真剣道外伝★無端晟輝の残日録

真剣道・基道館宗師範の残しておくべき余談集

基道館 大発展の兆し

2019年08月18日 | 基道館活動記録

幹部会が招集された。

私は先の幹部会で「宗師範を辞する、そのかわり月影会を復活してほしい」と述べていた。

幹部たちはそれは大変な決断だ、従いますと言ってくれた。

 

ご存じの方も多いだろうが、寝屋川在住の時(寝屋川市は京都大阪の半分からやや大阪より)大阪の南の端(阪南市はもう少し行くと和歌山)にある月影会に必ず参加していた。午後3時出発、帰宅は深夜12時になることがあったが、「道のため来たれの呼び声」は私を奮起させて何とかその1年半の任期は継続した。

 

ところが、事情があり稽古日が変わったので、行けなくなった。私も仙人ではないから霞を食って生きてゆくわけにはいかない、仕事がある。ダーリンもにゃんこも養ってゆく責任がある。

月影会に行けないことになったが、月影会は中身が薄くなってしまった。ごたごたが起きる。考え違いの人が出てくる。

そこへ師範の無学庵が仕事であちこちに飛ばされる。 琵琶湖の近く、今度は明石という風に仕事ができるばかりに新店の指導を振られることになった。

これも仕方ない。

 

そこで、解散となった。

私は心の中では、イオンカルチャーに参加した軽い気持ちの人々でも「私の直門」だから申し訳ないと思っていた。

 

それを引き受けた無砦庵(現在の有城斎〉はこのことを見越してか、月影会は「預かり」としてくれていた。

 

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今夜の幹部会では、規約の改良、今後の指針などが話し合われ、近代的な姿を明文化することで一致した。

月影会は復活、各師範も支援することで落着。

 

おまけに、うれしいことに、風向きが変わったことが報告され、無有庵師範が質問した。

「先生、例えば同じ連盟の違う流派の道場に見学に行ってもいいですか?」

「いいに決まっている、自由にいけばいい、友誼を深めるのもいいことだ」

「同じ英信流でもいいですか」

「いいよ、私の筋を通す役目は終わった、時代が180度転換したのだ、大いにやってください」

 

つまり、真剣道基道館が打って出るチャンスが来たというわけだ。

 

規約にある通り、「英信流中核とならん気概を保持する」この通りではないか!

 

真剣道基道館ここにありと、やってくださいね!

 

高速回転の独楽に弾き飛ばされた人には気の毒だが,有城斎師範が良い言葉を述べた。

ごたごたしましたが、ここにいる幹部は「真剣道基道館」を絶対に守る人たちです。

是!


3歳の孫が来た

2019年08月18日 | 端感

久しぶりに孫を連れて次男夫婦がやってきた。

狭い団地のドアを開けて入ってきた次男の後から孫は「恥ずかしい」と言いながら入ってきて・

「こんにちわ」と明瞭にあいさつした。

靴を脱ぐと自分でそろえて、きちんと置きなおした。

3歳の幼児でもこれくらいはできるのだ。

 

その後は楽しい団らんだ。

 

驚いたのは、漢字の苗字を見て

「これはお父さんの名前だ」といったことだ。

ご存じのように私の姓は字数が多い。

孫に説明した。

これは家族みんなが使う名前で、お父さんも大城戸、私も大城戸、〇〇君も大城戸、なんだよ。

オーガニックで育った孫はおいしいものを知っていて、とても元気だった。

 

稀に見るオモシロイDNAを受け継いだ孫の成長に期待したい。

松山商 野球部 黄金期に主将であった私の父と親友のラクビー部沢田氏 

沢田氏は近年までお元気で、松山商近畿同窓会に招いていただいた。

同窓会では皆さんが(大先輩方)ええ、あれの息子か!!

たいそう喜んでくれた。

 

何事かでも世間様のお役に立てるような人に育ってほしい。

 

余談だが、次男が大学生のころ、ガタイの大きな不良3人組に路地に連れ込まれたことがあったそうだ。

すれ違いざまいきなり殴られたとのこと、次男は細くて優しく見える。

数分後出てきたのは次男、あとは地面に転がってうめいていた3人組。

全員肩を外されたのだろう・・・・

道場でその話をしたら全員が「○○さんに本気で攻撃されたらおそろしい・・・」といった。

次男はほどほどのレベルの高校に1年生在学中には文化部に所属、けれど柔道部に出入りし柔道部員相手に稽古をやっていた。

剣道、柔道、合氣道、居合、心身統一道をこなせるから素人が相手になるはずもない。

手首を折るなどというのはあっという間だ。肩を外すというのは、複数と格闘し自分を守りながら相手のダメージが少なく痛い方法を選んだのだろうと思う。

 

不当な暴力に対する自己防衛のための力は必ず必要である。

 

次男防具組になった記念写真 40年くらい前だろうか。

 

 誤解がないように補足すると、子供たちは暴力的には育ってない。

ダーリンが優しく育て上げて、彼らは母から大きな声で怒られたことなどない。

彼女は、子供たちへの厳しすぎる私の「しつけ」(折檻もあったがそれにも抗議してくれた)に対し身を盾に子供たちをかばった。

一体どんな人が若いころの私の「暴力」に対抗できただろう。

今となってはダーリンに頭が上がらない。

 

 

さらに補足、長男は臨月近くに破水し、緊急入院となった。

難産でダーリンは7日ほど陣痛室にとどまる、あちこちで苦しい、痛いと悲鳴が上がる陣痛室

彼女は一切、痛いとも、苦しいとも言わなかった。私のほうが参るような難産でした。

ダーリンには母となる「覚悟」があったのです。