60.戦国の石見−3
60.1.毛利元就、弟を討伐する
家督を相続した毛利元就は、大永3年(1523年)8月10日、 多治比猿掛城を出て安芸の吉田郡山城(安芸高田市吉田町)に入った。
当主になった元就は連歌の席で
「毛利の家 鷲の羽を継ぐ 脇柱(あくまで自分は分家の身で本来は継ぐべきではないが、不思議な運命で毛利家の家督を継いだ、頑張るぞ)」
という歌を詠んだ。
こうして、毛利元就一派は、尼子経久の干渉を退けて毛利元就の家督相続を成し遂げた。
毛利家への介入に失敗した経久は、一旦これを諦めた。
だが、毛利が尼子の配下にあることを示すために、毛利から人質を取ることにした。
光永秀時、赤川就秀らがその役を引き受け、月山富田城に人質として送られた。
吉田郡山城に入城した元就は、侵略に備えるため城の部分的な拡張を開始する。
元就と重臣志道広良の政策は順調に進むも、徐々に毛利家中で諍いが起き始める。
時に元就の弟元綱、尼子部将亀井秀綱の後援により毛利本家の相続に野心があることを察し、元就はこれを謀殺して毛利勢力の分裂を防いだ。
大永4年(1524年)4月のことであった。
陰徳太平記 巻第五 に「相合就勝謀反付生害之事」としてこれらのことが記述されているが、これは相合就勝ではなく、相合元綱の間違いである。
就勝も元綱も元就の弟であり、就勝は「北式部少輔就勝」と名乗って、北氏の遺領を継いでいる。
ただし、次の隠匿太平記の文は原文通り、謀反する弟は「就勝」として記述する。
陰徳太平記 巻第五 相合就勝謀反付生害之事
ここに、坂某、渡邉次郎左衛門などが、頭を突き合わせて詮議してこう云った。
元就が当家を相続したことは、毛利家が繁栄するには何よりの事である。
しかし、倩(つらつら)事の様を考えてみると、この様に元就が家督を継ぐための計策が上手くいったのは、福原、桂、志道、口羽等の家臣の忠勤に他ならないと、褒め励まされて、その家系は富み栄えて、これほど有名になった人は他にいない。
一方、我らはこのような恩賞に預かるべき道はないので、只々元のように深山隠れて朽木のように生涯を送ることになる。
この口惜しさは、上総介就勝殿(元就の弟)も感じられており、我々に内々深く頼まれた事がある。
それで、就勝を取り立て、元就を謀り討ち、福原、桂等が頸を刎ね、我々が当家の老臣となり、権柄を執り行うべきである。
と、内儀評定一決して、急いで上総介就勝のところに参り、これらのあらまし事を強い感情をもって伝えた。
就勝の味方を集め、奇策便計(都合の良いはかりごと)を運べば、如何に知勇傑出したる元就といえども、謀りて討ち申しに、何の難きことがあろうか、と就勝に迫った。
すると就勝は、我が陰謀事成ぬと大いに悦び、ならば具体的に如何にして元就を討つか、と家臣どもを近づけて語らった。
しかし、事が事だけに、日を延ばし時間をかけていたところに、「天知る、地知る」の習いにて、いつしかこの事が元就の耳に入った。
元就は、大いに驚き
「一門不和なれば、他家の侮りを受けて、当家の危亡の基なり、如何にもして宥めなければならない」
と、思ったが、このような大事を企てる程の悪逆人となれば、中々宥めることは難しいこと思われた。
さりとて、これらを誅戮することは友于(兄弟)の情に背き、親しみあるものを離すようなものだ、と悩んだ。
元就は、さあどうするかと悩み考えた。
かつて、周の文王は管叔鮮(周の文王の三男)を誅し蔡叔度(周の文王の五男)を放って以て周を安んじ、斉の桓公はその弟を殺して以て国に帰る。
このような例も無きにしも非ざれば、彼を誅して当家の危うき乱の種を取り除き、先祖祭祀の伝統を継ぐべきだと思った。
ならば謀りて討とうと思ったが、就勝は常に厳しく用心しているため、容易に討つような状態ではなかった。
元就は常に座頭(一座の頭)四人を召使い諸国へ遣わして、その国の剛弱、将の賢愚を探らせていた。
その毛利家座頭の中でも勝一という男は、心様(性質)健やかで、弁舌は人に抜きん出ているのみか、平家物語の語りも又勝れて上手であった。
或時、元就は夢をみた。
夢の中で重代(先祖伝来)の刀が三つに成っていた。
元就は、起きて直ぐに勝一を呼んで、この夢は何を意味しているのかと問えば、勝一は、「これは目出度き御夢にて候」と答えた。
勝一は言う。
如何と申すに刀三つに成候へば、刕(しゅう)と云う字にて候。
これ即ち刕の主と成せ給ふべき御瑞夢に候。
勝一は、これは刀刕の夢といい、吉夢であるといった。
その後勝一が予期したとおりになるのである。
三刀の夢
出世する吉兆の夢をいう。三刀は刕(州の古字)の隠語。晉の王濬が三刀にさらに一刀を益す夢を見たところ、後にはたして益州の刺史(長官)となった故事。
かかる賢々敷者(さかざかし:しっかりしている)なれば、元就は彼に事の様子を委細に云い含め、或る夜就勝のもとへ遣わした。
勝一は就勝の館(船山城:広島県安芸高田市)を訪れた。
就勝は、かかる謀が有るとも知らずに内へ請じ入れた。
季節の話が終わって、世間話に移った。
勝一の弁舌は爽やかで、談論も活発に時が過ぎた。
幽(かす)かに響く鐘の声も更け行く夜半を告げ渡りけるに、やがて鳥も屡々(しばしば)鳴き、就勝を初め満座の家の子、若党共皆眠りを催し、傍らには鼻雷の胡盧々々(コロコロ)と聞こえける間、勝一合図の三重を上無の調子に揚げれば、宵より忍び入りて、時刻を待ちいたりし兵ども、五十余人、時を作って切って入る。
【三重】
仏教音楽の声明(しょうみょう)で、音域を三つに分けたうちの最高の高さの音域。初重、二重、三重と高くなる。
【上無】
上無(かみむ)(=嬰ハ)の音を音階の主音にした調子。
就勝、さては陰謀顕れぬと思い、心得たりと云う儘に得武具引っ提げ切って出で給う間、若党共も三十余人押し続いて、夜討は何者ぞと声々に呼ばわり喚き叫んで切って廻り、火花を散らして戦へば寄せ手堪えず門外さして引いてゆく。
これを見て、所々に控えたりし兵三百余人、新手を替えて切って入る。
上総介就勝は九郎義経にも劣らぬ軽業兵法の達者にて、槍を提げ、これを最後と振る舞われたり。
相従う所の兵どもは、中原善左衛門を始め何れも一人当千の勇士なれば、三百余人の寄せ手共、又門外遙に切り出され、ニ・三町計(ばか)りぞ引きたりける。
就勝追い逃げるを深入りし給う所に、敵取って返しければ、門前の土橋へ引くことを得ず。
面三間の空堀をひらりと飛んで渡り給うを寄せ手の者共これを見て、あら恐ろしの振る舞いや、葛城、高天の嶺に住むなる大天狗の変化にやと覚えず舌を巻き心を冷して立ちたりけり。
夜討の大将志道上野介打ち物業にて叶うまじ唯射とれや者共と下知すれば、投げ入れたる松明の光を便りとして散々に射たりけり。
就勝矢傷数箇所負い給ふのみならず、膝節肩先三箇所突かれ給いけれども、物ともせず又打って出で、向かう敵を追い払はれたりければ、寄せ手に井上平次、坂藤内、三戸平八を先として、討たるるもの何十人と云う数を知らず。
されども、寄せ手は多勢なれば少しも怯まず、味方は討たるる者五騎三騎と思えども、僅か三十余騎の勢いなれば後が間原(まばら)に成るのみか、敵鏃(やじり)を揃えて射ける間、叶わじとや思われけん。
就勝暫く息をつかんとて、又空堀を飛び給ひしが、数箇所の手口より、血流れ眩暈と発作で堀の中に落ちられけるを、寄せ手得たりと落合い、手に手に槍、薙刀を取り伸ばして起こしも立てず突きたりけり。
就勝伏せながら敵の槍七本まで取って刎ね除けられけれども、数多馳集まりて突きける間、終にそこにて討たれ給う。
これを見て、若党共は二十余人、いつのために命を惜しむべしやと、敵の中に走り懸かり懸かり、打ち違え、刺し違え 枕を並べて切死す。
その中に、中原善左衛門兼勝は聞こゆる大力の剛の者なれば、敵数輩斬り伏せ、隙間を窺い躊躇いけるが、今夜の大将志道上野介広良、小高き所に突っ立ちて諸勢に下知していたりけるを、兼勝つと走り寄って、鎧の袖を無ずと捕らえ御手に懸けられ候はんと云う。
広良、大力に捕らえられ、せん方無くや有りけん。
又、可惜(あたら)兵なり、助けまほしとや思ひけし、心易く思われ候へ命をば助け申すべしと答ふ。
兼勝さらば御誓言候へと云えば広良摩利支尊天も御照鑑あれ広良身に代えても申し助候べしと誓いける間、今は疑うべきにあらずとて、鎧の袖をぞゆるしける。
広良誓盟の旨を守ると云い、又従来情け深き士なれば、中原が一命頻りに申し請いけるとかや。
その後元就、渡邉長門守を召して、雲州へ使いに遣わすと謀りて、次第を言い含める体にもてなし、自ら取って押し伏せ髻(もとどり)と頤(おとがい)を掴み、宙に指し挙げ縁の前なる深谷へ向けて、曵(えい)やっと投げ給うに、数百丈の岩窟なれば、何かは少しもたまるべき。
微塵に成りて失せにけり。
父の入道は、小原という所に居けるを、軍士を遣わし討ち果たさる。
小原の七人塚と号して、渡邉党七人一所に築こめたりけるとかや。
長門守が嫡子は十四、五歳なりけるが、勝れて大力なれば、弓に矢取り添力者一人召し具し、白昼に山伝いして、備後国へ落ち行き山内大和守を頼りたて居たりける。
後に渡邉太郎左衛門通という大剛の者にて、元就に随逐す、坂の某を始め、就勝一味の者共数十人、所々にて悉く打果たされければ其の後は、敢えて叛心を抱く者はなかりけり。
かくして、元就は毛利家の騒動を治めたのである。
この事件には続きがある。
桂氏
謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄が一族の責任を取って自害してしまった。
桂広澄は、この事件に直接関係はなかったため、元就が自害することを止めたが、元就の命を聞かずに自害した。
この時、子の元澄らも桂城に籠もって自害しようとしたが、元就の懇願もあって思いとどまり、以後も桂氏は毛利家重臣として存続することになった。
その後の桂氏も、毛利氏の重臣として代々仕えている。
この桂氏の末裔に、幕末・明治に活躍した、桂小五郎(木戸孝允)、明治の軍人で内閣総理大臣になった桂太郎などがいる。
<続く>