花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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50年前の札幌市の板垣市長とママ達の懇談会

2023年01月06日 | 日記
50年前に たった一人ぽっちの札幌で
子育てをしていた頃のことです。

誰と、、、友達に成れば良いのか?

判断が出来ないほど

日常の習慣も、、、文化も、、、判らなかった頃

とりあえず、、、
札幌市が応募しているイベントに参加して

「友人づくり」は無理であっても

「知人づくり」は、、
札幌市を通して知り合えば

少しずつ、、、
友人に発展できるかもしれない、、、??

右を見ても、、、左を見ても、、、知らない顔ばかり、、、

その時、、

板垣市長さんは

「未来の札幌を、、、どのような街にしてゆくか?
              お母さん方の考えていること」を

  『市長と語る』、、というイベントで

手始めに、、、
「お母さんの書いた童話」、、、の公募で

札幌市の
「子供文庫の本」になった人たちを
        、、、招待してくれました。

子育て中で、、、
主人も、、大学院生で
自分が生き残るために、、必死の頑張りの時期でした。

いっさいの
    わき見も出来ない、、
        余裕のない
          奨学生の
           大学院性の旦那にとっては

北大の医学部の卒業生というのは

開業して、
    地域住民の皆の為の健康を守る方向への道が
         まるで、閉ざされているかのように、、、

若き医師だっと主人も
  なんで???危険を伴う
    {赤痢の患者さんばかりに、、、こだわって?}

        論文を書こうとするのか?

   お金儲けには、、、まるで、、、頓着のない
     貧困生活が気にならないようでした。

若き医師の懸賞論文で当選して、、、
     ある新聞には
  顔写真入りで報道されてはいましたが

31人の、、、赤痢患者さんの治療に於いて、
  当時は「テトラサイクリン」
       「クロラムフェニコール」

  抗生剤であることは周知の今日ですが

  55年前の、、当時としては
      この薬によって、

   赤痢患者さんの治療体制が確立したのではと

  世間のマスコミは報道し始めていた頃ですよね。
   

ダンナは、、この二つの薬に対して
   赤痢菌が薬剤耐性を持ってしまうのではないかと
   考えたのですね、、、

   感染するかもしれない,、、家族には。ありがたくない研究ですよね。

  31人の赤痢の患者さんばっかりにこだわって
   抗生剤の効力が
   赤痢菌の方が、、、薬剤に対して耐性を持つというデーターを
   突き止めたりして、、、

懸賞当選と言っても、、、
   ゴルフの優勝の様な
        賞金が出るわけではありません。

しかし、、、結婚54年目にして
コロナに閉じ込められて、、、解決法は
色々マスコミは提示していますが、

54年前の、、、若い医師の懸賞論文の結論は
細菌と、ウイルスの違いはあっても
薬剤耐性ということに関しては

同じような、、、事が、、、危惧されるのではと、、、

薬剤師根性に、、、またもや,、、火がつくのでした。

塩野義の日本製のコロナ対策の薬剤も
こうした、、、薬剤耐性の統計を、、、指導的に
細かいデーターで、、、解りやすく提示してほしいものだと思いました。

断捨離で、、、旦那の論文整理をしなかったら、、、
こんなことは、、、日記に書かなかったかも、、、しれません。

夫婦とは、、、人間関係でも
不思議なところで、、、出逢っているもんだと、
しばらく、、、若きインターン時代の旦那の残した

抗生剤の薬剤耐性と「赤痢」の論文を読み返しながら

裏方として、、、雑用引き受け人として

50年以上も、、、同居していた接着面が
こんなところにも、、、有ったのだと、、、
若き現役時代の、大学での薬剤の当直の時の
緊張感が甦ってきたりしました。

  その後、、、旦那は7年近くかかって博士論文を取得しました。
  家庭は、、、ローンと謝金経済で、、、さすがに私も、、、
  仕事に勤務するようになりました。

     患者さんを診療する傍ら、、、夜になって実験をするものですから
    夜中の2時ごろ、、帰ってきてから、、「飯」
    そしてとんぼ返りで、、、大学に実験室へ、、、という


親も子も寝不足で、次男は100点取っても
授業中、、いつも寝ているというので、、、3の評価でした。
試験は100点、、、授業態度は居眠りばかりの評価は3
点数穫れれば良いという世の中では有りません。
育児の協力をしてほしかったですね。

結婚して、、4年間も、、、
風呂のない2間のアパートで
家庭を振り替える事は有りませんでした。

    子供が2人になったとき
   風呂が無いでは済まされないので、、、
風呂の有る連棟長屋に移転しました。

地盤が泥炭地なのに、、、筏工法で土台を造ってなかったためか
タッタ、、1年で、、、、左に置いたペンが、右端まで転がるという
家が傾いていることにびっくりして、、、

今、、住んでいる羊ケ丘に、、、
   ミサワホームに全額依存して
「9パ^セントの高利息の提携ローン」で
初めての、、自宅に入居したのが
  昭和50年前後の事でしたね。

博士号の研究のとちゅでは有るし、、
目の前に30歳半ば過ぎという、、、
若さが使える最後の年だし、、


医師は、命を預かる仕事だけに、、、
   瑞瑞しい面白いキャラでは
        務まらないのだろうね、、、きっと?

  解剖するという、、、、学部だから、、、ね、、、

ハンパじゃない、、、冷静さで、、、

      小説にはならない性格の、、、いつも正しい旦那ですね、、、

つまんないな~、、、
もっと、軌道をはずしてグラグラに傾いて
   やっとの思いで、、、
     医師をしているというのではないのですよね。
早朝7時前に出て、、、夜が8時を過ぎないと
    帰宅しない。
深夜危篤も、、泊まりも多かった。
子供と遊んでいる姿はほとんど見たことが無い。

友人や同僚と、仕事中心のスタッフのコミュニケーション第一。
勝は2のツギ3の次。

何十年も、、同僚からの年賀状来てましたね、、、。

私とは、、、未だに、、、出逢っていませんね。
時間をつくるのが難し👊。

長男生れた時も、、、間に合ってないし。
私の母が死んだときも、、、
葬式来ないで、、、病院で診療していた。

生き仏が先だって、、、冷静だった。

半年後に、、、母の行った高野山に、、観光を兼ねて


     ダンナを連れて行った。

  ダンナは高野山を気に入って、、、

  あれ?ミヤコちょうちょうさんや、、
     鶴田浩二も、、、此処にい居るよ!!

     お参り忘れて、、、はしゃいでいました。

父と母が、、、中の橋の大木の上に
        くっきりと姿を現して
           写真に、、、瞳以外は
                誰が見ても父だとワカル姿が映って、、

     高野山で1年間除霊していただきました。

奥さんのお母さんが死んだときは、、、葬式には
    奥さんの、、肩を抱いて、、付き添ってあげないと

       お父さんが、、怒って、、、此の世に舞い戻ってきますよ!!

      お父さん!!ありがとう、、、
        ダンナと出会ったのは、、初めてね!!
      中の橋の初対面を、、、写真でばっちり撮ってきましたよ。

     嘘のような、、、ホントの話です。

   信じるも、、信じないも、、、この分を読んでくださっている貴方の勝手です。


    

  高野山で、、ダンナとの結婚の成り行きを、、父に話しました。

  付き合ったことが無いのですが、、、お父さんと同じ使命を持っている様なので
   お父さんと思って「医師をすることに」  
     全力で、協力して。
       54歳という、、早すぎたお父さんの人生の蝋燭が
           燃えられなかった分を、、、継ぎ足して

            しっかりと

       お父さんが出来なかった分まで
      社会に貢献できるように
     お父さんも、、、高野山から守ってくださいね。
「お父さん、、、旦那はね、、、救急ヘリが札幌の空を飛んだ時
      その時の知事さんや、札幌のリーダーと一緒に
        テープカットしましたよ。
          救急患者さんが、、道内でさえあれば、、、
        助けられる体制になって
      心から、、良かったと感謝もあるのですよ。
   54歳で、、、どうして、、、高野山に来てしまったのですか?
   早すぎたと思いませんか?

   

こんなに元気だったのに、、、

   患者さんの手術は成功したのに、、、お父さんの方が、、、
       死んじゃうなんて、、
       、今でも、、、
         お父さんは
              寝ていると、
                    思っています。

     お父さんに報告します!
  ダンナとは、、心の出逢いは、、これからの課題です。

  「医師をすること」のサポートが、、認められるような結果を出せば
      恋とは,、違いますが、、、
        人と人の、、人生の相棒として、、出逢う可能性が有ります。

     人生が終ったときに、、解る事ですね。

タマタマ、、旦那の先輩の結婚式で、
         同じテーブルだった。
前の席に居た私の「友人代表の挨拶に
           ゲーテの詩を読んだのです。」

   ゲーテの文章力の魔術にかかってしまったようです。

母親に,遭いに来て、、、
博士に成ったら、、、
  婚家の「外科医師」として
     お宅で働きます!、、、と。

母には殺し文句だったっと思います。

きっと、、亡くなったと思った、、お父さん、、、あなたの魂が

お母さんの為に、、、旦那を連れてきたのでしょう??
   違いますか??

父は答えてはくれないが、、、父の実家の有ったあたりを散歩添ていると
   結婚式場が有ったのです。
、、、ダンナは、、そこでも、、催眠術にかかってしまった。

   僕たち結婚する運命なのかな????

  初恋の忘れられない、、、寂しい心が
    「結婚式」をしたくなったのかもしれません。

母に懇願されて、、、札幌に、お父さんのの亡き後の
「内科:「外科」の看板を守ってくれる医師の「志願に答えて」

3~5年、博士号を取得したら、、外科医を我が家の迎えたい!!」

懇願されて、、、付き合った事も無い、、、旦那と出会ってしまった。


私は、、東京大学に2年勤務したのちは
  母校の勤務になる約束で
    直々の、、、教授に、、、東大に行って
     2年以上は勤めてきてほしいと
       母校に帰れる約束で
         東大に勤務しました。

自分では就職活動はしていませんでした。

東京大学の薬理の基礎学習研究生
東京医大の臨床薬剤師。
関連病院で、、、
千葉大の外科医の勤務する病院に
教授の推薦で移動でき☜
終生、、この病院の薬局に勤めようと、、考えて
3年目の勤務に入っていた矢先、、、
    母校への帰還は考えなくなっていました。

勤務を辞めて、、北海道行き、、という

想いもしない運命が、、、
ダンナとの出会いだった。
ダンナの先輩にあたる外科医が

  いろいろと、、、家内になる女性の先輩だからと
     板面したようなのであるよね、、、

付き合ったことも無い、、、友人の先輩!
   付き合ったどころか、、、初対面の旦那、、、!

後輩の結婚式が終ったら
    北海道旅行を予約していた私だった。
後輩の配偶者になる外科医で、ダンナにとっては先輩で

  しかも、、全て招待で、代表挨拶を頼まれた私の
    札幌でのイチニチヲ、、、
     ボデイガ-ドしてほしいと頼んだそうです。


それとも、、初恋の人が結婚してしまったので、、、

気が付くと30歳直前の自分に、、、
オッサンを感じて
慌てて結婚を目的に考えたのかもしれませんね。

男と言う人類は、、、
「お母さん」か「初恋」の人以外は
心を奪われるという事は無いのでしょうね、、、きっと。

そういう、、私も
「独身主義に近い自己実現を目指していた。」

女性は結婚して、、子供を産んだら、、
社会からは蚊帳の外。

姓は他人の夫の名前に変わり
名前は、、、○○君のお母さん、、、
  私の戸籍の名前は無くなり、、、24歳まで
    小学校から大卒まで、、東京の学校で学んでも

 北海道に嫁げば、、、よそ者の、、、おばさんという
   どんでん返しの、、居場所のない人生が始まり

子供が成長して、、
、道産子として仲間に認められて行くにつれて
誰それさんのお母さんだから、、、、という、、
子供ゆかりの居場所が出来る。

これは意図したことではないが、、、


ダンナは、、理知的で、、、
大学にも順番を感じるらしい。

東大,京大、阪大、、九大、、金沢大、、千葉大、、東北大、、
別格なのが、、、母校の北大,、

博士号を書き終えて、、一般の病院で診療し始めた時

私立の医科大学を卒業した外科医の若い先生に出逢い

手術も上手だし、、
看護婦さんとのコミュニケーションも優れているし
人間的にも学ぶことの多い、、
奈良から来た先生に出逢ってから
「出身の大學」では、医師の実力は
     若だ無いね。

    患者さんを、、助けるなどと考えるのではなく

     患者さんの内なる持てる回復力を引き出すという
      不思議な技が、、、
     私立大学を卒業した彼には備わっていて

     国立や公立の医師が陥りやすい
     大學にランキングを付けるという

     上から目線が、、、彼には無くて

     患者さんの心を、
     「自分で治癒させるんだ」
              という気持ちを
                引き出せるんだよね。

      

     

旦那は、、大学に順番を付けなくなりました。


   
そして、、
臨床医として生きることの
意味を感じていったのは
あの、、若い、、
      私大の外科の先生との出会いが

  医師は「病気だけ」診るのでは
 足りなくてダメだ、、、あの先生は人間を丸ごと診ている、、、

  患者さんの立場も気持ちも、
    家族関係も、、全て、、ストレスも
   人間丸ごとを診ているから、、

  患者さんから「治癒能力をひきだせている」

長い間、、若い先生が、、なんで。。あれほど気が付くのか
考えていたそうです。

  結局、、その先生の父親という人も「医師だった」という事でした。
       

    平成時代を振り返ってみると
畏れおおくも。
平成陛下の心臓の手術をされた
有名な外科の先生も

   お父様が医師でいらっしゃったと、、本に書いてありました。

あの先生が心臓のバイパスの手術を執刀された時

「神の手」と言われるほど、、
手術の評価の高い先生でした。

あの先生の親友がTVに出て来て、、、
  「彼は、、指にも脳がある人です、。。。笑顔。」

そして、新聞に、、バイパスの図が出た時に

  本州の内科の先生からダンナに手紙が届きました。

  つまり、、、旦那の博士論文が、、何十年も前に
  新聞と同じ、、

バイパスの実験で

   90匹以上の犬で
   、心臓のバイパスの手技を論文にしていることに対する
    医学の臨床と、
    基礎の研究のドッキングの、、
    感動のお手紙でした。

私の様な医師とは別の視点の主婦にとっては

  陛下が、、ご回復されたというだけで

    心より、、手術をされた先生の
    手術の腕前と
    その、、冷静な、、強いお心には
    敬服しかありませんでした。

    

内科医の先生方からすると
バイパス手術の発想と、
実験的段階までさかのぼり

  陛下のご回復を喜び、

   基礎研究した論文まで、、探して読んでいるという

    医師のこだわる部分の鋭さに、、、
    「命を預かる仕事」をされる医師と呼ばれる人々の

    自己研鑽と、、、データーの集め方や判断の学術には

    私ごとき、、、主婦が、、、日記に書くのも、、はばかられますが

    この年になって、、思ったことをすぐに、、
        書きとめておかないと

    万一、、痴呆に成ったら、、、
      私は誰?、、、此処はどこ??

    そのようなときには、、、日記を読めるように

       書き留めておきます。

      自分の為に、、、書いています、、、日記帳を、、!!



       ダンナを含めて、、、医師は 勉強マンだと、、つくづく思いました。

博士号を取得するまでの間は、、、
収入は無い大学院生が
30歳という、、、
無一文でも結婚できる「若さ結婚」

29歳を過ぎた、、剣ヶ峰の北大の医師。
実験を続け乍ら、、、結婚が出来て、、父親になれる条件。

難解な問題を解いて、、、北大に入学しただけの頭の回転は
親のサポートで、、私立の大学を楽しく卒業したはずだった
甘かった、、私の、脳みそとは
次元が、、違っていた。


ダンナの考えている事は、、、もっと高度な次元かもしれませんが
私的に、、、簡単に考えてみると、、、
本人をアタックしても、、、

勤務中の薬剤師だし、、、

せっかく勤務している仕事を止めさせて
      、、、北海道まで来させるのは


母親と取引が、、、
「将を引とすれば、、、馬を射ろ!」

熊さえ矢で射とめた北海道の、、戦術は
的は、、馬に絞られた。

自分主体の目的に達するという、
「天然」の「結果こそ正義」みたいな、、、??

男兄弟の中で育った私には
兄とか、、旦那のタイプは、、、
近づかないのに限るという、
、敬遠したいタイプの男性であった。

頭脳派の、、、煮ても焼いても喰える相手ではありません。


女性の考えでは、、、
似ても焼いても喰えない、、強い、、俺.。、、、俺の道を行く!”!

昭和40年代は、、、戦後である気配が残っておりました。

大学院という、、就職とは違うコースには
進学する人は、、少なかった時代でした。

頭の良さだけでは、、、
ITそろばん並みの回転のよさで、、
学者系の考え方だったのだろう、、???」

勤務中で、、

独立して生活できるだけの給料を貰っていた私を
母と掛け合って、、、
  外科医の父の看板を、、
やがては守りに帰ってくるから

    あなたの息子に、、選んでください、、、と

殺し文句に近かったのではないかと、、、
強いようで、、、実は女性だった母の
弱い面を見てしまった気がした。
 
私には絶対権力を持って
目くばせひとつで
娘のわつぃを、、、リモコン並みに動かせた母をして、、、

  「お願い、、、お父さんが、、若くなって、、戻ってくるのよ、、、!!」

     札幌の、、、
    3ねんや5年は、、、
      「いい思い出」とともに
        実家に、、外科医を連れて、、戻ってきなさい、、、。」

母は、この結婚を一人で進めていった。
   興信所を放ち、、、勝手に、、旦那の事を把握していった。

      悪い所は無いから、、、家に来てもらうには良い人だと。
      
結婚👌、、て、、、そんなに、、失礼なことしてまで
早急に決めるものなの??

そんなに、、無味乾燥下、、、失礼な事,、、したりして、、、
本人から聞けばいいでしょう!!、、、

母は、それには答える義務はないという感じで、、、返事はしてくれませんでした。

母の晴れやかな顔を見たのは、、、しばらくぶりだった、

わつぃ自身は、、、少なくとも33歳ぐらいまでは
一人前の仕事が出来るまで、、、
独身主義で行こうと思っていたから、、
病院薬剤師を辞めたくは無かったが、、、

     55歳になっていない、、、未亡人の母を、、、
      寂しさから解き放てるのなら、、、と、、

       負けて、、仕舞った。
     、、、流されてしまった。
     、、、母の勢いに、、、。

父の診療を、
   父の出逢った患者さんの難しすぎる手術を、、、
    影からいつも指導してくださった
    京都大学の教授に

      和紙で、筆で、、、

   「娘は、、外科医に貰われてゆきました。、、」、と

     我がことのように、、喜びの手紙を書いた。

    教授からの、、おめでとうの、、手紙を

      母のものなのに、、、私には、、関係ないと思うのですが、、、

  「宝物のように」、、、私に転送してきた。

  母は、、外科医だった父が、、、 
      忘れられないのだった。

若き外科医が、、、50代の御婦人に持てるのは、、、
  スゴイ「力」ですね、母は旦那の30歳の姿に
    外科医だった父と出会った日の事を
      重ねてしまったのだろう、、か、、ね、、?

私という、、、娘は、
、母の心の、、何処に居るのでしょうね、、、
   母の、、、私物並みですよね、、、

  24歳の、、、困った売れ残り、、、

  黒メガネの似合う、、、オールドミスを見るような、、、

ピアノに生きた、、、
自己愛症候群の、、
母の、、自己愛の、症状かも知れない。

父を亡くして、、、娘が、、、自分の責任範囲だと
  勘違いして、、、重荷に感じていたのかもしれない。
お母さんから、、、重たい娘に見えても、、、
臨床病院の勤務薬剤師は「自立しているのです。」

私は、、自立しているって、、ワカラナイのかしら??
明治生まれの御婦人は
医師と結婚すれば、、、将来安泰で、、、
幸せは、、、そんなことではないでしょう、、、

  自己実現にかけている、、、理科系の
   私の心が理解できないらしい。

兄貴は兄貴で、、、医者は医者同志しか助け合うことができないから
医師免許があれば、、、顔も、、性格も後は、、、何でもよいから
  健康さえあれば、、、助け合えるから、、、後は何でもいい、、、」
  これまた、、、人の事だと思うと、、、
   厄介払いさえできるなら、、、と、、言った感じだった。

昭和時代の生まれの、、、男尊女卑って、、、
あきれるね、、、、、
女性は結婚意外に、、、道は無いのでしょうかね?!
人格虫の発言と、、おせっかいが、、、結婚するまで
  続きました、

24歳にもなって、、、実家に居るなら
   トイレットぺ-parを使うときには、、

       お兄ちゃんに断れ、、とか、、
「いいか、、女性は結婚して,、婚家の為にも
    うまく、、喰われるのが、、女性の道だ!!」

家中が、、追い出し作戦で、、、

日本の男尊女卑は、、、
   私ごときが、、、あがなえるものではない、、、

      不意打ちの連続であった。
   

安住の出来そうな、、勤務病院に,、、とうとう、、たどり着いたというのに、、、
  手ごろで、、実家とは徒歩圏で
   父も兄も、、同じ医師会員の、、、
     総合病院に勤務で来ていたのに、、、

母の、、、親の権力を使った力って、、
、娘に対しては、、、ウルトラの
   蛮族の、、エゴな、、、自己決定が、、、
       まかり通る時代だったのですね。

   

、、、明治生まれの、,、大正、、昭和の、、富国強兵時代の
  男尊女卑、、、の風潮は、、、

    女は特殊技能あっても、、24歳を境に、、、
    「結婚しろ!!!」
    男の子を産み育てなさい!!

  家族は、、、やっかいものを追い出すように、、、

   ダンナになるはずの外科医をもてなした。
       
        
私の気持など、、解ってくれる人は一人もいない。

「父から、、母さんを頼む、、」と言われたのに、、、
3人の「男の子」だけが必要な子供だった、、、当時の風潮!!
お母さんと同居しながら、、手伝える距離の
仕事場なのに、、、
ふり返ると、、、戦中に生れた女の子は
   「殺されなかっただけでも、、、運が良いのだそうですね。」

立派な「5月人形」は有るのに
生涯、、
「お雛様の人形」は、、我が家には無かった。

長女にあたる,、、紀由子という名の義姉は居たそうですが
戦地の近くの病院の寮で、、、死んだそうです。
次女は、、、お雛様を買ってもらう事は無理だったのでしょうね。

富国強兵時代は、、、「女の子」、、、が生れたら、、
家中が、、「がっかりした!」と言われて育った。

   愛されなかったら、、、どう生きるか???
   自分で必要とされる力を持つことです。

薬剤師として現役の私は、、、
頭越しに、、
「将の乗った馬」と取引されるような

半人前の売れ残りのミスとは違うんだと!

24歳は、、これから、、
社会人大学院に通いながら
論文を書くのだと、、、
自立の道を手探りしていた。、、

 内科医の兄が絡んで、、、
  兄は学生結婚をしていたので

     小姑の私が、、、
       邪魔で邪魔で、、仕方が無かったのだろう、、、




私の居場所は、、家族なのに。。。

兄は、、自分の奥さんの名前の下に「様」を付けて呼ぶように
私に、、強く命じた。

自分の奥さんと、、奥さんの妹に
揃いの、、オーバーコートを買ったから、、、
見に来てくれ、、、

私のもあると、、、思うでしょう??
    
普通は、、親戚女性の仲良しを期待して
3着、、買うと、、思うでしょう、、、

人生は、、そんなに甘くないのです。

着て見せる姉妹を
拍手する役に呼ばれていただけで、、、

ご丁寧に、、兄が言った事は

「お前のコートは、、買ってないから、、
   未来の旦那になるヒトに
       買ってもらいな!!、、、」

         早く、、家から出ていけ,、、と、、ばかりに、、

三人がコートを囲んで、、笑いあう場所を、、、

   またか~~~追い出し作戦か~~~

     いやになるな~~~。

とにかく、、日本の女性は24歳にもなると、、、
  針の筵の、、、実家だったのです。

  未亡人の母と、、兄と、、兄嫁と、、、

  
3人で、、、私の結婚は決定した。
極め付きは、、、ワツィに無断で、、、
「内科医の妹、、、薬剤師、、医家に嫁ぎたし」
手時かな雑誌に兄が広告を出してしまったのです。

勤務から帰ると
毎日、、応募者が待っていて、、、
「兄のイタズラです、、、ごめんなさい。」

謝らねばならない一か月でした。
なかには、、、父親に買ってもらった高級車で
家まで来てしまった方も居て、、、

車の助手席の足元には、、
、新聞紙が、、マットの上に敷いてあって
  愛犬でも迎えに来たような、、雰囲気でした。

人をからかうのも、、、度が過ぎると思いながらも、、、

我が家は、、、本気で、、24歳の女性は
どうしても、、、追い出す気持ちなのだと、、、

   ゾ~となって、、、さみしかったですね、、、、。


どうしても、、我慢できなかったら、、、
離島の病院で一人で生きる手だってある、、、。

最後の、、母への親孝行で、、、
後は、、成り行きだと思って
付き合ったことも無い、、、
どんな人間かも知れない、、
戦前に生れた日本人独特の、、、
「オレオレ万歳、、」
   「男尊女卑時代」
     「富国強兵時代の名残」

  結婚生活は、、、思いやられるだろう~~ナ~~

北海道は「医師は、、お金持ちの部類に入るそうだ???」

医師は、、、東京とは違って、、えばっている、、、

東京では、大きな会社の社長の御子息で一杯だった日大では
衆議院、参議院、東京都議会員の息子さんもいっぱいいた。

有名会社の御子息で一杯だった、、、
日大の理工学部薬学科を卒業している。、、、私は
   駿河台に住むつもりだった。

でも、、、結婚はしてみないと、、、我慢できない相手なら
       別れればよいと、、、

     馬には、、乗ってみよ、、!!
     人には添ってみよ、、、

  之も経験だ、、、単位を撮らねばならない女性の道かも、、、!








50年前の札幌は、、、郊外の家紋のついた家が有るので
何処の殿さまの下屋敷カナ??

見ていると、、、長靴を履いたおばはんが、、、

 「見てないで、、家にはいるかえ?

      何?…見てるだけだって、、?

        いんでないかえ?、、、こっちへきて、、、

            茶でも、、飲んでいけ??」

前の、、砂利道を、、、馬車が走ってゆく、、、

    地下鉄は無いし、、、北24条までしか鉄道は無かった。
こんなとこで、、、薬剤師の求人も、、、
   東北薬科大生以外は求人が無い、、、
  アパートには風呂が無い、、、
    砂ぼこりの中に、、馬糞の乾いたほこりが混じる、、

   3年5年と言っても、、、
     どうやって暮らせばいいのでしょう、、、

    奨学金をもらって、3影地に1ッペンバイト。

    3年間薬剤師で貯金したものを、、切り崩しながらの、、、
     心細い、、独りぼっちの生活が始まった。

  外科医だけに、、連休もお盆休みも、、正月も、
   、大学に泊まり込みの研究生活である。
   子供を産んだのも、、一年間実家にお世話になった。

    迎えにも来ない、、、実家へのお礼にも来てくれない、、、
   一人ぼっちで、、息子を抱いて、、おむつを持って、、

   リュックにはミルクを小分けしたものと、、ミルクビン。

   一年ぶりで、札幌に到着したのに、、、
    ダンナも来ていない、、、
    一人ぼっちで、、、アパートに帰宅。

   アパートの部屋は、、札幌を離れる前に火事に合って
   絨毯を丸めたまま、、、
  あちっこちが修理された建材なのに、、、焦げ臭い。

    半畳しかない流しには、、、初kkが汚れたまま、、積まれている。

   結婚できる成熟した大人では無い、、、と、、、覚悟が出来た。

「お勉強が出来て、、、研究が出来て、、医師免許を持っている」、、、

   母の判断は、、「賢い人間か、、、自己中人間かを、、、判定できていない。」

  こんな、、勉強バカとは、、、

   社会の相談相手でもある開業の医師の成熟度と、、、
   比べる方がおかしいのかもしれないが
 自分の実験を続けて、、
   博士号を取得して、
     医局に人事として登録される事しか

  何も見えない、、、

昭和40年代の、、、東京からの
     「都落ち,、、と言われた、、北海道外からの
             北大医学部入学組は、、
         道内の医師として
           お仲間にしていただくだけで、

         家庭も、、子供も、、振り返る時間が無かったという
       下隅時代が、、、芸能界並みに厳しいのでした。
男5人、、女性2人の、、本来なら8人家族の私。

  戦地に行って医療の従軍中の病院の院長時代に
     終戦色濃くなった中で、、、3人の兄妹は死んだ。

      最後の連絡船で、、帰国を許されて、、、
         日本での焼け野原になった東京の実家、、、

      父は無理がたたって、、、54歳で、、目の日に手術を成功させて、、

     麻酔が冷めるの待ちながら、、、眠って,、起きてこなかった。

    それと比べれば、、、風呂は無くても、銭湯が有るし、、

   エジソンの母は、学校に行かないエジソンを、、自分で導いたというし、、、

     エジソンにならなくたっていいわけだから、、、


     大自然という、、、本物が有る北海道では
     北海道そのものが先生になって、、、子供は育つだろう、、、

    考えを180度変えて、、、 
北海道の必要とする人間に育ってくれることを
  厳しい四季と、、、大自然に任せて、、、

  母親業の家庭を守る事だけに、、、目標を切り替えた。

    何を書こうとしていたのか解らなくなりました。

パソコンは、、これで、、終わるかもしれない、、、
何で78歳の私が、、、雪を掻きながら、、、

  子育ても終わったのに、、、北海道に居るのか、、??
  いつの間にか、、、此処が居場所になっていて、、、

  雑用が、、本職になっていて、、、
   coronaの時代でも、、、
  何とか食べて行ける、、、我が家、、意外、、、

   行くところが無くなってしまっていたと
言うことかもしれません、、、



  人生ってなんなんだろう?????

    結局女性は、、子供を産んで、、
       留守を守れて、、、
         弁当と、、、食事がつくれて

           洗濯機のボタンを押せて、、、

女性の人生は、、何とかなってしまいそうです。
専門の薬剤師をしたのが5年しかなかったので、、、
老後の年金が少なくて、、施設に入るには、、無理だと思うので

医師である旦那の顔が立つように、、
社会に戻るお金の使いかとをして来たので

女性の老後の金銭は、、
財テクで何とかしようと思って、、

拓銀、、日本航空、、、の
うごかさなくてよい 株にしてあった二ですが、、
会社ごとつぶれてしまい、、、

日航などは、、紙切れ一枚で、、、
問答無用で、、、ゼロ円報告だけでした。

株券は、、壁紙になりそうですが、、、

働いたお金は、、、こうして、、国に帰ってゆきました。

人生は、、、「アッ!!」と驚く、、、為五郎ですから❕!ね!

人間は、、、波だけで生まれて来て、、、裸で死んでゆくという
 原理を、一生懸命生きれば、、、

   それを人が、、、幸せという。

80歳過ぎただんあに、、、年賀状が,、分厚い束で届けられた2023年。

現役の仕事場では、、、毎年かかっているという、、婆ちゃんの言うには
「先生、、ワタシャ、、、27回目の健康診断でも、、
              健康じゃという、、、先生よ、、

                 来年も来るから、、よろしく、、、」、、、と言ったと、、

元旦から、、、主人は、診療一筋の人生であるようだ。

 世話を、、裏方の家庭から、、担当してきたが、、、
    ダンナはどういう人なのか、、、私はいまだに知らない。

       ひたすら、、「医師をする旦那の、、裏方の仕事として、、、」

  ひたすら、、旦那にとって都合の良い仕事をセットアップして

    私も、、仕事に生きた。
ダンナの個人的な興味に触れる時間には恵まれなかったが、、、

長男息子、孫たちは旦那を尊敬して、、、自慢の父と、、爺ちゃんである。

   私は、、、信頼は去れているとは思うが、、、

      「婆ちゃんは、、、何処の家にも、、居るような、、優しいばっちゃんになってほしい。
   雪掻きなど,、、手伝って、、、と言ってほしい。

     たまに雪掻いておいたら、、、
        後で、、お金を2000円くれるのは
              、、、どうして?」

未知なる札幌だった時期だけに、、、  痛烈な孤独
    お金が無いのは、、、首が無いのと同じという、、、

   を、、味わったかもしれない。

   無償の愛を忘れていた、、、殻に閉じこもっていたことを
        
       孫に教えられた。
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市長さんからのお招きに、、、のこのこと、、、
身分も立場も、「おっかちゃん!!!」で、

息子を抱いて参加しました。

札幌市のオリンピックの有ったころの話です。

私は、息子をベビーカーに乗せて

外国人の子連れのオリンピック客の

「グッド、、ウエル、、ガイド」の札幌市のバッチを付けて

知っているのは
{知事公館」「時計台」「五番館」「ホウヘイ館」
「ひつじが丘」「北大の並木道」「すすき野」「中島公園」「豊平川」
、、、こんな知識しかありませんでした。

相手は㎜外人さんだ!!
唯一、、、私より、、、札幌を知らない種族だから
私だって、、、お役に立てるでしょう、、、!!

まず、、、家族で、、馬車に乗って、、、大通り公園をパカパカ、、、

こんな時代だった記録が

就活で、、、整理していたら出てきました。

もう少しで、、終わってしまうかもしれない、、日記帳ですが

札幌に来た時から

札幌が大好きだった、、、足跡なので

今は大きくなって、、、50歳を目の前にして

独身で、、、家なし、、車なし、、、貯金ナシ、、、
大學医局でやっと、、役に立つ医師として認められ
出発した息子の為に

20年以上も、、里帰りしていない、、、もう、、

  本州に根付いた息子と、、、

小、中学校、、、高校と、、札幌市
大學も道内の長男家族の、、、
完全なる「道産子家族」の為に

お嫁さんも、、、正看護師さんで勤務中という

一緒に住んだことも、、、無いですが

週末には、、会食を、、月に2回、、、しましたね。

家族そろって、我が家に泊まった事は有りますが
孫は男の子ばかりなので
時間が宝の、、、孫たちなので

働く能力を一つだけ、、、特技を付けて

そこは、、、俺の出番!!と言えるものを

一個だけでいいから、、、身に着けて、、、

社会に帰ってゆくのだよ、、、と。

爺と婆は、、、細腕に成ったりと言えども

この、、「気迫」「この筋肉」で

孫子との@「淡交如水」。。。ココロは「水あめ」の

とう留を続けてきました。

札幌市に、、今は言いたいことは、、ひとつだけ!!。

本州からやってきた、、、札幌永住の若者が

札幌市に無い、、、本州の習慣や、考えが

受け入れられる社会にすることが、、、

これからの生き残りかもしれませんね。

スマホや、、パソコン、、IT、、電気自動車、、、

ソニーが、、、車内がイベント会場と化した車をつくり始めている以上、、、

東京に集中していた経済を動かす会社の事務所は
オンラインで、、札幌や、、旭川、、帯広と

本州勢の頭脳が入ってきますよね、、、

その時、、「医大ですか?」
      「北大ですか?」
        私のマイホーム、、、ドクターは「医大なので!!」

  「ダンナさんが北大の医者なら、、、ガクシャサンダ~~ね」

付き合っても、、、あっちこっち、、、行ってしまうんだよね、、

50年前は「北大の医師の奥さんは、、よそ者と間違われました。」

「奥さんは、、東京の出身だね、、、 先生は北大出てるから「道産子だね」

完全に、、よそ者扱いで、、、
何処から、、仲良くしてゆけば良いのか???

先生たちも、、忘れ物の多い息子を

家まで、忘れたものを取りに行くようにと
帰宅させてきました。

忘れ物の多い、、、我が子、、、

どういう訳か、、、母の居ない子とばかり付き合っていました。

私は、、息子も、、
頓珍漢な私の育児のおかげで、、、
結構、、苦労しているのが解りました。

数学も、、理科も、、100点で、、、3の評価でした。

PTAで、先生に、、、100点ばかりで「3」なのは、、どうしてですか?

聴いてみました。

居睡りばかりしている、、そうです。

先生が、、腹が立って来て、、、「おい!起きて!!」
起こしては、、黒板の問題を解け!、、、というと

すらすらと、、、書き連ねて、、、また寝ている!!

先生にしたら、、、お勉強が出来ればいいというものではない!!

腹が立ったそうです。

一回や2回じゃない、、、良く寝ている、、というのです。

 実は、、そのころは、、、
  主人が大学院で、、博士号に、、ハッチャ気の実験をしていたのが
昼間の診療を終わってからの実験だったので、、、

帰宅が12時とか、、、夜中の2時,、とかでした。
                 


あの頃は、、暇さえあれば、、、息子達のスケッチをしていた。

 







このパソコンは、、、もうすぐ終わります。

  どうするか???決めていませんので、、、

読んでくれている、、孫子を思い出しながら

思い出話を、、、書いておきます。

至らなかった、、、ママでしたが、、、

  



   何も考えなかった、、、
独りぼっちの北海道での子育ては
子供は本物の自然が有ったから、、、
勝手に、、人生の厳しさを学んで、、、飛び立ったという

  
            
    、孤独だったはずの、、北海道移住体験54年の日記メモでした。



kigatukuto

気がついたら、、、旦那の写真ばかり撮っていたので
自分の写真記録が無いのに気が付きました。


  

      


    

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1 コメント

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Unknown (ikuchan)
2023-01-07 19:03:30
花鳥風月さま

もし(仰る通りに)このブログでしばらくご無沙汰になるとしたら…

どうぞお身体に気をつけてお元気でお過ごし下さい‼︎ そしてまたいつかgoo blogでお会いできます様に(⌒▽⌒)💐💕🎀💖
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