「自己責任」 という言葉を、以前は冷たく重苦しいものだと感じていました。
「責任はあなたにあるのだからね、結果何が起ころうとも 自業自得というものだよ」 という どこか突き放すようなニュアンスで捉えていたからです。
が、「世界は自分が創っている」 と認めると、「自己責任」 という言葉がにわかに頼もしく聞こえ出します。
「主導権も力も自分のもの」 ということになるからです。
起こったことの責任がすべて自分にあるのなら、それを変える力も方法も自分が握っているわけです。
理不尽に外から加えられた力には屈するしかなくても、自分が起こしているのなら 必ず突破口があるはず。
アニメ 「モノノ怪」 の 「のっぺらぼう」 という話に、「閉じ込められていると思えば牢になり、出たくないと思えば城になる」 というせりふが出てきます。
一見罪を犯して牢に入れられているようで、実は母親への執着から 進んで自分を被害者の立場につなぎ止め続けるヒロインの様子を指したものですが、貴秋には思い当たることが多過ぎて 痛い言葉でした。
相手はやはり親でしたが、「あなたがたのひどい仕打ちのせいで こんなに歪められてしまった、理不尽に大きなハンデを背負わされた、責任とってどうにかしてよ」 という恨みつらみがハンパなく大きかったからです。
自分では正当な主張のつもりなのですが、その底に潜む意図や それがもたらす結果には氣づいていない。
相手のせいにするとは、そのままその歪められた場に留まると自ら宣言するようなものです。
歪んだ刷り込みを生んだ状況はたしかに理不尽だったかもしれませんが、その先いつまでも被害者でい続けるとは 変化を起こす力を相手に渡し 決定権をゆだねてしまうことであり、その選択をしたのは他ならない自分自身。
刷り込みの原因である出来事は 思い返すたびに悔しかったり腹立たしかったりするかもしれないけれど、ならばなおのこと そんなところから一刻も早く抜け出すに越したことはないでしょうに、それがわからなかったのは、「自分が辛かった分だけ 相手にも辛い目を見せなければ氣がすまない」 という執着のせいでした。
あのころの貴秋は、幸せになるよりも まず戦って勝ちたかったのです。
幸せとは勝利の先に得られるものだと思い込んでいて、戦いそのものを止めるなど思いもよりませんでした。
以前 こんな男性性と女性性のワークを受けたことがありましたが、このときいかにも被害者然とめそめそしていた当時の女性性こそ、弱さを装い こんな自分をなんとかしろと執拗に迫る “篭城” の元凶だったようです。
「相手が陥落するまで被害者の立場に立てこもって 罪悪感を味わわせてやる」 というその意図に氣づいたところから すべてが動き出し、さまざまな展開が起こってきょうに至ります。
“しなければならないことはなにもない”
ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュ著 「神との対話」 に出てくるこの言葉が 長いあいだ謎でした。
なんとかしなければならないことが山積みだと思うからこそ どうすればいいのかを必死で探っているのに。
が、隠れた意図に氣づかないままなにをしようと うまくいくはずがなかったのです。
行動を起こすよりも まずは自分の中をしっかり見つめること、ほんとうでないものに埋もれて見失っていた本心を探り当て向き合うこと、それができれば 事のほうから動き出す、そういうことだったのだと いまでは思っています。
ほんとうの自分でないものを見分け 向き合うこと、自分のほんとうの思いに氣づくこと、そのプロセスの中で 「すべて自分が創り 起こしている」 ことが見えてきます。
その事実を中心に据えたとき、望みを叶える力を 自身の手に取り戻すことができるのです。
自己責任で生きるとは、被害者の立場を手放し 創造主の自分に戻ること。
とても明るく前向きな言葉だったんだなぁと いまでは思います (^^)
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