二〇一八年六月十日 NO・四五―十一 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)出エジプト 十二章 (月) 〃 十三章
司会 高 澤兄(火) 〃 十四章(水) 〃 十五章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十六章(金) 〃 十七章
招詞祈祷 Ⅰサムエル十六章六~七節 (土) 〃 十八章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 八五番 ◎十四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎次週はボンヘッファーの学びです。
交 読 文 詩 編 四九編 ◎二四日(日)、午後大掃除を予定しています。
讃 美 讃美歌二七〇番
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四二五番 貧しい兄弟は、
説 教 ヤコブ一章九~十二節 自分が高められることを誇りに思いなさい。
讃 美 聖 歌四七三番 また、富んでいる者は、
祈 祷 みつ子師 自分が低くされることを誇りに思いなさい。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヤコブ一章九・十節
価値の転倒――神の見方と人の見方
9~11節で「貧しい者と富んでいる者」に対する評価がなされている。これは、世間と私たちが抱く思いと正反対である。この違いの原因を問うなら、それは人間の罪のゆえ、と言わざるを得ない。すなわち、神の愛と救いを知らず(認めず)、自己中心的な幻想に囚われているからである。
先ず、「貧しい者(低い者)」に対して無条件の称賛がなされている。では、「貧しい者」とはどんな人を指しているのか。①端的に物理的に貧しい人を指す。②物理的ではなく、人間として軽蔑されている者を指す。③自ら、神の前に自分の貧しさを自覚する者を指す。この(三種類の)貧しい者に対して、あなたがたは「高められる」と言われるのである。なぜ?パウロの「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためである。」(2コリント8章9節)がヒントになる。主イエスは、罪人、助けを必要とする者のためにこの世に来られ、命に代えて救ってくださったからである。
「富んでいる者」に対して「低くされることを誇れ(喜べ)」と言われる。なぜ?それは富に過大の価値と力を抱く幻想から救われるからである。例えば、ほとんどの人は、これだけの蓄えがあれば老後は大丈夫、と考える。しかし聖書は言う。人の命は持ち物の豊かさによって維持されない、と。また今日、あなたの命が取られたら、その富は何になるのか、と。もちろんここでも、霊的な富についても言える。私は日々聖書を読み、祈り、神の前に歩んでいるから大丈夫、などと思ってはならない。神はどこまでも貧しい者を高め、富める者を低くされる。ルカ18章9~14節参照。
12節で「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と言われる。ここから試練がなくなるわけでないことを知る。さらに「神を愛する人々に約束された命の冠」と言われる。神を愛するとは何か?それは自分の弱さ貧しさを知り、たとえどん底の状態の中でも、そのような者を愛し高めて下さる主イエスを信じ仰ぐ所にある。インマヌエル!ここにどんな試練の中でも感謝できる生き方が備えられている。
礼 拝 次 第 (日)出エジプト 十二章 (月) 〃 十三章
司会 高 澤兄(火) 〃 十四章(水) 〃 十五章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十六章(金) 〃 十七章
招詞祈祷 Ⅰサムエル十六章六~七節 (土) 〃 十八章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 八五番 ◎十四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎次週はボンヘッファーの学びです。
交 読 文 詩 編 四九編 ◎二四日(日)、午後大掃除を予定しています。
讃 美 讃美歌二七〇番
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四二五番 貧しい兄弟は、
説 教 ヤコブ一章九~十二節 自分が高められることを誇りに思いなさい。
讃 美 聖 歌四七三番 また、富んでいる者は、
祈 祷 みつ子師 自分が低くされることを誇りに思いなさい。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヤコブ一章九・十節
価値の転倒――神の見方と人の見方
9~11節で「貧しい者と富んでいる者」に対する評価がなされている。これは、世間と私たちが抱く思いと正反対である。この違いの原因を問うなら、それは人間の罪のゆえ、と言わざるを得ない。すなわち、神の愛と救いを知らず(認めず)、自己中心的な幻想に囚われているからである。
先ず、「貧しい者(低い者)」に対して無条件の称賛がなされている。では、「貧しい者」とはどんな人を指しているのか。①端的に物理的に貧しい人を指す。②物理的ではなく、人間として軽蔑されている者を指す。③自ら、神の前に自分の貧しさを自覚する者を指す。この(三種類の)貧しい者に対して、あなたがたは「高められる」と言われるのである。なぜ?パウロの「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためである。」(2コリント8章9節)がヒントになる。主イエスは、罪人、助けを必要とする者のためにこの世に来られ、命に代えて救ってくださったからである。
「富んでいる者」に対して「低くされることを誇れ(喜べ)」と言われる。なぜ?それは富に過大の価値と力を抱く幻想から救われるからである。例えば、ほとんどの人は、これだけの蓄えがあれば老後は大丈夫、と考える。しかし聖書は言う。人の命は持ち物の豊かさによって維持されない、と。また今日、あなたの命が取られたら、その富は何になるのか、と。もちろんここでも、霊的な富についても言える。私は日々聖書を読み、祈り、神の前に歩んでいるから大丈夫、などと思ってはならない。神はどこまでも貧しい者を高め、富める者を低くされる。ルカ18章9~14節参照。
12節で「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と言われる。ここから試練がなくなるわけでないことを知る。さらに「神を愛する人々に約束された命の冠」と言われる。神を愛するとは何か?それは自分の弱さ貧しさを知り、たとえどん底の状態の中でも、そのような者を愛し高めて下さる主イエスを信じ仰ぐ所にある。インマヌエル!ここにどんな試練の中でも感謝できる生き方が備えられている。