花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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母の33回忌を控えて

2022年10月02日 | 日記
母が亡くなってから、、、
33回忌ですと言う葉書が来た。

父も、母も、
戦時中に亡くなった兄も姉も、、

高野山にいった。

旧い国宝のお寺が窓口で
母が若いころ、
祖父と一緒に

高野山のお寺に立ち寄った。

宮武峯雄さんという、、、
御習字が達筆の御坊様だった。

半紙に、見事な御習字を書いて
お母さんの供養に、、、と
持たしてくださった。

後日、母が亡くなってから半年後

葬式にも、初七日にも、49日にも
病院の救急で
墓参が出来なかった旦那の為に

私は、-エネルギーの必要な
お参りは避けて
ツワーで、
「高野山と熊野古道、南紀一周」

を予約して高野山までたどり着きました。

主人の休暇を促して
連日の病院宿泊のリズムを
少し変えてみてはどうかと、、、

なかば強制的に、同行した。

当時、宝亀院は、国宝の為
一切の修理がストップという
千年以上前のままの、
歴史の寺であった。

母が若かりし頃、
高野山で出会って以来

墓参の度毎に

一緒にお勤めの朝のお経を読んだという
宮武峯雄さんが

私の顔を見るなり、、、
私と主人の為に
いろいろなお話をしてくださって
「ご主人の先祖は、、、水軍でしょうかね、、?」

何やら書物をみながら、、、仰いました。

主人の先祖は金沢とか、、岐阜のあたりらしいですよ

富山かも知れません、、、

いろいろな雑談になりました。
高野山に、子供のころから
母を知っていた御坊様がいらっしゃったことは

まぎれもなく
母が引合してくれたのだと

墓参や、供養の行動を通して
私ごときが、、、お話しかけられそうもない
その社会では、、
お立場も、すべての確かな人が
色々と、
母の若かりし時の様子や
母の持っていた

ある種の研ぎ澄まされた霊感は

お母さまの母上の持っていらっしゃった魂の
不思議な仏の力かもしれないと

私自身には、、、私の身を守るための
「お焚き上げ」を一年間毎日してくださったそうです。


宮武さんが言っていたことは
子供の頃、、
まだ、、

小坊主の修業時代

高野山の宝亀院にて、
母と巡り合ったと言った

その時の母の座られた部屋の襖絵は
雪舟の自筆の墨絵の前であった。

小坊主の時代に、
高野山にやってきた母に会って

生涯の
僧侶としての修業をする心が

多大なる影響を受けたと、、、
話してくれた。

そして、、、
その娘さんの貴女が
お母さんの座っていた所に居らっしゃるのは
当時の、衝撃に近い
不思議な世界を思い出します。、、

言葉では言い尽くせないのですが、
修行しても、
往きつく世界なのかと、、思えるような
不思議な空気に包まれました。

母が亡くなったのは80歳だったと思います。
私が45歳の時だったことになります。

母の葬式には、、
弟の絶大なる努力で、

母は、
ピアノのお弟子や、
長男夫婦や、
弟や
もう一人の兄夫婦に囲まれて、
死ぬまで現役で、

54歳からの未亡人時代の26年間を、

ピアノの教室の主宰で
、誰の援助も受けずに独立して

父の亡き後

自立して、
本来の音楽大学時代の同級生や、
ピアノの弟子の中から
音楽大学に進学した男の子のお弟子や、

子供のお稽古についてくるうちに、、
母親も、
ピアノを習い始めたという
ピアノを家族の絆にして、、、
演奏会には親も舞台に出るという

 大人のお弟子さんらに囲まれて

   お葬式なのに、、、にぎやかで、明るく

弟の同僚の先生方が

お寺の庭にテントをはって、、、
お手伝いしてくれていました。

お葬式なのに、、、

来し方の、、
終戦後の、、
東京下町に、
父が最後の力を振り絞って
一族を皆引き取り

生まれ故郷の東京に
疎開先から、、異動させたのでした。

我が家の居候の皆は
父の最後の力によって
大学まで卒業して

兄の友人の医師と結婚して

父が死んだときには
居候が全員とも、、
兄の友人であった医師の病院の方へ移動してゆきました。

戦後は、、一定の収入が有り
未収入の疎開先から
その人たちの子供たちまで
学校に行かせられるのは
ボロボロになって働く、、、
   医師位だったかもしれません。

戦後のお金持ちになれて、
にわかに
庶民のリーダーになっていたようでした

政治家か・
弁護士さん?
学校の先生なども
リーダーでした。

タクシーの会社の社長さんも

当時は「ハイヤー会社」と言われて
外車を揃えて
戦後のお金持ちを乗せる会社が有りました。

母の死は、
いろいろの人に合わしてくれたはずですが

私は、、喪服にも着かえない姿のまま
厨房で、食事の世話をしていました。

「お姉さん、、、こんなところに居らっしゃったのですか?」
こちらに来て、、
一緒にお話ししましょう、、、
僕は、あなたの弟さんの「患者」でもあるのですよ。

がんセンターの病院長の先生まで
母の為に、、、
恐縮です。。。

生前の母は「お母ちゃんには、、紀之が居るから、、!」

、父が若くして
早逝して

10年後には
母の頼れる医師になったかのごとく
弟でした。
50代で未亡人になった母には、
3人の息子達!
特に、弟が母に可愛がられていただけに
最後まで、、母を守り続けたことが
頼もしく思えました。

母の25年間を、
しっかりと見つめて守り切った弟の
会葬の締めくくりの挨拶は

「50代で未亡人になった母が
  音楽大学時代の友人に支えられて
    ピアノ教室を開いてから
     今日まで、、、
    現役であったことを
       尊敬できる母です、、、。」

母は自分の力で、
グランドピアノも買えた女性だった。
形見として、、そのピアノはお弟子さんに譲られた。

北海道に行ってしまった娘は
娘であっても、、
母は人生道からは
削除して、
強く生きた。

北海道から、、私が電話をかけた時も
「もったいないから、、切りますよ」

話そうとはしなかった。

一円2円を大切に
  ピアノ人生の華を咲かせる晩年だった様子に

私も、、時間の大切さがわかるだけに
電話も、、何十年単位でかけなかった
、、、親不幸をした。


北海道を出るときに、、、すでに、、、
死に目には
間に合わないとわかったので

ベランダに出て、、、
お母さんに伝わるように

空に向けて両手をあげて、、
言いました。

お母さん、、、
出発するまで、、、
身体をお貸ししますから

私の身体に入りなさい、、、

一緒に,、藤田画伯の記念館で、
彼の描いた絵を観ましょう、、、
「一年間の長い絵巻物」が有るはずだから、、、

空に向かって、、
ありったけの想いで、、、
無言の通信をしました。

背中に、、痛烈な痛みが走り、、、
打ちのめされたような衝撃で
私はベランダの手すりにつかまり
やっと、、、立っていました。

主人は50歳前後で、、、
国立病院の医長を辞めて
出来たばかりの、、
個人病院に勤務替えすることで
単身赴任に終止符を打って、、、
家族と合流したばかりでした。

外科医が3人だったと思います。
出来たばかりの総合病院の外科には
救急車が、
重症の患者さんを運んでくるので

病院立ち上げの時代だったことも有り
家に帰るという事は
週末になってから一日ぐらいでした。

周りの開業医さんが喜んでくれるような
重症で、、手術が必要で、、
緊急の患者さんを引き受け乍ら

周りの開業医さんに、、、
総合病院は
地域医療と競合するのではなくて
設備上、、、
開業医さんが手におえない患者さんを
引き受けるという、、、

分担の違う医療を担当している事を

実際の診療で示してゆく為にも

発足当時の総合病院の
外科の筆頭として、、呼ばれ
実績をあげなければ、、

地域に受け入れられにくいという

出来たばかりの病院は

当時を振り返ると、、、

医師会の理解を得られた段階で

北海道の広域に於いて
救急体制が間に合う病院が必用であるという
次の段階に入りました。

大學の講師から、教授の命令で新規病院に勤めた主人は
運も良かったと思います。
患者さんが増えるにしたがって
医局からの派遣される外科医を
最前線で医療貢献してもらえる
大學とのパイプが有ったという事でした。

3人しかいなかった外科医は4人になり、、

やがて、大きな手術が入るようになり
大學の
エース級の外科医が
病院にやってくることになり

主人は世話役の副院長へと担当が
変わることで、、
大學から来てくれたエースの先生が
働きやすくなるようにと
一般外科に徹し

その中でも、、、

新進気鋭の若手が、、、
やりたがらない分野へと
新たに「認定講習に通い認定医を取得」

病院にとって必要な分野を逃さないという守りの
病院の継続に役に立つ考えで

医局や、同門会や、医師会には
黙って、必ず参加して

新しくできた病院が
地域に受け入れられる方向の、、、
地味で
忍耐力の要る仕事を
引き受けていたようでした。

創生期の、、あの、、時代

地域に必要な病院だという事と

世界の評価も
7位に入る最先端技術の病院評価が得られたのは
世界に向けてのビジョンで
高度な分野だけで、、、
学問的にだけは
地域的には,、メイヨ~クリニックのある
ロチェスタ~のような
一大医療ゾーンが札幌に誕生していたかもわかりませんが

地域を愛し、
地域の住民の為の病院が必要な
地元の
ローカルな考えと
病院で
利益も考えなければならない経営者と
医師に働かせて、、、

事務だけにおいて
自分達の経営ゾーンの主権を
中央の厚生省との、発展の為の認可に役立てようとする

とにもかくにも、、、新しくできた病院は

規模的には国の力、、、大学の力
   地域の力、、、そして、医学的には
    インターナショナㇽな、医学力を持って

   全国からの研修医の応募を20人以上に保って行ったという

一丸となった発展の結果、、、

多くの住民の支持を得て
「ドクターヘリも導入されました。」

主婦という外野の私は

   役に立たなくなった住宅としての設備のない
   昔住んでいた離れに、
    書類の整理や、、目下不要だが
  5年間は保存した方が良いという
  発展段階の会議録など、、、

  今回は、全部処分しました。

世代が変わるという事が、、、感じられたからです。

病院にも、、、
労働組合が出来る時代になったのは

コロナで、、
事務サイドや、、
医療スタッフサイドにも

生きてゆく為の保証が必要となったのかもしれませんね。

病院の始まりは、、
もとは教会に
「ゆきたおれた病人」を
ナースの様に、、、教会のシスターが
奉仕で始めたものだけに

労働組合とか、、、も受けなければ生きてゆけないという
日本の病院事情とは
かなり違うという事を

私は、、、40代の時

ヨーロッパの病院見学会に参加して
自費でしたけれど、、、
個人的には20件目の見学の地下の薬局を観た時

ペニシリンが発見されるだけの、、、一途な医療への
医療に人生を捧げたいという
  集団を観たような気がしました。

反対に、、、
パスツール研究所に立ち寄った時には
夫人の財力が、
パスツールの研究費を支えたのだと

スポンサー力の大切さを
研究分野では、、感じたものでした。

大学卒業の時
教授の勧めで
東京大学の基礎医学の教室に勤務しました。

3ヶ月目の半採用の公務員としての移動の時
結婚で公務員退職予定の職員の補充で
公務員で雇用されるはずだったのが
辞めると口外していた公務員の先輩職員が
破談になり、、、
公務員の口が空きが出ないという事になり

教室員の研究員にうつってしまいました。

給料は2万円ほどの教室員は

父が死んでしまっている私には
経済的に生活が成り立たなくて
厳しくて
3か月後には臨床の
大学病院の薬剤部の薬剤師として
研究所から退去しました。
月給は研究室よりは
かなり多く戴きました。

確かに、、、普通の会社なら、、、
労働組合という、、、
筋が通る処遇を受けられますが

東大の研究所の女性たちは

お歴々のお嬢様が多くて
女性として、、、
その清らかさと孤高の美が
月給なんかどうでもいいというレベルの
選ばれた環境のお嬢様ばかりで
薬理の教授の推薦だったために、
学問的に選ばれたとうぬぼれてしまいました。
私自体が、、、
身の程知らずで、、、
東京大学の、世界で通じる研究所に
のこのこと来てしまった環境でした。

皆さんトップの大学を出られた、、、
秘書さんでも
安月給で働きながら、、、
教授夫人となられているという

トップレディのコースに

私ごときが、、、知らないとはいえ、、、
母校の教授が推薦してくれたところに

東大を観ておくのも、、
勉強になるかもしれないという

軽い腰掛のつもりで来てしまった。

こうした所には、、、
労働組合が云々という職員は
いないという事を体験した。

私は、、すでに大学時代に父を失い、
アルバイトと
学生ローンで卒業した
晩年になって、故郷の東京に帰れた
開業医の
医家のお嬢さんなので、、、

2万円の教室員では、、、
喰い羽ぐれてしまうという
実質は庶民以下の状態でした。

病院とは、、、金銭的に困らない職員が
奉仕で勤め
医師が働きやすく、、
便宜を図りながら
病院で奉仕している方だから。。。と
医師の実際の裏側の努力を知っている女性だからと

医師は、秘書さんらとの結婚をすることで
労働組合成る物の出番が無かったという
医療界をみて、、、金銭ウンヌンではない
東大での医師との結婚の職場だったという
昭和時代の戦後の、、一時代だったと思いました。

その後、、戦争から立ち直った日本は
女性の職場進出も
正当な評価で雇用される時代が来たことを
心から、、喜んでいます。

医師は月給を自分の生活に使っていると
早とちりする時代にった現在では

医師は税金に追いかけられるし
老後の施設に入るお金も無いし、
感染病の危険の中で
タクシー通勤をしながら

民間からは、、、贅沢にタクシーを使って通勤だと
奥さんは、、ねたまれるし、、
まともの感情では
家内は務まらないという、、戦後のひと時でした。

はたらきながらの死ぬまでを、
支えるのが女房の役割だから

全てを理解しての、、

労働組合が出来るなら

医師も、、労働時間の制限がされて、、、
良いかもしれませんね、、、

医師が労働基準法の時間だけで
帰ってしまう病院になってしまったら、、、

病院ごとつぶれてしまう事だけは確かですね、、、

医師の裏側を見ている家庭の窓からは

患者主体の時間割で動いていますよね。

日進月歩の医学講座に、、
こんなにも出席せねばならない世界なのか¿??と

亡き母が、、、
父が過労の毎日を過ごす晩年に
つぶやいていたことを、、、

医療も
現場の理解を望んでも

  医師だけは、、、
    医師の仕事が死ぬほど好きでないと、、、
  務まらない現場だと、、、

労働組合のとうりには、、、
動けないのが、、
命を前に働く、、
、医療の世界の医師隊や
医療スタッフや医療の事務サイド
医療機械を届ける周辺の会社や
寝る暇もない
臨床検査部かもしれませんね


理屈では答えが出ない、、、医療の世界に
コロナで介入した政治家さんの
新たなる理解分野が増えたことを信じて
何時かは報われるのが
医療の世界かもしれませんね。

奉仕の心無くして
医師の家内になっても、、、
孤独で寂びしいだけだと思いますね。

有名人の様に
ご自分がしっかりとある方は、、

医師と結婚したら、、

自分が無くなってしまうので、、、

逃げ出すのは、、、
解る様な気がしますね。。。

医師は医療をすることを愛するから、、


奥さんは孤独に強くて

医療をするという事から、
その意義を認め

医療をスル者に

賛同して、、、

医療をすることを手伝うんなら
頑張って
その裏方をしてみよう、、というぐらいの
医療への意義が感じられない人は
医師は金持ちだから、、贅沢できるぐらいの感情では

あてが外れますよね

孤独な人生だと思いますよね。
医師は、、医療をすることを、、、愛している。

医療バカに見えるのが、、、
奥さんの座っている位置から見えるから

医療をすることに意義が見いだせなかったら、、
孤独でしょうね、、、

見方によると、、、

医師は医師と話しているときだけが
生き生きしている、、、

不思議な
医療一本に見えましたね。

   

病院が出来たばかりの、、、
空き地だらけだった
30年前を思い出せば、、、

病院は、立ち上げに時期でもあり
個人病院の時でもあり

外科がしっかりしないと、

内科の院長さんが、困るという時代でもありました。

母の葬式に、
主人に、、はるばる、、東京まで来て、、、
葬式に出席してくださいとは
とても言い出せないような、、、

少ない外科のスタッフで、
泊まり込みの激務の時期でした。

この時ほど、、、
「北海道」のような、、
遠い所に嫁いだことを
寂しく思ったことは有りませんでした。


母の傍で見守ってくれていた弟が
全ての母の最期を守り通してくれました。
弟は私のような
子供を産んで育てただけで
知人も居ない姉を持ったために

孤軍奮闘をしてくれたことだと推察されました。

お寺の周りは3重の花に囲まれて
息子達の授業料の為に
薬剤師会に復帰していたおかげで

札幌薬剤師会からの花輪が届けられており
私は助けられました。
 
寒菊や、、、まとう歯、、、己が光のみ。

認定薬剤師を5回更新したことで
お仲間として、認めていただいたのだと
ありがたく、、弟に、札幌からの花輪だと
報告できました。

弟には後日、、、卵巣腫瘍を見つけてもらい
その場から、札幌の主人の勤めている病院での
手術予約をとってもらい
ヒコーキで札幌に帰り
病院い直行して、、、16センチもの開腹で
あかちゃんの頭のような
卵巣腫瘍を取り出してもらいました。
一か月後、、、大学病院の調剤に勤務して
頼まれた半年の任務を終えた時、

「後半年、、何とかなりませんか?」
地下室のトップの先生方に言われましたが
臨時で引き受けていたため

普通勤務で朝の9時から5時までで
10万ほどの報酬でした。

手術跡でもあり、、この病院に勤務する事は
切りがなさそうなので、、
辞退してきました。

デモ、、若手に一時に4人づつ
夏休みが取れるようにできたことを
ありがたかったと、、、お礼は言われましたが、、、

冬休みの正月を挟んでの調剤の大変さは
東京医大に勤務しているときに、、經驗済みなので

不よ休みの当直調剤は、、スタッフに休まれたら
酷いことになるので、、、辞退してきました。

若かったら、、、体力任せに代理調剤は出来るのですが
大晦日の、、薬局は、、半端な忙しさではないですからね、、
10万円のバイト代では、、、ちょっと辛いものが有るので
義理ある医大病院でしたが、、半年のバイトで,引いてきました。
今は、、こうした安い報酬は改良されて
皆薬剤師としての報酬を得ている時代になりましたが
日本は、、たぶんに、、男尊女卑だったㇼ、、

働きたくても、、報酬が安くて
家族の承認を得られなかったりという
戦後のドサクサを、、、誇りだけは持って行きぬいた
よそ者の結婚は、、、
孤独に強い、、という

その一つだけが、、、78歳まで、、無事に活きれたのだと思います。

よそ者の、、母校の大学というバックから離れた地域では

同僚の薬剤師を引っ張って来れないという弱みがあり
特別のノルマをこなす、、腕だけが
雇用されて、、ひき止められる要素だったことが

 自分尾健康との相談で、、、
つらくなると、、止めてしまったという

病院での手術を繰り返した人生だったのを、、、
 他人の土地で暮らす、、厳しさかもしれないと

納得しているのが、、自分では不思議ですね。

生きて来られたのは、、、
主人が北大を卒業していて
  医局長、、同門会長、、、大学講師、、
  個人病院から、、立ち上げグループで頑張って
  基幹病院いなるまで、
   大學の同門会長などしていて

  開業医の先生方に
  総合病院は、医師会と競合する施設ではなくて
  医師会の先生と、一緒に地域を守る分担の違いを
  わかってもらえた時期に、
  ドクターヘリの導入に、尽力で来て
  医大が導入したという事で

   当時の知事さんとのテープカットに
   実際の実務を担当してきた主人が並んで出来たことが
   札幌をはじめ、、道内に貢献できたという
   証が、、報道されてから、、、

  家内の私まで、、、
   ダンナさんの病院は
    「ドクターヘリが飛んでいるんだね~~~」

  「 私らも、、いつお世話になるかわゕらないね~~」

  なにかと話しかけてくれるようになりました。

  私には関係のない所で、、、
   主人は頑張っていたのだな~~~

家庭的には、、、粗大ごみ並みの、、手のかかるダンナだけど

  しっかり守ってくれていたのだな~~と

立派になった病院に、、足を向けて寝れません。

今では、、、日本中の研修医の
憧れの病院になっていますという事を
 昔
病院研修に来て、、
そのまま勤めてくれている医師もいることを
   誇りに思っている主人の話は、
     黙って聞きながら、、
   、美味しい御茶を入れてあげる時間にしています。


一方、、弟はインターナショナルに動き回った人生でした。
名誉~クリニックにも行っていたし
ハーバード大学では、学会はアメリカで発表していますので、

内科医の兄貴は、、わざわざ、、アメリカに飛んで
  弟の発表の席に参加して、、、
    質問して、、、弟をびっくりさせたというから

「医師同士の絆」には、、家内は外野にも成れない
       別の人生舞台ですよね、、、

医師の家内なんて、、、孤独ですよね,、、
ホンマ二、、外野も良い所です。
   弟だけは、、いつも、、姉として
    医師の服を脱いだ、、兄弟として
     世間話や、次の法事の事や
      嫁いだ姉を、、仲間に入れてくれようとする
    思いやりの電話をくれます。

   忙しい人だとわかっているので
   私からは電話をかけてことはありません。

弟の医師としての人生は
  団塊の世代が、、、戦後の日本を支えたのと匹敵するような
    医学の分野で、、日本緒戦後の復活を支えた
      姉です、、とは。。。
     どの面下げて言えるのかと思うほど
     同じ母から生まれてきたとは思えないほど
    持ち前の頑張りと、、人柄で
   日本の医学に貢献できた人の一人として
  弟乍ら、、眩しくて、、、自分からのアクションで
  弟に電話も掛けたことがありません。

   しかし、、、定期的に、、電話をくれるので
     家族の様子が良くわかりました。
   弟の仕事は
    「がん」と宣告された人にも
       生きている時間の幸せを守るという
        思いやりからの医学の様に思えました。

        がん患者さんが
         がんと共存しながら
          勤務で来たり
          残された時間を計画的に
           使える精神力が出てきた時代になった事を
        父が生きていたら
         どんなに喜んだことだろう、、、!

      外科医だった父の時代は
        昭和20年から30年の半ばまで
           手術しても、、、手遅れで
         患者さんの精神の幸せな時間を
           もたらすことが出来なかった時代だった。
   
      弟が、、父の願いだった
       臨床と研究の両面から
        がんの、患者さんの
         残された時間の
          精神尾幸せを追求できる時代をもたらしたことを
        生前に行っていたことを思い出すのです。

    Xsenの漏れてくるレントゲンで
     疎開地の、、七か村、、無医村で
       一人の医師だった父の手は
         放射線で「潰瘍が出来ていた」

     捨て身の軍医、、捨て身の 医療を
      する立場になってしまった父の事を
         弟は、、生きていたら、、
          医師になった事を良かったと思えるような
          息子を残したと思いました。

          

国立がんセンターで、
CTや、MRIや、へりかるCTの画像や、

新しい、医師の必要とする画像を映し出せる機械の開発で

東芝の社員さんや技師さんと、、夜明かししながら

その時の様子は
柳田国男の
「がん回廊の朝」、、、という
単行本で読みました。

柏にできるがんセンターの青写真とにらめっこしながら
屋上に近い所を、、心の医療になる様な
癒しの空間にして、、
   末期の患者さんの為に
    カウンセラーの充実を、、などと、、、
   意見を述べてほしいと言われた時、、、
     がん患者さんの、、クオリティを
       これほど真剣に取り組む医師は
        弟ぐらいだと思いながら
       私なりの、、カウンセラー100時間の授業で聴いた事を
      述べたことがありました。

   廊下は、、患者さんの描いた絵の展示をしたらいいよね、、、とか

   何十年も前の事を思い出しながら
      頑張っても、、、がっばっても
        死んでしまう、、、楽太郎さんの事を
        ふと、、思ってしまった。

     プーチンさんには
       がんの素をばらまく核戦争は
          人類の幸福を破壊するので
            戦争は止めてほしいと思いました。
   
      一人のがん患者さんを救おうと思っても、、、
        救えないのが、、、哀しいですよね。
            

イギリスにはすでにCTの旧いタイプが有りました。
日本には
「CTって何ですか?」

ドクターの中にも
見たことのない人が多かった時代です。

戦後の団塊の世代を率いる
市川平三郎先生が
時の人として

二重造影で
手遅れにならないうちに
ガンのポリープが映し出される

回転式のレントゲンを開発されて

開業中野我が家にも
鉛の部屋に大きなレントゲンがセットされており

戦後の団塊の世代の
目覚ましい、、、早期発見!!
ガンの延命効果のある、画像による発見の時代が来ました。

「単行本になって、「明日絵の挑戦という本」で
日本は、、すごい世代が、世界をリードしるかもしれないと

私は、、、医師が医師をするためのサポートなら
山登りのような感覚で

自分も荷物の一つも担いで昇りたいという

ワクワクした時代でした。

そのころ、北海道の北大で
医局長をしていた主人が

弟の最も若い時代の、、
大学でのCTの開発の講演の場を
北大の医局内で、話す機会を得て、

後日、弟は、、
ロイトンの大広間で
北大から招待講演で
日本のCTの開発を話す機会を得たのでした。

私は、、、ただのおばちゃんで
子供を育てただけの人生ですが

 父も昭和時代の医師として
医療制度の恵まれない、、戦地で
医療に従事しました。

線添いを挟んで、、、戦後の医療はどうあるべきなのか

がんセンターが出来た時
父は息子達に

之で、、、手遅れのがんの手術が少なくなる、、、

息子達二人は
国立がんセンターで
CT,MRI、ペットCT へりかるCT
  時代の先端の研究と臨床と検診に携われたことを

     満足しながら、、、54歳で、、、
     手術の執刀医としての仕事を最後に
       過労死して死んでしまったのです。

母は、、若くして、、、
   苦労ばかりの医師の家内を勤め乍ら

      医師の息子2人 薬剤師の子供2人

         地域に貢献できた、、薬局を経営する兄は
           本当は
      ジャーナリストになりたかったと言っていました。

数奇な運命に翻弄されながら
強く、自分の力で生き抜いたいた母の存在だけで
   一人ぼっちのよそ者の結婚が
      クリヤーできた気力を、、
        母からの、テレパシーで
          受け取っていた私だった様な気がしました。

日本では、理想的な、研究と開発と臨床の病院が
築地に建って、創生期のスタッフの結束と
日本では、、どこにも普及していない時代に
東芝の研究員とともに
  後二、東北大学の教授になられた、機械の分野の研究者らと
がんセンターの廊下に、、泊まり込んでの激務の研究にも
仕事生命をかけての結束で、人と人の結束が
坤為地の巨大な建物のがんセンターの、、、、集発の頃でした。

主人が大学の講師の時代にも
弟は何度か札幌に来て、、、ホテルを予約していても

主人と朝まで話しながら、、、夜明かしの談笑の後
医師と医師でなければわからないような

満足な顔で、東京に帰ってゆきました。

医療人と結婚した私は
外野の勤めをはたしながらも、、、
  ある種の孤独に耐えるのが
      苦痛の時もありました。

しらに土地で、、、閉じこもる以外に方法のない仕事の担当は
日本の主婦の皆にも言える共通点ですが、、

医師のメチャクチャナ過労にも匹敵する
学問の裏付けの要る
病人相手の仕事は、、、
  素人の人には理解を超えた
    壮絶な戦いの有ることが、、、感じられる位置に居たためか

  息子達は、、、医師にはなってほしいとは思いませんでした。

まっとうな結婚生活をして
   子育てや後楽にも子供を囲んで参加でき☜
普通の時間を過ごしてほしいと思いました。

しかし、、下の息子は、、、

どうしても医師になりたい、、、
私立の医学部に進学して、、、

  勤務医の我が家は、、ローンを組んで
20年かかって、、授業料を払いましたが、

 私立の医科大学の学生には
   泳ぎ切るのには難しすぎる

  サポートのない生活の中で
50歳を目の前に、、、
  結婚するという余裕が見いだせなかった
   北海道からの、東京への
     進出の為には、、、

    本人だけの力では
どうすることもできない

    時間貧乏が、、医師の実態かもしれませんね。

私立の医師を、
サラリーマン医師の家庭から出すという事は
  自分たちの老後の、生活が、厳しいものになりますが

その緊張感が
  高齢になっても
     医師を続けるという
       緊張感の為か、、、
        頭は若くて、、、呆けもせず、、、
         しっかりと、、予約患者さんの診療と
    若い先生方でも、、、時には受からなかったりする認定を
   テストを受けて合格書を持ってきています。

医師になって、、授業料や、、、博士になるまでの
  親からの応援で、、、
    結構ボロボロになっている親に、、、

子は春日良い,、、カスが良い、、子に貸すがいい、、

小さくなった態度で、、、

出血しながら、、僕を支えてくれた親が居たから
   一人前の医師になれたけど、、、

結婚して、、自分みたいな子供が出来たら
   人生は、、にっちもさっちもいかないから、、、
      結婚はしなかったそうです。

しかし、、、50も3年目にまでなると、、、

独身は、、50歳までにして、、、
  後は、、子供の要らないという女性と出会ったら
     老後の一人はさびしいね、、、と言うようになった。

78歳になった私は、、、

  母親が死んでも、、、女房が居れば
    寂しいとは思わないから
      次世代を生きる伴侶は必要だと思うけどね、、、

ぽっつりと、、、答える自分の心は、、、

   ここまで来たからには、、、成るようにしかならないという、、、

 医師の収入の、不思議な出費が
   謎が解けないまま、、、
      社会に返し切ったのだから、、、
         50歳にして、、、謝金しかない私立医科大学の
            卒業生は、、、
    理解できない金銭に、、一生追いかけられて
    自分の家庭も持てないという
    「医師という仕事だけ」が、、、
       息子を生かしている生きがいなのだと思うと

  余裕のない家庭から、、、医学部に進んでも
   学門は、、生涯、、お金のかかる物であることを知って

      医師になる前に、、、
   本当に、、、死ぬほど、、医師になりたいのかを
  自問自答してから、、、医学への道を進まないと、、、

   芸術家と同様に、、、
    見えないスポンサーの確保のできない医師は
      人生を、、お金に追いかけられるほど

  日進月歩の医学の世界についてゆくのは
   「医師になりたい心」
   「医師をすることに、、命をかけられるかどうか?」

   「頑張りぬいて、、、貢献できる論文を書いて
    スポンサーに巡り合えるかどうか、、、」

   懲りないで学問を続け、、時代について行き
   認定医を取得して
    患者さんに還元できる力を得るには
   親も、、スポンサーも、、、
    お金のわらじで、、、渡らせなければならない
      研究費のかかる、、、ジャンルだと、、、
  本人の能力と忍耐力が、、、必要なのは

   何処の世界も一緒だと思いましたね。

   弟のような、、、
    某国立大学や
     世界の国の著名人が

   自分の奥さんの画像は、、、弟に観てもらいたいと、、、
   カラの机の下の床には
 端から端まで、、、依頼された画像診断で
  堤防が出来ていたことを思い出すと、、、

    お金の世界ではないが
      がんセンターが
      がんの克服に、、、研究費をつぎ込んでくれる
    理解者が居たということかもしれませんね。

   今や、、ガンと共存しながら、、、会社の勤務が出来る
    スゴイ時代になりましたよね。

   弟と、姉として付き合う他に
   国立がん戦他0の勤務中に
   弟の患者として

    卵巣腫瘍を切除して
     その後の検査に、、近代の医学の武器を全部使って
  検診を受けた経験が
     私の人生の、、、
      これ以上ない贅沢な事でした。

    ペットCT,,CT,,から、
    マンもグラフィ
     超音波、、、
    、、、胃カメラ、、、ほか

    全部体験できたことを
    大きな心の贅沢として、、、

    弟に、感謝している。
    そして、、、戦後の日本の医学会に
   しっかりと貢献できた、、、弟を育てた母に
     かなわない、、、という、、、 尊敬と
     感謝が有り、、、
     身の程を知って、、、生涯にわたり、、、
      自分で主張しる事の何ものも持たなかった私は

    一人で、、、母の魂のヤドリギになって

  少しでも、、弟や、、兄に、、
母のメッセージが伝わればと

  無力な私には、、、摩訶不思議な霊感が
     高野山宙に於いては、、、発症するから、、、

    世の中には
    理屈を超えた、、、心のエネルギーがさせる、、、何か??

  不思議な現象が有る物だと、、
  母の法事が来るたびに
   非科学的な現象に出逢うのは

      私だけであろうか?
      皆言わないだけなのだろうか?


   
ふと、、我の帰ると、、、
母の葬式にも、、、結束して泊まり込みで研究していたお仲間が
お寺の庭にテントをセットして、、、
泊まり込みで、、、弟を手伝ってくれていました。

母の所にたどり着いたのは、、、
秋田を廻って、、、、藤田画伯の記念館に立ち寄って
母の大好きだった絵の絵葉書を持って、、、
お寺に到着したのは、、、
もう、、御通夜が始まっている頃でした。

弟の子供たちや、
 兄の子供たちが
   まるで寝ている様な、穏やかな母の周りを
  走り回っていて、、、にぎやかな、、御通夜でした。

姪っ子が、、、弟になる甥っ子に向かって、、、
  「みなさん❕!、、静かにしてください!!
     うるさいので、、
おばあちゃまが、、、起きてしまいます!!」

本気で、、走り回るちびっこを、、、怒る姪っ子は
一年生になるかならないかの、、、
少女に満たない、、幼児でした。

中学生の兄の息子は、、
お経が始まると、、、
くすくす,、クスクス、、、笑いが止まらなくて

いとこの子供たちまで、、クスクス笑いだして

お坊さんはきっと困ったでしょうね、、、、

死に目にも間に合わず、、、
北海道からは、、
私一人が母の葬式に参加できたのは
主人も50歳、、私も45歳

息子達は私立の大学と、予備校という、、、
東京までは行けない時代にぶつかったからだと思いました。

主人は、、単身赴任から、、新しい個人病院に勤めて
3人しかいない当直の連夜で、、、
家庭を振り替える暇のない時代でした。

母の葬式は、、、生前いつも言っていたように
「弟の、、、紀之君が 私を見ていてくれるから
北海道からは、、、来なくてもいいよ、、、」

明るくいっていた母でしたが、、、

ベランダで、、母の霊魂に語り掛けて
 とりあえず、、、私の身体に入って
一緒に、、藤田画伯の絵だけは、、観てから
お父さんの要る天国に行きなさい、、、と

出発前の星空に向かって、、、母の霊魂を呼びました。

私は、、日ごろ、、、霊魂などという
有るのか無いのかワカラナイことを
信じてはいませんでした。

弟から、、、何度も電話が勝って来て、、、
早く来ないと、、、間に合わない、、、と

  二,三日前から、、、電話をもらいながら、、、

病院から帰ってこない主人を、、
待っていたと記憶しています。

出来たばかりの個人病院は
立ち上げのスタッフは、主人だけではなくて
皆、、必死な時代でしたから、、、

私は、息子達にも、東京に来ないでも
皆のお別れの言葉は
お母さんが必ず伝えるからと言って

一人で、、、JRの、、、各駅停車に乗り込みました。

裏日本を回って、、、母と二人の最後の旅を
秋田で降りて、、、
藤田嗣二の記念館に行きました。

不思議な体験をしました。
普段は霊魂など、、、全く信じていない私ですが、、、

  ゆっくりと鈍行に、、、母と一緒に乗って
   裏日本をまわて、、、
  新潟から、、、東京に向かいました。

「おかあさん、、、急いでお父さんおところにか無くても
   ゆっくり旅だってね、、、」

  母は、、はっきりと言いました。
「お母さんは、、、死んでしまうのとは違うのよ、、、
  からだが、、古くなってしまったから、、、

    魂だけの自由な自分が、、、
     宇宙の旅に出るだけだから、、、
       何年かしたら、、、ハレーすい星のように

  必ず戻ってくるからね、、、」

   こんな会話をしながら、、、

  母の葬式は、、、過ごすことが出来ました。
    不思議な体験でした。

    冬の寒い日に、、、弟が一人で、、、
    母を高野山まで、、送り届けてくれました。

「お姉ちゃん、、、さすがに、、、さみしかた、、、」
  弟は、、、医師の強い男の子だったから
   大人になっても、、我が家のリーダーだった。

「一緒に行って、支えるべきだったと思いながらも、、、」
北海道に嫁ぐという事は、、、20年間の間
里帰りもしなかった、、、、」

  帰りたいと思いながら、、、
   医師をする、、、伴侶というのは

  患者さんとの時間を
    最優先にすることが、、、習慣になっているので
      
創生期の病院は、スタッフも少なく、外科医も少なく、、
てんてこ舞いで、、、
ビョインに隣接した宿泊所に常駐していた。

今振り返ると、、、時間が飛んでしまい
家庭を任されて、、
子育てしただけの記憶しかないのですよね、、、

私と主人が、、二人で写っている写真も、、、探さないと
何処にあるのか??

病院が、家族だった医師の人生の、家内をするという事は、、、

結構な孤独な戦いが有りますよね。

いつの間にか、、
公の総合病院に成長した主人の勤め先の病院は

創生期の苦労を知るスタッフは居なくなり
外科医だけでも20人を超えるスタッフで

主人と病院スタッフの聖域なので
母の葬式の日は、北海道に知人もいないし
息子達は試験中だし、、、

誰にも知らせることも無く
一人で、、母の霊魂を呼び寄せて
母と二人の電車の旅が、、、最後の別れになりました。

形式なんていいんです。
母が来てほしい人だけいればいいのだから、、、
20年以上も合わなかった嫁ぎ先の人には
知らせることもなく、、、
、、、中野の我が家の先祖からの菩提寺の
宝仙寺に埋葬して、、、

半年後に、、母の遺言に従って
弟が一人で、、、寒い季節の凍る様な高野山に
眠る、、、父の傍に、、、母の遺骨を持って行ってくれました。

「一人で、、母の遺骨を抱いて、、、高野山に登る時
  寂しかった事だろうと、、、胸が痛みますが、、、

    遠くに嫁ぎ,、、姓名も変わり
     医師をすること以外は、、一切の時間は
       家庭では、仕事の続の、、、
     医学の関連した仕事をしているダンナは

  医師をしながら、世間に貢献しているという存在だけが
   家庭を守ってくれているという
     医療の世界の「医師」というのは
      個人の時間が無いという、、、
   家庭は、休むための空間だった気がします。

  長い50年以上、、、
    半分は雪を掻いていた。
      そして、、食事の買い物と、掃除をしていた。

    息子達の友達でにぎわっていた。
    やがてお嫁さんが来て、、、孫が生まれて、、、

      多くの幸せは、、、孫子の笑顔からもらった。
  やがて、孫たちが大学に通うようになり、、、

     独立独歩の、、人生を切り開いてゆくのを見ている。

勤務医と結婚するという事は
   その存在だけで、、家庭は守ってもらえるが

  普通の家庭のように、、、ダンナさんが、、、
   家庭と一緒に、余暇を過ごす事が無かっただけに

     友人とも、家族とも、親戚とも
      会う事が難しい
  北海道に嫁いできたことが
     孤独に強くなってしまったのかもしれません。
        

コロナの時代が来て、、、誰とも会わず
   何処にもゆかないで
     今までと、同じような生活の延長をしながら

   違うのは、、、散歩をしなくなったこと
          足の運動不足で、、、膝が悪くなり
           歩くのが辛くなってきたこと、、、
    

   毎日買い物の、、チラシで、、、店を選んで
     車で買い物をしていたのが
       10日に、、、一度だけの
         買い物を、、、、大量にするようになって

        TVばかり見ている、、、

      昔から、、、知らない街の北海道に嫁いでから
     友人をつくる努力をしなかったから、、、

     井戸端話の知人しかいないという
    きわめて、、
    人には縁のない結婚生活だったと、、、
            反省しながらも、、、

       
              coronaの毎日の不安の中で
       陰性であり続ける自分は、、、
           

        措かれた環境が、、孤独に強くなり、、、
         今のところ、、
        帯状疱疹はしましたが
         
           coronaは陰性の毎日を
            
             ごく普通に、、家庭生活をしています。

           子供が二人生まれた後は、
           お互いの健康のためにも、、
        
         接触はしない生活に切り替えています。

       病院から、、夜帰ってくる主人に
       食事を用意して、、、21時には
        私は寝てしまいます。
          夜中の3時に起床、、、
            弁当と、朝食をつくって

            8時に、今はタクシーで通勤して
             coronaを避けるためにも
               感染の流行が終るまで

                10万まではコロナ予防のタクシーに
              命の安全を、託しています。

        貯金は出来ませんが、、、税金はキチンと納めていますから
           何処にも行かない、、、
             誰とも会わない、、、
               NHKのTVが大好きという毎日で

            何とかやりくりしていますから、、
           コロナ引き受け病院の医師は
           感染予防のタクシーは、、、
             命を助けられていると思いますね。

          人生、、、塞翁が馬、、、ってことでしょうか?

これは、、病院事情のワカラナイ
  勤務医という、、医師を通して
    全く外野で、、
     予防注射にしか、
       旦那の病院にはゆかないという
         日記帳だけが友人という
           孤独な医師の夫人??
            いいえ、、医師の家の留守番係?
             それぐらいの見解しかないのですが

    もし、、、病院に労働組合が出来て
         主人が8時から5時までで
           帰宅できていた人生なら

       母の葬式にも出てくれるし
       子供が生まれた時にも,、、傍に居てくれただろう

      大雪の日の流産の時も
      一人で雪の中を這いながら、、
       自分一人で、、子供との別れをしなくても
        主人は傍に居てくれたかもしれない。

    息子達の入学式にも、、、ランドセルをタタイテ
     自慢そうに、、出席してくれたかもしれない。

      生き仏が先と言って、、、
       なんぁいも有った法事にも欠席。

     労働組合が出来たとたん、、、医師たちは5時に帰れるのだろうか??
     corona病棟の看護師さんたちは、、、5時に帰ってしまうのだろうか?

病院は医師も看護師も、事務も、クラークさんも
3交代にすれば、、、
労働組合の出番はないかもしれないね、、、
デモ、、、月給倒れで、、、病院はつぶれるかもしれませんね。
おかあさん。。。
あなたは、、、父が死んでしまってから、、
あなた自身を生きてゆきましたね、、、


もし、、女性が結婚をしなくなると
  男性より、、優秀な仕事をするかもしれませんね。
         



   








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