きらせん

仙台のきらめき










東北大学公共政策大学院准教授
佐分利 応貴

 「丸いひしゃく」

2007-08-23 19:14:05 | Weblog


  法学部の甲先生との食事中、「学生時代に“法学の極意は、四角い箱の中の水を丸いひしゃくですくうようなものだ”と聞いた。当時はその意味がよくわからなかったが、今ではそのとおりだと思う。」とのコメントが。

  確かにそのとおり。役所の世界では、法律は手段であって目的ではない。法律の遵守は当然だが、あまりに杓子定規に適用しようとすると、手段が目的化して何のための法律だかわからなくなる。たとえば、道路交通法は、「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資すること」が目的(第1条)のはずなのに、スピード違反を厳格に取り締まろうとすると逆に渋滞が起き「交通の安全と円滑」が損なわれるなど。
 ※本来は交通の安全のはずの取り締まりが、単なる警察の反則金稼ぎ(年間800~900億円)となってしまっていることも大きな問題。

  乙先生も、「そうそう、評価の仕事なんかまさにそうですね。本来はちゃんと仕事していれば評価なんか必要ないし、評価しても100%わかるわけじゃない。何も記録を残さないのも問題だけど、評価で何でも決めようというのもいかがなものかと。役所で相談する法学の先生も、現場を知っている人だといいけど、そうでないと理屈を振り回して…」

  現実は3次元なのに、それを2次元の平面に投影してその形で議論しようとする。当然限界があるのだ。その限界を知りつつ、現場で「汗をかく」、問題解決のために奔走するのが役人である。学者は結局手を汚さない(役所用語で「ケツを拭かない」)から―

  学者は役人を無能だと馬鹿にし、役人は学者を無責任だと軽蔑する。
  これでは真に必要な問題解決の薬は開発できない。
  学者と役人とが同じ釜の飯を食っている(はず)の公共政策大学院でさえ、研究者教員と実務家教員の交流は少ない。だがここから変わらないと、学官間の協働はおよそ不可能だろう。

  夕焼けが美しい。
  むらさきだちたる雲のほそたなびきたる(夏だけど)。
  

  
  


   


    


    
  
  


最新の画像もっと見る