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WEB漫画「獣人ちゃんと愉快な仲間」まとめ

品川区と鉄道の歩み7

2009-01-29 21:45:46 | 東京
⑬「新幹線品川駅」鉄道が始めて開通した品川駅に平成15年には東海道新幹線の駅が開業。これにあわせ再開発が進みオフィスビルが立ち並びました。

⑭「新しいまちづくり駅前広場」目蒲電鉄からの歴史をもつ東急目黒線は平成9年に目黒駅を地下化、平成11年に不動前駅を高架にして平成12年には営団地下鉄南北線と都営地下鉄三田線との相互乗り入れを開始。さらに平成18年に武蔵小山駅と西小山駅を地下にしました。
そして平成21年に地下になった武蔵小山駅と西小山駅の地上跡地を駅前広場と緑道で結びます。
また平成31年には神奈川東部方面線が開業され相模鉄道(横浜市保土ヶ谷区の西谷駅から)と相互乗り入れを行い、三田線(西高島平)、南北線~埼玉高速鉄道線(さいたま市緑区の浦和美園駅)と結ぶ新しい交通網ができる予定です。

リニアモーターカーにつきましては 不確定要素が多いので記述していません。





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以上 私的にまとめた 品川区と鉄道の歩みでした。

品川区と鉄道の歩み6

2009-01-28 21:43:56 | 東京
⑪「新時代の鉄道りんかい線」平成元年当時、東京湾をくぐりお台場までつづく 謎の地下トンネルがありました。
京葉貨物線の地下トンネルです。実はこの地下トンネル。高度経済成長期に計画された構想によって建設されたものでした。蘇我(千葉市)から新木場を経て東京貨物ターミナル(八潮3)へ連絡する構想。
昭和60年には蘇我~新木場間が開通。しかし、京葉線(旅客)は新木場から東京駅へと方針転換されました。
その後、13号地お台場へ旅客線を通す計画が持ち上がり、東京臨海高速鉄道が設立。新たに東京テレポート~大崎間の延伸工事が計画されました。この東京テレポート~大崎間のルートには
A天王洲アイルから京急線の新馬場を経由して大崎へ至る経路。
B天王洲アイルから大井町を経由して大崎へ至る経路。
この2つの経路から大井町経由が選ばれ着工されました。平成8年臨海副都心線新木場~東京テレポート間が開業。平成12年に公募で名称がりんかい線に決まり、平成13年には東京テレポート~天王洲アイルが開業しました。
天王洲アイルは昭和61年に開発が計画され、平成4年にシーフォートスクエアが完成。22ヘクタールに及ぶ民間では最大規模の都市開発でした。平成4年に東京モノレールの天王洲駅も営業を開始。高層オフィスビルが次々に立ち並びました。平成18年には寺田倉庫で水上ラウンジ「ウォーターライン」ができて翌年、都市みらい推進機構主催の土地活用モデル大賞にて「寺田倉庫(株)運河ルネッサンス水上プロジェクト」として審査委員長賞を受賞しました。
平成14年天王洲アイル~大崎間が開業。埼京線(さいたま市の大宮駅まで)と相互乗り入れを開始した。大崎駅は明治34年に品川線の駅として開業。大正から昭和にかけて周辺には町工場が立ち並び、工業とともに歩んできました。昭和40年代後半から町工場が撤退をはじめ工業のまちのイメージが薄まって行きました。昭和62年日本精工大崎工場の跡地に大崎ニューシティーが完成。当事、フジテレビの移転候補地に名前があがったこともありました。同時期に計画されたゲートシティはバブル崩壊のあおりを受け、平成11年に完成しました。さらに平成19年西口にあった明電舎の工場跡地にシンクパークが完成してさらなる発展を遂げた。





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品川区と鉄道の歩み5

2009-01-27 21:42:55 | 東京
⑧「高度経済成長期~東京モノレール」昭和22年に品川区が誕生。戦後、戦災などで鉄道や駅も様変わりして行きます。戦後復興を乗り越え、昭和30年、高度経済成長期を迎えます。昭和38年の首都高速1号線開通を皮切りに高速道路網が完備され荷物の輸送は鉄道からトラックへと主役が奪われます。その頃、昭和39年の東京オリンピック開催にあわせ東海道新幹線が開業。鉄道の主役は旅客になります。この年、東京モノレールの浜松町駅~羽田駅間が開業。オリンピック来場者を見越して羽田空港と都心のアクセスが目的です。当時は名古屋鉄道も経営に参加。名鉄モンキーパークモノレール線(愛知県犬山市・昭和37開業、平成20年廃業)で採用していた日立アルウェーグ式という技術を東京モノレールにも応用しています。開業時の運賃は250円。当時の国鉄初乗り運賃が20円で、とても高額でした。昭和40年5月には大井競馬場駅も完成。大井競馬場の来場者だけではなく昭和58年に誕生した八潮の人たちの重要な交通になっています。
一方、東京国際空港へのアクセスとして知られる京急ですが、空港への道のりは遠かったようです。大正時代に羽田空港付近まで路線を確保するものの、なかなか空港駅の建設が認められませんでした。平成10年念願の羽田空港駅が開業。東京国際空港へアクセスするもうひとつの鉄道となりました。

⑨「遅れて来た1号」東京の地下鉄は昭和2年、東京地下鉄道(株)が浅草~上野間を開業したことから始まります。昭和14年に銀座線が全面開通。昭和29年丸の内線開業。昭和36年日比谷線開業。その日比谷線と競って工事を進めていたのが都営1号線(浅草線)です。京成(押上)~京急(品川)間で東京オリンピックに向けて工事を進めていました。昭和35年押上~浅草橋間が開業、昭和39年には大門駅まで開通しましたが、結局、東京五輪に全線開通が間に合いませんでした。五輪期間中は工事が中止され、五輪後、工事を再開。昭和43年泉岳寺まで完成。京浜急行と相互直通運転を開始しました。また11月には泉岳寺~西馬込間が開業して全線開通しました。第二京浜国道に沿って走る都営1号線(昭和53年に名称が浅草線になる)ができて荏原地区は益々便利になりました。京急は昭和50年に三崎口(三浦市)まで開業。三浦半島までのアクセスも便利になりました。

⑩「反対された品鶴線」昭和4年に品川~鶴見(横浜市鶴見区)間の東海道本線の支線として通称品鶴線という貨物線が開業。昭和44年、この路線を利用して旅客鉄道駅を作る動きが高まってきました。しかし、国鉄と品川区の話し合いは難航。さらに昭和53年住民訴訟が起こり昭和55年公金支出差し止めという判決がでてしまいました。昭和55年10月国鉄は、これまで東海道本線を運行していた横須賀線を品鶴線で運行することに決定。昭和58年国鉄は第三セクターによる駅建設を開始。紆余曲折ありながら昭和61年西大井駅が開業しました。西大井駅周辺の人たちは便利になりました。横須賀線は総武線直通運転を行い、千葉駅~九里浜駅(横須賀市)間を運行しています。平成13年には湘南新宿ラインが運行を開始。大宮(さいたま市)~大船(鎌倉市)間を運行。大崎駅まで埼京線の線路を使い大崎駅から横須賀線の西大井を経由します。西大井駅前南地区は平成15年にはジェイタワーが完成。補助205号線、歩行者専用道路、森前公園など公共施設が整備されました。






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品川区と鉄道の歩み4

2009-01-26 21:41:55 | 東京
⑥「目蒲電鉄と開拓」:大正時代になると、京浜線(現京浜東北線)が大正3年に運行を開始。大井町駅が誕生します。これまで、品川、大崎、大井には鉄道の恩恵がありましたが平塚村などの郊外といわれた南西部の地域には交通手段がありませんでした。そんななか大正7年に田園都市会社が設立。郊外に都市生活者向けの住宅地を建設するため大正10年には現在の荏原地区、世田谷区、目黒区、大田区の土地159万平方メートルの土地を買収。宅地造成して昭和2年にかけて売却しました。田園都市会社はまちづくりのために自分たちで鉄道建設を計画。それが大正11年の目黒蒲田電鉄です。大正12年3月目黒~丸子(現沼部)、11月丸子~蒲田間(現目黒線)が開通。皮肉なことに大正12年9月には関東大震災も起こり、郊外のまちづくりに拍車がかかりました。昭和2年に大岡山~大井町間(現大井町線)、昭和4年には二子玉川までの全線が開通しました。

⑦「観光が目的の池上電気鉄道」大正6年に設立した池上電鉄は現在の東急池上線の母体です。大正3年に認可された当初の計画は目黒~大森間でした。しかし、目蒲電鉄と同時期の工事だったため、目黒案から五反田案へ変更。また大森ではなく蒲田に変更になりました。蒲田~池上間が大正11年10月、池上~大崎広小路間が昭和2年までに完成。翌年最後の難工事、大崎広小路~五反田高架駅も完成して昭和3年6月に全線開通しました。当初の発着駅は変更されましたが池上本門寺へ向かうお客さんを運ぶ目的は果たすことができました。その池上電鉄は昭和9年に目黒蒲田電鉄と合併しました。
私鉄沿線の開通が耕地整理事業を基盤に、農地の宅地化が一層進んで行くことになります。





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品川区と鉄道の歩み3

2009-01-25 21:40:15 | 東京
⑤「大師電気鉄道と電燈」:電車としては関東で最も古い歴史を持つ大師電気鉄道。今の京浜急行です。明治32年1月に六郷橋~川崎大師で開業。川崎大師へお客さんを運ぶ目的でスタート。
4月に京浜電気鉄道に改称。明治34年大森停車場~八幡(現大森海岸、当時八幡海岸海水浴場)を開業。
明治37年には八幡(現大森海岸)~品川(通称八つ山、現北品川)を開業しました。これまで市街地では火災の危険性から蒸気機関車を走らせることができませんでした。
代わりに乗合馬車が市街地を往来していました。明治23年第3回内国勧業博覧会に電気機関車に乗客が乗れるように改造した『電車』が登場すると乗合馬車は路面電車に主役を奪われてしまいました。その電車を使ったのが大師電気鉄道です。当時の私鉄は民鉄と呼ばれました。
陸蒸気の駅に反対した品川宿の人たちも火災の危険性の無い電車駅を認め、八つ山付近に駅ができました。そして、東海道に近い場所を走り、品川宿の人たちは大変便利になりました。線路と架線がまちの景色に加わりました。
さて、明治23年の電車初公開に協力したのが日本初の電力会社「東京電燈」(明治19年)です。明治20年に家庭用配電を開始。明治21年には138灯だった電燈の数は明治34年には5万灯に増加。明治23年には芝区より南を担当する品川電燈が設立。これまでのガス灯や石油灯から電燈に変わって行きました。
京浜急行は多摩川(川崎市)に火力発電所を作り自給自足で電車を運転。明治34年大森停車場~八幡開業時には沿線界隈に電力を供給しています。
電車の登場とともに電気の存在が庶民に認知されて行きました。大師電気鉄道は線路の幅を日本で初めて世界標準にあわせて1435ミリで設計しました。輸入した電車がそのまま走ることが可能です。ちなみに東海道線は標準より狭い1067ミリで設計され、それが国鉄の標準になり今でも変わっていません。今も相互乗り入れしない路線はJRと私鉄で線路幅が違います。
路面電車ではない鉄道路線で電車を導入したのは中央線の前身、甲武鉄道です。明治37年蒸気機関車と併用で電車を採用しました。
また、明治41年には品川線にも電車が登場。やがて鉄道の主役は陸蒸気から電車に変わって行きました。





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品川区と鉄道の歩み2

2009-01-24 22:38:36 | 東京
③「鉄道路線の主役は東海道か中山道か」:明治2年、関東と関西を結ぶ幹線鉄道の計画がされたときに、東海道ルートをとるか、中山道ルートをとるかで政府は揺れた。東海道には船が充実しており、また有事の際に海岸沿いは他国の攻撃を受けやすいという軍部の後押しで、中山道ルートを中心に工事を検討したが、中山道は山や谷が多く、建設が困難だと判断され、明治19年に東海道ルートに決定。この決定によって、既に開業していた新橋~横浜間も東海道本線の一部になりました。もし、鉄道幹線に中山道ルートが選ばれていたら、現在のまちの発展にも影響が出ていたのかもしれません。
そんなことから横浜~国府津(小田原市)が明治20年に開通。待望の新橋~神戸間が開通したのは明治22年のことでした。徒歩から鉄道の旅へと変わり、風景は車窓から楽しむものになりました。
そんな時代背景を表すものの一つに「鉄道唱歌」(明治33年)があります。

④「日本鉄道品川線=シルクロード」:現在の山手線は品川線に端を発しています。明治18年、東北本線赤羽停車場と東海道本線品川停車場を結ぶ品川線が開通しました。実はこの路線は、明治17年開業の上野~高崎間の高崎線と同時に計画された路線です。当時唯一の外貨獲得物資だった生糸を高崎から横浜港まで運ぶシルクロードが大きな目的でした。当初は貨物列車中心で旅客列車はほとんどありませんでしたが徐々に乗客も増え、明治18年に目黒停車場、明治34年に大崎停車場、明治44年に五反田停車場と駅も増えて行きました。大正14年に旅客専用線として環状化され現在の山手線になりました。





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品川区と鉄道の歩み1

2009-01-23 22:33:34 | 東京
私的に まとめました せっかくまとめたので 公開することにしました
しばらく 写真から離れます。

①「鉄道錦絵」:文明開化のシンボルとして描かれた鉄道錦絵。鉄道開通前から前人気をあおるかのように赤色など鮮烈な色調の錦絵は、西洋文化との出会いに興奮する人々の息吹が感じられます。

②「文明開化の主役は陸蒸気」:明治5年に仮営業を開始した東海道線。蒸気機関車が品川~横浜を1日6往復しました。
この鉄道建設を指揮していたのが工部省(旧長州藩士)の井上勝(鉄道頭(てつどうのかみ))です。英国で鉄道学、鉱山学を習得して、そのノウハウを日本に持ち込みました。
建設時の一番の難関は明治4年5月の八つ山から御殿山間の切り通し工事。完了したのは明治5年1月。この工事があったため明治4年8月の試験運転のときは横浜から東海寺の裏辺りまでの運転でした。
当時、東海寺は広大な土地を誇っていましたが、鉄道のために土地を提供。敷地内を鉄道が走ることになりました。鉄道開通後の明治6年には地租改正が行われ、寺社領の免税が無くなり東海寺は、そのほとんどの敷地を失うことになります。鉄道開通をきっかけにまちは様変わりして行くことになります。さて、八つ山の切り通し工事で掘った土砂を高輪の海上を走る鉄道の堤にしました。
実は品川停車場は高輪の海を埋め立てて作られたのです。当時、品川宿の人たちは陸蒸気による火事の危険性を訴え、宿場近くの駅建設を反対したといわれています。
「遊郭や貸し座敷の人たちがお忍びで来るお客さんが来なくなる」という理由で建設を反対したという証言があります。
そして、芝区高輪の用地も軍部の反対で取得できず、海を埋め立てて作られた悲しい歴史があります。そのため品川~新橋間は埋立地に引かれました。品川駅が港区にあるのはそのためです。また火事の影響を考え線路も市街地から離されました。品川駅に向かう鉄道のために八ツ山橋も作られ、日本で最初の鉄道陸橋になりました。こうして明治5年5月に東海道線は品川~横浜間で仮営業を開始しました。新橋~横浜の営業を開始したのは明治5年9月12日でした。
さて、鉄道の日は10月14日のはずですが?開業当時は太陰暦でしたが明治6年に現在の太陽暦を導入して10月14日になったのです。鉄道開通の翌年、太陽暦を導入するなど文明開化が加速して行きます。明治6年には新橋~横浜間で貨物列車を運行。当時、客車よりも貨物車のほうが多く、これまでの船舶による輸送に
とって代わりました。明治9年には大森停車場もできて、品川から大井への移動にも鉄道が使われました。当時の人々は陸蒸気の力強さに驚き、停車場の西洋建築は新名所になりました。鉄道が文明開化を具体的な形で実感できるものでした。東海寺大山墓地で眠る井上勝は今も東海道線を見守っています。





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