走路により、航空母艦の短い甲板からの
離着陸の訓練には最適的で、空母パイロットの養成基地としても重要であった。
ハワイ真珠湾攻撃に艦攻のパイロットはこの基地で高度な操縦技術を受けていたという。



現在の海上自衛館山基地の南側に、標高約60メートルの通称「赤山」と云う小高い凝灰岩質砂岩で出来た山があり、岩山のなかには、総延長約2kの地下壕と、巨大な燃料タンク基地跡等が残ってる。

  
地下壕の中はツルハシで掘った様な素堀の様で地層はこの辺りは太平洋プレートが潜り込む地層で、隆起する地層で、南方向から潜り込む地層が見られる。


地下壕の近くには、当時戦闘機を守る掩体壕(エンタイゴウ)と呼ばれる格納庫である。

この基地は太平洋戦争での首都防衛と決戦の重要なる基地であった事は間違いないが、戦後65年の今も残り、地元NPO法人と館山市により案内頂いているが、より多く人が、各々と考えも有ると思うが、歴史の1ページとして訪れる事を期待したい。

1945(昭和20)年9月3日米軍館山に初上陸の写真であるが、先頭の3人は日系の様な顔、体型である。


現在の上陸地点であるが、夏には海水浴客で賑わう波静かな海岸で、他にも戦跡は近くに多く見られるので、又訪ねる機会を持ちたい。



芝 増上寺

2005-11-27 11:13:10 | 歴史探索
浄土宗大本山 芝増上寺は遠く1393年)に関東での正統念仏道場として当初江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)に創建された。
その後徳川家康公の入府を受け江戸城拡張とともに、1598年に現在の芝に移転されて、江戸時代に入り徳川家の菩提寺、浄土宗の学制の総録所として常時3,000名の僧侶が修学に励む寺院となった。
明治時代の廃仏毀釈、大火により本堂の焼失、大正期にその復興も試みられたが、まもなく昭和の戦災によって一部を残して焼失された。
然し戦後の復興に伴い、大殿等が建立されて、宗教、文化活動の拠点となっている。
     

昭和49年に建立の「大殿」        大殿に祀られてる「皇女和宮の等身
                         像」

増上寺には歴代の徳川将軍の内、2代秀忠公をはじめとして、6人の将軍、同御台所崇源院、皇女和宮様らの5人の正室と3代家光公側室桂昌院(5代綱吉公実母)をはじめ5人の側室等と歴代の将軍の子女多数が葬られてる「徳川将軍家霊廟)であるが、戦災前は「北霊屋」「南霊屋」に分れての霊廟であったが、現在は昭和33年から文化財保護委員会の許可を得て詳細なる学術調査がおこなわれ、のちに荼毘に付され、南北に配していた墓所はこの1箇所にまとめられ現在地に改葬された。
                                   

池上本門寺を訪ねて

2005-11-24 11:36:35 | 歴史探索
日蓮聖人の終焉(1282年10月)の地である東京都大田区池上にある日蓮宗の四大本山の一つである「池上本門寺」を訪ねる。
入滅後1291年に池上宗仲が寺とし、1317年に日蓮の弟子の一人日朗上人が開山したお寺で、昭和20年の4月に戦災で一部焼失したが、「総門」「経蔵」「五重塔」前田家寄進による「多宝塔」等の建造物が見られ広大な境内の数々の史跡に出会う。
 

1608年2代将軍「徳川秀忠公」が乳母の岡部局の願いにより建立した五重塔で、関東では最古の五重塔で、勿論国の文化財である。

江戸初期に「小堀遠州」により作庭された本門寺の奥庭の「松涛園」季節の花と樹木が美しく、1868年(慶応四年)に園内にある四阿(アズマヤ)で西郷隆盛と勝海舟により江戸城の開城が話し合われた場所でもある。
境内の庭で満開の「十月桜」が晩秋の木々の中で一段と華やいでみられた。

境内の墓地の一角に、幕府の御用絵師として、一門の繁栄拓いた「狩野探幽」墓であるが、墓石の形に見入る!徳利と思われるが、周りには一門の弟子達の墓石も見られ、生前の探幽先生を垣間見る様な、素晴らしいモニュメントである。






お城巡りの旅(3)彦根城

2005-09-12 18:05:52 | 歴史探索

台風14号もモタモタと近ずきはじめたので、早朝の彦根城探訪で、予定していた
今回の最大のポイント「安土城」を諦めて次回の機会に譲る。
徳川家康が生涯最も信頼していた武将井伊直政を関が原の戦いでの武功により直政を石田三成の旧城であった佐和山城に入城させる。
直政の没後佐和山西方の彦根山に世子の直継が築城してから約400年の歴史刻んで、徳川幕府時代の西国大名、特に薩摩の島津、長州の毛利等の重要な監視の城として、井伊家も彦根城も一度の戦渦も無く明治を迎えた城で、この天守閣は国宝である。

天守閣に向かう途中の堀切部分の廊下橋の先の天秤櫓(重要文化財)

天秤櫓前の廊下橋のたもとには「鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる」の句碑があるが、あの珍味の鮒ずしは、独特の匂いの熟れずしで、琵琶湖の恵みでもある。

大名庭園「玄宮園」は4代藩主の直興の時代の1680年に造られ、江戸時代初期の庭を現代に伝える名園で、園よりの天守閣もすばらしく、池を琵琶湖に見立てた、近江八景の縮景を池畔に再現している。

園内に有る茶席は藩主が接待の際の茶席で、池越しに佐和山城跡も遠望出来る。





お城巡りの旅(2)姫路城

2005-09-09 14:56:59 | 歴史探索

国宝で世界遺産でもある「姫路城」を初めて訪ねたが、目の前にして「冨士の霊峰」を仰いでいる心境で天守閣を魅入る。
歴史的には豊臣秀吉の毛利攻めの「中国大返し」の拠点となり、関が原戦後の戦功で徳川家康より与えられて入城した池田輝政が現在の姫路城の歴史のはじまりである。

この場所より大天守と小天守が見られる場所である。
空に突き上げる天守群と美しい白壁が白鷺の舞い立つ姿を連想させて、白鷺城の名もある。

千姫は先夫豊臣秀頼を失った直後、ひと目惚れの美男の伊勢桑名の城主、本多忠政の嫡子忠刻に嫁ぎ、この地姫路に国替えにさいして義父忠政は、若い夫婦の為にいろいろと御殿を増築したが、二人の幸運も10年で閉じたが、千姫にとって生涯の幸福の全てもあった。

外観5層(内部は6階、地下一階の堂々とした大天守より姫路駅方面を望むが、
夜のライトアップも見たかったが、翌日の彦根城を目指して車中の人となる。


お城巡りの旅(1)播州赤穂城

2005-09-09 11:57:42 | 歴史探索

台風14号をお迎えする様な旅立ちで、天候が心配されたが、季節柄指定席満員の
東京発の夜行列車で、第一日目の播州赤穂城と姫路城に向かう。

写真は復元された大手門と角櫓であるが、同時に周辺石垣、番所、白壁塀も復元された。
明治9年廃城のの為競売となり、建造物は取り壊されたがが、昭和30年に一部を復元した。


この井戸は「息継ぎの井戸」と云われる井戸と井戸の内部で、「浅野内匠頭、江戸城内刃傷」第1報を江戸から4日半かけて、早水藤左衛門と萱野三平がその大事件を知らせるために早駕籠で到着して、その時この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城に向かったと伝えられている。

赤穂城は海岸沿いに築かれ、その城下町も河口のデルタ上にあるために、赤穂旧上水道は良い飲料水を得るため約7キロ上流の千種川から取水し導水路を経て城下町、城内に配水したもので、17世紀前半の当時の藩主池田氏の代官の指揮でおこなわれた。
この旧水道は侍屋敷だけではなく町家にも汲出枡(井戸)を設けて各戸に給水していることが特徴で、江戸の神田上水や備後の福山上水とともに日本三水道の一つといわれるとの事である。


赤穂城本丸跡で、57年本丸跡にあった赤穂高校の移転したのを機に、内堀を囲む15,000平方メートルの整備復元をはかっている最中だが、天守閣は天守台のみを構築、当時より政治的配慮も含めて天守閣は建造しなかった様である。

大石神社の参道であるが、神社は家老大石内蔵助と藤井又左衛門の屋敷跡を中心に大正元年に創建。祭神は大石内蔵助と47士、浅野家3代と後の藩主元津山藩主であった森家7代である神社で、現在の赤穂市民の心の拠り所である。