花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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しばれるね~~~の季節はTVで過ごす。。。「あんか」の毛布の中。。。が暖かい。

2023年12月01日 | 日記
  55年前,、
    、紀伊半島から東京まで、、、
        この間の冬しか知らなかった、、
         私こと、、、
        もうすぐ80歳の婆ちゃんの、

        冬認識だったんだよね、、、~~~

いきなり、、留萌の寿町の、、、
  断崖絶壁のおんぼろ宿舎での生活が、、、

                始まった。

     まつ毛も鼻毛も、、、凍るんですよね、、、

         昭和44年の冬、、、

            夕日の真っ赤な美しさは、、、

          留萌の海は、、神様が居るって事かもしれません。



ともかく、、買い物に出かけるのに、、、
           天気の予想から、、2
              時間は空が晴れていそうな時を選んで

      坂道を下りながら、、、浜の方に降りてゆくと

        それなりの、、
           田舎の街が開けていた。

           こんな寒い、、、
           -20度以下の街の



              しかも、、
         医療施設の出張ローテーションの無給医の宿舎が

               目の前断崖の

          北の海が空と繋がる景色しか見えない所に

                 おんぼろの、、
            古い一階建ての玄関ガラス戸の引き戸の家が有ったんですよね。

          信じられないのですが、、、
          煙突壊れたお風呂場は、、、
          立派なタイルの2畳大であるのに
             

          トイレが、、
        「ぽっちゃんトイレ」の、、、
           蓋も無い、、
         明治時代の以前の長屋に在りそうな、、トイレ!!
                 
         昭和44年代の北海道の北の海の街は、、、
            本州の智慧で家が建てられていたようだった。

           トイレに行くのに、、、坂道降りて、、、
                20分も歩いて、
                    、雑貨店の2階の
                        温かいトイレまで通ったのを、、
                      忘れられない。

           
         日大の工学部中退で学徒出陣して、、、
            シベリアの抑留を体験した母の弟である叔父さんは

          帰還してから、、家族6人善人が、、
            我が家の居候をしながら、、、

                     5年かけて、、、独立していった。

         その「叔父さん」が、、
             「シベリア抑留」の話をしてくれたものだった。

           ホントか、、ウソか??、、私も、、年子の兄も、、弟も

         伯父さんが、、「まじめに話す体験談」に

           「げらげら,、、ハ、は、は、。。、、おかしくて笑ったものだった!!」

          本当か、、ウソか?、、姪っ子、、甥っ子を、、からかってるのか?

           70年経った今も、、、わからないまま、、、

               思い出し笑いをしているのだった。
                       
        「おいちゃんはナ❣!、、、トイレに行くときは

             トンカチを持って行ったんだぞ!!!、、、

                 トイレがな、、つららになるから、、、

                     トンカチで叩き落としながら

                          用を足したんじゃぞ!!

                  東京の、、これくらいの寒さで、、、足温器だとか、、

                    火鉢が欲しいとか、、、

                       電気ストーブつけるとか、、言っていると

                 日本は、戦争で、貧乏になったんだ!!、、

               頑張らんかい!!、、、上等の冬やぞ!!、、、東京の冬は!!」


         「居候しているから,おいちゃんは、そんなにケチして、、金貯めるんかい?」
           
          「あほ!!、、金貯める話や無い!!、、気合入れたら、
                東京の寒さなんぞ、、、夏みたいなもんや!!」

            父の弟さんも、、、学徒出陣したが、、無事に帰還して

            10歳も年上の兄にあたる、、、私の父を頼って、、10年以上も一緒に暮らした。
                    

          こちらのオジサンは、
            帰還してから28歳で早稲田の理工学部に入学した。

                ニコニコ笑顔で、、会釈するが、、
            私より8歳年上の兄の勉強を視てくれていた。

            「家庭教師」の扱いで、、
          母も、こちらのオジサンには、、何かと気を使っていた。

          部屋には、、「こたつ...炬燵」も入れてあげていた。

         同じシベリアに行ってきたというのに、、、
          此方の方の、、、叔父さんは、
           卒業してから、東京の公立中学校の先生となってからも

            おしゃれな物腰で、、、間もなく、、私立大学の附属高等学校の物理の先生となった。

          真冬になっても、、、ドイツ製のコートを丸善で買って来たとか、、言って

          おしゃれなコートで通勤電車に乗っていた。

          電車の中で知り合った、、女の先生と結婚して

           我が家から出ていった。

          初めて、内容のあることを話したのは、きわめて少ない。

          「おじちゃん、、、奥さんと出てゆくの??」

         「出てゆくというと大げさだけどね、、、

              家なんてものは、、、借りた方が合理的だよ

          結婚した奥さんは,、小学校の先生だから、
                勤務先に便利なところに住むことにしたんだよ。

                     結婚したらね、、、
                 駅に近いマンション借りた方が、、、便利だからね。」

         伯父さんは、奥さんになった人の為にも、、、
                   二人だけになりたかったようだった。

          しばらくは居候をしていたが、、、間もなく、、、出ていった。

         伯父さんが、、出てゆくときに。

               「もっていかなかった炬燵」が、、、
          
                我が家で冬のたまり場のように
                その部屋には人が集まった。

                    炬燵を囲んで、、

           私のっすぐ上の年子の兄が、
               「平沢寅蔵」とかいう人の
                   「浪曲」をうなりはじめると

          居候の従姉妹弟の四人とも、、、炬燵に寄って来て

          拍手をした。!!!!!!!!、、、

       皆に、アンコールされて、、

             いつまでも唸っていましたね。



         東京の冬は、、、「炬燵」があれば、、、
                 幸せが集まって来た。


                   
          「北海道」に嫁いでからは、、、
          24年間の、、私の人生の知人も、、学友も、、

          ご近所さんも、、、

          それっきり、、、プチント、、、切れた糸のようだった。

         

          今日も早朝5時半に雪を搔いて、、
                   、砂を撒き、、、
                    新聞にvirusカットの蒸気をかけて

            玄関い置きっぱなしにすると、、、

            あとで、、8時になって、、
                   、部屋まで持ってくる。
                      未だにコロナ対策の時の癖が続いている。

        急に寒くなる北海道の
            「空から落ちてくる冬には、、、
                 心の準備が間に合わない。。。。」


           結婚前の、、東京の実家の様子を思い出しながら、、、

           ダンナさんも、、私も、、帰らなかったせいも、、無いとは言えない。

              父の後を継いで経営していた開業も、、辞めてしまって、、
              家も庭も、、、人手に渡っていた。

           思いでの車、、縦ライトのセドリックも。。。
             兄の、、乗っていたコロナも、、

             母が55歳ごろ乗っていた、、
              「三菱クーペ」の買い物車も
               、、母の母屋のグランドピアノも、、
                  何一つ、、、形見分けはもらえなかった。

           ダンナさんも、、、
             進級試験中の息子達も誰も、、、
              東京の母の葬式には,、、来れなかった。

                ~~~行けなかったと、、言うべきかも、、、。

            東京に住んでいる、、

              婚家の兄弟も嫁さんも、、子供達も、、、

            1時間もかからない所に住んでいるのに

             母の葬式には、、、来てくれなかった。

             私の至らなさで、、、せっかく医師になった息子を
                 北海道から、
                   皆の住んでいる東京に
                     帰還させる甲斐性が、、、無かったと、、

             思われたのかもしれない。
                母の最期には会えなかったこともあり
                    涙も出ませんでしたね。

              諸y学生の姪っ子が。。

              にぎやか過ぎる、、、婆ちゃんの「眠る周りを。。。」

                 駆け回る、、甥っ子たちに向かって

               「!!!、、静かにしなさい、、、!!、、、

                  おばあちゃまが、、、目を覚ましてしまうでしょう!!」

                本気で怒るので、、、皆は爆笑してしまった。

                 お棺のベッドの中で、、、母は、、笑っているように、、、見えた。

                北海道からの花輪も、、花束も、、、来ていなかったら、、、

                   どうしよう、、、と。

                  お寺のぐるりを3重に取り巻く花束は

                    母のピアノのお弟子さんや、、、

                   戦後のドサクサの時

                   居候として、、、一緒に過ごした父母の兄弟の、、、子供や孫やら。。。

                にぎやか過ぎる母の葬儀には

                   当時は黎明期にあった「国立がんセンター」の
                      弟の勤務仲間が

                         60人近くも、来てくれていて、、、

                 未来の「がん撲滅の為の、、、戦士のように、、、一丸となっていたのでしょうか?」

               その時の、、、がんセンターの勢いが、、伝わってくるような
                  メリハリの効いた、、、葬式は、一医員の弟の仲間の皆の団結が

                     天まで届くような、、勢いがありましたね。

                   母の命の終わりは、、、新しい世代交代なのだと、、、思いましたね。

                      悲しみのイベントではなくて
                        母のこの世での、、80歳ぎりぎりの現役のピアノ人生を
                           お祭りのように、、

                      皆がたたえてくれていましたね。
                北海道に,、、嫁いでしまったまま、、、
                         なしのつぶての半世紀をえて
                     初めての留萌の夏の海沿いで、、、可愛がってくれた祖父の笑顔tと

                       夕日が重なって、、、私は、、
                      「お爺ちゃん、、、!!。。」

                    夕日の中で、祖父が笑顔で、、「サヨナラ、、」、、と

                  真っ赤な光で、、燃えるように、、、伝えてくれた時のことを

                   母の、、ねむている様な、、、少し笑ったような笑顔と、、、重なった。

                   愛した人は、、、此の世を去る、、、去ってしまう。

                     私も80歳は目の前である。

                        留萌の海沿いの夕日の中で

                       お爺ちゃんが、、「笑って消えていった,、、日」

                   私は、、ダンナさんに、、、「祖父が夕日の中で。。。さようなら、、を言った。」

                      そう伝えた。

                      帰宅すると、、、サヨナラの、、、電報が届いていた。

                       留萌の海は、、燃えるような、、夕日が

                         静かに、、水平線い沈む時、、、
                        あたりを真っ赤に染めて、、、とてもきれいだった。

                        
                      
            
                母は、、誰にも、、
           80歳まで、、生きていたことも、、、親戚筋には知らせていなかったようです。

           私が、、息子達の私立大学の授業料を必要になり、、
              、現役で薬剤師に復帰していたこともあり

              掃除も、、洗濯も、、、食事も、、手抜きで、、、家族は

               メイメイが独立して、、頑張っていた時期でもあり、、、

              80歳になって亡くなった母とは20年以上も会っていないこともあり、、

              ダンナさんなどは、、、
               職場第一という、、、連絡も取れない病院泊まり込み時代であり

          葬式の日は、病院のみんなのイベントに、、出席すると葉書を出してあったので

            母の葬式は、、弟が一手に引き受けてくれて

            弟の関係者や、兄たちの嫁さんが頑張ってくれていて

                母のピアノのお弟子さんら、、御寺の境内に2個もテントを張って

          弟を手伝ってくれていいる人々と合流して手伝ってくれていました。

           弟が高校時代、、、父が亡くなる前に、、、

             よく遊びに来ていた学友だった人らが、、大人になって、、再開できました。

            父は、、2月の寒い冬でしたが、、、
            母は、、、秋たけなわの、、、紅葉の季節でしたね。

                  

           

        

        母は,、3日間寝ただけで、、、あっけなくこの世にさようなら,、、👋
         私が行ったときは、、、もう、、安らかな笑顔で、、、神様の世界に行っていた。

         



             留萌の人りっぼっちの厳寒の中で、、、愛する人との別れを、、、思いましたね、、、。

           寒すぎる冬の中では、、、人の温かさ、、、人の一生、、、避けられない、、、葬式、、、
             ヒトは、、100年生きる事はまれである。

          生きるも、、死ぬも、、一生のドラマでは、、当たり前なのに、、、

             なぜか、、、真っ白な世界に、、、
                     塗り替えられたコタ国の冬の初めは


               雪の中に、、、父も、、母も、、にこにこして、、、

                      手を振っている様な、、、錯覚に陥る時もある。

           之は、、魔法なんですね!、、、

               たった一日で、、、白い世界にしてしまう、、、

                    白い雪の中に、、、生きることを求めて、、、

                       寒さと闘って、、、街を造っていった人は、、、逞しいですね。

              ハッツ゚、、と気がついて、、、
              真冬の厳寒の留萌では、、、
                 この寒さが日常であると認識するまで
                     全てが別世界であることを、、受容しなければ

                         現実からの認識は出来なかったですね、、、

                            明日は、、あたたかい筈だと、、、期待したりしましたね。

         -28度となった、、この宿舎の、、洗面台兼、、台所の流しの、、、キッチンで

           米をとぎ終わるまで、、、3回も、、水道の水を、使うたんびに

             コックを回して、、地面の下まで「水音視しながら

               米をとぎながら、、、

       しばれるね~~~~~、、と。、、ひとり言で、、、方言を楽しんだものでしたね。

       北大を卒業したダンナさんは、、、とうとう、、北海道人になって、、、生きてゆく。

      北海道野冬の挨拶が、、始まった。

           「しばれるね~~~

            

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