国土地理院から寄贈いただいた伊能忠敬の測量地図「第189図(肥前・唐津・筑前)」を、1Fロビーに展示しています。
エレベーターの右手の壁面に展示していますので、図書館にいらしたときにはぜひご覧ください。
伊能忠敬(いのう ただたか)という人物、ご存じでしょうか?
50歳代半ばから日本全国を測量して歩き、17年の歳月をかけてわが国初の実測日本地図を作りあげた人物です。
延享2年(1745)上総国山辺郡小関村(現在の千葉県九十九里町)生まれ。宝暦12年(1762)、17歳で伊能家に婿養子に入り、商人として活動。寛政6年(1794)家督を長男に譲り隠居、翌年江戸に出ます。江戸幕府の天文方 高橋至時に師事して測量・天文学などを修め、寛政12年(1800)から文化13年(1816)まで、幕府の命により日本初の実測による全国の測量を実施しました。
文政元年(1818)、73歳で死去。その後、忠敬の測量図は、文政4年(1821)に幕府天文方の手で「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」として完成されました。
忠敬が作成した日本地図は総称して「伊能図」と呼ばれ、縮尺によって大図・中図・小図の3種類に分類されます。伊能大図(縮尺1/36,000)は全部で214枚あり、日本全国をカバーすることで知られていましたが、幕府に献上された正本は明治6年(1876)の皇居炎上で失われ、東京帝国大学で保管されていた伊能家控図も関東大震災で焼失。国内で存在が知られているのは60数枚でしたが、平成9年(2001)アメリカ議会図書館で伊能大図の写本207枚が発見されました。
国土地理院では、伊能図の貴重な地理史料としての重要性を考え、デジタルによる保存と彩色復原作業に取り組んでいます。
今回、国土地理院から近代図書館が寄贈を受けた「第189図」もその中の1枚です。
忠敬は、第8次測量の際、文化9年(1812)の8月から9月にかけて唐津を訪れています。
このときのことは、『伊能忠敬測量日記』にもくわしく記されているんですよ。
ご興味がおありの方は、職員におたずねくださいね。
エレベーターの右手の壁面に展示していますので、図書館にいらしたときにはぜひご覧ください。
伊能忠敬(いのう ただたか)という人物、ご存じでしょうか?
50歳代半ばから日本全国を測量して歩き、17年の歳月をかけてわが国初の実測日本地図を作りあげた人物です。
延享2年(1745)上総国山辺郡小関村(現在の千葉県九十九里町)生まれ。宝暦12年(1762)、17歳で伊能家に婿養子に入り、商人として活動。寛政6年(1794)家督を長男に譲り隠居、翌年江戸に出ます。江戸幕府の天文方 高橋至時に師事して測量・天文学などを修め、寛政12年(1800)から文化13年(1816)まで、幕府の命により日本初の実測による全国の測量を実施しました。
文政元年(1818)、73歳で死去。その後、忠敬の測量図は、文政4年(1821)に幕府天文方の手で「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」として完成されました。
忠敬が作成した日本地図は総称して「伊能図」と呼ばれ、縮尺によって大図・中図・小図の3種類に分類されます。伊能大図(縮尺1/36,000)は全部で214枚あり、日本全国をカバーすることで知られていましたが、幕府に献上された正本は明治6年(1876)の皇居炎上で失われ、東京帝国大学で保管されていた伊能家控図も関東大震災で焼失。国内で存在が知られているのは60数枚でしたが、平成9年(2001)アメリカ議会図書館で伊能大図の写本207枚が発見されました。
国土地理院では、伊能図の貴重な地理史料としての重要性を考え、デジタルによる保存と彩色復原作業に取り組んでいます。
今回、国土地理院から近代図書館が寄贈を受けた「第189図」もその中の1枚です。
忠敬は、第8次測量の際、文化9年(1812)の8月から9月にかけて唐津を訪れています。
このときのことは、『伊能忠敬測量日記』にもくわしく記されているんですよ。
ご興味がおありの方は、職員におたずねくださいね。