☆政治と社会部☆
新聞で政治という場合、政治部が担当すると思うかもしれない。しかし、私が長くいた社会部も政治の世界を受け持ち、私も担当記者だった。
現在も変わらないはずだが、私が若いころは国会議事堂のなかに国会記者クラブがあった。議事堂のなかといっても衆院議員面会所の2階で、政治部の記者クラブが議事堂中央部にあるのに対し、社会部の記者クラブは議事堂の隅っこにひっそりという感じだった。政治部が首相官邸や各政党ごとに記者クラブに所属し、議事堂内にもその出先があり開会中は詰めているのに対し、国会記者クラブには国会図書館以外に担当する部門は何もなかった。つまり、何かことがあれば政治全体が持ち場といってよかった。
政治部が政治の本筋を担当するといえば、社会部は政治家及び政治のスキャンダルを追及するといわれていた。特に「政治とカネ」問題で記事を書かれた政治家にしてみれば、社会部記者は目の敵のような存在だったのだろう。議員会館の部屋を訪ねると面会を断られたり、多忙を理由に短時間しか会えないことが珍しくなかった。
1980年代の後半、私がこの記者クラブにいたころ、政界の関心事はロッキード事件で逮捕、起訴された田中角栄元首相の一審判決がどうなるかに集中していた。捜査の中心、東京地検特捜部や東京地方裁判所は社会部の管轄であり、事件は最初から社会部マタ―といってよかった。それでも最初のうち、国会記者クラブは日常的には事件の影が薄かった。
しかし、田中元首相は裁判を受ける身でありながら田中派の議員を増やし、永田町の闇将軍として君臨しており、判決の行方は政界全体に及ぶとみられていた。事件を担当する社会部として、より積極的に紙面を作らねばならなかった。
私は田中派の議員を中心に判決への関心、推測、動向を探りに国会議員を訪ねて歩き回った。ほとんどの田中派議員が田中有罪判決を心配し、身の振り方などに気を遣っていた。そんななかで、田中元首相の法廷に家族傍聴券で欠かさず通っていた小沢一郎衆院議員(民主党元代表)にインタビューし、判決への気持ちを取材したことがあった。多くの田中派議員が社会部の記者と聞いただけで面会を拒否していたのに、小沢議員は驚くほど気軽に面会に応じた。「判決を前にどんな気持ちですか?…」と聞くと、小沢議員は「別に…」と答え、微動だにしなかった。有罪であろうとなかろうと、田中元首相への気持ちは変わらないと受け止めるしかなかった。
また、田中派のパーティにもよく通った。田中元首相が姿を見せることも多く、その言動を取材しては原稿を書いていた。田中派のパーティは自派担当以外の記者を締め出して行われることが多く、こちらが政治部の田中番記者が付ける色のリボンを上着に付けて潜り込もうとすると、秘書に社会部記者と見破られ追い出されたこともあった。
国会記者クラブは大きな政治イベントや政治とカネにからむ不祥事があると、常に社会部の前線拠点として利用された。自民党の衆院議員が企業からカネを受け取り、国会で質問していた共和製糖事件で毎日新聞社会部が日本新聞協会賞を受けたのはこの記者クラブを中心にした取材だった。ロッキード事件、リクルート事件など事件は後を絶たなかった。社会部は常に政治とカネの問題点を見つめ続けている。(写真:フランス・ノルマンディーの海岸のオック岬はかつての激戦地。私の風景写真アルバムから)