花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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どしゃ降りの札幌郊外だけど、TVが観れるので、OKです!

2024年08月27日 | 日記

8月下旬の炎天が終わりそうな時期になると

台風シーズンですね、、、、

今日は朝は土砂降りで、、、昼ごろになるとコサメになりました。

炎天下の草むしりは、、、熱射病になりそうになるので

1時間以内に切り上げるのですが

土砂降り続きの後の小雨の中の草むしりは、、、

   面白いように草が根っこからとれるので

     ちょっとのつもりが、、、あっちも、こっちも、、、と!

   シャツもスラックスもそのままぬらしながら、、、草むしりをしました。

45リットルのビニール袋がいっぱいになったので

長靴をはいた足で、袋の上に乗っかると、

半分ぐらいまでの量に圧縮されて、、、もうひと頑張りしようということで

10時ごろから、、、2時30分まで、、草むしりをしました。

急に伸びた草は、雨水の中の根は、土に固定されてないせいか

根っこごと、簡単に引っこ抜けるので、、、やる気満々にさせますね。

足で圧縮しながら、、とうとう、、45リットルの袋が、、、いっぱいになりました。

樹木に絡まったつた類や、

     香り立つのでと植えた

         「タンジー」や「ビンカ」が、

増えて増えて、、、

     草藤も、、、増えて増えて、、、

           除草してもまた元道理になるのですが

マメ科の植物は、、どんなものでも厄介な増え方をしますね、、、

    翁草などは、、、草フジが取り囲んでしまい、、、

         毎年、草藤の厄介なねっこまで、

           引っ張って、、引っこ抜いてしまわないと

              翁草の根の下側に潜り込ませた根が

          まるで、翁草を持ち上げてしまうかのように

          土の上まで持ち上げて、、、枯らしてしまうから

        草フジが獰猛な、、、植物ですね。

      幼いころ、和歌山県に疎開していたのですが、

     和歌山の家の庭には「金モクセイと銀モクセイ」の大きな気がありました。

  その木の手前には「ヤマモモ」の木が植えてあり、

  自転車の車輪の鉄の輪を枝につるしてあり、

  ブランコを代わりに、、揺らして遊んだ日のことが思い出されます。

   父は、本音は「農学部に行って、おいしいお米の研究をしたかったそうです」、、、

   東京大学の受験に失敗して、、、泣きながら、、、上野公園を歩いたそうです。

   祖父は宮内庁に勤めていたせいもあり、、、

    おりからの、、、戦争モードの「富国強兵政策」の時代だけに

     東京大学に行くのでなければ、、、研究生活は、、下手をすると

       道が開けないかも知れないので、医学部に行って、

        日本の国にお役にたてるように、「外科医になってはどうか?」

         祖父は、当時宮内庁の勤務している人々のみならず

           時には皇后様や、陛下のご健康をお守りできるように

             慈恵会医科大学に通うのなら、、、教養は自習して

              試験合格すれば、、2年生に編入できると、、、       

            当時の日本は、戦争モードだっただけに

            祖父は、外科医になってはどうかと、、、すすめたそうです。

         父は、植物が大好きな人でしたので、、、

            漢方薬や、、、アユㇽベーダー、、や

            カトリック教会の薬草園や、、、協会の生薬にも

              造詣が深いと、、、私には感じられるほど

                植物に興味を持っていた人でした。

 

       戦中にうまれた私は、、父と出会ったのは、、3歳ぐらいの時からでした。

       疎開先の山奥に「戦後の電気の文化に遅れないようにと、、、

       ダムができることになったらしいのでした。

       あちこちに点在する、、、集落が、、、東京から医師が固定するというので

       我が家の周りは、、にわかに家や店ができて、、

        町立の医療施設の周りには、、、文化人が引っ越してきました。

 

       戦争をはさんで、、アメリカから帰国した人々は

       洋館の立ち並ぶ、、、通称、、、アメリカぬらと呼んでいたエリアをつくり、

       ハイカラさんの生活をしていました。

 

       板の間しかない小さな家もあれば、、、洋館もあり

       瓦の屋根の、うだつの上がるような家もありました。

       ダムができるためには、、、10建よりも多い家が湖底に沈んだそうですね。

       人足の人々が、大怪我をしては、、、父の診療所に運び込まれてきました。

       父の仕事は、終わりのない、、、深夜までの仕事でした。

       日曜日になると、、、

       小学校の側面の畑を 何ヘクタールも借りて

           父は、いろいろな植物を栽培しておりました、

              父の薬草畑の一角に、、、

                私の「ホウズキ」畑もつくってもらいました。

 

       私は、父の畑の

           「シオン」「ケシの花(小学校に入ったころ、、けしは栽培禁止になり)

              ジギタリス、、、桔梗、、、トリトマ、、、シソ、、

            、、、祖父がアメリカで暮らしていたこともあり

                 アメリカから取り寄せた、、、グラジョウラス、、は

         お買いやピンクや黄色や、白と、、、目を見張るほど、、、

         いろいろな色の種類があり、、、子供心に驚かされました。

 

       ひょんなことから、、、北海道に住んで55年間になりますが、、、

         この辺りは、私たちが家を建てる前は

           秋田、、岩手の入植者の皆さんが                 

              苦労して、、羊が丘のふもとの村になるまで               

               開拓した村落だったようです。

           私が家のローンを払い始めた頃には

          80歳になった開拓者のおじいちゃんが

          萩の花や、、、パイナップルの鉢植えを持って

          遊びに来られました。

          家の周りは、開拓者のおじいちゃんが植えたという

         植物で、いっぱいでした。、、、小さな「森」のようでした。

 

                         つづく


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