goo blog サービス終了のお知らせ 

九州書道教育学会

福岡県小郡市を中心に書道通信教育・筆耕業務・支部教室運営・書道教室を展開中。

蛍の墓

2010年11月14日 09時30分45秒 | 随想

映画で見た蛍の墓。  戦時中の幼い少女とその兄の物語。  

戦時下、両親と死別し、兄とまだ幼稚園児程度の妹。この二人で生きていかねばならなくなった。       身寄りがなく、親戚のおばさんに世話になるも、どこも食べていくのに必死で、生活の余裕もなく、この二人は親戚の家でも冷たく扱われ、ついには飛び出して、原野の洞窟のようなところをネグラにするが、食べ物もなく、妹は病気にかかり、医者にもかかりようがない。最後は妹は餓死状態であった。兄弟愛を見事に演じていると同時に、世間の実態、実相というものをよく著している。    みんな自分が一番可愛いのである。  露骨に本能で生きていく状態に追い込まれた時、人間は本性をむき出しにする。  人の面倒をみるなんてしないのであることがよ~くわかった。        この映画はテレビでも数度見たが、  いつもいつも涙、涙で実に悲しい。やりきれない。切ない。つらい。     自分の育った環境に実によく似ているのである。思い出しては涙。他人の見ていないところで涙。本当に悲しい。 

 時代が生み出した悲劇にしては、残酷すぎる。  幼い少年、少女には何の罪もないから、余計に悲しい。大人は、自分達が造った国家、自分達の意思というものがある程度あるにしろ、子供には何の罪もないのである。    にも拘わらず、いつの時代にも被害を受けるのは子供達。    食べるもの、着るものも、学校にいくのも、総てが叶わないとしたら、どうすればいいのか。   何の不自由もなく生まれ、育った人達には、つゆほどもわかるまい !。   幼い時に、両親と生死にかかわらずハグレルことがどれほど残酷なことか、恐らくわかるまい!。   

この蛍の墓という映画は、自分の代弁者のような気がする。  これを書きながら涙を流す自分はいったい何なのだろうか。  

自分史というものを、絶対に封印したくはない!   必ず、小説でもいい。世の中の人に知ってもらいたい。    世の中、こんな思いをしてきた少年がいるんだということを解ってもらいたい一心で。その機会を伺いつつ、いつ書こうか,機は熟しつあるといのに。

 


神の姿

2010年11月14日 09時02分11秒 | 随想

神の姿とはまた恐れ多い。         そもそも神が居られるかどうかも定かではないのに。   しかし、人間は神様が造ったもので、神の姿に似せてあるという。   それは、白髪に薄い頭髪。そして白衣に杖。光り輝く姿。  こういったイメージがある。       

人間は歳とると、次第に肉体は衰えて来る。これは誰しも疑わない。  そして、頭髪も白くなってくる。  白髪は悩みの種というが、見方を変えれば、神の姿に近づいた証拠である。     若く黒々した髪は、 まだまた゛修行がたりない証拠。  頭髪は白く薄くなる方が神様に近く、人間としての修養が出来た人であるという、動かぬ証拠。   だから、自分の事を考えると、修行が随分と足りないもんだと思う。

人間としての修行が出来た人、立派になった人はみんな神の姿に次第に似て来ているということを感じませんか?これは、出鱈目な話ではありません。  念のために強く申し上げたい。   


老前整理

2010年11月14日 06時19分50秒 | 随想

今流行っている言葉の一つに老前整理

還暦の60才を機に身辺整理することだという。    子育て、日常の生活に追われた身辺を片づけるそうで、確かに必要かな?とは思うが、今の今まで整理していない。時々、荷物が多すぎる、不要な荷物は整理したいとは常々感じてはいたものの、現実にこういう言葉が流行語となるとは驚き。子育てを終了した現在、廃棄していい家財もまた多い。     ただ、奥方の納得を得られないとなかなか難しい。女は保守的。物に愛着のありすぎ。変化を好まない。など、色んなことがあるものの、不要な道具は身辺整理して、簡単な生活に切り替えた方が確かに機能的ではある。    勿体ないということもある。  どの辺に線を引くかが難しいだろうが、使いもしない道具などいらない。              今  過渡期である。     住む家  家財道具   環境   総てに総点検しているところ


中学生時代

2010年11月10日 05時57分11秒 | 随想

半世紀も昔の話。でもまだ鮮明に覚えている事自体が不思議なものである。

今、学校ではいじめが深刻な社会問題となっている。まことに由々しき問題である。しかしながら、私の体験では、当時はいじめは皆無であった。きれいごとで申し上げるわけではない。本当にいじめなど、どこの社会の事かと思う程少なくとも自分の身の回りにはいじめはなかった。         なぜそうだったか? と言えば、よ~く思い反さないとわからないが、いじめがなかった原因の一つに、我々は日常、毎日のように同級生との相撲に明け暮れていたのである。これが、いじめなんかしなかった、あるいは、いじめにあわなかった原因だろうかと考えるのです。 何も相撲部なんかあったわけではない。みんな自然発生的に毎日のように、お昼休みともなれば、早飯しを掻き込むように、ガサガサと食事して、運動場にパーっと飛び出す。誰しもが元気の花盛りの頃、昼にはそうするものという不文律のようなものがあった。自分も負けずに、運動場に飛び出し、まずは棒きれで直径五メートル程度の円を描く。そうして、そこにいる者に、おい、やるぞ、来い ! といっては、相撲の乱取り。投げたり投げられたりでズボンは泥だらけ。 それを振り払ってはまた別の奴と取っ組み合い。    中には、ちょっと日頃気に食わん奴には、思い切り張り手。手のひらでのブン殴りである。相撲では、これ合法。やってもいい当たり前の手法。こうやってうっぷん晴らし。絶好のストレス解消で、昼休み終わる頃はみんなヘトヘト。  息も絶え絶えになって、教室に引き揚げていくのが毎日であった。   同じ様な体格の相手なら、負けない自信は相当なものだった。足を飛ばしては蹴たぐり。外掛け。突っ張り。反則以外は何でもありのこれこそ疑似喧嘩。喧嘩の代わりであるから、喧嘩する必要はなかった。   相撲おわると、投げようが殴ろうが殴られようがお互いみんな何故か  笑顔  笑顔。   スカッとした心になったからだろうと思う。    今でも彼らの顔顔顔思い浮かんで懐かしい。     学校自体にも相撲場というものが設置されていたところも多かったが、今では見かけない。   無用の長物とでもいうのだろうか。?   相手との力関係を図ったり、考えが伝わったりと、この、相撲は格闘技であり、遊びであり  たいへん宜しいものかと思う。     今でも大相撲観戦は欠かせない。  だが、大相撲の色んなスキャンダルなど聞くと悲しい。もともと相撲とはそんなものではないだろう。相撲取ったことのある人なら誰でもわかる。

いじめが深刻な問題で、自殺にまで発展したケースもある。          解消策の一つに学校での相撲復活、奨励はどうか。   やってみる価値はあると思うが。少年が明るくなるだろうと思う。


食べ物

2010年11月08日 06時08分41秒 | 随想

朝食をおいしく食べるには起床後すぐには無理   ある程度早起きして軽く運動などしない限り口も胃袋も受け付けない。
また゛体が眠った状態で 時間がないからと言って無理やり掻き込むように、まるでゴミ箱に投げ入れるような食事は、成人病を患う元凶ではないだろうか。胃袋だって寝ている。寝た子を起こすように、ガバッと食事投げ入れられれば、処理できないのが胃袋だろうか。
 ことに、夜食はいちばんいけないことだと聞いた。
体の内臓は夜間午後十時以降朝五時までは閉店だそうな。
この間に食事しても 食べ物は消化運動せずに放置される    食べ物は体温で腐る   そういう話は医学博士の講演会で聞いた
こういう生活は成人病、癌発生の遠因近因とされるらしい

日本人としての体内時計はこのようにセットされている

だから夜食は口にしない。せいぜい飲み物を摂るくらい
人それぞれに健康法がある     一概には言えない   だけども同じ人間として共通しているものも多く存在する

最近は健康食ブーム    色んなサプリメントと称するものが これでもかこれでもかと宣伝してる。

試してみたが 自分に会うもの会わないもの  いろいろ
殆ど会わないものが多い    自然がいばんだと解ったから  いろんなものは買わない
どんな製造方法で何を原料に使っているか疑心暗鬼に陥っているからなのだと思う。 
よいものも多いだろうから、サプリメントが体に会う人は摂取されればいいと思う