気づきの瞑想

「イライラ、ムカムカ」「もっと欲しい!」「ぼんやり…」など心のツラ~イ症状に効きます

「業」は今ここで開発するもの~カルマ論はその人の描いた物語

2012年10月31日 11時43分36秒 | 修行ノートから

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「苦を減らして楽に生きる」には、「業=行為」開発がポイント


仏法[新装版]
野中耕一
サンガ

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[過去の]先業は過ぎ去ったことで、私たちは何も行えないが、新しい業をより良く改良改善するために、それを知るべきである。

[現在の]新しい業は行える業であり、最もよく行う決心をするべきである。(この点が重要である。)

[未来の]前方の業は、まだ私たちが行えない業である。しかし、私たちを開発してより善にする現在の業を行って、最も良い業を行うために、準備し計画をたてることができる。そして、そのときがくれば、次第に善き業を高めていき、最高の善業の段階にまで上げることができる。

(「仏法」ポー・オー・パユットー、2008年版P211)

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サンガジャパン Vol.6(2011Summer)
特集:震災と祈り
プラユキ・ナラテボー(インタビュー)
サンガ

プラユキ・ナラテボー師の言葉にすれば…
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(編集部)
「この震災は我欲にまみれた日本への天罰である」といったことを言った政治家がいました。仏教ではカルマ(業)論を説きます。どのように思われますか?

(プラユキ)
我欲が強いがゆえに白然災害が引き起こされるという考えは、その人の描いた物語と言えましょう。それを頭ごなしに否定してももちろん相手は納得しないでしょう。私でしたら、そう考えることによって、その方ご自身が苦しみを感じていないかどうかということを一緒に確認していくことから始めます。

「私は、東日本大震災は天罰だと思います」

「そうですか。そういう考え方もありますね」

「でも、それを他の人に言うと喧嘩になってしまうのです」

「そうですか。そういう言い方をすると、そう思わない人と喧嘩になっちゃうわけだね。自分の見解、物語に囚われると苦しみが生まれてくるよね…」といった具合に対話していきます。

『天災カルマ論』も一つの物語といえます。その物語を信じることによって、その人ご自身、心が楽になっているのか、それとも苦悩に陥っているのかということに注目します。それで何らかの困難をきたしていると気づき、それを解消したいということであれば、ブツダの教えに基づいてアドバイスをするといった感じです。

(編集部)
正しい答えがあるというより、一人一人にとってそれが安心や心の安らぎにつながっているかどうか、が問題だということですね。

(プラユキ)
そうですね。それが私のスタンスと言えますね。常に「今」というのは過去の集大成ですから、今が幸せに感じられるようになれたら、幸せをもたらしてくれた過去にも感謝できるようになる。またそういった幸せな心持ちで今を感謝とともに過ごせれば、自ずと未来も幸せ色に染まっていく。これが私のカルマ論です。

ブッダは、当時インドに流布していた三つの言説を否定したといわれています。

一つ目は「神意論」。私たちのすべての運命は、神の意思によって決まっているというもの。

二つ目は「偶然論」。すべての物事はたまたま偶然に生じているだけだという考え。

三つ目は「宿命論」。あらゆる現象はすべて前世の業で決まっていて、変えることはできないという説です。

ブッダはこれらの考えを退け、今この瞬間に気づき、自覚的に努力することにより、誰でもが今ここから、いくらでも運命を切り開いていける、と説いたわけです。だから私は、「『今まで』にこだわる必要はないよ。大事なのは『今から』だよ」と皆さんにお伝えしています。「今から」は過去の制約を受けてはいないし、未来の犠牲になる必要もないからです。

サンガジャパン Vol.6(2011Summer)より引用)

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サンガジャパン Vol.6(2011Summer)
プラユキ・ナラテボー(寄稿) (著),玄侑宗久(寄稿)(著),島田裕己(寄稿)(著),鎌仲ひとみ(寄稿)(著),大澤真幸(寄稿)(著),名越康文(寄稿)(著),中嶌哲演(寄稿)(著),アルボムッレ・スマナサーラ(寄稿)(著)
サンガ

 

仏法[新装版]
野中耕一
サンガ

 


 

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人生は“はじめての感情”だらけ~名前の付けられない感情との付き合い方

2012年10月27日 09時25分06秒 | 修行ノートから

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NHKの「100分de名著 鴨長明“方丈記 ”」のひとコマ、その2。
今回は「気分をあらわす言葉のむずかしさ」のお話しを、瞑想実践のポイントと比較してご紹介します


100分de名著 鴨長明“方丈記 ” <終>第4回「不安の時代をどう生きるか?」
出演者【ゲスト】作家・僧侶・芥川賞受賞…玄侑宗久,【解説】京都産業大学教授…小林一彦,【司会】伊集院光,島津有理子



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“物ウシトテモ 心ウゴカスコトナシ”

(現代語訳 “憂鬱(ゆううつ)でやる気がおきなくても、思い悩む事はない。”) 

 

(玄侑さん)
“物ウシ”という言葉はとてもむずかしいと思うんですが、心の色で言えば、何色なのか分からないっていうんですかね。

自分がどういう気分なのか、はっきりしない。(はっきりしない)という時に、はっきりさせたくなっちゃうじゃないですか。はっきりさせたい、って思ったとたんに、そういう証拠を探してこれるんですよね。目も耳も、鼻も。

でも現状はただ“物ウシ”なんですよ。

(小林さん)
“ウシ”とは、憂鬱。気持ちが塞ぎこんで、何もやる気が起きないという感じのことなんです。

(玄侑さん)
今回(東日本大震災で)も、津波の映像を、繰り返し日本中が見せられたわけでしょ。ところが、津波の体験のある人って、ほとんどいないんですよ。すると、あんなふうに水に襲われた時に、どんな気持ちになるかってだれもわかんないじゃないですか。それは、痛いとか、冷たいとか、悲しいとか、っていう言葉にどれも当てはまらないじゃないですか。

それで、当てはめられないもんだから、具合が悪くなっちゃって、ものすごいものが(頭に/イメージが/感覚が/感情が…)浮かんでいるのに、アウトプットできないわけです。言葉にできない。だから心療内科に通いだす人もでるくらいなんですけど、それは“物ウシ”の極致だと思うんですよ。

言葉にできない体験を、わざわざ言葉にしなくたっていい。言葉にして、ひどく悲しまなくたっていいじゃないか、っていうような。

(島津アナ)
それはそれとして諦めてしまう、っていうことなんですか?

(玄侑さん)
いや、人生って、たぶん初体験の感情なんですよ。だからまだ名前がつかない。それがとても物ウイんですけども、でもしょうがないんですよね。

(伊集院さん)
でも、しょうがない、が正しいんでしょうね。そこにもがくことで、より間違ったダメージを心や体に与えるのに比べたら、こういうことが、ある。その現状だけで動かさないのも、よかろう、というか、仕方がなかろう、ということですよね。なんかそこに僕はとても響きますね。

そこに無理やり病名をつけようとしたり、無理やり整理をつけようとすることで、間違ったとこを傷つけたりする気もするので。

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心に確かにある“感情、気分”なのに、それを表現するのにふさわしい言葉が見つからなくて、不安になる。
不安で落ち着かないから、なんとかつじつまを合わせて、上辺はとりつくろう。
結果、自分のほんとうの“感じ”がわからなくなってしまって、さらに混乱が深くなってしまうかも。
かえってキズを深くしてしまうかも…

“感情、気分”を表現するのにピッタリの言葉がみつからなかったら、わざわざ見つけようとしなくていい。
ただ「気づいて」いればOK

ナラテボー師のご著書の中に、次のようなお話しがあります。
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…私が大事にしていることは、心身に生じてくるあらゆる現象を明晰に自覚し、感じ尽くし、洞察し、慈しむことである。このときのポイントは、心を大きく開いておくことである。すなわち、最初から「考えてはいけない」「感じてはいけない」「怒ってはいけない」などといった価値判断による構えを作らないということが大事である(「「気づきの瞑想」を生きる」 P166)

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テレビでは「しょうがない」ことと説明されていた「言葉が見つからない」ことについて、「では、そういう“感情、気分”とどうやって付き合ったら良いのか」について、具体的な取り組み方が示されていると思います。

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(日本での瞑想修行に行き詰まってスカトー寺を訪れたOさん)
「…欲や怒りといった感情を打ち落とそうとしたり、じっと見つめて小さくしようとするのですが、なかなかうまく行かないんです。…」

(プ)
「…そんなに深刻にならなくていいよ~。なんであれ、考えごとが生じてきたら、パッと手や足の動きに戻ってくる。『今ここ』に気づく。またふっとわれを忘れたら、また『今ここ』に気づいて、戻る。…
サティ(気づき)っていうのはね、ただ気づくこと。『今ここ』に戻ることだよ。…

たとえばOさん、暗闇をなくすためにはどうしたら良いと思う?」

(O)
「電気をつけたり、ろうそくを灯せばいいと思います」

(プ)
「そうだね。…暗闇といくら闘っても、闇はなくなって行かないよね。でも、そこに明かりを灯しさえすれば、たちどころに闇はなくなる。そんな感じで、心の闇にもかかずらう必要はなくて、ただ気づいて、戻ってくればいいってこと。サティはそんな光のようなものなんだよ」

(「苦しまなくて、いいんだよ。」P169 引用、一部加工)

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人生は、“はじめての感情”の連続。 “言葉”にできることは、ほんのひとにぎり。

今の“感情、気分”が言葉であらわせないのなら、ただそうであることに気づいて「今ここ」に戻ればいい。
ひとつ、ひとつ、心に「気づき」の明かりを灯していけばいい

 


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「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語
プラユキ・ナラテボー
佼成出版社

 

苦しまなくて、いいんだよ。
プラユキ・ナラテボー
PHP研究所

 

無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方
玄侑宗久
新潮社

 

鴨長明『方丈記』 2012年10月 (100分 de 名著)
--
NHK出版

 

方丈記 (講談社学術文庫 459)
--
講談社

 


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方丈記で考える「無常」の力~「カーラーマ経」で無常力アップ!

2012年10月26日 09時23分30秒 | 修行ノートから

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「無常」の力について語られていたNHKの「100分de名著 鴨長明“方丈記 ”」のひとコマと、「無常の力」を育てるチェック項目として役に立ちそうな「カーラーマ経」をご紹介します

 

100分de名著 鴨長明“方丈記 ” <終>第4回「不安の時代をどう生きるか?」
出演者【ゲスト】作家・僧侶・芥川賞受賞…玄侑宗久,【解説】京都産業大学教授…小林一彦,【司会】伊集院光,島津有理子



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(島津アナ)
無常という力 」、この本では、無常が力になる、っていうふうに玄侑さんおっしゃっているわけですよね。これはどういうことなんでしょうか。

(玄侑さん)
外の世界を観察して、「ああ、無常に変わるな~」ということではなくて、「私が変わり続けなければいけないんだ」という(こと)。禅の言葉では「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」、というんですけれども、要するに、ここが行き詰まり、「これが究極的な理屈なんだ」というものを考えた後でも、そこにとどまったらば、それは死なんですね。精神の死なんですね。

(伊集院さん)
それは分かりやすく言うと、常識みたいなもんにとらわれすぎるな、ということですか?

(玄侑さん)
常識とは違った考え方でも、自分の中にこうなんだ、っていう信念を持ってしまうと、未曾有(みぞう)な体験(東日本大震災など)をした時にも、ついそれでいこうと思っちゃうわけですよ。

でも、新しい体験を常にするわけですから、新たに組み直さなきゃならないわけですよね。だから組み直し続けるんだ、っていうことですよね。

(伊集院さん)
常識、なんてものはない、ってどこかで思っていた方がいいぞ、常に変わり続けるって思ってたほうがいいぞ、っていう。
これに対応できる力っていうのは、たしかに「無常力」、というか、なにかそういう力ですよね。

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常識とか自分の信念とかにしがみつく力が強すぎると、イザ、というときにうまく対応できないかもしれない、かえって自分を苦しめるもととなってしまうかもしれない。

常識にしがみついちゃってるのかな~?自分の信念にこだわりすぎちゃってるのかな~?
正しいことのはずなのに、間違ってはいないはずなのに、なんだかモヤモヤ、スッキリしない、むしろ苦しいかも…そんな時は、「カーラーマ経」を参考に自己チェック 

<カーラーマ経>
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1. 人から聞いたとて信じることなかれ

2. 語り継がれたこと(伝承)とて信じることなかれ

3. 評判だからとて信じることなかれ

4. 教本に書かれてあるからとて信じることなかれ

5. 論理的な解釈だけで信じることなかれ

6. 哲学的な見解に合っているからとて信じることなかれ

7. 「常識」とて信じることなかれ

8. 自分の見方に一致するからとて信じることなかれ

9. 話者が堪能で信頼に足るからとて信じることなかれ

10. わが師なりとて信じることなかれ

(どのような教えであれ)「これは、不善であり、欠点があり、賢者が避難するようなものであり、それを実践しても益がなく、苦しみを生じさせるばかりである。」そうあなた方が自ら理解したときには、あなた方はそれを捨てるが良い。

(どのような教えであれ)「これは、善であり、欠点がなく、賢者も奨励するものであり、それを実践することは有益であり、幸せのためになる。」そうあなた方が自ら理解したときには、あなた方はそれを実践するが良い。

(プラユキ・ナラテボー著「苦しまなくて、いいんだよ。 」(P182)引用、一部加工)
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「カーラーマ経」も活用して、新しい体験、想定外のできごとにであったときに、正しい行動がとれるよう、日頃から「無常力」をきたえておきたいと思います

 


苦しまなくて、いいんだよ。
プラユキ・ナラテボー
PHP研究所

 

無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方
玄侑宗久
新潮社

 

鴨長明『方丈記』 2012年10月 (100分 de 名著)
--
NHK出版

 

方丈記 (講談社学術文庫 459)
--
講談社

 


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社会の開発とブッダの教えをつなぐもの~開発僧の活動、6つのポイント

2012年10月25日 01時21分22秒 | プラユキ・ナラテボー師の著書など

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サンガジャパン Vol.9(2012Spring)
-
サンガ

サンガジャパン Vol.9(2012Spring)には、ナラテボー師寄稿
ブッダの大地を築く、タイ仏教の開発僧 社会の開発とブッダの教えをつなぐもの」が掲載されています。

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本稿が、ブッダの教えが個人の心の安寧といった次元にとどまらず、社会的な問題解決ヘの活用という意味でも大きな可能性を持っているということが周知される一助になったら幸いである。(P89)
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というナラテボー師の趣旨のもと、開発僧の活動や考え方について、ナラテボー師も影響を受けたというナーン和尚とサナーン師の詳細な記述から知ることができます。

なお、「大法輪」(2002年7月号)のナラテボー師の寄稿「タイ・開発僧の挑戦~心豊かな開発を目指して~」では、開発僧の活動がわかりやすく、6つのポイントでまとめられています。

日本社会に生きる私たちにも、多くの「気づき」を与えてくれる内容だと思います。
また、「瞑想」の意義を確認することもできるように思います。特に@ポイント<4>。

「大法輪」(2002年7月号)は、現時点で入手が不可能になっているようです。

下記に6つのポイントについて引用いたしますのでご参照ください。

<開発僧の活動~6つのポイント>
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<1>アバイヤームック(悪行)からの解放

「アバイヤームック」とは仏教語で、「破滅への道」を意味します。
釈尊は説法の中で、以下のようなことをアバイヤームックと述べています。

一、酒を飲む

二、博打を打つ

三、夜遊びをする(女を買う)

四、悪人と交わる

五、怠ける

の五つです。

“アバイヤームックから解放された村”として話題になった村を一つご紹介しましょう。ナコンラチャシーマー県にあるノーンムアン村です。かつて酒、ばくちが蔓延(まんえん)し、泥棒や強盗などの事件もおきていたというこの村に、開発僧チャルーム師が住職としてやってきました。彼はアバイヤームックからの解放に力点をおき、村人に働きかけました。

チャルーム師は、何度いってもばくちや泥棒をやめられない村人も、心の底ではそれから解放されたいと願っていることに目をつけました。まず一人、アバイヤームックから解放される人が出るように努力しました。解放された人には、他の村人にたいして、悪行から解放された喜びの体験談を具体的に語らせました。悪行から解放されたことによって、自分自身の心や生活に、そして家族たちにどのような良い変化があったかを説明させました。この方法により、次々と悪行を断つ人が現れました。

 

<2>村人のベーシックニーズを満たす

かつてタイでは、農業といえば「ナイナーム・ミープラー、ナイナー・ミーカーオ(水の中には魚がおり、他には米がある)」という言葉に代表されていたように、村人のベーシックニーズは満たされていました。

しかし商品経済が村にも押し寄せてくると、村人たちはタピオカやトウモロコシなどの換金作物を栽培するようになりました。「食うための農業」から「売るための農業」への変化です。

村人が採用した近代的農法は、一時期こそ彼らに夢を見せてくれましたが、それもすぐ崩れました。

単品作物の連作で土地はやせ、一度農薬に頼ったばかりに虫が増え、農薬の消費量は増加するばかり。冷蔵庫やテレビなどが周りに増える一方で、生存を支える糧である米や野菜といったものが不足し始めたのです。

開発僧たちは、農業のたてなおしこそ急務であると考え、仏法に基づく農業の思想的基盤を求めました。そして目にとまったのが、「自然農法」でした。自然農法は、自然の営みにまかせるという考えをもとにした無農薬・無肥料・無除草・無耕起を理想とする農法です。この自然農法を唱えた、日本の福岡正信氏の著書「わら一本の革命」は開発僧たちのバイブルとなっています。

中には、プッタカセート(仏農場)というモデル農場を持ち、自然農法による自給自足、「食うための農業」への回帰をよびかけている開発僧もいます。「まず自分たちで食べる漁を自分たちでつくり、余ったらそれを売るように」とアドバイスする僧侶もいます。

 

<3>エコロジカルな環境づくり

開発僧たちに共通していることは、自然というものに価値をおき、人間のみならず、動植物をこよなく愛していることです。スカトー寺の住職(当時)、ルアンポー・カムキエン師の説法には、「ダンマ・クー・タンマチャート(仏法とは自然のことである)」という言葉がよく出てきます。

スカトー寺の環境は、あらゆる種類の樹木により緑深い森が形成され、多くの動物や虫、そして池には魚などがいます。ここは一度、森が破壊され、丸裸にされたことがあったのですが、カムキエン師の熱意によってよみがえりました。

自然環境の大切さを認識する開発僧たちは、寺の環境を良くするだけにとどまらず、村の環境をよりエコロジカルなものとするよう努めます。例えば、村の開発のために資金が寄付されると、苗木を購入し、村人に配り、各自の土地に植林することを進めます。自然環境の意味を深く認識する開発僧ならではの農村開発のプロセスと言えましょう。

 

<4>村人の内面的苦悩の減少

基本的な物質的ニーズを満たすことは、それが失われている今日の農村においては必要なことですが、しかしそれが本質ではありません。農村開発の本質とは「パタナー・チット(心の開発)」、すなわち人間性の開発であり、農村が真の意味で「開発した」と認められるのは、村人の苦が少なくなった時、そして幸福が増した時なのです。

ノーンムアン寺のチャルーム師は、なぜ開発の仕事を始めたのか、との質問に対して次のように答えています。

「私は、修行の中で、社会を理解し、自分というものを理解するようになった。普通、私たちは他人ばかり見て、自分自身を見つめることは少ないが、自分自身を知れば、他人に対してとやかく言うことは少なくなるし、心身ともに解放に向かう。その中で、近くにいる人々に対しても、ひとりふたりと教えを広め、私自身の意識を発展させていくうちに、人の生活はどう成り立っているのかということに私の関心は向かうようになった」

この言葉から、瞑想は幸福の追求を個人レベルに閉じこめるのではなく、自分の存在を社会の中に、あるいは自然をも含めて周りの環境というものに開いていく効果があることがわかります。同時に、本当は心が平安でないにもかかわらず「幸福である」と思いこんでいる人たちに、「真の幸福感」への気づきを促します。

したがって開発僧たちは、ある程度村人の生活レベルが安定し、寺へ来る村人も増えだすと、瞑想指導に重点を移していきます。これによって、村人が真に自己に目覚め、家族の一員として、村人の一人としての役割に目覚め、ある者は自身の体験や知識を自分の村だけでなく、他村の農村開発に役立てようという意識を持ち始めます。ここにおいてはじめて、開発僧の事業は軌道に乗りはじめたといえます。

 

<5>村人間の連帯感、協力心の確立

村が真の意味で「開発」されるためには、個々人の目覚めも大切ですが、それを促し更なる村人間の連帯感を育むことも大切なことです。そのために開発僧は「祭り」を重視しています。かつては一ヶ月に一度ほどの割合で営まれていた伝統的な「祭り」が、村人間を連帯させる方便となっていたことを知っているからです。

農村部においては都市部に比べ祭りが残っていますが、村人の手稼ぎ人口が多くなるにつれ、その数も少なくなりつつあります。残っている「祭り」であっても、深い意味が見失われ、ただ寺に寄進する、あるいは楽しむ、という形だけのものも増えてきたといえるかもしれません。開発僧たちは、「祭り」を復活させて、その伝統的な意味を村人たちに知らせると同時に、現代社会の中での意味も付け加えようと試みています。

 

<6>真に自立した平和でお互いに自愛にあふれた村「ペンディン・タム(仏法の大地)」の樹立

ここまで紹介した五つの活動は、結局は「ペンディン・タム(仏法の大地)」、すなわち、資本主義的価値観を基盤とした村ではなく、あくまでも、約二千五百年前にブッダが説いた仏法に基づいた村の樹立を目指してのことです。それは、自然と調和したエコロジカルな社会。少欲知足で、悪をなさず、善をなす人々によって成り立っている社会です。開発僧の一連の活動は、外見的な発展と内面的な発展とを伴う、心の人間らしさを取り戻させるための方便であるといえるでしょう。

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開発僧については、こちらもご参照ください→「仏教・開発・NGO―タイ開発僧に学ぶ共生の智慧」~仏教における「開発」とは?


 

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カンポンさんに学ぶ~あっという間に、心が愛で満たされる方法

2012年10月22日 17時21分23秒 | 修行ノートから

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「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方
カンポン・トーンブンヌム,上田 紀行
佼成出版社

不慮の事故で体育教師から一転、全身麻痺となったカンポンさん。
「気づきの瞑想」により、「苦しむ人」から「苦しみを観る人」となりました。

苦しみを観ることができるようになると、もっとたくさんのものも観られるようになるようです。

カンポンさんのご著書、 「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」のエピソードからご紹介します。


 カンポンさんと、ナラテボー師を頼って日本からスカトー寺に来た人とのやりとりです。
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あるとき、夫からの愛情を感じられずに悩んでいた女性が、そのことをカンポンさんに打ち明けたことがありました。そのときカンポンさんからはこんな言葉が返ってきたのです。

「私たちは誰でも、みんなに愛されたいって気持ちをもっているよね。でも、五人の人がいれば、そのうちの二人には愛されないってことはよくあること。そのときは、三つしか愛を得られない。
でも、自分から愛してごらん。五人の人を愛したら、心のなかに五つの愛が生まれてくるよ。今、ここに日本から来てくれた五人の友人がいる。僕は、今ここにいる五人の人を愛してるよ。そして五つの愛で満たされているよ」(P205)
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みずから(内側から)愛情を発動すれば、ただちに愛は生まれ、心は愛で満たされる …  →

 …なのに、男女、血縁、社会…あらゆる関係において、「相思相愛であることが本当の愛」と思い込んで、外側からの愛を得なきゃとジタバタし、あげく思い通りにならずに疲れちゃう、、ということに気づかさせてくれるエピソードです。 

ふと、身近で起こったこんなできごとが思い出されました。

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小学生の女の子に、小さな妹ができました。家族みんなが、かわいい、かわいい、と夢中です。

女の子のお母さんは、もしかしたら女の子が寂しい思いをしているかもしれないと心配になったので、それとなく気持ちを聞いてみました。

すると女の子は、「みんなが〇〇ちゃんをかわいがるからって、寂しく思うんじゃなくて、自分が〇〇ちゃんを一番かわいがればいいんだよ!」と、お母さんに言いました。
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こどものころは、きっとだれしも、こっちがわに愛する気持ちがありさえすれば、ただちに愛で満たされるんだ、それってすごく嬉しいことだって、わかっていたんでしょうね

ナラテボー師は、ご著書「苦しまなくて、いいんだよ。」で、このようにおはなしされています。
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子供の頃、特に何か大きな出来事があったわけでもないのに、日常のごく素朴なひとコマにも心を踊らせていた記憶はありませんか。そのようなイキイキとした感覚は、大人になっても十分取り戻せます。これまで身につけてきた豊富な知識、明晰(めいせき)に考える知性を携(たずさ)えながらも、子どものようなみずみずしい感性を持って、やすらぎと喜びに満たされながら生きられるようになります。

それは、モノや地位などの外部要因に依存せず、自らで生み出し、自らが主(あるじ)となり、自らをよりどころとして培(つちか)っていける「内発的な幸せ」です。(P01)
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「自分が一番かわいがればいいんだよ!」と言った女の子は、そのとき、小さな妹と接することによって自分の内側からどんどんわきあがってくる「かわいい~」に満たされて、幸せいっぱいだったんだろうな~


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苦しまなくて、いいんだよ。
プラユキ・ナラテボー
PHP研究所

内容紹介<Amazonより引用>
タイで出家した日本人僧の著者に会うために、バンコクから350km離れた森の奥深くのお寺まで、はるばる海を越えてやってくる日本人たちがいます。 職場の“空気”に耐えられないOL、上司に追い詰められてうつになった会社員、絶望の果てに自殺未遂を繰り返す20代女性、心を深く見つめるほど苦しくなる瞑想者…… 人がこの世を生きていくとき、さまざまな苦しみに出遭うことは避けられません。 その「苦」に真正面から取り組み、それを克服し、「苦からの解放」を実現したのがブッダです。その知恵と手法は、今もタイの仏教に受け継がれています。 この本は、訪問者一人ひとりの気持ちに寄り添いながら対話を重ねることで、彼・彼女らが自らの気づきで苦しみから解放されてゆくプロセスを綴ったものです。 自分を拠り所として培った幸せに出会うと、モノやお金や地位など外部の要因に左右されない人生を歩むことができます。ブッダの叡智と慈悲心を実感できる一冊です。

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 読書メモ
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本の中に登場する瞑想地獄にはまっちゃった人同様、私自身も瞑想してるとむしろ苦しくなってしまったりして、取り組み方への疑問をもっているころ、この本を手に取りました。
この本を読み、瞑想の方法にもいろいろあって、個人個人の傾向やプロセスをしっかり理解したうえで適切に選択していくことが大切なんだとわかりました。指導してくれる先生の存在も重要なんだな、とも 


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