毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

下ろそう

2015年03月04日 07時19分05秒 | ふと思うこと


先日の 「下世話なスピ」 、下世話という表現がちょっとなぁ。。。。という氣がしていたんだけれど。

そのあとにもうひとつ思いついたのが、「氣さくなスピ」 。




・・・・・・・・・・・・う~ん (-_-; )




いや、なにもムリしてこういう言い回しを考える必要もないのですが、どうもこの 「スピ ⇒ スピリチュアル」 という言葉につきまとう (と私には見える) この世離れしたというか、妙に神々しいというか、特殊な世界というか、そんなイメージが、近頃しっくりこなくって。

そこへもってきてたまたま、こんな記事を読んだものだから よけいに。




これらの項目に該当する人たちをあげつらうつもりはないのです。

真摯だからこそ こういうところに入り込んじゃうこともあるわけで、それもまたプロセスのうち。

そもそも私だって 大なり小なり こういうところあったんだし、これからだって いつまたやっちゃわない保証もないのだから(^^ゞ




ただ、自分も通った道だからこそ、「他とは違う 特別な存在でありたい」 っていう自我さんの願いと結びついた 心の世界の探求が、やっぱり違ってたんだなぁ、と 今はしみじみ思えて。

スピリチュアルな世界を やたら神秘の高みに押し上げてしまうと、結局困るのは自分たちなんだ、ってわかってきたのです




きのうふと、そもそも自分って なんでこんな探求に向かうようになったんだろう? って思いついて 過去を振り返ってみたのですが。

23、4歳ぐらいまでは、「五感で掴めるものがすべて」 という世界を 当たり前のように生きていたんですね。

ただ、小学生の頃から 「かもめのジョナサン」 に魅かれてみたり、初めてスピリチュアルに触れたときも まったく抵抗を感じなかったりと、下地はあったようにも思います。

で、初めてそういう世界を語る人と出会ったのですが、その人は 「言葉」 を重視していたので、言葉についての学びを深めることに。

そこで初めて、言葉の及ばない世界というものを意識するようになりました。




言葉ですべては語れない。

五感ですべては掴めない。

むしろ、言葉・五感の及ばない領域ほど、本質に近いのだ、と。




実のところ、何を言われているのやら あのころはさっぱりわからなかったし、わかっていたつもりのことも 今思えばまるっきり見当外れだったのですが、それでいてなぜか すごく大切なことを聞かせてもらっているのだという感じは強くて、わかななければわからないほど もっとわかるようになりたい、もっと知りたい、と ぐいぐい食いついていったんですね。

それから20年以上。




まさに先ほどの記事のように、スピリチュアルの神秘に憧れ、悟ればすごい人になれるんだ、成功者なんだ、と 悟りに執着していたころ、いくら手を伸ばしても届かないように見えたその世界は、はるかな高みに属するものと映っていました。

でも、今はむしろ 根っこのようなものなんだと思っています。

見えないのは確かだけれど、それはどこかあらぬところで 神秘のベールに包まれているのではなく、私たちとひとつながりで 足元から支えてくれているのだと。

その存在を 誰もが感じ取り、自分たちの日常と分かちがたくつながった 身近なものとして受け入れ、共にあることが、今あちこちで起こっているボタンのかけ違いを正してくれるのではないかと思えてならないのです。




家族や友だちと揉めた、とか、勉強や仕事で失敗した、とか、五感の世界でちょくちょく起こるアクシデントに、誰もが 五感を超えた意識をごく自然に取り入れて対応する、というのが、日常的な光景となったら。

「あそこのご夫婦、またケンカしたらしいね、どっちも男性性と女性性のバランスがもうちょっと取れるようになるといいんだろうにねぇ」 とか、「失敗にがっかりしなくていいのよ、そこにどんなメッセージが入ってるか じっくり探してごらんなさい」 なんて言葉が、家庭でも職場でも学校でも道端でも ごくふつうの人たちの間で 当たり前に交わされるようになったら。

そんなのが、ここでよく言わせてもらっている 「漬物のコツと 五感を超えた世界の話が、ふつうに同列で語られる世界」 のイメージなんですね♪




まだ スピリチュアルなんていう分野が 今ほどポピュラーでなかったころ、先駆者として その世界を語り 広めていった人たちは、やはりそれだけの意識や力を兼ね備えたすごい方たちだったのだろうし、尊敬されるのも当然だと思います。

そして、後に続こうとする人たちが 彼らに憧れ、自分もそうなりたい! と切に願ったのも、また自然なこと。

だから、憧れる人が増えるほどに 先駆けの方たちが高みに押し上げられていったのも むべなるかな、ですね。

プロセスの一部として、そういう流れもあり。




でも これからは、逆に いったん押し上げたものを、誰にでも手が届くものとして 再び地に下ろすことが必要なんじゃないかと思うのです。

いつまでも一部の人だけのもののままでは、せっかくここまで広く認められるようになった力をみんなで使って 世界をよくしていくことはできないもの。

そのために、「スピ」 という言葉にまつわる 特殊な世界的イメージを 払拭したくなった、というわけなんです (*^▽^*)ゞ




うーん、身近なスピ、氣軽なスピ、ありふれたスピ。。。。。




( ̄∇ ̄;)




まあいいや、そのうちなんかいいのが浮かぶでしょう☆




これよさそう、っていうのを思いつかれた方は、ぜひ貴秋まで m(__)m























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