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九州書道教育学会

福岡県小郡市を中心に書道通信教育・筆耕業務・支部教室運営・書道教室を展開中。

御礼状

2010年10月09日 21時00分03秒 | 日記

毛筆の手紙文を依頼され、したためたもの。
サイズA4
余白の確保もあり、字数からして、この様にまとめました。

面接

2010年10月09日 08時04分12秒 | 日記
人を採用するのに 必ず面接をする。
履歴書だけで、凡そのことは察しがつくのに、何故か? という向きには、こう言いたい。

人は霊的動物

その人から立ち昇る独特の雰囲気というものがある。
写真、書類では解らない何かが、ある。

言葉を交わさずとも、その人となりを判別できる。

電車に乗る。 対面した側の座っている人はどういう人か? という時、判別できるだろうか?

例えば仏像。
仏像には、後背位には、必ず メラメラ燃えている オーラがある。
人間の目には見えない。

ところが、昔の人々は見えていたのである。
現代人には何故見えないのか?

欲とか、あらゆるものが影をなして、見えないのである。

心を研ぎ澄ますと、見えると言われる。

オーラとは、ゆらゆら揺れる陽炎のようなもの。 健康状態、考え、心理まで すべてが解るという。
本当なら 修行してでも モノにしたい。

手を太陽にすかして見る。
と、何やら、立ち昇るオーラらしきもの。これらから、入っていけば、何とかなる?


松下幸之助氏は言った。
人を見る時、運の善し悪しを見る。 わかる、という。 幸運の人しか採用しない。学歴、学問などより優先するという。

達人は、違う。

勉強したい。凡そわかる。

日本語

2010年10月09日 06時31分00秒 | 日記
日本語はコトダマ即ち言霊の込められた神界に通じる世界唯一の言葉であることをご存じだろうか?

世界経済では、世界各国様々な通貨がまかり通っているが、どれもこれも金と交換出来る通貨はない。あるのはアメリカのドルのみである。それ故に、為替通貨のドル交換レートが毎日毎日気になる。一ドルが八十二円など。今日の円高は、日本の円が値打ちを増してきたからではない、アメリカのドルが、即ちアメリカそのものが値打ちがなくなりつつあるという現象を如実に表した円高なのである。今後一ドルは近い将来五十円を割る超円高になるのは時間の問題。間違いなくそうなる。

それと同じことで、言葉の世界では、日本語のみが神様に通じる言葉である。

神前でノリト即ち祝詞をあげる。この祝詞は神に聞こえる言葉。

「高天原にカミツマリマス カムロギカムロミノミコトモチテ スメミオヤカム イザナギノミコト 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊(みそぎ)払う時になりませぬ ハライドの大神達 諸々の曲が事 罪穢れを祓いたまえ清めたまえと申す事の由を 天つ神国つ神 八百万の神たちとともに 聞し召せとかしこみかしこみ申す 天のヒツクの神守り給え幸はい給え 天のヒツクの神ヤサカましませ 弥栄ましませ 」

御神前のノリトだけではない。日本語全部が、大和言葉全部が神界に通じているのである。だから、相手を褒め称える言葉を使う人は、自分自身が弥栄する。逆に 汚く、相手を罵倒する言葉は使った人が 巡り廻って不運に見舞われる事態となる。

なのに、日本語が重んじられる様子はさらさらないのは、日本語を使う日本人の軽さから、値打ちのなさから来ている。
ヒノモトは日の本即ち日出ずる国の、世界の範たる国であった筈である。
歴史以前の、弥生、縄文時代以前の日本。日本に人が住みついて五十万年は経つ。縄文時代は、狩猟文化で、野山を駆け巡って動物を追い、狩猟をしていた原始時代というが、逆に それよりはるか以前は こんにちと変わらぬ文化を擁した時代があったのである。 歴史としての記録がない。歴史というのは、人間の争いの日記でしかない。歴史がないというのは、厳粛な平和な時代がずっと続いていたことの証である。猿から日本人はあり得ない。日本人は最初から厳然とした日本人であった。天皇家の天孫降臨。このようにして出来あがった我が国。世界の雛型、見本である日本。

一語一語を吟味して話すという習慣が段々と廃れるのは、外国語の速さから影響されている。
最近は矢鱈に外来語、カタカナ言葉、まともに英語の日本語が大変に多い。
「ゴージャスなウェディングを」 「マッチョなボディラインを」 「センセーショナルなジャーナリスト」などなど、本来の日本語を意識的に、外来語に変えて使う事が、より現代的だと言わんばかりの風潮はどうしたことか。

外国語は、単なる符合に過ぎないが、日本語の重みはそれらの比重ではない。

記紀にもある。大和は言霊の幸はふ国。
日本という国に生まれた値打ちと言葉の重さをもう一度再発見すべきではないか。


和歌に託す希望

2010年10月05日 07時21分29秒 | 日記
世の中は棚の達磨にさも似たり 起きては転び転んでは起き
好きな歌である。

ところで自分の希望は和歌を作って 正月の歌会始めに当選して、宮中の歌会始であこがれの美智子妃殿下に拝謁することである。
とてもとても、希望が達成される見込みは今のところゼロパーセントである。
だが、希望は希望。捨てていない。

毛筆で半紙に自筆でというのが和歌応募の絶対条件である。この点はクリアーできる。
あとがいけない。
ところで、和歌はどうやって作るの?

今頃何を言ってんだ? という声が聞こえそう。
そうなんです。和歌はまだ作ったことがない。
そんな状態で、よくも宮中云々と言えたもんだ!と 、また叱られそうで。
すみません!
しかし、待てよ。作ったことがないといっても、歴々の宮中歌会始めは、関心の的であり、ずっと毎年の天皇以下の作は吟味している。
お題目に叶うものが作れるとは思っていない、今のところ。
だが、明治天皇のお歌はすでに多数の秀作を目にして練習積んでいるし、あとは創作。これが難しくて。

毎年指をくわえて見ていると、最近何と地元近くの佐賀県基山町の中学生が二人も秀作に選ばれて、宮中に招待されているではありませんか!
これは、久留米市の中学に通いながら、先生の指導のもと応募して当選したとニュースにもなった。
ああ、これなら、自分にもチャンスはあるんでないかい? と思いつつ。
如何ともしがたい。
でも、更に言う。希望は捨てていない。あこがれの美智子妃殿下に拝謁できて、あの優しい微笑みをいただけたなら、もう何もかも要らない!。希望はいつかは達成されるものである。

自分の人生は140歳まである。

嘘ではない。修行が足りないから、その分長~く生かされる。
だから、
希望という 山に向かって 一歩ずつ 歩みを始めよう 牛の歩み よし遅くとも。
である。

また、今日も戯言で始まったか! まあ、いいや。