千原叡子先生の思い出
-本意を学んだ月日-
つきひ
平成4年・大阪花博公園で
西の虚子忌
千草会の月例会で第60回の西の虚子忌のお話が出た。1回も参加したことがないので行きたいと思った。会場が畳の部屋で私は正座が出来ないことなどの話になった。叡子先生は別の部屋から箱を持って来られた。箱の中身は老舗桐屋田中の『正座イス』だった。羨望の中で私はそれを頂くことになった。余りに軽く美しいイスに私は、
『私が座っても大丈夫でしょうか』
と尋ねると
『大丈夫よ、両国の店ですよ』
と言われ、座は笑いに包まれた。
叡子先生に頂いた正座イスをリュックに入れて、梅村節子さんと一緒に西の虚子忌に参加した。比叡山には何回か来たことがあるが、虚子忌のこの雰囲気は特別な気がした。汀子先生のお近くに叡子先生のお姿もあった。
椿子をふと秋冷の横川路に つきひ
参加するだけでよいと思って気軽に参加したのが良かったのか汀子先生選に入る句が出来た。良い句が出来たのも正座イスのお陰だと思っている。
平成9年・ホトトギス100年大会 稲畑汀子先生と叡子先生
生涯現役
シルバーカレッジ健康福祉コースに学ぶ知人から『超元気印さんに学ぶ』というテーマでグループ学習をしている、当てはまる人があれば紹介してほしいと依頼があった。当時81歳の叡子先生を紹介し取材にも同席させて頂いた。
日本伝統俳句協会関西支部長の仕事、虚子との出会い、椿子物語などについてのお話の後、
自然と接しているとものの見方が偏らない、人間までも自然に作られたものだと気づく。かつて虚子先生が
若死にの六十二歳の春惜しむ
と詠まれ、62歳が何で若死になんだろうと不思議に思えたが今になってその心がよくわかると話された。
先生の記事は31名の話をまとめた『超元気印さんから学ぶ』の中の『この道一筋、生涯現役』の部に収められている。
生涯現役という言葉通り、先生は亡くなる直前まで俳句を作り、ご自分が育てた多くの句会の選や添削指導をされた。
平成9年・椿子と叡子先生
-追記-
玄関の消毒液に五月来る 叡子
叡子先生入院中、秘書的役目をしていた友人から『ホトトギス』9月号のこの句が最後の投句だとメールを頂いた。
直井潔氏夫妻
西明石の公園の桜が咲く頃、神戸市役所で一緒に仕事をしていた者が集まって花見の会をすることにしている。その会へはじめて隣町の連合自治会長をしていたY氏をお誘いした。お土産に連合自治会創立60周年記念誌を頂いた。ページをめくって驚いた。
『美しく木の芽の如くつつましく』
という京極杞陽の句をタイトルとした本の写真が載っていたからである。
記事はY氏と同じ町に嘗て住んでいた芥川賞候補作家・直井潔氏のものであった。直井氏は大正4年生まれ、平成9年逝去。Y氏取材当時直井夫人はご健在でY氏と撮影した写真も記念誌に載っている。ご夫妻の生活を書いた『羊のうた』はNHKのテレビドラマ(江守徹・十朱幸代主演)になり兵庫県文化賞を受賞している。
京極杞陽は椿子物語にも登場する叡子先生と縁の深い方である。京極杞陽の何が書いてあるのだろうか、私は大急ぎでアマゾンから本を取り寄せた。
題字を京極昭子(杞陽夫人)が書き、表紙絵を直井夫人が描いたその本に載っていたのは『京極杞陽先生回想記』であった。
それを読んで又びっくりした。叡子先生のお名前が頻繁に出てくるのである。例えば、ホトトギス巻頭の杞陽の句について尋ね貴重な資料を送って貰ったとか、豊岡で行われた杞陽の葬儀で叡子先生に会い、話せたことを『もうそれだけで出席した甲斐があった気がした』などと書いてある。
直井氏は全身の関節が曲がらない重度の障害を持っておられ、夫人も障害を持っておられた。当時、西市民病院副院長だった叡子先生のご主人草之先生にも受診病院のことなど相談されていたようだ。
私がたどり着いたこの不思議な巡りあわせを興奮気味に叡子先生に報告すると、
『直井さんご夫妻とは親しくしていたのよ。特に奥様とね』
と微笑んで、多くは語られなかった。
葉書と手紙
障子貼る器用貧乏かこちつつ
の器用貧乏の弟が作った干し柿ですとお送りしたら、柿がお好きな先生は瑪瑙細工の様だと褒めて葉書をくださった。
私は、先生の言葉をそのまま
干し柿を瑪瑙細工と褒められし
と句に詠んだ。
栗をお送りした時は
『栗ご飯を炊いてパリに出発しました。パリのモンマルトルも秋祭で、阪神優勝を喜んでの一団も一緒に参加していました』
千草会を欠席した時には
『今、麩餅の残りをアミダくじで貰うとやっさもっさやっていらっしゃいます。今日私のホトトギス7月号巻頭にしていただきましたのを祝って頂きお菓子パーティをして頂いています。今から句を作ります』
たちばな句会の選句表と共に一筆箋に
『実は11月23日、95歳の波乱に富んだ生涯を大変穏やかに閉じた母のことをちょっと申し上げておきたく存じました。貴女様のお母様のようにしっかり一生を過ごさせて頂きました』
叡子先生と先生のお母様が重なった。
こんなに充実した楽しい時間を共有させて頂いていたのだ。私は叡子ロスからやっと脱出出来たような気がした。
生悲しとも愛しとも走馬燈 千原叡子
「玄関の消毒液に五月来る」
こんな爽快なさりげない句を闘病中に詠めたとは。
玄関の消毒液に五月来る
ホトトギス十月号、雑詠句評(九月号より)に
ことごとしく社会や社会不安を直接詠まなくても、ごく身近な日常の寸評を通して私たちの社会と真理を的確に詠まれたところは、やはり花鳥諷詠のベテラン作家である(抜粋)と、中正氏の句評がありました。
願ふより謝すこと多き初詣
私の忘れられない叡子先生のお句です。
草之先生と共に俳句を楽しんでおられますか~
橡咲けば美穂女忌近くなつかしく
子規保養せし須磨浦へ卯浪寄す
玄関の消毒液に五月来る 以降のお句ですね。
凄いです!!
「追記」に訂正して下さい。
よろしくお願いします_(._.)_
叡子ロス脱出せよと蝉の声 つきひ
騒々しい蝉の声が悲しい。
つきひさんは俳句を作り、文を書く事で深い悲しみの心を浄化されました。
改めて俳句の力、文の力、言葉の力は凄いと感じます。
叡子先生から俳句は謙虚な心で作りなさいと教わりました。
つきひさんのお句や文からは先生のお教えのように
謙虚でやさしく、温かさが伝わって来ます。
生かされて今日人に会ひ立夏かな 叡子
喪の花の白蝕ばみてゆく炎暑 つきひ