唯物論者

唯物論の再構築

日本の少子化

2014-06-08 00:26:27 | 政治時評

 日本は少子化の進行において、農村を中心にした多くの過疎地域で無人化が進み、将来的に列島全土において急激な人口減少局面に至るそうである。ただし未来の話に限らず、既に日本は景気回復の持続が難しい体質になりつつある。仮に庶民における可処分資産の増大が起きても、それは国家財政が抱えた借金に消えてゆくのが既に明白になっているからである。言い換えるなら、今後の日本において庶民における所得増加があったとしても、それは単なる小春日和に過ぎず、いずれその増加所得の全ては債権者の下へ、すなわち富者の懐の中に吸収されるのを宿命づけられている。この形態の国家的な経済システムでは、債務者としての貧者は永久に貧者である。一方の債権者としての富者は、生産行為に実質的に関与せずとも、安定した裕福な生活と資産増加を手にする。ただし債権者としての富者は、債務者による債務不履行の発生に対して、恒常的に注意していなければならない。その不履行が債務者による能動行為であるか無いかは、富者にとっても自己保身の対策を考える上で、重要なことだからである。もちろん債務者による能動的な債務不履行とは、債務者としての貧者を保護し、債権者としての富者を保護しない政権の成立を指している。また債務者による能動的ではない債務不履行とは、債務返済の不可能が明白になる事態を指す。ただし実際には日本の国家的借金は、既に数理的に返済不能な水準に到達しており、ただ単に債務不履行が表面化していないだけの可能性もある。それが現実的な姿をして現れるためには、国債の引受け相手が見つからない段階、または国家の年度予算が成立できない段階を待たねばならない。ちなみに富者側は、貧者の政権が成立した場合、金融不安や領土問題を生み出して政権崩壊をもたらす覚悟と用意ができているように見える。ちなみに右翼テロの基本は、正体不明な社会不安を醸成し、既成の保守政治への支持回帰を促すことにある。一方の貧者側は、自らが社会不安に対して萎縮する限り、自らの政権を得る選択肢は無い。そして現状を見る限り、そのような選択を貧者が行なう気配も無い。せいぜいその選択肢は、債務不履行の自然発生を待ち、その後に検討すべき事柄に扱われている。しかしそのような債務不履行は、貧者と富者の双方にとっても、不本意な偶発的タイミングである。それは、富者による国家借金漬けの手綱さばきが失敗しない限り、黒船来航と同様に、いつ頃に到来するのかさえ不明なタイミングである。ただし恐慌の必然とは、そのように偶然の装いをした必然である。資本主義的身分制度の崩壊は、新たな黒船の来航を心待ちにしている。

 労働力不足は日本経済の制約となり、景気回復の足枷として景気回復を頓挫させる役割を果す。特に既に十分な労働力総量が少なくなっているなら、労働力不足は景気の回復局面で一気に表面化し、好景気を短命に終わらせる。しかも好況期に続く不況期は、一般に好況期よりもずっと長期間に及ぶ。ただし富者は、不況さえも自らの蓄財の道具に使う。彼らは不況を口実にして、政権に対して財政出動を要請し、国富を富者の懐に移譲することを迫るからである。これまでの自民党政権下では、不況対策に名を借りた富者への国家資産バラマキが続いてきた。そしてそのために日本国民は、返済不能な借金を抱えることになった。もちろん不況が終わらない以上、この富者への国家資産バラマキが終わる気配も無い。今では日本の次世代の前に、所得増大の明るい希望が見えず、予測不能な経済危機が待ち構えているようにしか見えない。このような少子化の抱える経済的自己矛盾の図式は、日本における消費増大が直面する経済的自己矛盾の図式によく似ている。長らくデフレ不況にあった日本では、消費の増大が求められてきた。しかし日本の都市部における購買力は、金銭面以上に居住空間の大きさにおいて物理的制約を持っている。この都市住民の居住面積の狭さは、都市部の購買力増大の制約として作用するものである。仮に都市住民が個々に潤沢な資金を持っていたとしても、商品を置く空間の欠如において、購買力は増大し得ない。この点が、経済力に限らず日本の内需や日本人の体格、ときには人格においても、日本をアメリカに劣後させる要素になってきた。言い換えるなら居住面積の広さは、現実の経済力を表さないとしても、将来的な経済力の可能性、または金銭面に現れない人的な基礎許容力を体現するわけである。かつての日本では、就職困難や矮小な居住空間などの厳しい経済事情の要素は、経済の発展の原動力であったかもしれない。ところが今では逆にこれらの要素により日本経済は、頭をもたげると叩かれる形で、むしろ景気回復の持続が困難なままに規模の縮小を余儀なくされている。しかし小泉版レーガノミクスや現在のアベノミクスを見る限り、自民党における労働力不足への対策は、産業界に労働力市場の自由化を促すような無策の繰り返しだけである。明らかに自民党の目的は、労賃の下方硬直性の打破にある。過去の実績を見る限りそれは、貧富格差の拡大と社会不安を醸成し、日本の若年労働者に対してさらなる人口減少を動機づけるだけに終わってきた。しかしそれにも関わらず自民党は、懲りずに新自由主義への傾斜を進めている。筆者には自民党が少子化問題を、日本の労働者における貧困への耐性の喪失問題へと矮小化しているようにしか見えない。そして自民党が将来的な外国移民の受入を検討しているのも、そのような矮小化理解と合致するものである。民度の全体的低下への懸念を除くなら、貧困への耐性において外国の貧民が日本の若年労働者を凌駕するのは、容易に想像のつくことである。自民党が期待するのは、貧困に馴れた外国人労働者の輸入を通じて、全般的な労賃低下をバネにした日本経済の再生なのかもしれない。もちろんここで言う日本経済の再生とは、貧者を犠牲にした富者の経済の拡大でしかない。

 日本の少子化は、婚姻数・第一子出産数・第二子以後出産数のそれぞれの減少で進展している。それぞれの数の減少の背景には、都市化に伴なう婚姻を媒介する地域共同体の崩壊、女性の人間的権利回復に伴なう人身売買的婚姻形態の減少、逆に言えば恋愛中心の男女の婚姻形態への変化、地方農村に多い閉鎖的身分秩序からの逃避、女性労働者における時間外勤務の増大、または男女を問わない低賃金や過酷な勤務体系、および矮小な住宅事情、各種事情に起因する結婚の忌避および出産の高齢化、都市部における子育て環境の不備など、多くの事情が控えている。これらの事情の中には、日本社会の変化によって新しく登場した困難もある一方で、もともと旧弊に過ぎなかったものが、新しい世代においていよいよ耐え切れずに浮上してきた困難も含まれている。したがって総じて少子化を分析するなら、日本の労働者農民において結婚出産を阻害しているのは、発展途上国における貧困と異なる先進国型の貧困だと言って良さそうである。発展途上国における貧困は、家庭内生産力の増大を誘因にして、むしろ致富欲求において人口の爆発的増加をもたらしてきた。しかし先進国における貧困は、逆に家庭内消費力の減少を誘因にして、素直に人口減少をもたらしている。この変化の背景には、農耕社会から離脱した社会では、増大した家庭内労働力が、家庭における富の生産に直結しないという現実がある。それどころか生活の糧を持ち得ずに行き場を失った家庭内労働力は、完全な無産者として、世代を超えた貧困の無限連鎖へと繋がっている。当然ながら他方で、所有から放逐された貧者の群れは、自ら生き抜くための裏世界を形成せざるを得ない。もちろんその裏世界の住人が標的にする犠牲者は、富を通じて周辺警備を固めた富者たちではない。彼らの標的は、身を守る術を持たない自らの同族、すなわち善良な貧者たちである。善良な貧者たちがこのような世界から我が子を遠ざけるための一番簡単な方法は、蓄財の無い状態での結婚や出産の回避しかない。つまり先進国の貧民において少子化を動機づけているのは、貧者における自らの貧者としての自覚にほかならない。貧困な若者たちは、自らの貧困を育児資格の欠如として理解し、結婚も出産も忌避するようになる。もちろん殊更にそのような明確な自覚をせずとも、自分に金があれば、または相手が金持ちであるなら結婚したいとか、生活に余裕があれば子供が欲しいとの意識で現れたとしても、その意味する内容に差異は無い。見方によればそれは、自らの子供に対する責任ある大人の選択として理解されるべきかもしれない。したがって若年貧者たちが結婚もせず、子供を産まなくなったところで、そのことは驚くに値する話ではない。なにしろ彼らに対して社会全体が、言葉に出さずとも、「産むな」と呼びかけているからである。日本の貧民における少子化とは、そのような社会全体からの呼びかけに対する彼らの素直な反応にすぎない。このような貧困における少子化とほとんど似た図式は、バブル景気崩壊後に毎年3万人が自殺する事態が10年以上続いたことにも見い出すことができる。この異常事態は、バブル景気崩壊後の15年にわたって続き、ようやく民主党政治の最後の3年目において3万人以下に落ち着くようになった。しかも聞くところによると、毎年の変死者がそれと別に15万人もいたそうである。日清戦争の日本側の死者が8400人なのを考えれば、まるでそれは日本が毎年のように大戦争をしてきたかのような数字である。もちろん自殺の背景は、色々なものであろう。しかし自殺者の多くが自らの貧困を生存資格の欠如として理解し、自らの人生の継続を忌避しただけのはずである。見方によればそれは、自らの人生に対する責任ある大人のけじめとして理解されるべきかもしれない。したがって自殺者たちが死を選んだところで、そのことは驚くに値する話ではない。なにしろ彼らに対して社会全体が、言葉に出さずとも、「死ね」と呼びかけているからである。日本の貧民における自殺の増加もまた、そのような社会全体からの呼びかけに対する彼らの素直な反応なのである。

 都市部で生活していると、朝夕のラッシュや矮小な住環境を見るにつけ、日本の人口はもっと減少した方が良いのではないかと思えたりする。実を言うとこの感想は、間違ったものではない。少子化問題の根は、都市部には無いからである。少子化問題の基礎にあるのは、農村を中心にした多くの過疎地域での無人化である。すなわち少子化問題とは、日本における一次産業の存立問題なのである。そしてそのことを理解するなら、自民党が検討を進めている将来的な外国移民の受入れが、かなり方向違いな対応であろうことも見えてくる。おそらく自民党は、外国からわざわざ農業移民を誘致するつもりではないであろう。しかし農業移民ではない外国人の増加は、都市人口の増加だけをもたらすだけであり、現状の少子化問題の根幹を揺るがさないどころか、むしろ問題をさらに悪化させる。都市部への人口集中は、基本的に農民の労働者への階層的移行であり、事実上の小資本家の無産者への零落である。この新しい無産者の多くは都市部において自らの家を持ち得ずに貧者のまま人生を過ごさざるを得ない。そして彼らの一部は、貧困であるがゆえに結婚と出産を放棄することになるし、時として自らの人生をも放棄するかもしれない。外国人移民の増加は、このような都市部への人口集中に拍車をかけ、既存の格差問題に民度の劣化を加えて、より危険な段階へと格差問題を悪化させるだけである。そもそも外国人移民の誘致は、暴力的強制が無いにせよ、戦前の日本における朝鮮半島や中国大陸からの労働者の強制連行を彷彿とさせる。また在日朝鮮人問題のように複雑かつ無意味な国内外国人問題を新たに生み出すことも危惧される。それとも外国移民の受入れの背景には、日本の少子化対応と全く違う目論みでも隠されているのだろうか?
(2014/06/08)


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