光が丘書道秀作品展 2010年11月06日 14時28分12秒 | 旅行 九州書道の光ヶ丘教室の皆さんによる展示会が明日行われます。 安東悦子さん、野村広子さん、平木美代子さん、岸田昭子さんほかの皆さんの力作が展示されます。 安東さんの源氏物語、野村さんの般若心経そして平木さん、岸田さんの漢文作品は、見応えがありますよ!。 一度、見学されませんか、素晴らしいものです。
十一月六日今朝のしののめ 2010年11月06日 07時32分08秒 | 旅行 何の変哲もない静かな静かな平和な朝。 庶民の有り難みを痛感します。日本の行く手には数々の諸問題があっても、この平和。戦国時代には枕を高くして寝られなかった事だろう。 いつ寝首を掻かれるかもわからない。平和は人の寿命を伸ばし、戦乱は命を縮める。中国よ、争う事を止めんかね。自分自身に返るぞ。
天草散歩 2010年11月05日 14時39分48秒 | 旅行 熊本の天草は過去何回訪れたことだろうか。数え切れないほど日常茶飯事に行った記憶がある。車で行くことが多かった。無論、百%仕事の出張であった。天草は福岡などと違い、万事がゆったりと時間が流れる感じであった為、実に楽しい仕事の時間ではあった。事務所などの息の詰るような雰囲気のある場合など、恰好の息抜きで、現地までの移動中は、殆ど旅行と同一であり、この間ストレスなどとは一切無縁であったことは、まことに嬉しいかぎりであった。殊に、車で行く場合は、社用車、それも3000ccクラスの黒塗りのトヨタクラウン。前日仕事で溜まりにたまったストレスがある場合など、高速道を思い切りぶっ飛ばす、この爽快感。たまらないものがあった。時に140Kmも飛ぶようにぶっ飛ばしたこともある。これほど飛ばすと、交通違反はもちろん、危険と裏返しであったが、さすがにこのスピードでは、どの車も避ける。ついて来ないのである。マイカーでない場合、どうしてこうも無茶出来るのだろうか?と自分でも不思議である。若い時、暴走族の経験がなかったのが、ここにきて、こんな形で暴走族をやっていたとは。暴走族でもこのスピードはついてこれなかった筈である。お陰で、暴走族の心もある程度理解できるようになった。こんなことをする自分とは何なのか?自分で自分を理解出来ないことも再三再四ではなかった。自分が何者か解らない時代もあった。おまけに社を出れば自分の世界。携帯も、何もない時代である。我が世の天下。日頃のこの車、VIPクラスの客が来た場合など支店長などが送迎などに使う高級車であった。それを一人占めにしての遠征。こたえられん。ただ、帰社後の報告は厳しかったが、そこは勤め人。一定の事をしておけばそれ以上のことはなかった。車で行く場合、九州高速道の松橋インターを降りて、宇土半島を目指す。右手に有明海が見え出すと、ここは干潟の魚介類の宝庫。道路沿いにポツンポツンとアサリ貝の売り場が、一人やっと入れる程度の小屋を建てて地元のオバサンが売っている。車を止めてみると、浅い堤防の外はアサリ貝のとれるような干潟が延々と数百メートルは沖合まで続いている。軽トラックで干潟に入っている道路もあることから、相当に沖合まで遠そうだ。見上げると目の前、上方の先には島原半島、雲仙岳がくっきりと見える。やはり景色はピカ一の場所である。行く途中に貝を買ってもしかたないので、通過して暫く同じ景色を右手に見ながら行くと、三角の漁港に着く。ここは明治時代より以前から開けたらしく、古びた赤レンガの建物も目に着く。交易の盛んな頃は重要な貿易港だったようだ。この三角からは、フェリーが雲仙など各地に向かって行き来しているようだ。海水が美しく、橋を渡りながら見ると下は渦巻いているところもある。深いのだろう。この天草五橋は、確かに美しいのだろうが、目的があって行く場合、橋の美しさ、景色の美しさはあまり目にいらない。橋を渡ったところに大矢野島があり、たしか車エビの養殖場があった。売っているのは見かけなかったが、そこここにこれがある。そして、水族館のようなところがある。これも、観光客がいるようないないような閑散とした観光地とでも言えようか。あるいはシーズンが来れば観光客も多いのであろうが、行った時期はいずれも平日ばかりだったところからこのような状況だったのだろう。雲仙天草国立公園という。五橋から雲仙を遠望すると確かに美しい。だが、一端悪天候などになったら、どこにきたのだろうか、と思うほど日常の田舎の景色とかわりはない。それほどに天気は重要な役割をはたす。いよいよ、一番奥の天草下島に行くと、天草市になった五和町に入る。途中に「通詞」という地名があった。 この通詞は、その昔キリシタン信仰の厚かった当時、ポルトガルなどの宣教師がそこここにいただろう時の通訳の住んでいたところだと聞いたことがあった。ポルトガル語は流石に話す人も当初はいなかったことだろうから、よく通訳がいたもんだと感心する。多分、熱心な信教徒が外国語をマスターして、通訳としても活躍したんだろうと思われる。今は、この通詞、何の変哲もない、対岸の雲仙を臨む田園地帯にバス停の地名が残っているだけになっていた。実際は、この天草市に入ったら左に折れ、牛深市に向かった。舟会社があり、そこに行くためであった。この天草をはじめとする地域は、日本の内航船と称する、国内貨物船に乗り込んでいる船乗りや船主が非常に多く、田舎町にしては一軒一軒の家が豪華な造りが多い。船は199GT(グロストン)、~499G(グロストン)の中型船まで程度の船で、聞けば、船に乗りこんだが最後、一年に一度か二度しか帰宅しないという。 船内生活のため、金銭の消費は思ったほど使用しないので、実家に仕送りしかなり裕福なところもあるようだ。中には、奥さん、子供ともども船内生活し、あちこちに移動している人もいると聞いたことがある。瀬戸内海航路、あるいは大手企業の雇用契約船、その他海外航路やフェリー会社など様々である。これらの船会社が主要な客先となっているのであった。取引金額も千万円単位。実に大きい。天草の旅に関する記述は、あまり出来ない。それは遊んでいたためでなかった事が大きい。食事や景色といったことに終始すると思うが、ゆったりと見物、物見遊山できないと、温泉などもない。もっとも、天草に温泉はない筈であるが。車ではなく、歩いて、即ち電車、バスを利用して行った場合の方が、より印象に残っている。ことに、JRの三角線などローカルそのもの。それに熊本交通バスや九州産交といったバスに揺られていった場合は、地元、地元との客とのふれあいが多かったので、思い出も多い。食事では、天草の貝汁が特別美味かった。それに、車エビの料理など、出張費用から出してもお釣りが来たくらい、安くて、おいしいものだった。でも、若い時の楽は苦の種。 今にこの借りを返すのにきゅうきゅうとしているのだと思う。若い時の苦労は買ってでもせよ。という。これ本当。若い時に楽をしたものであるから、今、それを返すのにきゅうきゅうとしているのだろうな。 ま。いいか。天草の思い出は、まだまだほかに書ききれませんから、一応 没。