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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−179(戦国の石見−2)

59.戦国の石見−2

尼子経久が出雲を掌握したころの中国地方は、周防の大内義興が隆盛を極めてた。

大内義興は、永正5年(1508年)6月、京での争いに破れ下向してきていた足利義尹(後の足利義植)を奉じて上洛する。

大内義興は細川氏の覇権争いの混乱の中、細川高国と組み、足利義尹を将軍職へ復帰(将軍復帰により足利義植と改名)させ、自らは山城国守護職も得て、従四位下へと昇進した。

尼子経久も他の中国地方の領主同様に大内義興の上洛に追従している。

陰徳太平記に、経久は「永正5年(1508年)11月の洛中の戦いで五千七百騎を率いて戦った」との記述がある。

しかしその後尼子経久はいつの間にか戦線を離脱して出雲に帰国している。

 

 

59.1.尼子経久出雲に帰る

陰徳太平記に、尼子経久が出雲に帰国しようと決めたときの様子が書かれている。

尼子と大内は領地接していたため日頃から権を争っていた。

また、尼子経久は在京中の大内義興の強大化、専横化に憤懣を抱いており、その威光の下に立っていることを無念に思っていた。

そういう時に、足利義稙、大内義興らに敵対する佐々木貞頼から、誘いの書状が経久に届いた。

<「陰徳太平記」巻第二「尼子経久陰謀之事」>

 

「陰徳太平記」巻第二に「尼子経久陰謀之事」

 

<孟子>

孟子曰く、「未だ利を好んで而(しか)もその君を愛する者は有らず(利を好みしかも主君を愛する者はいない)

尼子伊予守経久は、源氏からの分流である。

出雲国に居住して数代、 与国属郡はすでに七ヶ国におよび、武名と功績は中国地方を震わせ、天下を蓋っていた。

大内義興とは、その国土の境界を接していたから、両国の間に住む国守、県令たちは、朝には出雲に礼を執り行い、夕べには周防の命令を聞き、「龍の如く変じ雷の如く動く」というような有様であった。

両家は互いに相手の国を奪って併合したいと思い、攻城野戦で年を渉り、月を越えて権を争い、威を論じていた(長年戦闘を繰り返し、勢力を争っていた)

両者の功名は二匹の虎の如くで優劣付けがたかった。

ところが、今回将軍(足利義稙)が再び、宇内(天下)の政柄(政権)を掌にされたことは、ひとえに義興の思いからでたものである。

将軍は甚だ重んじて、義興に一日に多額の金銭を賜り、一年に九回も官位を還えた。

その名誉と名声は評判となり、武力の勢いも燃え上がる炎のように高まった。

そして自らも武勇をふるったので、将兵らはへりくだり、頭を下げて参上した。

 

そもそも、女性は美しくても醜くても、宮中に入れば嫉妬され、男性は賢くても愚かでも朝廷に入れば妬まれるのが世の常である。

経久もまた、自らの威光が義興の下に立っていることを無念に思い、常に注意深く見て、欠点を曝こうとしていた。

こうしているところに、近江の佐々木貞頼は、義澄卿の御嫡子・義晴朝臣を長らく養育し、義軍を起こす時を待っていた。

近国に力を合わせて相談する将がなかったので、大鵬南飛の風を待つように、時を待っていた。

そこに、経久と義興が晁(ちょうそ:中国前漢の政治家)と爰盎(えんおう:中国前漢の政治家)のように勢力を争って対立していることを伝え聞くと、貞頼は経久に檄書(ふれぶみ)を送った。

「今天下は義稙卿の指揮に応じている。

戦が終わりしばらく平穏となったけれども、義稙卿は酒池肉林の荒みに耽り、「鶴に乗って魚を観る」の逸に耽っている。

故に、皇族権門は無礼を恨み、​​黔首蒼生(けんしゅそうせい:庶民人民)は、無慈悲を悲しんでいる。

そもそも、悪主を退けて善君を立て、苛政を改め正しい教えを広めることは、古今の大忠で天下の支配者がなすべきことである。

某貞頼は、先代主君の遺児・義晴卿を養育し、再興の時を久しく待っていた。

しかし、羽翼調はず、車輪全からず(助けとなる人が欠けている)の状況である。

つらつら東から西まで国君城主をよくよく見てみたが、我に協力してくれる人は、あなた以外には誰もいない。

女は自分を説(よろこ)ぶ者のために容づくる(化粧や身支度をする)という。

私は公(経久)のことを長く存じ上げており、すでにそのお心を理解するほど親しく感じている。

しかもまた、われらは同宗(同族)の近江源氏である。

水魚雲龍に思いを一つにして、天下をまとめ、敵を前後から制するような謀に加わらないということはない。

もし鄧禹(とうう:後漢の将軍)と馮異(ふうい:後漢の将軍)心を合せれば、白水に龍を起こすのはきわめて容易である。

大業が成就したら、勧賞はその功績によるので、あらかじめ推測するのは難しいが、まずは、出雲、伯耆、因幡、美作、石見、備後はあなたの思いのままとすることをお約束しよう。

早く一致団結するという返事を頂きたい」

と礼を厚くし、へりくだった言葉で、言い送って来た。

経久はこの書状を見るなり、渡し場に船を得たような(渡りに船)、或いは山中で鹿に出逢ったような心地となった(鹿は古来より神の使いとされており、縁起の良い動物とされている)。

吾が功を立てるべきときが来たと悦び、いささかも考えをめぐらすこともなく、直ちに承諾の返書をしたためた。

その後、経久は密かに京都から逃れ下る。

まずは仇敵・大内の国からとり始め、それから中国を徐々に侵略していこう、と考えた。

従属国に至急の檄を飛ばし、盟約を結び相談をして、兵をととのえた。

「謀」が実行に移される日が逼っていた。

 

どうやら、尼子経久は近江の佐々木貞頼の要請を格好の機と捉え、大内義興の後方撹乱を狙って出雲へ帰国したようである。

出雲へ帰国した、尼子経久は出雲の平定統一を推進しつつ、次第に近国への侵入を企てていくのである。

 

<続く>

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