サリンジャーの小説 「フラニーとゾーイー」 に初めて出会ったのは、たしか高校生のとき。
内容はさっぱりわからなかったのに なぜか心を魅かれて購入、以来 わからなくとも 時おりふと読みたくなる本として 数十年を共に歩み、今も手元にあります。
この中に、何度読み返しても意味不明なのに ずっと心に残る一節がありまして。
「宗教をまともに勉強すれば、男と女、動物と石、昼と夜、暑さと寒さといったものの違い、この見かけだけの相違にとらわれないようになるはずだ」
宗教云々はともかく、これほど真反対にしか見えないその違いにとらわれなくなる境地とは?
これが最近 すとんときました☆
相違が意味を持つのは 二極世界でのことで、その違いが重要になるのは、好みに応じて一方を選び出し、自分の世界を創り上げようとするとき。
このときは、男か女か、暑いか寒いか、ということが重要になってきます。
この二元対立を越えた視点から見ると、そこにはただひとつ ありのまましか感じ取れないから、比較も対立もない。
この二つの視点を自由に行き来できるのが、「見かけだけの相違にとらわれない」 ということかな、と思います。
「相違がある」 と 「相違もなにも 始めからひとつしかない」、この二つが同時に成立すると知っていて、どちらでも好きに選べる。
だから、選ぶ楽しみを味わうことはあっても、その中にハマリ込んで翻弄されはしない。
これができれば、まさに毎日が “神々の戯れ ・ リーラ” だろうなぁ ('-'*)
私は、といえば。。。。まだまだ自由自在とはいきません(T_T)
新しい世界の魅力的なイメージ以上に ありがたくない記憶のほうが色濃くて、しょっちゅう引っ張られてます
そして、これを逆転させてやるぜ というのが、目下のわくわくでもあるのです o(^∇^)o
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます