料亭きのえね(株式会社きのえね)

株式会社きのえねは、埼玉県久喜市にて料亭きのえねという飲食店とホテル久喜というビジネスホテルを営んでおります。

お部屋の紹介 最終章

2024-06-02 11:30:56 | グルメ
いつもご覧頂き誠にありがとうございます。
株式会社きのえねは、埼玉県久喜市にて料亭きのえねという飲食業
とホテル久喜という宿泊業を営んでおります。

建物は料亭きのえねの中で無くて、ホテル久喜の中にある大宴会場を「LA.VENNA」と名付けました。
イタリア西北部に位置するラヴェンナは、古代ローマ末期に帝国の首都が置かれたことで知られます。「イタリア語の父」とも言われる中世の作家ダンテが一時期住んでいたことも有名です。アドリア海に面した交通の要所でも知られています。気候は、比較的温暖で、そよ風が服過ごしやすい地域です。文化芸術が深く残り、風光明媚なまち。
久喜市も市歌もある様に「四季折々の自然と 彩りに触れて あふれる緑に囲まれ こころ豊かに 新たな文化と歴史」歴史、文化と自然に恵まれた交通の要所、久喜。田園を吹く風が、イタリアの古都と重なります。
 
ディナー形式40名様から80様
ビュッフェ形式80名様から120名様


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お部屋の紹介 第4章

2024-06-02 11:28:27 | グルメ
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とホテル久喜という宿泊業を営んでおります。

「伏越(ふせこし)」と名づけました。
「伏越」は、旧菖蒲町と白岡市の境に位置する見沼代用水(みむまだいようすい)の柴山伏越樋(しばやまふせこしひ)に由来します。
 見沼代用水路は、徳川吉宗の新田開発事業の一環として掘削されました。
 江戸時代中期、浦和地内にあった見沼溜みぬまため井いが干拓され、その水を使用していた地域への用水を利根川から導いた水路です。見沼溜井に代わる用水という事で、見沼代用水と呼称しました。
工事は、享保十二年(1727年)九月から始められ、享保十三年(1728年)二月に竣工しました。総責任者は、
井澤弥惣いざわやそう兵衛べえ為永ためながです。
2代目伏越欄干と現在の伏越出口。
 
行田市の下中条地内で利根川から取水し、用水路を掘削して導水。途中、星川を経由して菖蒲地内で星川から離れ、用水路はさらに掘削されます。その分水口に設けられたのが八間堰で、星川に設けられたのが十六間堰です。この二つから成る堰の開閉によって、水量が調整されています。星川から分かれた見沼代用水は、白岡市の柴山地内で元荒川の川底をくぐって流れます。この堰を、伏越樋といいます。
10名様から15名様


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お部屋紹介 第3章

2024-06-02 11:24:54 | グルメ
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とホテル久喜という宿泊業を営んでおります。

こちらも池に面した部屋を「房川(ぼうせん)」と名づけました。
「房川」は、旧栗橋町に在った房川渡中田御関所(ぼうせんのわたしなかだおんせきしょ)に由来します。
 利根川橋のたもとに「栗橋関所趾」の石碑が建てられています。
 この関所は、寛永二年(1625年)に対岸の中田宿との間に設置されたもので、日光街道唯一の関所です。
幕府は北の警固を目的に、利根川には架橋しませんでした。将軍の日光社参の際には、臨時の船橋が設けられました。
 関所は、明治二年(1869年)に廃止されました。
通交は渡船で行われていましたが、大正十三年(1924年)利根川橋の開通により廃止されます。
 当時の関所跡は、その後の河川改修の結果、現在川底となっています。その名残として、栗橋関所趾の記念碑が往事を偲ばせています。
4名様から12名様


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お部屋紹介 第2章

2024-06-02 11:22:54 | グルメ
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とホテル久喜という宿泊業を営んでおります。

庭園の池に面した座敷の間を「遷善(せんぜん)」と名づけました。
「遷善」は、旧久喜市に在った
郷学遷ごうがくせん善館ぜんかんに由来します。
 久喜には、享和三年(一八〇三)創立の遷善館という郷学(学校)がありました。
 享和元年(1801年)久喜の代官となった早川 八郎左衛門正紀(はやかわ ちろうざえもんまさとし)の推奨により、庶民のための学校として創設されました。場所は推定の域を出ませんが、現在の久喜本町、愛生会病院のあたりと云われています。
 創立の趣旨・経緯については、亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)の撰文になる「新建久喜遷善館記」に詳しく記されています。この碑は、明治11年(1878年)の大火で焼失しましたが、拓本が残されていました。
 この拓本をもとに、「新建久喜遷善館記」碑のレプリカが公文書館の庭に建てられており、「遷善館」の扁額は、現物が榎本家に保管されています。
2名様から10名様


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お部屋紹介 第1章

2024-06-02 11:20:41 | グルメ
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とホテル久喜という宿泊業を営んでおります。


舞台のある大部屋を「催馬楽(さいばら)」と名づけました。
「催馬楽」は、旧鷲宮町に位置する鷲宮神社に伝承されている、
鷲宮催馬楽神楽(わしみやさいばらかぐら)に由来します。
 これは、一名「土師一流催馬楽神楽(はじいちりゅうさいばら)」とも言われ、関東神楽の源流とされています。
 催馬楽とは、平安時代に広く流行した歌謡で、神楽の各曲目に歌われるものです。演目は十二座で構成され、その内容の大半は古事記や日本書紀の神事を題材とした上品な舞踏劇となっています。
 神楽は、一月一日(歳旦祭(さいたんさい))、二月十四日(年越祭(としこしさい))、四月十日(春季崇敬者大祭(しゅんきすうけいしゃたいさい))、七月三十一日(夏越祭(なごしさい))、十月十日(秋季崇敬者大祭)、十二月初酉の日(はつとりのひ)(大酉祭(おおとりさい))に神楽殿で行われています
20名様から60名様

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