二〇一八年三月二五日 NO・四四―五二 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 棕櫚の主日(日)ヨハネ黙示録 七章 (月) 〃 八章
司会 みつ子師(火) 〃 九章(水) 〃 十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十一章(金) 〃 十二章
招詞祈祷 イザヤ五三章一~五節 (土) 〃 十三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五六番 ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より教会総会。
交 読 文 詩 編 三八編 ◎今週は受難週です。
讃 美 讃美歌一三六番 ◎次週はイースター礼拝です。
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四〇三番 三時にイエスは大声で叫ばれた。
説 教 マルコ十五章三三~四一節 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
讃 美 聖 歌三九九番 これは、「わが神、わが神、なぜわたしを
祈 祷 高澤兄 お見捨てになったのですか」という意味である。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 マルコ十五章三四節
十字架上の絶叫
四つの福音書に、主イエスの十字架上で発せられた言葉が七つ記されている。ルカとヨハネはそれぞれ独自の言葉を三つ記しているが、マタイとマルコは共通の一つの言葉だけである。そしてこの言葉こそ、主イエスの十字架の意味を最も表す言葉であり、まさに十字架の頂点と言うべき言葉である。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、詩編22編2節の言葉そのままである。古代教会から現代に至るまで、多くのキリスト者が主イエスのこの言葉に戸惑いを覚えた。なぜなら神の御子の言葉にふさわしくないと映るからである。そこである人は、主イエスは詩編22編全部を唱えようとしていたのだ―最後は讃美で終わっている―と言う。しかしそれはうがちすぎであり、十字架の真意をこぼつことになる。この言葉こそ、十字架の意味を如実に表す。
まさに主イエスは、言葉通りに「神に捨てられた」と実感された。パウロが「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(2コリント5章21節)と言っているように、主イエスは私たちのために、私たちに代わって、私たちの罪を一身に受けられたのである。身代わりというと英雄的な響きがするがそのような身代わりではない。「罪となさいました」あるように、罪人としての叫びである。それゆえルターがキリストは十字架において「すべてのものの中で最大の強盗、殺人、姦淫する者、神を汚す者等であった。この世に決してそれ以上の者はいなかった」と言っているように、全人類のすべての罪を担う「最大の罪人」としての死であった。
罪と死は切り離すことができない。それは神との関係が絶たれることを意味する。死は命の源なる神との断絶である。ゆえに主イエスは神に捨てられ十字架の死を遂げた。これによって私たちと神との和解はなった。それゆえ私たちは、決して神から見捨てられることはない。私たちの犯す罪のすべてはすでにそこで処理されている。そして主イエスの救いを知る者は、「孤独と絶望」から解放されるのである。私たちは主イエスの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」の言葉を頂いている!
礼 拝 次 第 棕櫚の主日(日)ヨハネ黙示録 七章 (月) 〃 八章
司会 みつ子師(火) 〃 九章(水) 〃 十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十一章(金) 〃 十二章
招詞祈祷 イザヤ五三章一~五節 (土) 〃 十三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五六番 ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より教会総会。
交 読 文 詩 編 三八編 ◎今週は受難週です。
讃 美 讃美歌一三六番 ◎次週はイースター礼拝です。
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四〇三番 三時にイエスは大声で叫ばれた。
説 教 マルコ十五章三三~四一節 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
讃 美 聖 歌三九九番 これは、「わが神、わが神、なぜわたしを
祈 祷 高澤兄 お見捨てになったのですか」という意味である。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 マルコ十五章三四節
十字架上の絶叫
四つの福音書に、主イエスの十字架上で発せられた言葉が七つ記されている。ルカとヨハネはそれぞれ独自の言葉を三つ記しているが、マタイとマルコは共通の一つの言葉だけである。そしてこの言葉こそ、主イエスの十字架の意味を最も表す言葉であり、まさに十字架の頂点と言うべき言葉である。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、詩編22編2節の言葉そのままである。古代教会から現代に至るまで、多くのキリスト者が主イエスのこの言葉に戸惑いを覚えた。なぜなら神の御子の言葉にふさわしくないと映るからである。そこである人は、主イエスは詩編22編全部を唱えようとしていたのだ―最後は讃美で終わっている―と言う。しかしそれはうがちすぎであり、十字架の真意をこぼつことになる。この言葉こそ、十字架の意味を如実に表す。
まさに主イエスは、言葉通りに「神に捨てられた」と実感された。パウロが「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(2コリント5章21節)と言っているように、主イエスは私たちのために、私たちに代わって、私たちの罪を一身に受けられたのである。身代わりというと英雄的な響きがするがそのような身代わりではない。「罪となさいました」あるように、罪人としての叫びである。それゆえルターがキリストは十字架において「すべてのものの中で最大の強盗、殺人、姦淫する者、神を汚す者等であった。この世に決してそれ以上の者はいなかった」と言っているように、全人類のすべての罪を担う「最大の罪人」としての死であった。
罪と死は切り離すことができない。それは神との関係が絶たれることを意味する。死は命の源なる神との断絶である。ゆえに主イエスは神に捨てられ十字架の死を遂げた。これによって私たちと神との和解はなった。それゆえ私たちは、決して神から見捨てられることはない。私たちの犯す罪のすべてはすでにそこで処理されている。そして主イエスの救いを知る者は、「孤独と絶望」から解放されるのである。私たちは主イエスの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」の言葉を頂いている!
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