快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み手近の被写体を撮り歩く暇爺。

中馬街道・・・大正村編

2010年10月12日 14時23分43秒 | 旅・近隣の風景
今日は、大正村で撮り収めた写真を載せてみました。
旧三宅家、(有形文化財)萱葺き住居、
東に山を控え、旧中馬街道ぞい北側に建つ三宅家は、寛文4年(1664)明智遠山氏家老助太夫四男が馬木村に移住し、農業に従事その後元禄元年(1688)与次郎重正に依って普請された。主屋は、近世中期の民家の特徴である鳥居建て形式が残っている。萱葺き屋根の建物で、内部は養蚕のため板の間・・・三間取り(広間型)から四間取(田の字型)に改造され・・・梁木は檜が使用され、遠山家の許文が記されている。
平成3年に明智町に寄贈され、翌年現地に移築された。

※ 遠山家とは北町奉行桜吹雪の「遠山金四郎の家系」

※ 中馬街道が出てきますが、「三河編」三河湾でつくられた塩を、矢作を舟で上り、古鼠(ふっそ=現豊田市)に荷揚げされた塩は、足助の塩問屋で荷直しされ、
信州方面へ中馬によって運ばれました。『中馬とは江戸時代中期に信州でつくられた、馬の背に荷物を乗せて運ぶ人々の組合のこと。』
こちらの中馬街道は『塩の道』と呼ばれている。国道 153号


※『美濃編』
名古屋~飯田までの中馬街道は、名古屋→瀬戸→柿野→細野→曽木を通り大川→明智を経て飯田に至る街道であり。
信州伊那谷の農家が農閑期に馬を使って農産物等を馬の背に乗せて運び・・・帰り馬に魚等を積んで賃稼ぎを行っていた商業道路です。
国道、363号に沿って所々面影が残っている程度です、通称、「伊那谷街道」とも呼ばれていたそうです。

明智町は光秀の出生地とされる第二の地である、光秀は明智城主光隆(光綱)の子として千畳敷と呼ばれる砦で生まれた・・・母は姑に嫌われたため離縁され、
光秀を連れて若狭の国小浜へ・・・元服ごこの地に帰り学問、武術に励み・・・越前一乗谷の朝倉義景に仕える。
明智町には、光秀公産湯の井戸、学問所、手植えの楓、母小牧の方の墓、龍護寺(臨済宗妙心寺派)に光秀の供養塔もある。
備中出陣の名目で13.000のの軍兵を率いて亀山城を発して、老ノ坂で天下取りを表明、本能寺を襲撃、信長を自刃せしめ、二条御所に信忠も自滅させた。(敵は本能寺!!)「本能寺の変」でも有名です、


1~3がは、旧三宅家。(遠山家)入口を入ると右側に馬房があり、人馬共にの生活でした。

4画は、龍護寺(臨済宗妙心寺派)光秀の供養塔があり、遠山家の菩提寺でもある(400年)

5画は、明智光秀の御霊廟、(おはか)

中馬街道・・・大正村編の画像

中馬街道・・・大正村編の画像

中馬街道・・・大正村編の画像

中馬街道・・・大正村編の画像

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