毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

さまざまな計算と、生きるということ

2018年08月17日 06時02分17秒 | ふと思うこと


たとえばある品を5個用意しなければならないのに、手元に4個しかないとします。

その場合、必要数に対する現存数はマイナス1。

このマイナス1は ひとつ足りないということ、「ある」 に対しての 「ない」 です。

ここで 不足の1個を誰かが届けてくれれば、必要数と現存数がぴったりかみ合ってプラスマイナス0。

この0も 「ない」 と表現できますが、こちらの 「ない」 は、物のあるなしを超えて 問題そのものがなくなった、1個足りないという事態が起こる前の平和な状態に戻ったことの表れ。




もし最初からぴったり5個用意されていれば もともと問題なしなわけで、どちらの場合も結果的にプラマイ0なのは共通だけれど、両者の違いは 前者にはコントラスト効果が働いているということ。

ハナからスムーズにノープロブレムなのと違い、問題が起き 解決されて平和が戻ったことで、平和のありがたみがぐんと大きく感じられるわけです。

私たちはまさに このコントラストを通しての愛や安らぎや豊かさや充実を体験したくて、肉体をまとい この物質世界に降り立った意識体なのだといえます。




私たちの日常は、この-1+1=0 なんていう単純なものからもっと手の込んだものまで さまざまな出来事に満ち満ちています。

ときにはあまりに複雑で長ったらしい計算式にうんざりしたり、ややこしくなり過ぎて手がつけられなくなったりということも。

そんなとき とにかく0を掛けさえすれば万事がきれいさっぱり0に戻るというのは、なんて素晴らしいことでしょう。

しかも そこに戻るまでの計算が長ければ長いほど ややこしければややこしいほど、私たちは 計算開始前の0のときより経験を積んで賢くなり、思い出を増やして戻ってこられるのです。

自分の中の0を感じてさえいれば、どんな状況も恐れることはありません。




では、私たちが内なる0を忘れたままだったらどうなるか。

実際あまりにも長いこと0を無視して突き進んできたため 人の心も自然環境も荒れ放題のいま、このまま進み続ければ もっと大きな力が働いて 私たち丸ごと0に戻されてしまいかねません。

どんどん激しさを増す異常氣象や絶滅の一途をたどる動植物、いっこうに火の手が収まらない戦争紛争、ここに私たちの0をどのようにもってくるかが問われている氣がします。
















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